慰安婦
第二次世界大戦終結までに、主に日本軍人を相手に、性的労働をさせられた女性
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慰安婦(いあんふ)は、第二次世界大戦中、戦地で、将兵の慰安を名目に、売春をさせられた女性[2]。強制的に連れて行かれた者もいた[3][4][5][6][7]。第二次世界大戦前および戦時中に、大日本帝国軍によって占領された国や地域で性的奴隷とされた女性や少女たちと定義されることもある[8][9][10][11]。



概説
1932年から1945年の終戦まで、日本は慰安婦を、日本軍兵士の士気を高め、無差別な性暴力を減らす目的で設置された「慰安所」に送り込んだという。その過程で、一部の女性は虚偽の雇用約束によって誘われ、多くの女性は本人の意思に反して慰安所へ送られたとされる[12][3]。
慰安所に動員された女性の多くは、朝鮮、中国、フィリピンなど日本の占領地域の出身者であった。また、ビルマ、タイ、仏領インドシナ、マレー、満洲国、台湾(当時の日本の統治地域)、蘭領東インド、ポルトガル領東ティモールなど、その他の日本占領地域からも女性が集められた[13]。さらに、パプアニューギニア[14](日本人とパプア人の混血女性を含む)などから動員された例も報告されている。慰安所は日本、中国、フィリピン、インドネシア、マレー、タイ、ビルマ、ニューギニア、香港、マカオ、仏領インドシナなど広範囲に設置された[15]。ヨーロッパ出身者も含まれており、その多くはオランダ人女性であったとされている[16]。
日本軍「慰安婦」問題は、現在でも日本社会において論争のある歴史問題の一つである。戦時中に慰安所制度が存在したこと自体は広く認識されている一方で、一部の保守・右派勢力を中心に、女性たちの動員過程における強制性の有無をめぐる議論が続いている。2007年、当時首相であった安倍晋三は、強制的な動員を裏付ける証拠は存在しないと発言したが、その後この発言を修正した。2014年の安倍政権下でもこの問題は再び注目を集め、過去の日本の報道や関連証言の信頼性、河野談話の見直しをめぐる議論が行われた。しかし、国際社会からの懸念や反発を受け、談話の見直しは実施されなかった[12]。
慰安婦の強制的な動員を重視し、国際連合[17]やアメリカ、カナダ、イギリス、オランダの下院、韓国および台湾の政府、ならびに欧州議会[18]は、日本軍慰安婦を「性奴隷制(sexual slavery)」と規定している[19][20]。
同一テーマに関する英語版ウィキペディア、[21]。ブリタニカ百科事典においては性奴隷と記述されている[22]。また、BBCの「Witness History」においても慰安婦を「性奴隷」と言及している[23]。これについての詳細は、「性奴隷」規定を参照。
日本軍の慰安婦については、人数や動員の仕組み等について様々な見解があり、論争が続いている。日本軍の慰安婦に関する諸説や論争については、「日本軍の慰安婦に関する論争」を参照のこと。また、日本軍慰安婦の強制動員および賠償などを巡って、1990年代から政治問題・外交問題が生じている。こちらについては、「日本の慰安婦問題」を参照のこと。
用語
「慰安婦」とは、軍人に性的サービスを提供した女性を指す婉曲表現である[12]。国際社会では、一般に第二次世界大戦の終結までの大日本帝国期に、日本軍の性奴隷[注 1]制度の下に置かれた女性を指す語として用いられる[12]。諸国の軍隊に公認あるいは黙認された売春婦に対しても、「慰安婦」という言葉が用いられることがある[25][26]。
慰安婦という表現が使用された事例としては、1930年代から1945年まで存在した日本軍慰安婦、その影響を受けて朝鮮戦争期に設けられた韓国軍慰安婦[27]、連合国軍占領下の日本において日本政府の支援の下で設立された「慰安所」を中心とする占領軍向け慰安施設である特殊慰安施設協会(RAA)、および在韓米軍が朝鮮戦争中から戦後にかけて、大韓民国の基地村において統制・管理した売春婦である在韓米軍慰安婦がある。
日本軍慰安婦(日本軍性奴隷[28][29][30]、従軍慰安婦[31]とも呼ばれる)については、多くの被害者の証言や数多くの研究により国際的な注目を集め、日本およびその植民地・占領地の女性を本人の意思に反して慰安婦として動員し、場合によっては殺害したとする指摘について[12]、国際社会から批判がなされている[32][33][34]。日本政府は、軍の関与を認めて被害女性に謝罪している一方で、法的責任や軍による強制動員については否定している[12][24]。
特殊慰安施設協会(RAA)については、日本の敗戦直後、連合国軍兵士による性暴力の防止を目的として日本政府や地方自治体の関与のもと設立され、多数の女性が慰安施設で働いたことが知られている[35][36]。一方で、募集や労働の実態については、自発的な就業、業者による募集・斡旋、経済的困窮、強制・人身売買など様々な事例が報告されており、その実態をめぐって研究が行われている[37][38]。また、連合国軍総司令部(GHQ)は1946年に公娼制度の廃止を命じ、RAAによる慰安施設は閉鎖された[39]。
韓国軍慰安婦については、2002年に漢城大学校の金貴玉教授および韓国挺身隊研究所の姜貞淑研究員による論文や寄稿を契機として広く知られるようになった[40]。しかし、大韓民国政府は韓国軍慰安婦問題について公式に言及したことはなく、被害を公に証言した人物も、現在のところ確認されていない[41]。
在韓米軍慰安婦(カヌリ語: 주한미군 위안부)については、韓国政府の管理・黙認のもとで基地村(朝鮮語: 기지촌)が形成され、多くの女性が在韓米軍兵士を相手に売春を行ったことが知られている[42]。元基地村女性らは、国家による管理や性病検診の強制、収容施設への監禁などにより人権を侵害されたとして韓国政府を提訴し、韓国の裁判所は国家の違法行為を認定して賠償を命じた[43]。韓国政府は2026年、基地村の在韓米軍「慰安婦」とされる女性たちへの人権侵害と売春の黙認を認め、被害者に謝罪した。一方、生存被害者らは、アメリカ政府と在韓米軍にも謝罪と責任認定を求めている[44][45]。
日本の軍隊と性
19世紀のナポレオン戦争の結果、ヨーロッパ中に性病が蔓延したことから、ヨーロッパ諸国では、軍人に接触する売春婦を国家が管理し、性病検査を義務付ける近代型公娼制度(藤目ゆき)が始まった[46]。このシステムは、開国を余儀なくされ、欧米列強の軍隊が駐留するようになった日本にも持ち込まれた。[要出典]
第二次大戦以降も、韓国軍が慰安婦を伴い(朝鮮戦争)[47]、米軍は日本政府や韓国政府から慰安婦の提供を受けていた[48][49][47]。
