周緤
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高祖元年(紀元前206年)、劉邦が漢王に封ぜられると、劉邦に従って漢中郡に入った。周緤は常に劉邦の参乗(護衛)を務めた。その後、三秦平定の戦いで功績を挙げ、池陽に食邑を与えられた。
楚漢戦争期には滎陽の戦いで項羽軍を攻撃し、西楚軍の甬道(補給路)を断ち切った。その後、平陰の渡し場から黄河を渡り東進し、襄国で韓信軍と合流した。
高祖4年(紀元前203年)8月、漢と西楚は鴻溝を境界線とする停戦の和議を結び、周緤は漢側の代表として協定を確定させる使者を務めた。
高祖6年(紀元前201年)8月、甲子の日、信武侯に封ぜられ、食邑3,300戸(『史記』による。『漢書』では2,200戸)を領した。
高祖10年(紀元前197年)9月、陳豨が反乱を起こすと討伐のために劉邦自ら出征しようとした。これに対し周緤は涙を流しながら、「かつて秦が天下を攻め取った時、始皇帝自ら出陣することはありませんでした。陛下が常に自ら行かれるのは、使える者がいないということなのでしょうか」と訴えた。この周緤の諫言を、「私を愛するがゆえ」と感じ入った劉邦は、「宮殿の門に入る時に小走りする礼の免除」、「人を殺しても死罪としない」とする特権を周緤に賜った。