ロレーヌ公
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歴史
成立
ロレーヌ/ロートリンゲンの名は直接には、カロリング朝フランク王国が分裂した際、中フランク王ロタール1世の次男ロタール2世に与えられた領土ロタリンギアに由来する。これはさらに「ロタールの王国」(Lotharii Regnum)に由来する。その領域はおおよそライン川の左岸全てと現在のベネルクスに及んでいた。カール大帝の宮廷のあったアーヘンや、トリーア、マインツ、ケルンなどを含む、フランク王国の中心地域であった。
ロタール2世が死ぬと、メルセン条約でロタリンギアは東西フランクに分割されたが、880年のリブモント条約で全域が東フランク王国領となり、東フランク王家がロタリンギア王となった。しかしロタリンギア王ツヴェンティボルトは在地貴族のレニエ家のレニエ1世と対立し、899年のサン・ゴアール条約により西ロタリンギアは西フランク王国のものとなった[1]。911年の東フランクのカロリング朝断絶以後の混乱により、東フランクの各地では領域統合が進行した。ロタリンギアでもこの頃から有力者が登場し、それら在地貴族は西フランク王国への帰属を決めたが[2]、923年、925年と東フランク王ハインリヒ1世はロタリンギアに侵攻し、最終的に925年または928年にハインリヒ1世よりレニエ家のギゼルベルトが正式にロタリンギア大公(ロートリンゲン大公)に任ぜられ、ロタリンギア(ロートリンゲン)の東フランクへの帰属が決定した[3]。
オットー大帝のロタリンギア支配
939年、ロタリンギア大公ギゼルベルトは、オットー大帝の弟ハインリヒを擁立し反旗を翻したが、オットー大帝に敗れた。オットーは代わって自らの娘婿コンラート赤毛公(ザリエル家、在位:940年 - 954年)をロタリンギア大公として送り込んだ。954年にコンラート赤公が反乱を起こすと廃位し、代わって自らの弟ケルン大司教ブルーノをロタリンギア大公とした。
ロタリンギアの上下分割
ブルーノの下でロタリンギアは下ロートリンゲンと上ロートリンゲンの上下に分割された。959年、マトフリート家のゴドフロワが下ロタリンギア辺境伯に、アルデンヌ=バル家のフレデリックが上ロタリンギア辺境伯にそれぞれ任じられた。どちらの辺境伯も965年のブルーノの死とともに大公に格上げされた。以後、ロタリンギアはライン左岸を中心とする上ロタリンギアと、ベネルクスを中心とする下ロタリンギアの2地域に分裂していった。しかし、1033年にアルデンヌ=バル家の上ロタリンギア公フレデリック3世が嗣子なく死去すると、皇帝コンラート2世はアルデンヌ=ヴェルダン家の下ロタリンギア公ゴデロン1世に上ロタリンギアをも与え、上下ロタリンギアはともにゴデロン1世が領することとなった。1044年4月19日にゴデロン1世が死去した際、皇帝ハインリヒ3世はロタリンギアを再び分割し、上ロタリンギアを長子ゴドフロワ3世(髭公)に、下ロタリンギアを次子ゴデロン2世に相続させた。ゴドフロワ3世はこの分割相続をめぐってハインリヒ3世と争ったが、1045年ゴドフロワは降伏し、下ロタリンギア公位はアルデンヌ=ルクセンブルク家(リュッツェルブルク家)のフレデリック(フリードリヒ)に与えられた。ゴドフロワ3世は再びハインリヒ3世と対立し、1047年には自身の上ロタリンギア公位は剥奪され、シャトノワ家のアダルベールに与えられた。以後、上ロタリンギア公位はロレーヌ公位としてシャトノワ家が相続し、アルデンヌ家に戻ることはなかった。公位を失ったゴドフロワ3世は、1054年にトスカーナ辺境伯ボニファーチオの未亡人ベアトリクスと結婚、1057年には弟フリードリヒが教皇ステファヌス9世となり、さらに弟の死後は次期教皇の選出に関与するなど権力を維持し、1065年には下ロタリンギア公位を与えられた。以降、下ロタリンギア公位はアルデンヌ=ヴェルダン家の血縁によって相続されていった。
下ロタリンギア
12世紀には下ロタリンギア公位はルーヴァン伯が世襲するようになり、この頃からブラバント公とも呼ばれるようになった。この領邦についてはブラバント公国を参照。
上ロタリンギア(ロレーヌ)
11世紀から12世紀、上ロタリンギア公の位はメッツ伯家(シャトノワ家)が世襲するようになった。下ロタリンギアがブラバントと呼ばれるようになると、こちらは単に「ロートリンゲン」「ロレーヌ」と呼ばれるようになる。この領邦は1766年まで存続した。