鎖国政策を終えた日本が欧米に門戸を開くと、まず九州にロシア海軍の要求で専用の遊郭が作られ、売春婦の性病検査が始まり[50][51]、イギリス軍の軍医[注 3]が、日本人に検梅を指導した。
大日本帝国から、日本人や朝鮮人、台湾人[注 4]が慰安婦として海外の戦地に赴いた。中国大陸や東南アジアなどの戦地では、現地採用された慰安婦も存在した[52]。日本軍の慰安婦の総数や民族構成については、諸説ある。
1945年8月、ソ連が日ソ中立条約を破り、満州・南樺太に侵攻すると、ソ連兵による性暴力事件が頻発し、吉見義明によれば、被害の拡大防止の為、日本軍や現地の日本人会が、ソ連側に慰安婦や芸娼妓を提供したり、あるいは女性たちの「自発性(ママ)」に頼ったり、ソ連軍用の慰安所を作って対応した[53]。
名称
「慰安婦」という語は逐次広まったもので、公式用語として定着したものではなかったと見られる。公娼制下の日本では、強制(性病)検診の対象者を「芸妓、酌婦、娼妓[注 5]」の3つに区分したが、1940年頃の慰安所関係の公文書を見ても「慰安婦」の範囲基準は明らかではなく、秦郁彦は、慰安所に入ったあとに慰安婦と呼びかえられたと見ている[55]。
陸軍最初の慰安所とされる上海派遣軍の慰安所の規則(1932年)には、慰安所を「軍娯楽場」、女性は「接客婦」と表記されている[55]。この他にも、戦時中の公文書には「酌婦」「稼業婦」「稼業婦女[56][注 6]」「従業婦[注 7]」や「特殊慰安婦[注 8]」、「醜業婦[注 9]」といった表記が見られる。「慰安婦」という言葉は、むしろ少ない[55]。
軍人は慰安婦のことを俗に「ピー」(英語のprostituteの略だとも、中国語で女陰を表す言葉だとも言われる[58]:68。)、慰安所のことを「ピー屋」と呼んでいた[59][60]。
海軍の公文書では「特要員」の名が使われたが、これも完全に普及した言葉ではなかったと見られる[注 10][55]。
日本軍性奴隷
女たちの戦争と平和資料館によれば、「慰安」は「労をねぎらって楽しませる」という意味を持つ語であり、女性たちが受けた被害の実態とはかけ離れているため、そのように呼ばれることを拒否する女性もいる。そのため、国際社会では実態をより正確に表す表現として「日本軍性奴隷」がしばしば用いられている[30]。
国際連合は、公式には「日本による軍事的性奴隷制(military sexual slavery by Japan)」との表現を用いているが、「性奴隷」という用語は被害者に大きな苦痛を与え得るとして、その使用には慎重な姿勢を示している[62][63]。
日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義記憶連帯)は、1930年代から1945年の日本の敗戦まで、日本軍が制度的に「慰安所」を設置し、占領地や植民地の女性を動員して性奴隷化した犯罪であると定義しており、「日本軍性奴隷制」という表現を用いている[64]。
元慰安婦の証言によれば、多くの女性は工場労働者や看護師として働くという募集に応じたものの、自らが性奴隷として扱われることになるとは知らなかったとされる[65]。
慰安婦の総数
アジア女性基金によれば、日本軍の慰安婦の総数が分かる総括的な資料は存在せず、慰安婦の総数についてのさまざまな意見はすべて研究者の推算である[66]。研究者の説には、推計のしかたにより2万人説から41万人説まで存在する[66]。
秦郁彦によれば、慰安婦は軍の構成員(軍人・軍属・雇傭員)ではなく、名簿作成の対象になっていなかった。現地部隊レベルで個人情報を把握していた例はあるものの、中央で集計した形跡はないという[67]。
国際交流基金のシドニー事務所が発行するNew Voices誌に掲載された論文(著者Kirsten Orreill)では、終戦時に関連する公式文書の多くが日本軍によって破棄または隠蔽されたため、これらの地域から連行された女性の正確な人数は明らかになっていないとされている[68]。
慰安婦の民族別割合
アジア女性基金によれば、日本軍の慰安婦の民族別の割合を確定する統計資料は、存在しない[66]。
慰安婦の身分
1940年の閣議決定に基づく「外事警察執行要覧」は、慰安婦を軍属ではなく、民間人として扱うことと定めている[69]。日本軍は、業者が慰安婦らを船舶等で現地に送るに際には、彼女らを特別に「軍属に準じた」取扱いにし、渡航申請に許可を与え、日本政府が身分証明書等の発給を行った[70]:1,14。
慰安婦の年齢
1938年2月18日に起案され、2月23日に内務省警保局長より各庁府県長官に宛てて「支那渡航婦女の取扱に関する件」(内務省発警第5号)が通達された[56][71][72]。この通達では内地(植民地以外の日本国内)から中国に渡航させる慰安婦は、満21歳以上の現役の娼妓や醜業を営む女性に限定し、身分証明書の発行の際には、婦女売買または誘拐などがないかよく注意することや、募集に際し軍の名を騙ったり、虚偽や誇大な広告宣伝をする者を厳重に取り締まるよう命じている。
なお、公娼の年齢制限は、内地で18歳以上、朝鮮・台湾で17歳であった[73]。
しかし、日本の戦争責任資料センターによれば、慰安婦の相当数は未成年者だったとされている[74]。
日本政府は、日本人女性を慰安婦として中国へ送る場合、21歳以上の売春婦に限定するよう通達していた。これは未成年者の人身売買や売春を禁止した国際条約への対応とされる。しかし、植民地は条約の適用対象外とされたため、朝鮮や台湾では未成年女性も対象となり、朝鮮では17歳、台湾では14歳の少女が慰安婦となった記録が残されている[75]。
慰安婦問題
慰安婦問題は、1991年、数十年にわたる沈黙を破った生存女性たちが日本政府を相手取って集団訴訟を提起したことを契機に、国際的な注目を集めるようになった。これらの女性たちとその支援者は、人権侵害を理由として補償を求めた。ほぼ同時期に、中央大学の歴史学者である吉見義明は、防衛庁防衛研究所図書館で関連文書を発見し、その調査結果をまとめた報告書を発表した。この報告書は、日本の戦時中の軍および政府が慰安婦制度の維持に関与していたことを示すものであった[22]。
鈴木裕子は、戦後の日本において慰安婦制度が大きな問題として扱われなかった理由について、多くの慰安婦が朝鮮半島出身者であり、当時の植民地出身者に対する蔑視や差別意識が、現在の日本社会にも残存しているためだと考察している。また、慰安婦問題を「民族差別と性差別が凝縮されたもの」と論じている[76]。
1992年2月25日、弁護士の戸塚悦朗が国連人権委員会で日本軍慰安婦問題を取り扱うように要請し、これが国連での初めての慰安婦問題提起であった[77]。
日本政府の対応
1995年、日本政府は、国の道義的責任を認め[78]、謝罪し、半官半民の基金(アジア女性基金)を立ち上げた。日本政府は、元慰安婦61人に対して1人あたり200万円の「償い金」を支給した。しかし、民間募金を原資としたことから、韓国では日本政府の法的責任を明確に認めていないとして批判も生じた[79]。アジア女性基金は2007年に解散した[80]。
