日本の伝統芸能
日本に古くからあった芸術と技能の汎称
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日本の伝統芸能(にほんのでんとうげいのう)は、日本で歴史的に形成され、演技、演奏、舞踊、語りなどの実演を通じて継承されてきた芸能の総称である。その範囲は、法令、文化行政、芸能史など、用いられる文脈によって異なる。

文化芸術基本法では、雅楽、能楽、文楽、歌舞伎、組踊などの「我が国古来の伝統的な芸能」を「伝統芸能」としている[1]。一方、芸能史や文化事業における広い用法では、伝統音楽、舞踊、民俗芸能、琉球芸能、寄席を中心に発達した大衆芸能などを含めることがある。日本芸術文化振興会は、伝統芸能の公開、伝承者の養成、調査研究、資料収集などを、その保存・振興・普及を目的とする事業として行っている[2]。
伝統芸能のうち、歴史上または芸術上価値の高いものは、文化財保護法に基づく無形文化財として保護の対象となり得る。また、地域の暮らし、信仰、祭礼、年中行事などと結び付いて伝承されてきた芸能は、民俗文化財として扱われることがある[3][4]。
概念と範囲
「芸能」の語義
「芸能」という語は、もともと修得された才芸や技能を広く意味した。日本でも古代から中世にかけては、詩歌、歌舞音楽、楽器の演奏、武芸、遊戯など、修練によって身に付ける多様な技能が芸能に含められた。近代以降は、演劇、舞踊、音楽、歌謡、民俗芸能、大衆演芸など、人が実演する技芸をまとめて芸能と呼ぶ用法が一般的になった[5]。
法令上の位置付け
文化芸術基本法第10条は、雅楽、能楽、文楽、歌舞伎、組踊などを「我が国古来の伝統的な芸能」とし、その継承および発展のために必要な施策を講ずることを定めている[1]。
同法では、講談、落語、浪曲、漫談、漫才、歌唱などを第11条の「芸能(伝統芸能を除く。)」としている。また、茶道、華道、書道、食文化などは第12条の「生活文化」、囲碁と将棋などは同条の「国民娯楽」に位置付けられ、施策上は伝統芸能と区別されている[1]。
一方、日本芸術文化振興会の事業や芸能史上の用法では、邦楽、日本舞踊、声明、民俗芸能、大衆芸能なども広く伝統的な芸能として扱われる[2]。
無形文化財・民俗文化財との関係
文化財保護制度における無形文化財は、演劇、音楽、工芸技術その他の無形の文化的所産のうち、日本にとって歴史上または芸術上価値の高いものをいう。無形文化財は、作品に用いられる道具や衣装そのものではなく、演者や技術者によって体現される人間の「わざ」を対象とする[3]。
無形文化財のうち重要なものは「重要無形文化財」に指定され、そのわざを高度に体現する個人または団体が保持者・保持団体として認定される。重要無形文化財に指定されていないものでも、芸能や工芸技術の変遷を知るために記録作成や公開を必要とするものは、「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に選択されることがある[3]。
これに対し、民俗文化財は、衣食住、生業、信仰、年中行事などに関して、人々の日常生活の中で生み出され、継承されてきた有形・無形の伝承を対象とする。民俗芸能はその一分野であり、地域の祭礼や行事において演じられる歌、舞、踊り、演劇などが含まれる[4][6]。
歴史
古代
日本列島では、先史時代から土鈴、土笛、石笛などの音具が用いられた。弥生時代以降には銅鐸や弦楽器、古墳時代には琴や太鼓などを演奏する人物を表した埴輪も作られた。ただし、当時の音楽や舞の具体的な形態は明らかではなく、後世の伝統芸能との直接的な系譜を確認できるとは限らない[7]。
『古事記』『日本書紀』『万葉集』『風土記』などには、神を迎える歌舞、死者を弔う歌、地域ごとに伝えられた歌や舞などが記録されている。ヤマト王権の形成に伴い、各地の歌舞の一部は宮廷儀礼に取り入れられ、後世に国風歌舞と総称される御神楽、倭舞、久米舞、東遊、五節舞などへと整理されていった[7]。