1737年、ポーランド継承戦争の結果、ハプスブルク家の女主マリア・テレジアの夫であったロレーヌ公フランソワ3世エティエンヌ(後の神聖ローマ皇帝フランツ1世)は、フランス王ルイ15世の岳父で元ポーランド王のスタニスワフ・レシチニスキ(スタニスラス)にロレーヌ公位を譲った。1766年にスタニスワフが死去すると、ロレーヌ公国はフランスに併合されて消滅した。
その後ロレーヌは、1871年の普仏戦争の結果ドイツ帝国直轄領となり、1919年のヴェルサイユ条約でフランス領に復帰している。
歴代領主一覧
ロタリンギア大公
下ロタリンギア公
- ゴドフロワ2世(1世)(1012年 - 1023年)[注 1]
- ゴデロン1世(1023年 - 1044年) 上ロタリンギア公(1033年 - 1044年)を兼ねる。
- ゴデロン2世(1044年 - 1046年)
- アルデンヌ=ルクセンブルク家(リュッツェルブルク家)
- フレデリック(1046年 - 1065年)
- アルデンヌ=ヴェルダン家
- ゴドフロワ3世(2世)(髭公)(1065年 - 1069年) もと上ロタリンギア公(1044年 - 1047年)
- ゴドフロワ4世(3世)(せむし公)(1069年 - 1076年)
- コンラート(1076年 - 1087年) イタリア王、ローマ王。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の次男
- ブローニュ家
- ゴドフロワ5世(4世)(1087年 - 1100年) エルサレムの初代聖墓守護者
- リンブルフ家
- ゴドフロワ6世(5世)(1106年 - 1129年)
- リンブルフ家
- ルーヴァン家
- ゴドフロワ7世(6世)(1139年 - 1142年)
- ゴドフロワ8世(7世)(1142年 - 1190年)
以後はブラバント公を参照。
上ロタリンギア公
- フレデリック1世(上ロタリンギア辺境伯、のち上ロタリンギア公、959年 - 978年)
- ティエリー1世(978年 - 1026/1027年)
- フレデリック2世(父ティエリー1世と共治、1019年 - 1026年)
- フレデリック3世(1026/1027年 - 1033年)
- アルデンヌ=ヴェルダン家
ロレーヌ(ロートリンゲン)公
シャトノワ=ロレーヌ家
| 名前 | 肖像画 | 生誕 | 結婚 | 死去 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|
| アダルベール 1047年 - 1048年 |
1000年 | 1048年11月11日 | メス伯ジェラール4世と妻ギーゼラの息子 | ||
| ジェラール 1048年 - 1070年 |
1030年頃 | エドヴィジュ・ド・ナミュール 2男2女 |
1070年4月14日 | アダルベールの弟 | |
| ティエリー2世 1070年 - 1115年 |
1040/50年 | ヘートヴィヒ・フォン・フォルムバッハ 1075年頃 1男1女 ジェルトリュード・ド・フランドル 1095年頃 2男4女 |
1115年12月30日 | ジェラールの息子 | |
| シモン1世 1115年 - 1138年 |
1076年 | アデライード・ド・ルーヴァン 1112/3年 4男4女 |
1138年1月13日 | ティエリー2世の息子 | |
| マチュー1世 1138年 - 1176年 |
1119年 | ベルタ・フォン・ホーエンシュタウフェン 1138年頃 4男3女 |
1176年5月13日 | シモン1世の息子 | |
| シモン2世 1176年 - 1205年 |
1140年 | アグネス・フォン・フェルデンツ 子女なし イド・ド・ヴィエンヌ 子女なし |
1207年1月4日 | マチュー1世の長男 | |
| フェリー1世 1205年 - 1206年 |
1143年頃 | ヴィエシュホスワヴァ・ルドミワ・ミェシュクヴナ 1167年頃 5男4女 |
1206年4月7日 | マチュー1世の次男 | |
| フェリー2世 1206年 - 1213年 |
1165年頃 | アニェス・ド・バル 1188年 5男2女 |
1213年10月10日 | フェリー1世の長男 | |