コロンビア大学院生ソーニャ・クキ(Sonya Kuki)は、日本は、国際連合人権理事会の勧告や、日本軍性奴隷制に関する女性国際戦犯法廷の判決を概ね無視し[81]、アメリカや欧州連合など、日本政府に対応を求める決議を採択した国々からの圧力にも抵抗してきたとしている[81]。クキは、日本政府は、これらの声明は法的拘束力を持つものとみなさず、従う義務はないとの立場を示しているとした[81]。
地方議会
2008年3月、兵庫県宝塚市議会は、日本の地方議会として初めて、慰安婦問題に対する政府の誠実な対応を求める意見書を採択した。その後、2013年3月には京都府議会、同年6月には島根県議会でも採択されるなど、同様の意見書は計41の地方議会で採択された[82]。
国際社会における慰安婦問題
2007年、アメリカ合衆国の下院で、アメリカ合衆国下院121号決議が可決された[83]。決議では、日本の慰安婦について、集団強姦、強制的な中絶、精神的屈辱、性的虐待などが行われ、それによって身体障害や殺害、自殺に至った例もある、前例のない残虐な重大人権侵害であったと指摘している。また、米国の下院は、日本政府がこれらの過去の行為を否定・矮小化しているとして批判した[84]。これに対し、朝日新聞を除く日本の主要新聞各紙は激しく反発した[85]。
2007年11月28日、カナダ議会は、第2次世界大戦中に日本が女性を性奴隷として利用した事実を認め、すべての被害者に対して公式かつ誠実な謝罪を行うよう日本に求める決議を全会一致で可決した[86]。
2007年、オランダ下院は、日本に対し、戦時性奴隷制度について謝罪し、元慰安婦被害者に賠償金を支払うよう求める決議を可決した[87]。
2007年12月13日、欧州議会は「第二次世界大戦前および戦時中のアジアにおける性奴隷『慰安婦』のための正義」と題する決議を採択し、日本政府に対し、第二次世界大戦前および戦時中に若い女性を性奴隷として強制動員したことについて謝罪し、法的責任を認めるよう求めた[88]。
2008年3月11日、フィリピン下院外交委員会は、日本政府に公式謝罪などを求める「慰安婦」決議案を採択した。決議案は女性党議員らが提出したもので、日本政府に歴史的事実と責任の認定、公式謝罪を求める内容であった[89]。
2008年11月11日、台湾立法院は、慰安婦問題について、日本政府に公式謝罪と被害者への賠償などを求める決議案を全会一致で採択した。決議案は超党派の立法委員らが提出したもので、提出者側は日台関係への影響よりも、元慰安婦の高齢化を踏まえた早期対応を求めた[90]。
2014年、教皇フランシスコは韓国で元慰安婦の女性7人と面会し、その苦しみに対して直接共感の意を表した[91][92]。
2014年、国際連合人種差別撤廃委員会は日本に対し、副委員長のアナスタシア・クリクリーが述べたように、「軍による『慰安婦』の人権侵害に関する調査を完了させ、責任者を訴追し、この問題について包括的かつ恒久的な解決策を追求すること」を求めた[93]。
国際連合人権高等弁務官のナビ・ピレーは、複数回にわたり慰安婦被害者への支持を表明した[94]。
政府間合意
日韓合意
2015年の慰安婦問題日韓合意において、日本政府は慰安婦問題について「当時の軍の関与の下、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」と認め、責任を痛感すると表明し、安倍晋三内閣総理大臣が元慰安婦の方々に対して心からのお詫びと反省の意を表明した。また、日本政府は日本政府予算10億円を拠出し、韓国政府が設立する財団を通じて、元慰安婦の方々の名誉と尊厳の回復、心の傷の癒やしを目的とする事業を実施することを決定した[95]。
韓国政府はこれらの措置の着実な実施を前提として、この発表により慰安婦問題が「最終的かつ不可逆的に解決されること」を確認し、日本政府の取り組みに協力するとともに、国際社会において互いに非難・批判することを控えることを確認した。また、韓国政府は在韓日本大使館前の少女像について日本政府の懸念を認識し、関連団体との協議などを通じて適切に解決されるよう努力することを表明した[95]。
市民社会における慰安婦問題
中国、韓国、台湾、フィリピンなどアジア各国では、日本軍「慰安婦」被害者を追悼する記念館の設立や追悼活動が続けられている。中国の南京には中国人慰安婦のための記念館が設立され[96]、韓国では1992年から日本大使館前で毎週水曜デモが行われ[97]、2011年には平和の少女像が設置された[98]。台湾の台北婦女救援基金会やフィリピンの被害者団体リラ・ピリピナなどは、生存者への支援、証言の記録、歴史教育活動を行いながら、日本政府に謝罪と補償を求めてきた[99][100] 。また、アメリカ、ドイツ、カナダ、オーストラリアなどでも慰安婦を記念する碑や像が設置されたが[101][102][103]、一部の地域では日本政府・団体や日本系住民からの反発、撤去要求などをめぐる論争も発生している[104][105][106]。
論争・問題点
国際連合人権委員会の特別報告者ラディカ・クマラスワミは、慰安婦の募集過程では欺瞞や強制が存在し、とりわけ朝鮮人女性の証言には、欺罔や強制連行に関する事例が多く含まれているとしている[107]。
アジア女性基金によれば、中国は日本軍慰安所が最初に設置された地域とされ、多数の中国人女性が朝鮮人、台湾人、日本人女性とともに慰安婦として動員されたとされる。また、中国の農村部では慰安所以外でも、日本軍兵士による住民女性への性的暴力や監禁が行われたとする証言や訴訟事例がある。さらに、北朝鮮、ビルマ(現ミャンマー)、マレーシア、ミクロネシア、東ティモールなどでも慰安婦制度の被害が確認・報告されている[108]。
慰安婦は当時合法とされた公娼であり日本人女性も慰安婦として採用していたことなどから国家責任はないとの主張がある。ブリタニカ百科事典によれば、とりわけ右派ナショナリストを含む一部の日本人は、女性たちが慰安所で強制的に働かされたかどうかについて、継続的にこれを否定してきたとされる[22]。
誘拐問題
1938年、陸軍省は、北支・中支軍の参謀長に宛てた(軍慰安所従業婦等募集に関する件)の中で、慰安婦の募集業者の中には募集にあたり社会問題を引き起こすおそれあるものや、誘拐に類する募集の仕方で警察の取り調べを受けるものがあるとの懸念をを伝え、募集人の選定を適切にするよう命じた[109]。