古墳時代から奈良時代にかけては、中国大陸や朝鮮半島をはじめとするアジア諸地域から音楽、舞踊、曲芸などが伝来した。朝鮮半島に由来する楽舞のほか、唐楽、伎楽、散楽などが宮廷や寺院で演じられた[8]。大宝元年(701年)に定められた大宝令によって雅楽寮が設置され、国家的な行事における演奏と演奏者の養成が制度化された[9]。
仏教の受容に伴って、経典を旋律的に唱える声明などの仏教音楽も伝えられた。声明は寺院の儀礼として各宗派に伝承されるとともに、その旋律や発声は後世の歌謡や語り物にも影響を与えた[8]。
平安時代には、渡来した楽舞が日本の宮廷社会に適合するよう再編された。外来系の楽舞は、主に中国系統の唐楽と朝鮮半島系統の高麗楽に整理され、日本で新たに作られた楽曲も加えられた。管絃・舞楽に加え、催馬楽や朗詠などの声楽曲、国風歌舞を含む、現在の雅楽の基礎が形成された[10]。
雅楽は宮廷のほか寺社でも演奏され、京都、奈良、天王寺などの楽所や、楽人の家々によって伝承された。また、宮廷や民間では今様などの新たな歌謡も流行し、寺社の法会や祭礼では、歌、舞、物まね、曲芸などを組み合わせた芸能が演じられた。
中世

中世には、宮廷、寺社、武家、都市民など、異なる社会集団を基盤とする芸能が展開した。寺院では法会の後などに延年が行われ、歌謡、舞、物まね、寸劇などが演じられた。各地の寺社では、散楽から発達した猿楽や、農耕儀礼などと関係する田楽も盛んになり、専門芸能者による「座」が形成された[11]。
歌謡と語り物も発達した。琵琶の伴奏によって『平家物語』を語る平家琵琶は、鎌倉時代に琵琶法師の芸能として成立し、平家一門の鎮魂や仏教的な教化と結び付きながら、鑑賞のための語り物としても広まった。白拍子、曲舞、幸若舞など、歌、舞、語りを組み合わせた芸能も行われた[12]。
室町時代には、猿楽と田楽が公家・武家の支持を受けて競い合った。大和猿楽の観阿弥・世阿弥は、物まねを中心とした猿楽に歌舞や物語的構成を取り入れ、室町幕府の保護の下で能を大成した。能と同じ舞台で演じられた笑いと対話を中心とする芸は狂言として様式化され、両者は後に能楽と総称されるようになった[11][13]。
一方、地域社会では、祭礼、農耕儀礼、祖先供養などと結び付いた神楽、田楽、風流、念仏踊り、獅子舞などが伝承された。宮廷・寺社や都市の芸能が地方に伝わり、地域固有の信仰、音楽、舞踊と結び付いて変容した例も多い[14]。
近世
安土桃山時代から江戸時代にかけては、武家の儀礼芸能と、都市の興行を基盤とする芸能が並存した。能楽は豊臣秀吉や徳川将軍家の保護を受け、江戸幕府の儀礼に用いられる式楽となった。能役者の座と流儀は幕府や諸藩によって保護される一方、謡や仕舞は武士・町人の稽古事としても広まった。
応仁の乱などによって衰退した雅楽も、京都、奈良、天王寺の楽人が協力して演奏する三方楽所の体制などによって再興された。江戸時代には、江戸にも幕府の祭祀を担う紅葉山楽人が置かれ、雅楽は宮廷・寺社だけでなく、一部の大名や藩校にも受容された[15]。
16世紀後半には、琉球王国の三線をもとにした三味線が本土に広まり、近世芸能の発展に大きな役割を果たした。三味線は歌謡や語り物の伴奏に用いられ、地歌、箏曲、長唄、義太夫節、常磐津節、清元節、新内節など、多数の音楽ジャンルが成立した。箏や尺八との合奏も発達し、劇場、座敷、遊里、寺社など、異なる場に応じた音楽文化が形成された[15]。
17世紀初頭には、出雲阿国の「かぶき踊り」を端緒として歌舞伎が成立した。女歌舞伎・若衆歌舞伎が幕府によって禁止された後、成年男性が演じる野郎歌舞伎へ移行し、演劇性が強まるとともに、男性が女性役を演じる女方などの様式が形成された。元禄期以降には、演技、舞踊、音楽、舞台機構を組み合わせた都市の劇場芸能として発展した[16]。

