伊勢平野
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概要
南北約100km、東西約20kmほどの細長く、弧を描くように広がる平野。北に養老山地、西に鈴鹿山脈・布引山地、東に伊勢湾があり、海と山にはさまれており北東部の木曽三川の河口付近では濃尾平野と繋がっている。南縁には中央構造線が通っている。
木曽三川や鈴鹿川、櫛田川、宮川などの河川が流れ、いくつかの三角州を形成する。最大の三角州は津市香良洲町である。
海岸線は単調で緩やかな弧を成し、志摩半島以南の複雑なリアス式海岸とは対照的である。
成因
伊勢平野は海岸平野として誕生し、洪積台地を形成した後、間欠的に地盤の隆起を引き起こし、上記の河川が堆積作用により平野面積を拡張してきた[1]。
海水準変動の作用も受けており、伊勢平野の形成後も水没することがあった[2]。また逆に、海面低下で伊勢湾が陸地化することもあった[2]。
地質
気候
市町
歴史
江戸時代までは、畿内と東国を結ぶ東海道や伊勢参宮街道などの幹線道路が通っており、沿道には桑名宿などの宿場や城下町が成立して発達した。三井家のように、後に日本経済を代表する名門もこの地から輩出された。
明治時代以降は、東海道本線や名神高速道路などの交通の大動脈は岐阜県-滋賀県へ移ったが、一方で第二次世界大戦以前から東洋紡績の前身の三重紡績が1888年(明治21年)に創設されたことを契機に、津市以北を中心に紡績や重化学工業が発達した。これは、戦後の四日市石油化学コンビナートの礎となった。
津市は、伊勢平野の中央に位置する藤堂高虎が初代藩主を務めた津藩の城下町で、明治時代には三重県最大の都市であり、県庁が置かれた。伊勢平野南端の伊勢市(旧称・宇治山田市)は、国家神道の下で伊勢神宮が頂点とされ、国から重視された。
農業・水産業
交通
明治時代中期の1895年(明治28年)に、関西鉄道により木曽三川に橋が架かり鉄道が開通するまで、伊勢と尾張間の交通手段は舟で海上を移動すること(七里の渡しや十里の渡し)のみであり、東海道や伊勢参りの旅人や商人が利用していたものの伊勢平野に住む庶民が名古屋方面へ出掛けることは稀で、もっぱら鈴鹿山脈を徒歩で越えて滋賀・京都方面へ向かうことが主流であった。松阪は紀州藩領であったため、奈良県を経て和歌山や大阪方面との交流が盛んであった。
明治中期になると四日市に関西鉄道株式会社(現在のJR関西本線)が設立され、京都 - 草津 - 柘植 - 亀山 - 四日市 - 桑名 - 名古屋間の鉄道が開通。また大阪の湊町 - 奈良 - 伊賀上野 - 柘植 - 亀山 - 津 - 松阪 - 多気 - 山田も開通して、伊勢神宮へ参拝客を運搬した。
昭和になると、大阪電気軌道傘下の参宮急行電鉄が上本町 - 名張 - 伊勢中川 - 松阪 - 宇治山田、伊勢中川 - 津を建設し、大阪方面から伊勢神宮への移動時間を短縮した。その後大軌グループは、関西急行電鉄を設立して津-名古屋を建設し名古屋駅に乗り入れした。(現在の近鉄名古屋線)