姜萬吉によれば、慰安婦の動員過程においては、強制や誘拐などの手段も用いられたため、日本軍部は1938年に作成した通牒の中で、「日中戦争地域における慰安所設置のため、現地において従業員などを募集する際、軍部の了解などの名義を利用することで軍の威信を損ない、また一般人の誤解を招くおそれがある。あるいは、従軍記者・慰問団などを介入させ、統制なく慰安婦を募集することによって社会問題を引き起こすおそれがある」と指摘した[110]、1938年頃の日本軍では、一部の慰安婦が強制や脅迫、欺罔などの方法によって集められていたことを把握し、対策を講じていた。また、「募集を担当する者の人選が適切でないため、募集方法が誘拐に近いものとなり、そのため警察当局に検挙され、取り調べを受ける者がいるなど、注意すべき点は少なくない。今後、慰安婦の募集に際しては、派遣軍の統制下で募集人の選定を主体的かつ適切に行い、その実施にあたっては関係地域の憲兵および警察当局と密接に連携し、軍の威信維持および社会問題の防止のため、遺漏なく配慮するよう通牒する」とした[110]。
日本軍の師団長であった後に逮捕された鈴木啓久は、「5,000人以上の中国人を殺害し、1941年に安徽省巣県に慰安所を設置した後、中国人女性および朝鮮人女性約20人を拉致して慰安婦とした」と自供した[111][112][113]。
慰安婦の募集方法には、新聞やメディアを通じた広告による募集、拉致、人身売買、職業紹介所による斡旋など、さまざまな方法があった。その一方で、女工を募集すると偽って女性を連れ出した事例も確認されている。アメリカ議会調査局(CRS)の報告書では、米軍がミャンマーで発見した約20人の朝鮮人出身「慰安婦」の証言、ホレス・アンダーウッド博士がアメリカ政府に報告した日本軍による朝鮮人慰安婦の強制動員に関する記録、さらにオランダ政府文書保管所に所蔵されている日本軍慰安婦の強制動員に関する資料などを、その根拠として提示している[114]。
虚偽広告
物理学者[要検証]David Yunの著書では、1938年以降、日本の内務省は警察や民間業者を組み込んだ行政的な募集体制を整備し、女性を募集する際、募集広告では軍における業務内容を明示せず、レストランなどで働く仕事や海外で働ける職業であるかのように装って募集が行われたとされている[115]。その結果、多くの女性は収入を得るため、そのような仕事に応募したという[116]。
慰安婦の募集広告は現存しており、1944年7月26日付の京城日報と1944年10月27日付の毎日新報に掲載された広告には、それぞれ「慰安婦至急大募集」「軍慰安婦急募集」の文字と、勤め先として「後方○○隊慰安部」「行先 ○○部隊慰安所」の情報が記載されている[117]。
1941年、日本は18歳以上の女性を募集対象とする内容を含む公式文書を制定した。日本当局は、女性の募集過程における違法な手法を把握していた。ある民間業者が少女を誘拐する形で募集したため、逮捕された事例もあった[110]。
ある女性は、米国当局者との面談で、女性兵士を募集する広告を見た後にビルマへ渡ったが、それは詐欺であり、実際に行う具体的な役割について説明されていなかったと証言した[115][118]。
米国戦争情報局(OWI)は、ビルマにおける20人の慰安婦への聞き取り調査を報告し、女性たちは多額の収入、家族の借金返済の機会、容易な仕事、新天地での新しい生活への期待などを理由に誘われたとしている。こうした虚偽の説明を受け、多くの少女たちは海外で性的搾取を受けることになり、数百円程度の前払い金を受け取ったとされる[119]。
慰安婦の強制連行
1990年、韓国の市民団体が、太平洋戦争中に朝鮮の女性が日本政府により慰安婦として徴用(強制連行)されたとして日本政府に真相解明を求める声を上げた。日本政府はこれに対し、軍の関与と強制性は認めているものの[120]、発見された資料の中に、軍や官憲による、いわゆる「強制連行」を直接示す記述は見当たらなかったとして、強制連行を否定している[121][122]。
極東国際軍事裁判の資料には、慰安婦の強制動員や日本軍関係者による暴行・拘束などを示す複数の証言・調査資料が含まれている。これらの資料には、インドネシア、東ティモール、ベトナム、フランス領インドシナなどの占領地において、女性が暴行や脅迫、拘束を受け、本人の意思に反して慰安所へ送られた事例が記録されている「慰安婦の強制連行#極東国際軍事裁判資料」参照)[123]。霊山大学校国際学研究所研究教授の姜京子は、この判決を踏まえ、判決文で言及された慰安婦に関する事例は特定地域に限られたものではなく、各地で同様の動員や残虐行為が行われていたことを示唆するものだと論じている[123]。一方で、秦郁彦は、東京裁判で裁かれたこの種の性犯罪について軍の上級司令部の指令や黙認下で行われたとする申し立ての記録は見当たらないとしている[124]。
強制連行
1950年代に生まれた言葉で[125]、戦時中の国家総動員法(国民徴用令ほか)に基づく労務動員を意味する言葉とされる[注 11]。韓国では「強制動員」とも言う[127]。
女子挺身隊
女子勤労挺身隊とは、主に工場などでの労働に従事する女性を指す。太平洋戦争の末期、女子挺身勤労令が出され、日本人女性が、工場などへ動員された[128]。国民の義務として動員されたのは日本人(内地人)だけで、朝鮮半島(当時の日本領)においては女子挺身勤労令は発令されなかったとされる[128][127][注 12]。(「女子挺身隊#朝鮮での「挺身隊」と「慰安婦」の混同」参照)
吉田証言
吉田清治は、太平洋戦争中、県知事や軍の命令を受け朝鮮人女性を徴用し慰安婦として戦地に送ったと、著書で告白。証人として裁判でも証言した。現在では、吉田の証言は作り話だったとされる[130]。(「吉田清治 (文筆家)#慰安婦の強制連行に関する証言(吉田証言)」参照)
スマラン事件

太平洋戦争中にインドネシアで起きたスマラン事件が「慰安婦の強制連行」の実例だとする主張もあるが、東良信元外政審議官によれば、河野談話の作成過程で、この事件について検討した日本政府は、軍としての活動ではないと判断している[132]:147。一方で、アジア女性基金は、一部の日本軍関係者が、収容所に抑留されていたオランダ人女性および混血女性を慰安所へ強制的に連行し、日本軍将兵に対する性的奉仕を強要したと説明している[133]。オランダ議会と政府は、日本当局に追加的な立場表明を求めている(詳細は「スマラン慰安所事件」参照)。
強制連行否定論
青山学院大学のチェルシー・センディ・シーダー教授は、慰安婦の強制動員や南京事件を否認する右翼的な修正主義的な歴史解釈が、歴史的な細部や証拠に対する一般的な無知を利用し、日本語版ウィキペディアを含む多くのオンライン空間で影響力を持っている一方で、英語圏の学術界ではこうした主張は全く支持を得ていないとしている[134]。