人形を操る芸と浄瑠璃が結び付いた人形浄瑠璃も、江戸時代初期に成立した。大坂では竹本義太夫の義太夫節、近松門左衛門らの作品、人形操法の発達によって隆盛し、歌舞伎との間で作品や演出を相互に取り入れた。幕末以降、大坂の有力な一座となった文楽座の系統が、後の文楽へ受け継がれた[17]。
講釈、落とし噺、曲芸などの大衆芸能も都市の盛り場で発展した。江戸時代後期には、講談や落語などを上演する常設的な寄席が江戸・大坂を中心に広がり、太神楽をはじめとする曲芸、物まね、音曲なども寄席の番組に取り入れられた[18]。
琉球王国では、三線を中心とする宮廷音楽や舞踊が発達した。1719年には、冊封使を歓待する御冠船踊の演目として、玉城朝薫が創作した組踊が初演された。組踊は台詞、音楽、舞踊を組み合わせた歌舞劇として王府内で発展し、その後も新たな演目が作られた[19]。
近代
明治維新による社会制度の転換は、従来の芸能の伝承基盤にも大きな変化をもたらした。幕府、諸藩、身分組織、寺社などの保護を受けていた演者や音楽家の中には、活動基盤を失った者も多く、一部の流派や演目は衰退・断絶した。一方、新たな後援者、劇場、演奏団体、教授組織などが形成され、芸能は近代社会に適応する形で再編された[20]。
雅楽では、京都や奈良などの楽人が東京へ移り、宮内省系統の組織で伝承を続けた。能楽は幕府・諸藩の保護を失って打撃を受けたが、皇室、華族、政財界人などが新たな後援者となった。1881年(明治14年)には能楽社が設立され、芝能楽堂を拠点として演能が行われた[21]。
歌舞伎では、演劇改良運動、史実を重視した活歴物、文学者・小説家が脚本を提供した新歌舞伎など、近代的な演劇観を取り入れる試みが行われた。日本舞踊や邦楽でも、劇場から独立した演奏会・舞踊会が開かれ、女性を含む教授者・演奏者や民間の流派・団体が活動するようになった。
西洋音楽の導入と学校教育、軍楽、放送、録音技術の普及は、伝統音楽の環境を変化させたが、伝統的な楽器や技法を用いる新作も盛んに作られた。箏曲・尺八などでは西洋音楽の要素を取り入れた作品や新しい楽器が考案され、浪曲や筑前琵琶など、近代に新たに成立・発展した芸能もあった[20]。
第二次世界大戦後
第二次世界大戦後には、従来の芸能を文化遺産として保存・継承する制度が整備された。1950年(昭和25年)に制定された文化財保護法は、演劇・音楽などの人間の「わざ」を無形文化財として保護の対象とした。地域の祭礼や年中行事などに伴う芸能についても、民俗文化財として保存措置が講じられるようになった[3][4]。
1966年(昭和41年)には国立劇場が開場し、歌舞伎、文楽、邦楽、日本舞踊、雅楽、声明、民俗芸能、大衆芸能などの上演、調査研究、資料収集、伝承者養成が進められた。その後、国立能楽堂、国立文楽劇場、国立劇場おきなわなども設置され、能楽、文楽、組踊をはじめとする芸能の公開と伝承を担っている[2]。
主な分野
日本の伝統芸能には、演劇、舞踊、音楽、語り、曲芸などの要素を複合的に備えるものが多い。このため、以下の区分は相互に排他的な分類ではない。例えば雅楽は音楽と舞踊を含み、能楽、歌舞伎、文楽、組踊も演劇であると同時に、それぞれ固有の声楽、器楽、舞踊を伴う。また、同じ系統の芸能でも、宮廷や劇場で専門家によって上演されるものと、地域の祭礼や行事において伝承されるものとでは、社会的な基盤や上演形態が異なる。
宮廷・寺社の歌舞と音楽
雅楽は、日本古来の歌舞と、アジア諸地域から伝来した音楽・舞踊をもとに、主として宮廷や寺社で伝承されてきた芸能である。現在の雅楽は、舞を伴う舞楽、器楽合奏である管絃、日本古来の歌舞を受け継ぐ国風歌舞、催馬楽・朗詠などの歌物に大別される[22]。
声明は、仏教の法会や儀礼において、経典などの文言に旋律や一定のリズムを付けて唱える声の音楽である。宗派ごとに唱法や曲目が伝承され、寺院の儀礼音楽として行われてきた。声明の旋律や発声法は、後世の歌謡、語り物、能楽、平曲などの日本音楽にも影響を与えた[23]。
