マンドライ
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出自
オルドス部は元代の晋王家の後身であり、晋王(ジノン)は元代以来ケルレン河畔の大オルド(現在のアウラガ遺跡)でチンギス・カンの祭祀を担ってきた。15世紀半ば、ボルフ・ジノンはオルドス部の前身を率い南下して黄河を渡り、現在のエジェン・ホロー旗にチンギス・カン祭祀の場(八白室)を移したため、以後この地方はオルドス高原(オルドス地方)として知られるようになった。ボルフ・シノンは次代のハーンと目されるほどの有力者であったが、マンドゥールン・ハーンと対立して殺され、その後経緯は不明であるがオルドス部を率いるようになったのがマンドライであった。
マンドライの出自については全く記録がないが、少なくともチンギス・カンの血を引くノヤンではない。また、『吾学編』北虜考に「阿爾禿廝部故属亦不剌」とあることや、『明世宗実録』の「亦不剌(イブラヒム)と阿爾禿廝(オルドス)は土魯番(トルファン)と先世親族である」という記述[3]に基づき、亦不剌(イブラヒム)と同様に西方の中央アジア出身と見る説もある[4][5]。
一方、マンドゥールン・ハーンの没後に即位し、その勢力(チャハル部)を継承したのはボルフ・シノンの息子のダヤン・ハーンであった。ダヤン・ハーンは、サイト(Sayid、「異姓貴族」とも意訳される)と総称される有力部族長によってハーンの擁廃立が行われる現状を変えるべく、有力なサイトたちと対決姿勢を取った。ダヤン・ハーンは、まずヨンシエブのイスマイル太師を討った後、オイラトを撃破して西北辺に追いやり、弘治初年(1520年代)までには青海に逃れた残党も投降した(「北海事績」「金玉提集」)。
その次に、ダヤン・ハーンは「右翼三トゥメン」と総称されるトゥメト・オルドス・ヨンシエブを支配するべく、息子のウルス・ボラトをジノンに任命して派遣した。これに対し、当時「右翼三トゥメン」を支配していたトゥメトのホサイ・タブナン、オルドスのマンドライ・アハラフ、ヨンシエブのイブラヒム太師が反発し、「右翼三トゥメン」とダヤン・ハーンの間で抗争が起こることとなる。
右翼三トゥメンの叛乱
モンゴル年代記の『蒙古源流』は、マンドライらがダヤン・ハーンに対して叛乱を起こすに至った経緯を次のように語っている。ウルス・ボラトがオルドス部に到着し、八白室で儀礼を行おうとしているのを知ったイブラヒムとマンドライは、「われわれの上に殿を取るとは、何たる必要があるのか。自分の頭を自分で知って行くものだぞ。この皇子をいま殺そう」と語り、ウルス・ボラトを排除する計画を立てた[6]。そこでまず、両者はシバグチンのボルジョモルをそそのかし、儀礼の際に「ウルス・ボラトの乗った馬を『私のだ』といって奪い合え。その喧嘩がはじまったとき、我々が割って入ろう」と約束した[6]。
計画通り、ボルジョモルが儀礼の最中にウルス・ボラトの乗った馬を奪おうとすると、怒ったウルス・ボラトはボルジョモルを切り捨ててしまった[6]。これを見たイブラヒムとマンドライは、「いましがた来て、直ぐこういうことをする。これから後、われわれを滅ぼすのだ。この皇子を殺そう。しないうちに敵対しよう」と語り、配下の者達にウルス・ボラトを排除するよう命じた[6]。右翼三トゥメンの中でも、ハルハタンのバイチュフル・ダルハン、ホンギラトのバートル・クリスン、トゥメトのバヤンマラトらはイブラヒムとマンドライに逆らってウルス・ボラトに味方したが、最後には衆寡敵せず、ウルス・ボラトは射殺されてしまった[6]。
これを知ったダヤン・ハーンは右翼三トゥメンを討伐するべく出陣したが、緒戦のガハイ・エレスンの戦いではトゥメトのホサイ・タブナンに敗れてしまった[7]。しかし、ダヤン・ハーンは態勢を立て直し、新たにオルダフハイ王の支配するホルチン部やアバガ部などを味方に加え、ダラン・テリグンの地にてマンドライとイブラヒムが率いる右翼三トゥメンの軍勢に決戦を挑んだ[7]。ダラン・テリグンの戦いは激戦となったが、ダヤン・ハーンの黒い軍旗を一時隠すという奇策で右翼三トゥメン軍は敗れ、遂に敗走するに至った[7]。「右翼三トゥメンの叛乱」にかかる一連の戦役が行われたのは1508年から1509年にかけてのことと考えられている[8]。