ハーバード大学のジョン・ラムザイヤー教授は、天皇からのギフトとして日本軍兵士たちに贈られた20万人の女性の多くが隠蔽工作の為に殺された、などと書かれた米国の教科書に日本政府が不満を表明した際、20人の米国の歴史学者が、日本政府が「確定した歴史[注 13]」に異を唱えたと反発したことについて、日本では「朝鮮人慰安婦強制連行説[注 14]」を唱えているのは、活動家か極左歴史学者だけで、韓国でも様々な圧力がある中で勇気ある学者たちがこの話に異を唱えつつあり、このような話が事実として通用するのは、欧米の大学だけだと批判した[135]:28,29。
2016年に米国のシンクタンクが開いたシンポジウムで、韓国の朴裕河教授が、強制的に連行されたのではなく兵士を支援したと証言した元慰安婦の存在を挙げるなどして学術的で冷静な議論を呼びかけたが、コネティカット大学のアレクシス・ダデン教授は、慰安婦問題を「日本による国家的な性奴隷制度」と呼び、日本政府を非難した。朴はシンポジウム後、「米国でこの問題に関心を持っている方は(支援)運動側に関心を持ってきたので、私の議論には批判的なのだろう」と述べた[136][137]。
慰安婦虐殺
2018年、韓国のKBSは、敗戦直前に日本軍が朝鮮人慰安婦を虐殺したことを証明する映像が初めて公開されたと報じた。当時の連合軍の報告書には「日本軍が朝鮮人女性30人を銃殺した」と記録されており、ソウル大学人権センターの康成賢教授は、今回の発見はこの証言に力を与えるもので、日本軍戦争犯罪を立証する重要な資料になるとコメントした[138]。
2018年には、ソウル大学の研究チームが、虐殺の証拠映像を発見したと発表し[139]、韓国メディアは、米軍や中国側の資料に慰安婦の虐殺を示す記録があると報じたが、朱益鐘らは、ソウル大チームの発表を批判し、韓国メディアが報じる虐殺の記録とされるものについても、検証の価値はあるが、立証されたものではないと見ている[140]。ソウル大チームの発表には、朝日新聞を含め、日本のメディアの反応も冷淡だった。元朝日新聞記者、前川惠司は「信憑性があまりに低い」からだと述べている[141]。鄭眞成(ソウル大学教授)は、「慰安婦被害者の証言以降、世界各地で埋もれていた資料が発掘されており、それらが証言と驚くほど一致している」と述べた[142]。研究チームの朴貞愛(東国大学研究教授)は、「日本が責任を認め真摯に謝罪すべきであり、現在世界で広がる『ミー・トゥー』や『ウィズ・ユー』運動も、最終的には日本軍慰安婦問題と通じる」と述べた[142]。
韓国の新聞の中には、元慰安婦の証言として、日本軍が梅毒にかかった慰安婦を人体実験の材料にして殺し、死体から採った油を燃料として利用していたと報じたものもある。崔碩栄は、韓国のマスコミが、こうした猟奇的な話を検証することなく報道し、日本に対する憎悪を拡散させていると批判した[143]:126-128。
クマラスワミの1996年の国連報告書によれば、戦争末期に撤退する日本軍によって多くの慰安婦が殺害または放置され[22]、ミクロネシアでは日本軍が一晩で慰安婦70人を殺害した事例があったとされている[144]。
慰安婦とされた女性の出身地域
日本人
ペナン島の潜水艦基地司令部に勤務していた井浦祥二郎は、「わざわざ女性を戦地にまで連れてきたことをかわいそうだ」と感じ、「そのくらいならば、現地女性を慰安婦として募集した方がよかった」という旨を自著で述べている[145]。
日本の植民地
朝鮮人
アジア女性基金によれば、日中戦争の過程で中国に進出した日本軍が設置した慰安所には、当初の日本人女性に続いて朝鮮人女性も慰安婦として送られた。戦争が太平洋・東南アジア地域へ拡大すると、多くの朝鮮人女性がこれらの地域にも動員された。朝鮮では、当初は売春を生業としていた女性が対象となったと考えられるが、その後、貧困家庭の女性たちが様々な手段によって集められたとされる。この過程では、甘言や強圧など本人の意思に反する方法による動員や、就業詐欺に関する証言も報告されている。また、当時の日本内地では禁止されていた21歳未満の女性も多数含まれており、その中には16歳や17歳の少女もいたとされる[146]。
台湾人
アジア女性基金によれば、第二次世界大戦中、日本の植民地であった台湾では、多くの男性が日本軍の兵士や軍属・民間労働者として動員された一方、女性たちも軍や警察によって病院、炊事場、工場などで働くよう召集された。当時、台湾の人々が日本軍や警察に抵抗することは生命を危険にさらす行為であったとされる。女性たちの中には、海外の戦地や占領地へ送られた者もおり、海南島、フィリピン、中国、インドネシア、ビルマなど、また台湾内の軍港や弾薬工場に付属する施設などで働かされた。その一部は慰安婦として性的サービスを強制されたとされ、夫や婚約者が出征している間に被害を受けた事例もあった。多くの被害女性は、戦後も夫や家族にその経験を語ることができず、長年にわたりその記憶を秘密として抱え続けたと報告されている[147]。
吉見義明は、台湾人慰安婦の半数以上が未成年者であったと指摘している[148][149]。2023年には、最後に残っていた台湾人慰安婦の生存者が死去した[150]。
日本軍占領下の地域
オランダ人
アジア女性基金によれば、日本軍の官僚はオランダ人女性や混血女性を強制収容所から慰安所へ移送し、日本軍将校や兵士に対する性的サービスを強要したとされる。代表的な事例としてスマラン事件があり、AWFの資料委員会報告書では、1944年初頭、約35人のオランダ人女性および混血女性が、中央ジャワの第4・第6アンバラワ収容所、第9アンバラワ収容所、ハルマヘラ収容所、アンバラワおよびスマランのゲンドゥンガン収容所などから、強制的に慰安婦とされたと報告されている[133]。
日本占領下のオランダ領東インドにおけるオランダ人女性の強制売春に関するオランダ政府文書の研究によれば、200人から300人のオランダ人女性が日本軍用売春施設で働き、そのうち約65人については強制性が確認されている[133]。
インドネシア人
アジア女性基金によれば、インドネシアでは、多くの現地女性が慰安所へ送られ、一部では村長や地域指導者などを通じて募集されたとされる。当時の占領下の権力関係から、女性たちは実質的に拒否することが困難であり、資料では「強制に近い行為が存在した可能性」や「強制があったと一般化できる」と指摘されている。また、一部の日本軍部隊は女性を暴力的手段によって連行し、自ら設置した施設に監禁して慰安婦と同様の扱いを行ったとされる。インドネシア各地には慰安所が設置され、スバラヤ、セマラン、マカッサルなどでも現地女性が収容された事例が報告されている[151]。
倉沢愛子の研究によれば、当初は売春を生業としていた女性が対象となった例もあったが、その後は一般女性も動員され、多くは地域指導者や村落組織を通じて集められた。また、西ジャワなどでは、帰宅途中の女性や家族が不在の間に自宅から連行されるなど、日本軍によって直接拘束され、「非公式な慰安婦」とされた女性も存在した。これらの女性たちは給与を受け取ることもなく、軍による十分な保護や待遇を受けなかったとされている[151]。