能楽

能楽は、能と狂言によって構成される舞台芸能である。能は謡、囃子、舞を中心とし、面や様式化された所作を用いて物語や人物の内面を表現する。狂言は対話を中心とするせりふ劇であり、中世の人々の日常生活や説話などを題材として、笑いや人間のおかしみを描く[24]。
能と狂言は、歴史的に同じ舞台で交互に上演されてきた。歌舞を中心とする象徴的な能と、言葉や写実的な演技を重視する狂言は性格を異にするが、上演制度、舞台、演者の役割、修練体系などの面で密接に結び付いている[24]。
歌舞伎・人形浄瑠璃・日本舞踊

歌舞伎は、俳優の演技を中心に、音楽、舞踊、衣装、化粧、舞台装置や舞台機構を組み合わせる演劇である。演目には、武家社会や歴史上の事件を題材とする時代物、町人社会の生活を描く世話物、舞踊を中心とする所作事などがある。男性俳優が女性役を演じる女方、誇張・様式化された演技、見得、隈取なども、その表現上の特徴として発達した[25]。
人形浄瑠璃は、浄瑠璃を語る太夫、三味線の演奏、人形遣いによる人形芝居を結び付けた芸能である。その代表的な伝承である文楽では、太夫の語りと三味線が人物の言葉、心情、情景を表現し、人形遣いがそれに合わせて人形を操作する[17]。文楽以外にも、淡路人形浄瑠璃や阿波人形浄瑠璃をはじめ、各地に人形浄瑠璃・人形芝居が伝承されている。
日本舞踊は、近世以降に発達した日本の舞台舞踊の総称として用いられ、歌舞伎の中で形成された歌舞伎舞踊を中心に、上方の座敷文化において発達した上方舞などを含む。歌舞伎舞踊は歌舞伎の一ジャンルとして成立し、後には歌舞伎の興行から独立した舞踊会や稽古を通じても伝承されるようになった。
伝統音楽
日本の伝統音楽は、雅楽、声明、能楽の音楽、琵琶楽、三曲、三味線音楽、琉球音楽、アイヌ音楽、民謡など、多様なジャンルからなる[26]。
琵琶楽には、『平家物語』を語る平家琵琶、武士的な物語を多く扱う薩摩琵琶、近代に成立した筑前琵琶などがある。
三曲は、地歌、箏曲、尺八楽、胡弓楽を総称する語である。地歌三味線と箏に、胡弓または尺八を加えて演奏する三曲合奏も行われる。江戸時代には胡弓を加える編成が一般的であったが、明治以降は尺八を加える合奏が広まった[27]。
三味線音楽は、三味線を用いる伝統音楽の総称であり、歌や語り、舞踊の伴奏として発達した。人形浄瑠璃に用いられる義太夫節、歌舞伎や日本舞踊に用いられる長唄、常磐津節、清元節、座敷や小規模な演奏の場で発達した地歌、新内節、端唄、小唄などがある[28]。
伝統的な声の音楽は、旋律的に歌う表現を中心とする「歌いもの」と、物語や人物の言葉を語る表現を中心とする「語りもの」に大別されることがある。地歌・箏曲や長唄は歌いもの、義太夫節、常磐津節、清元節などの浄瑠璃は語りものの代表例とされる。ただし、語りものにも旋律的な部分があり、歌いものにも物語や情景を表す要素があるため、両者の区別は絶対的なものではない[29]。
琉球芸能

琉球諸島では、琉球王国の宮廷を基盤とした芸能と、各地域の祭礼、行事、生活に根差した民俗芸能が発達した。宮廷芸能には、三線の弾き歌いを中心とする琉球古典音楽、琉球舞踊、歌舞劇である組踊などがある。民俗芸能には、島や地域ごとの祭祀、豊年祈願、祖先供養などに伴う歌や踊りが含まれる[30]。
組踊は、せりふ、音楽、踊りから構成される琉球独自の歌舞劇である。伝統的な琉球音楽と琉歌を用い、演技や所作には琉球舞踊の型が取り入れられている[31]。
民俗芸能

民俗芸能は、地域の暮らしの中で行われる祭礼や年中行事などにおいて、人々によって演じられる歌、舞、踊り、演劇などをいう[6]。
主な系統には、神を迎え、鎮め、送るために演じられる各地の神楽、農耕儀礼と関係する田楽・田遊び・田植踊、華やかな装束や群舞を特徴とする風流踊、念仏踊り、太鼓踊り、盆踊り、各地の獅子舞などがある[14]。