この一戦を以てモンゴル高原におけるダヤン・ハーンの覇権が確定し、以後オイラト系諸部を除く諸部族はダヤン・ハーンの一族を主として戴くようになる。右翼三トゥメンの大部分もダヤン・ハーンによって征服され、主にバルス・ボラトの一族(メルゲン・ジノン、アルタン・ハーン、バイスハルら)によって分有されることとなる。しかし、マンドライとイブラヒムはダラン・テリグンの戦いで全てを失ったわけではなく、青海方面に逃れて再起を図った。
青海への逃走
「右翼三トゥメンの叛乱」の経過については明朝側にほとんど伝わっていないが、敗れたマンドライとイブラヒムが青海方面に逃れて以後はむしろ漢文史料に多くの記録が残っている。まず、1514年(正徳9年)の記録には「イブラヒム(亦卜剌)・マンドライ(阿爾禿廝)は1510年(正徳5年)より小王子(ダヤン・ハーン)を避け、涼州・永昌・山丹・甘州・高台・鎮夷・粛州一帯で住牧するようになった」との記録があり[9]、ダラン・テリグンの戦いに敗れたマンドライらがオルドス地方を経て現在のアルシャー盟方面に至っていたことが分かる[10]。
次に、1511年(正徳6年)10月にはダヤン・ハーンがイブラヒム・マンドライを破ったとの記録があり[11]、同年11月にはイブラヒム・マンドライは明朝領の荘浪・涼州に近い地に定着し掠奪を行ったため、分守涼州右副総兵の蘇泰がこれを撃退したとの記録がある[12]。
1512年(正徳7年)閏5月には嘉峪関を攻撃したマンドライ(阿爾禿廝)を指揮僉事の趙承序が撃退したとの記録があり[13]、同年6月には甘州・涼州を[14]、7月には山丹・甘州を[15]、それぞれ攻撃したとされ、甘粛一帯で活発に掠奪を行っていたことが伺える。
しかし同年10月には再びダヤン・ハーンの攻撃を受けたようで、「正徳6年正月より、イブラヒム・マンドライはダヤン・ハーンに攻められ、死傷者は非常に多い」と報告されている[16][17]。これ以後、先述の正徳9年の記録を除いてマンドライ(阿爾禿廝)に関する記録は見られなくなり、まもなく死去したものとみられる[18]。
モンゴル年代記の伝える最期
『蒙古源流』はマンドライとイブラヒムの最期について、「ナチン・チャイダム(Način-u čayidam)の上に、オルドスのマンドライ・アハラフを殺してからこなた、アハラフイン・チャイダム(aqalaqu-yin čayidam)と名づけた。ヨンシエブのイバライ太師は一人で窮して行って、白帽のハミル城(Čaγan malaγ-a-yin Qamil qota)に入って人に殺された」と語る[19]。文脈上、マンドライはダラン・テリグンの戦いの直後に死去したようにも読み取れ、この地を現在のオルドス市に求める説もあるが、漢文史料の記述から見て誤りである[20]。『蒙古源流』にはチンギス・カンがチベットに遠征した際(史実の西夏国遠征が誤って伝わったもの)、チベット王がナチン・チャイダムでチンギス・カンを迎えたとの記載もあり[21]、ナチン・チャイダムはやはり青海地方を指すものと考えられている[20]。
また別の伝承として、『アルタン・トプチ』にはレグシ(マンドライ)が右翼トゥメンの内紛中にエルケグト(Erkegüd)のケレゲイ(Kelegei)によって殺され、その報告を受けたダヤン・ハーンがケレゲイをダルハンに任じたとの記述もある[22]。
脚注
- ↑ 北元時代の漢文史料では、主に「阿哈剌忽知院」「阿哈剌忽平章」といった形で記される。本来は元代の官職で、複数名が同時に任命される知院(知枢密院事)・平章(平章政事)の中で、筆頭の人物に冠していた形容詞。同様に、「二番目の地位の知院」は漢文史料上で「迭(ded=第二の)知院」と表記される。マンドライも本来は知院もしくは平章の称号を有していた可能性があるが、現存史料の中では確認できない。
- ↑ 和田 1959, p. 451.