インドネシアからは、多くのジャワ人女性も慰安婦として徴用され、その中には約1,000人の東ティモール出身の女性や少女も含まれており、彼女たちは性的奉仕を強いられる状況に置かれた[152]。その多くは14歳から19歳ほどの少女であり、一定の教育を受けていた。彼女たちは、東京やシンガポールで高等教育を受けられるという約束によって欺かれたとされる。ジャワ出身の慰安婦の主な移送先には、ビルマ、タイ、東インドネシアなどがあった。また、元慰安婦への聞き取り調査によれば、フローレス島出身の女性もいたとされる。戦後、生き残った多くのジャワ出身慰安婦は、連行・移送された地域に留まり、現地社会に統合された[153]。
フィリピン人
アジア女性基金によれば、戦後に軍事法廷へ提訴されたB級・C級戦争犯罪381件のうち、約半数が現地住民に対する虐殺(138件)または強姦(45件)に関するものであった。日本軍占領下のフィリピンの一部地域では、被害者の証言によれば、多くの女性が暴力的手段によって強姦され、駐屯施設へ連行・監禁された後、性的サービスを強要されたとされる。AWFは、このような被害を受けた女性たちは慰安婦と同等に扱われるべき被害者であるとしている。また、多くの事例において、女性たちの父親や夫が本人や家族の目の前で殺害されたことも報告されている[154]。
フィリピン政府の最終報告書によれば、多くの被害女性(ロラ)は、日本軍によって自宅や職場、移動中などで連行され、日本軍の駐屯地や、官公庁・学校・病院・教会などを転用した施設に監禁された。一部の事例では、村人が集団で拘束されたほか、民家が駐屯地に転用され、慰安所として使用された例も報告されている。被害女性の拘束期間は3日から1年以上に及び、約25%が4か月以上、17%が3か月間、16%が1か月間拘束されていたとされる。また、報告書では、すべての被害女性が拘束期間中に繰り返し日本軍兵士による強姦を受けたと証言しており、複数の日本兵が長期間にわたり継続的に性的暴力を行った事例も確認されている[154]。
中国人

アジア女性基金によれば、被害者の証言を通じて、中国の農村地域では、日本軍占領軍が村の女性を強姦し、特定の施設や場所に監禁した上で、継続的に性的暴力を行った事例が知られている。山西省盂県では、多くの住民がこのような被害を受けたと主張し、日本で訴訟を提起した[155]。
その他のアジア太平洋地域
アジア女性基金によれば、ビルマ(現ミャンマー)にも現地出身の慰安婦が存在し、マレーシアにも慰安所が設置されていた。また、南部ミクロネシアや東ティモールにおいても、慰安婦とされた女性たちが存在したとされている[155]。
異称
戦後
従軍慰安婦
慰安婦問題が政治問題となってから「従軍慰安婦」という呼称が広まったが、戦時中にはなかった言葉であり誤解を生むとしてこの言葉の使用に反対する声がある一方で[156]、引き続き使用すべきだという主張もあり、議論になった。外務省やアジア女性基金、NHKなどでは「いわゆる従軍慰安婦」などと呼ぶようになった[157]。(「日本軍の慰安婦に関する論争#「従軍慰安婦」」参照)
日本軍「慰安婦」
女たちの戦争と平和資料館(西野瑠美子館長、以下WAM)は、日本軍「慰安婦」の表記を用いている。WAMでは、「慰安婦」は当時の日本軍の公文書などでも使用されていた歴史的用語であるとして、括弧を付した「慰安婦」という表記を採用している[30]。
「軍慰安婦」
任意団体、Fight for Justice日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任、の共同代表である吉見義明は、慰安婦は慰安という言葉が持つ「愛・同情・暖かさ・憐み」というイメージからかけ離れていたという指摘や、徴用船員用の慰安所や企業慰安所(詳細は「慰安所」参照)で働いていた慰安婦と区別する為に、「」をつけた「軍慰安婦(日本軍慰安婦)[注 15]」の語を用いている[158]。
性奴隷(sex slave)
「慰安婦」という言葉が実態を反映していないとして、「日本軍性奴隷」という用語を使用したり、慰安婦を括弧付きで使用している例もある[注 16]。韓国の日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(旧挺対協。以下「正義連」という)などが推奨する「性奴隷(sex slave)」という表現[注 17]については、政治的であるとの批判があるほか[162]、元慰安婦の中からも反発がある[163][164]。(「日本軍の慰安婦に関する論争#奴隷か否か」参照)
慰安婦の強制的な動員を重視し、国際連合[165]やアメリカ、カナダ、イギリス、オランダの下院、韓国および台湾の政府、ならびに欧州議会[166]は、日本軍慰安婦を「性奴隷制(sexual slavery)」と規定している[167][168]。
同一テーマに関する英語版ウィキペディア、[21]。ブリタニカ百科事典においては性奴隷と記述されている[169]。また、BBCの「Witness History」においても慰安婦を「性奴隷」と言及している[170]。これについての詳細は、「性奴隷」規定を参照。
韓国での呼称
韓国では、日本軍に倣って「慰安隊」を設立し、国連軍にもサービスを提供していた。その為、「위안부(慰安婦)」という言葉は、1980年代まで主に米軍や国連軍相手の売春婦を指していた。日本軍の慰安婦に対してこの言葉が使われるようになるのは、90年代になってからで、それから米軍・国連軍の慰安婦に対しては使われなくなった[171][要ページ番号]。(「韓国軍慰安婦」参照)
英語圏での呼称
戦時中(1944年)の米軍の報告書[注 18]ではcomfort girlと訳され、軍人のために軍に所属させられた売春婦(prostitute)もしくは職業的野営随行者(professional camp follower)と解説されている[172]。1945年のタイム誌とニューズウィーク誌でも、comfort girlsと訳されている[173][174]。
近年では、comfort woman[175] のほか、BBCやロサンゼルス・タイムズといったメディアで、sex slaveの表記も見られる[160][176][177]。
日本の慰安婦の歴史

日中戦争(支那事変)
1937年日中戦争がはじまり、1937年9月29日の陸達第48号「野戦酒保規程改正」には「必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得」と書かれており[71]、慰安所は軍の後方施設として兵站部が管轄することが規定されている[56]。