また、宮廷・寺社・都市の舞台芸能が地域に伝えられたものとして、地方の舞楽、地芝居・地歌舞伎、人形芝居、地域に根付いた能・狂言などがある。アイヌ古式舞踊をはじめとするアイヌの伝統的な歌舞や、琉球諸島・奄美諸島の祭礼芸能も、各地域の歴史と生活に根差す芸能として伝承されている[14]。
大衆芸能・寄席芸

文化芸術基本法上、講談、落語、浪曲、漫談、漫才などは、雅楽、能楽、文楽、歌舞伎、組踊などの狭義の伝統芸能とは別の「芸能」に分類されている[1]。
寄席を中心に伝承されてきた芸能には、滑稽な噺や人情噺を一人で演じる落語、歴史上の事件や人物などを調子を付けて読む講談、三味線を伴って節と語りを聞かせる浪曲、二人以上の掛け合いを中心とする漫才などがある。また、太神楽、奇術、紙切り、曲独楽など、話ではなく技を見せる芸も寄席の番組に組み込まれてきた[18]。
表現と伝承
型と演目
伝統芸能では、演目の台本や詞章、楽譜だけでなく、発声、演奏、身体の使い方、間、舞台上の位置、衣装や道具の扱いなどが一体として伝承される。これらの表現は、反復される一定の形式を備える一方、演者、流派、上演時代、上演場所などによって異なる場合がある。
歌舞伎では、代々伝承されてきた演技や演出の様式を「型」と呼ぶ。型は一人の俳優の動作だけでなく、共演者の演技、衣装、化粧、舞台装置などを含む演出全体に及ぶことがある。また、同じ作品・役であっても複数の型が存在し、特定の家や俳優の系統と結び付いて伝承される例もある[32]。
ただし、「型」という語の意味や重要性は、すべての伝統芸能で同一ではない。能楽の型、舞踊の振り、音楽の旋律型や奏法、語り物の節、民俗芸能の所作や演唱など、それぞれの芸能が固有の表現体系を持つ。伝承とは、一定の形式を機械的に複製することではなく、演目の構造や表現上の約束を理解し、個々の上演の中で実現することでもある。
演目には、継続的に上演されるもののほか、長期間上演されなくなったもの、詞章、台本、楽譜、振付、舞台記録などだけが残るものもある。上演が途絶えた演目を復活する場合には、文献、古い台本、絵画・写真、録音・映像、芸談などを調査し、不足する部分を補いながら上演可能な形に再構成することがある。日本芸術文化振興会も、伝統的な演出による上演に加え、途絶えた演目の復活や、伝統的な技法を発展させた新作の上演を行っている[2]。
稽古と口伝
伝統芸能の習得では、師匠や先達の演技・演奏を観察し、模倣と反復を重ねる稽古が重視されてきた。文字や楽譜による記録が存在する芸能でも、それらだけでは発声、音色、呼吸、間、身体感覚などを完全に示すことは難しく、対面による指導が重要な役割を持つ。
雅楽では、楽器の旋律を声で歌う唱歌が稽古の基礎となる。学習者は唱歌を繰り返して曲を記憶し、その旋律や拍の取り方を身に付けた後、楽器の奏法を習得する。こうした技法は、師匠から弟子へ口頭で伝える口伝によって受け継がれてきた[33]。
能楽では、主役を演じるシテ方、相手役を演じるワキ方、狂言方、囃子を担当する囃子方などの役割が分かれ、それぞれに複数の流儀がある。演者は原則として自らが属する役籍と流儀の芸を専門的に修練し、異なる役割を担う演者と舞台上で協働する[34]。
文楽では、太夫、三味線、人形遣いがそれぞれ専門の技芸を修練する。従来の師弟関係による入門に加え、国立文楽劇場などの研修制度を経て基礎教育を受け、その後に現役の技芸員へ弟子入りして修業を続ける経路も設けられている[35]。
上演を支える人と物
伝統芸能の上演には、舞台上の演者だけでなく、演奏者、舞台監督、後見、道具方、衣装方、床山、照明・音響担当者など、多様な人々が関わる。また、楽器、面、人形、衣装、かつら、舞台装置、小道具などの製作・修理にも専門的な技術が必要となる。これらの用具や舞台技術は、芸能そのものとは区別されるが、上演表現を成立させる不可欠な条件である。文化芸術行政においても、伝統芸能の継承とともに、用具の製作・修理に必要な技術の後継者育成や原材料の確保が課題とされている[36]。