- ↑ 『明世宗実録』嘉靖三年十一月己巳(九日),「兵科都給事中鄭自璧等言……。且達賊亦不剌・阿爾禿廝竄伏西海、尤号凶黠。与土魯番二酋先世親族。……」
- ↑ 和田 1959, p. 502.
- ↑ 和田 1959, p. 449.
- 1 2 3 4 5 岡田 2004, pp. 228–229.
- 1 2 3 岡田 2004, pp. 233–235.
- ↑ Buyandelger 1997, pp. 191–192.
- ↑ 『明武宗実録』正徳九年七月庚午(九日),「虜酋阿爾禿廝・亦卜剌等、自正徳五年以来避小王子、引衆至涼州・永昌・山丹・甘州・高台・鎮夷・粛州、聯絡住牧。……」
- ↑ Buyandelger 1997, p. 191.
- ↑ 『明武宗実録』正徳六年十月癸巳(十六日),「分守涼州太監張昭・副総兵蘇泰奏、虜酋亦卜剌・丞相阿爾禿廝等、為小王子所敗、屡入荘涼為患。……」
- ↑ 『明武宗実録』正徳六年十一月辛未(二十五日),「虜酋亦卜剌・阿爾禿廝与小王子讐殺、率衆散処荘涼境外、屡入寇盗。分守涼州右副総兵蘇泰、領兵与戦于大河灘、先後斬獲首級一百一十三顆、奪獲馬匹器械甚衆。捷聞詔泰賜勅奨励」
- ↑ 『明武宗実録』正徳七年閏五月癸巳(二十日),「都御史張翼奏、虜阿爾禿廝寇嘉峪山関、指揮僉事趙承序等襲之、斬首百餘級。賜勅奨励陞賞其奏捷者如例」
- ↑ 『明武宗実録』正徳七年六月癸亥(二十一日),「総制都御史張泰奏、虜阿爾禿廝侵犯甘涼、原擬調延寧軍馬二千五百。……」
- ↑ 『明武宗実録』正徳七年七月己亥(二十八日),「甘粛守臣奏、往者虜酋阿爾禿廝・亦卜剌東寇山永西侵来川。今復入山丹・甘州、寇掠転甚。……」
- ↑ 『明武宗実録』正徳七年十一月乙未(二十五日),「巡按陝西御史成文奏、自六年正月以来、虜酋阿爾禿廝・亦卜剌為小王子所攻、部衆奔甘・涼・永昌・粛州等処駐牧。傷残疾疫死者甚衆。……」
- ↑ 森川 2023, p. 39.
- ↑ 和田 1959, p. 504.
- ↑ 岡田 2004, p. 235.
- 1 2 烏蘭 2000, p. 388.
- ↑ 岡田 2004, pp. 119–120.
- ↑ 烏蘭 2000, p. 378.
参考文献
- 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年10月。ISBN 978-4887082434。
- 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年11月。ISBN 978-4894347724。
- 森川哲雄『15世紀ー18世紀モンゴル史論考』中国書店、2023年3月24日。ISBN 978-4903316734。
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年。
- 烏蘭遼寧民族出版社、2000年1月。ISBN 7806443630。
- 宝音徳力根Buyandelger「満官嗔-土黙特部的変遷」『蒙古史研究』第5巻、1997年。
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