当時、上海派遣軍副参謀長であった岡村寧次が、日本軍向け慰安所の設置を最初に提案した人物とされている。慰安所設置には複数の理由があり、日本軍は占領地において民間女性に対する強姦事件が頻発していたため、中国人の反日感情の悪化を防ごうとした。また、将兵の間で性病が蔓延することを防止する必要があり、中国人女性との接触を通じて軍事機密が漏洩することも懸念されていた。しかし、第6師団では慰安婦が配置された後も、強姦事件が完全になくなることはなかったとされる[180]。
日本軍は1937年末から大量の軍慰安所を設置し始めた[181]。飯島守上海派遣軍参謀長の12月11日の日記には、中支方面軍から慰安所設置の指示が来た事が書かれている[182]。上村利通上海派遣軍参謀副長も、軍の不法行為が激しいので「南京慰安所の開設において第二課案を審議す」(28日)と書いている[183]。現地軍最高司令部であった中支那方面軍から指示が飛び、取り急ぎ各軍が南京攻略後の駐留地で憲兵に指示して慰安婦を集めさせ慰安所を開設した[184][185]。内地や朝鮮半島から呼び寄せた記録もある[186]。1937年12月21日の在上海日本総領事館警察署長が「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」を出し、前線での慰安所設置が報告された[56]。
強姦の多発により、慰安所の設置を急いだことが『飯沼守上海派遣軍参謀長の日記』[187]『上村利通上海派遣軍参謀副長の日記』[188]『北支那参謀長通牒』などの史料から分かる[189]。また小川関治郎の陣中日記の1937年12月21日条には「尚当会報ニテ聞ク 湖州ニハ兵ノ慰安設備モ出来開設当時非常ノ繁盛ヲ為スト 支那女十数人ナルガ漸次増加セント憲兵ニテ準備ニ忙シト」との記述が見られる[190]。
日本軍から内地への慰安婦の要請
1938年11月4日には南支(南部中国)派遣軍古荘幹郎部隊参謀陸軍航空兵少佐 久門有文及陸軍省徴募課長より内務省に対して慰安婦要員約400名と、身元が確かで慰安所経営ができる引率者(雇い主)の要請があり[191][192](支那渡航婦女に関する件伺)、内務省警保局(現在の警察庁に相当)はこの要請に応じて大阪、京都、兵庫、福岡、山口の各知事宛に計400名を割り当て、極秘扱いで華南に渡航させるよう命じた(南支方面渡航婦女の取り扱いに関する件)[192][193][194]。
支那事変の経験より観たる軍紀振作対策
1940年9月19日、『支那事変の経験より観たる軍紀振作対策』を各部隊に配布[195]。この中で兵舎の設備改善と慰安の諸施設を求めて、特に性的慰安所は「志気の振興、軍紀の維持、犯罪及び性病の予防等に影響する」と説いている[196]。
関東軍特殊演習
日本軍は、対ソ戦に備え、1941年の夏に関東軍特殊演習(関特演)を計画し、満州に70万を超える兵力を集結させた。この時、関東軍司令部の原善四郎参謀が、朝鮮総督府に2万人の女性(慰安婦)の募集を求めた。千田夏光が原元参謀に直接確認したところ、実際に集まったのは8000人だったと言われるが、その後、原の下で実務を担当していた人物から「3000人」だったとの情報が寄せられた。
千田は2万人の根拠について、原から、支那事変の体験から兵士35人に一人いれば「兵隊が沈静化」するからだと聞いた。秦郁彦は、千田との対談で、70万の兵力うち40万は既に満州におり、募集が必要だったのは、増派する30万人の兵士に対応する分であるはずで、原の計算間違いではないかと述べている。千田は、その可能性を認めつつ、満州にあった軍民共用の慰安所から女性を引き抜くわけにはいかないので、侵攻する兵力に必要な数として算出したのだと思うと述べている[197]:13-15。
太平洋戦争
1941年12月8日、日本軍による真珠湾攻撃で第二次世界大戦(太平洋戦争)勃発。
- 1941年刊行(推定)清水一郎陸軍主計少佐編著『初級作戦給養百題』(陸軍主計団記事発行部『陸軍主計団記事』第三七八号附録)第一章総説に、師団規模の部隊が作戦する際に経理将校が担当する15項目の「作戦給養業務」が解説され、「其他」項目の解説に以下の任務が列挙されている[198]。
1 酒保ノ開設 2 慰安所ノ設置、慰問団ノ招致、演藝會ノ開催 3 恤兵品ノ補給及分配 4 商人ノ監視
戦後
帰国後の被害者の中には、戦後も長期にわたって精神的・身体的な苦痛を抱えて生活した者がいたとされる。過去の経験による影響から、結婚や出産を断念した人もおり、家族を持った場合でも自身の過去を周囲に明かすことができなかったという証言がある。また、苦しみを誰にも相談できない状況が、被害者の心理的負担をさらに大きくしたと指摘されている。慰安所での経験だけでなく、帰国後の社会生活においても困難が続いたとされる[199]。
慰安婦の募集

「慰安婦至急大募集」
年齢 17歳以上23歳まで
勤め先 後方○○隊慰安部
月収 300円以上(前借3000円まで可)
『毎日新報』(1944年10月27日付)
「軍慰安婦急募集」
行先 ○○部隊慰安所
応募資格 年齢18歳以上30歳以内身体強健女性
募集期日 10月27日より11月8日
契約及待遇 本人面接後即時決定
募集人員 数十名
希望者 左記場所に至急問議の事
京城府鍾路区樂園町195 朝鮮旅館内光③2645(許氏)
日本政府の説明によれば、慰安婦の募集は、多くが民間業者によって行われ、軍はそれらの取り締まりや衛生等の管理に直接・間接的に関与した[200][70]。
日本政府は1992年の調査結果において、慰安婦の募集は主として業者によって行われたものの、その過程で甘言や威圧的手段が用いられた事例が存在したことを認めた。また、一部では行政当局や軍関係者が募集に関与したケースも確認されたとしている[201]。
多くの場合、軍当局の要請を受けた慰安所経営者が民間の募集業者を雇い、慰安婦を募集していた。しかし、戦線の拡大に伴って慰安婦需要が急増すると、募集業者は女性を甘言や脅迫によって集めるなど、さまざまな手段を用いて強制的に募集を行った。また、行政・軍関係者が募集に直接関与した事例も存在した[201]。
日本国内(内地・朝鮮)では、慰安所の経営者や仲介業者が、当時の一般的な接客業婦の募集方法と同じやり方で慰安婦を募り、戦地へ引率した[202]:52,53[203]。その際、「軍慰安所従業婦等募集に関する件」に見られるように、就業詐欺に類する事案も発生し、軍や政府は幾度か業者の選定について注意勧告を行っている[204]。
霊山大学校国際学研究所研究教授の姜京子は、「慰安婦」の動員主体は民間業者ではなく軍であったとしている。また、供述書から、「慰安婦」の強制連行や逮捕には特警隊および軍隊の長が主導的に関与していたことが確認できるとしている[123]。
日本政府の調査では、慰安婦の募集は(軍の要請を受けた)業者が主として行ったとされており[205]、日本政府は、その後も「慰安婦の強制連行」を裏付ける資料を見つけられていない。