保存と振興
文化財保護制度
日本では、歴史上または芸術上価値の高い演劇・音楽などの「わざ」は、文化財保護法に基づく無形文化財として保護の対象となる。国は、無形文化財のうち重要なものを重要無形文化財に指定し、そのわざを高度に体現する個人または団体を保持者・保持団体として認定している[3]。
保持者等の認定には、個人を認定する「各個認定」、複数の保持者を一体として認定する「総合認定」、一定の技法を共有する団体を認定する「保持団体認定」がある。国は、保持者・保持団体による伝承者養成や公開、地方公共団体などによる保存事業を支援している[3]。
国立劇場と伝承者養成
日本芸術文化振興会は、国立劇場、国立能楽堂、国立文楽劇場、国立劇場おきなわなどを通じ、伝統芸能の公演、伝承者養成、調査研究、資料収集、普及事業を行っている[2]。
国立劇場の養成事業は、既存の家や師弟関係だけでは将来の伝承者を安定して確保することが難しい分野を対象として、一般から研修生を募集する制度として始められた。歌舞伎俳優、歌舞伎音楽、文楽、能楽、太神楽などの分野で基礎的な研修を実施し、修了後は各分野の実演家や師匠の下で修業を続ける仕組みが設けられている[37]。
調査・記録と復活上演
伝統芸能に関する調査と記録は、芸能史の研究だけでなく、演目や技法の継承にも利用される。日本芸術文化振興会は、主催公演の台本・床本、上演記録、舞台写真、録音、映像などを収集・作成し、その一部を公開している[38]。
ユネスコ無形文化遺産
日本の伝統芸能のうち、能楽、文楽、歌舞伎、雅楽、組踊などは、無形文化遺産の保護に関する条約に基づく「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載されている[39]。
地域における継承
民俗芸能や地域の舞台芸能は、地方公共団体、保存会、自治会、寺社、学校、博物館、文化施設などによって保存・公開されている。子供や若者を対象とする稽古、学校での体験学習、祭礼以外での公開、用具の修理、映像・文書による記録なども、継承のために行われている。民俗芸能は、地域の信仰、年中行事、社会組織などと結び付いて伝承される場合が多い。このため、その保存では、舞や演奏などの技法だけでなく、芸能が行われる祭礼・行事や、それを運営する地域の組織も重要となる[4][6]。
現代の課題
担い手の確保
伝統芸能の習得には、長期間にわたる稽古と実演経験を必要とする。日本芸術文化振興会は、伝承者を長期的・安定的に確保するため、歌舞伎、文楽、能楽、大衆芸能、組踊などの分野で研修生を募集し、関係団体や実演家の協力を得て養成を行っている[2][37]。
民俗芸能では、演者だけでなく、祭礼の運営、稽古、用具の管理などを担う人々の確保も必要となる。国や地方公共団体は、後継者養成、用具の修理、記録作成、公開などの保存事業を支援している[4]。
公開と普及
伝統芸能の伝承には、稽古とともに、実際に技芸を演じて公開する機会が必要となる。日本芸術文化振興会は、国立劇場各館における公演のほか、地方公演、鑑賞教室、外国語による解説を伴う公演、舞台映像の配信などを行っている[2]。
用具・原材料と舞台技術
楽器、面、人形、衣装、かつら、道具などの製作・修理を担う職人や舞台技術者の養成と、木材、皮革、繊維、顔料などの原材料の確保も、伝統芸能の継承に関わる。文化庁は、伝統芸能の表現に不可欠な用具の製作・修理技術について、後継者育成と原材料の確保を図る必要があるとしている[36]。
復活と創造
伝統芸能では、古典的な演目や技法の伝承と並行して、上演が途絶えた演目の復活や、伝統的な演出・技法を基盤とする新作の上演も行われている。日本芸術文化振興会は、調査による復活上演や新作を、伝統芸能の公開事業の一部として実施している[2]。