| ティボー1世 1213年 - 1220年 |
1191年頃 | ゲルトルート・フォン・ダグスブルク 1220年(1222年離婚) 子女なし |
1220年2月17日 | フェリー2世の次男 | |
| マチュー2世 1220年 - 1251年 |
1193年頃 | カタリーナ・ファン・リンブルフ 1225年 1男4女 |
1251年2月9日 | フェリー2世の三男 | |
| フェリー3世 1251年 - 1302年 |
1240年頃 | マルグリット・ド・シャンパーニュ 1255年 7、8子 |
1303年12月31日 | マチュー2世の長男 | |
| ティボー2世 1302年 - 1312年 |
1263年 | イザベル・ド・ルミニー 1278年 3男4女 |
1312年5月13日 | フェリー3世の長男 | |
| フェリー4世 1312年 - 1329年 |
1282年4月15日 | エリーザベト・フォン・エスターライヒ 1307年 4男2女 |
1328年8月23日 | ティボー2世の長男 | |
| ラウル 1329年 - 1346年 |
1320年 | エレオノール・ド・バル 1329年 子女なし マリー・ド・シャティヨン 1334年 1男2女 |
1346年8月26日 | フェリー4世の長男、クレシーの戦いで戦死 | |
| ジャン1世 1346年 - 1390年 |
1346年2月 | ゾフィー・フォン・ヴュルテンベルク 1361年 2男1女 |
1390年9月23日 | ラウルの長男 | |
| シャルル2世(1世)[注 2] 1390年 - 1431年 |
1365年9月11日 | マルガレーテ・フォン・デア・プファルツ 1393年 2男2女 |
1431年1月25日 | ジャン1世の長男 | |
| イザベル 1431年 - 1453年 |
1400年 | ナポリ王ルネ・ダンジュー 1420年 10子 |
1453年2月28日 | シャルル2世の長女 | |
ヴァロワ=アンジュー家
| 名前 | 肖像画 | 生誕 | 結婚 | 死去 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|
| ルネ1世 1431年1月25日 - 1453年2月28日 |
1409年1月16日 アンジェ城 |
(1) イザベル・ド・ロレーヌ 1420年 10子 (2) ジャンヌ・ド・ラヴァル 1454年9月10日 子女なし |
1480年7月10日 エクス=アン=プロヴァンス 71歳没 |
ルイ2世・ダンジューとヨランド・ダラゴンの息子 シャルル2世の女婿、妻のイザベルと共治 ナポリ王、アンジュー公などを兼ねる | |
| ジャン2世 1453年2月28日 - 1470年12月16日 |
1424年8月2日 ナンシー |
マリー・ド・ブルボン 1444年 5子 |
1470年12月16日 バルセロナ 46歳没 |
ルネ1世とイザベルの息子 | |
| ニコラ1世 1470年12月16日 - 1473年7月24日 |
1448年 ナンシー |
未婚 | 1473年7月24日 ナンシー 22歳没 |
ジャン2世とマリー・ド・ブルボンの息子 | |
| ヨランド 1473年7月24日 - 8月11日 |
1428年11月2日 ナンシー |
ヴォーデモン伯フェリー2世 1445年 3男3女 |
1483年3月23日 ナンシー 54歳没 |
ルネ1世とイザベルの長女、ルネ2世の母 |
シャトノワ=ヴォーデモン=ロレーヌ家
| 名前 | 肖像画 | 生誕 | 結婚 | 死去 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|
| ルネ2世 1473年8月11日 - 1508年12月10日 |
1451年5月2日 アンジェ城 |
(1) ジャンヌ・ダルクール 1471年(1485年婚姻無効) 子女なし (2) フィリッパ・ファン・エフモント 1485年9月1日 12子 |
1508年12月10日 フェン 57歳没 |
バル公 シャトノワ家の分家のヴォーデモン伯家出身、ジャン1世の玄孫 | |
| アントワーヌ 1508年12月10日 - 1544年6月14日 |
1489年6月4日 バル=ル=デュック |
ルネ・ド・ブルボン=モンパンシエ 1515年6月26日 4男2女 |
1544年6月14日 バル=ル=デュック 55歳没 |
||
| フランソワ1世 1544年6月14日 - 1545年6月12日 |
1517年8月23日 ナンシー |
クリスティーヌ・ド・ダヌマルク 1541年6月10日 1男2女 |
1545年6月12日 ルミルモン 27歳没 |
||
| シャルル3世(2世) 1545年6月12日 - 1608年5月14日 |
1543年2月18日 ナンシー |
クロード・ド・ヴァロワ 1559年1月19日 8子 |
1608年5月14日 ナンシー 65歳没 |
||
| アンリ2世 1608年5月14日 - 1624年7月31日 |
1563年11月8日 ナンシー |
(1) カトリーヌ・ド・ブルボン 1599年1月30日 子女なし (2) マルゲリータ・ゴンザーガ 1606年4月24日 4女 |
1624年7月31日 ナンシー 60歳没 |
||
| ニコル 1624年7月31日 - 1625年11月21日 |
1608年10月3日 ナンシー |
シャルル4世 1621年 子女なし |
1657年2月2日 パリ 48歳没 |
||
| フランソワ2世 1625年11月21日 - 12月1日 |
1572年2月27日 ナンシー |
クリスティーナ・フォン・ザルム 1597年 6子 |
1632年10月14日 バドンヴィレ 60歳没 |
アンリ2世の弟 | |
| シャルル4世(3世) 1625年12月1日 - 1634年1月19日 |
1604年4月5日 ナンシー |
(1) ニコル・ド・ロレーヌ 1621年 子女なし (2) ベアトリクス・ド・キュザンス 1637年 2男1女 (3) マリー・ルイーズ・ダスプルモン 1665年 子女なし |
1675年9月18日 アレンバッハ 71歳没 |
フランソワ2世の次男 | |
| ニコラ2世 1634年1月19日 - 4月1日 |
1612年12月12日 ナンシー |
クロード・フランソワーズ・ド・ロレーヌ 1634年2月18日 5子 |
1670年1月25日 ナンシー 57歳没 |
フランソワ2世の三男 | |
| シャルル4世(3世) 1634年4月1日 - 1675年9月18日 |
1604年4月5日 ナンシー |
(1) ニコル・ド・ロレーヌ 1621年 子女なし (2) ベアトリクス・ド・キュザンス 1637年 2男1女 (3) マリー・ルイーズ・ダスプルモン 1665年 子女なし |
1675年9月18日 アレンバッハ 71歳没 |
復位。1669年から1697年まで、ロレーヌはフランスに占領された。 | |
| シャルル5世(4世) 1675年9月18日 - 1690年4月18日 |
1643年4月3日 ウィーン |
エレオノーレ・マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ 1678年2月4日 5男1女 |
1690年4月18日 ヴェルス 47歳没 |
ニコラ2世の息子 | |
| レオポール1世 1690年4月18日 - 1729年3月27日 |
1679年9月11日 インスブルック |
エリザベート・シャルロット・ドルレアン 1698年10月13日 13子 |
1729年3月27日 リュネヴィル 49歳没 |
1702年から1714年まで、ロレーヌはフランスに占領された。 | |
| フランソワ3世エティエンヌ 1729年3月27日 - 1737年7月9日 |
1708年12月8日 ナンシー |
マリア・テレジア 1736年2月12日 5男11女 |
1765年8月18日 インスブルック 56歳没 |
神聖ローマ皇帝フランツ1世 | |
レシチニスキ家
| 名前 | 肖像画 | 生誕 | 結婚 | 死去 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|
| スタニスラス 1737年7月9日 - 1766年2月23日 |
1677年10月20日 リヴィウ |
カタジナ・オパリンスカ 1698年 2女 |
1766年2月23日 リュネヴィル 88歳没 |
ポーランド王(スタニスワフ1世、在位: 1704年 - 1709年、1733年) | |
スタニスラスの死後、ロレーヌ公国は婿であるフランス王ルイ15世に相続され、王領に併合された。
