内地での慰安婦の募集
日本国内では、1938年2月23日の内務省発警第五号の「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件[206]」により、慰安婦は、事実上醜業(売春)を営み、満21歳以上の伝染病なき者に募集を限定し、身分証明書を発給していた。また、発給の際には本人自らが警察署に出頭すること、親または戸主の承認を得ること、婦女売買や略取誘拐などの無きよう調査すること、正規の許可などの無い募集周旋は認めない事などが取り決められていた。
1937年から翌38年にかけて内地の売春斡旋業者の取り締まりに関する通達等が多数出された。1937年(昭和12年)8月31日には外務次官通牒「不良分子ノ渡支ニ関スル件」が出され、斡旋業者の取り締まりについての注意命令が出された[71]。
- 1938年1月19日付群馬県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 と同年1月25日付高知県知事発内務大臣宛「支那渡航婦女募集取締ニ関スル件」、同日付山形県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件」[71] などでは、警察から「皇軍ノ威信ヲ失墜スルコト甚タシキモノ」とされた神戸の貸座敷業者大内の言葉として、「上海での戦闘も一段落ついて駐屯の体制となったため、将兵が現地での中国人売春婦と遊んで性病が蔓延しつつあるので3,000人を募集した」とある[71]。業者大内によれば、契約は二年、前借金は500円から1,000円まで、年齢は16歳から30歳迄としている[56]。
- 1938年2月7日付和歌山県知事発内務省警保局長宛「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」によると、1938年1月6日、和歌山田辺で、支那(中国)で慰安婦に就職しないかと勧誘した挙動不審の男らが誘拐容疑で逮捕された。男らは軍の命令で募集していると称していたので、和歌山県刑事課長は長崎県外事警察課に問い合わせ、その回答である38年1月20日付文書には「皇軍将兵慰安婦が渡来するので便宜供与をしてください」という依頼文が添付されている[71]。この公文「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」(在上海総領事館警察署発長崎県水上警察署宛、1937年12月21日付)には、「稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並ニ朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ」とも記録されている[71]。
- 1938年2月14日には茨城県知事から内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」、翌2月15日には宮城県知事発内務大臣宛でも同名の通達がなされている[71]。
内地での慰安婦募集上の注意
1938年(昭和13年)3月4日、「支那渡航婦女の取扱に関する件」に応じて陸軍省 兵務局 兵務課はに「軍慰安所従業婦等募集に関する件」(陸支密第745号)を発令した。この通達は、北京近郊で慰安所を設置するために内地(植民地以外の日本国内)で慰安婦を募集した者が、軍の名義を利用したり、誘拐のような方法で集め警察に検挙取締りを受けたため、今後は派遣軍が募集する者の人選を適切にし、軍の威信を保ち社会問題を引き起こさないよう依頼したものである。
朝鮮半島での慰安婦の募集
- 1944年に、当時の朝鮮の最大手の新聞『京城日報』(7月26日付)が「慰安婦至急募集」との紹介業者の広告を掲載。300円(京城帝国大学の卒業生の初任給75円の約4倍に当たる)以上の月収と記載されていた。また 朝鮮総督府の機関紙『毎日新報』(10月27日付)の「軍慰安婦急募集」との紹介業者の広告では行き先は部隊の慰安所であると明記されている。
- 「行先 〇〇部隊慰安所」と書かれた朝鮮の新聞の募集広告も残されている[207]。 シンガポールなどでも、新聞広告で募集した例がある[注 19]
- 太平洋戦争の生き残りの兵士として知られる小野田寛郎は、1940年前後に商事会社の漢口(現・武漢)支店に勤務していた時代に、朝鮮半島では悪徳詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話をしばしば聞いたという[210]:145。
- 1944年に米軍がビルマに於いて捕虜にした朝鮮人慰安婦20名及び慰安所経営者の日本人夫婦2名から聞き取り調査をし作成した日本人戦争捕虜尋問レポート No.49があり、その募集の項に、日本の斡旋業者が就労詐欺により朝鮮人女性を集めていたとの記載がある。
台湾での慰安婦の募集
台湾軍が南方軍の求めに応じて「慰安婦」50人を選定し、その渡航許可を陸軍大臣に求めた公文書「台電 第602号」がある[211]。
戦地での慰安婦の募集
中国や東南アジアなど日本軍の占領地では、軍人が地元の有力者に協力を呼び掛けて慰安婦を集めることもあった[208]:106[183]。もともと慰安所は、住民に対する非行を防止する目的もあって設置されたが[212]、占領軍という立場上、(軍の方針に反し)住民に対し強制力が働いたケースもあったはずだという指摘もある[213]。
契約
ジョン・ラムザイヤーは、慰安所と慰安婦との間で交わされた契約は、基本的に日本(朝鮮)国内と同じであったものの、戦地特有のリスク[注 20]が反映されていることで、その内容の説明がつくとしている。最大の違いは契約期間で、内地(日本)では一般的に6年、朝鮮では3年だった公娼の契約期間が、戦地ではおおむね2年で[注 21]、前払い金(前借金)も高額だったとラムザイヤーは述べている[215]:6。ただし、これは旧日本人(内地人、朝鮮人)の場合で、中国や東南アジアで雇用された現地人の場合、日本軍部隊が移動すると慰安所が閉鎖されるため、雇用期間[注 22]は短かった[216]:84,88。
韓国の経済史学者李榮薫は、契約期間は通常2年間であったとし、ただし船便が途絶える場合などもあり、相当数の慰安婦は2年間というわけには行かなかったと述べている[217]。
多くの女性は慰安所到着後、いわゆる「入所」過程を経験したとされ、研究者のヒックス(Hicks)は、金春子の事例について、到着直後に裸にされ身体検査を受けた後、監視役による長時間の性的暴行を受け、その後も数日間にわたり同様の虐待が繰り返されたと記述している。また、女性たちは軍人の性的要求に従わせるため暴力を受けることがあり、複数の元慰安婦の証言では、新入りの女性が将校専用として扱われた例も報告されている[218]。
慰安婦の収入
当時の日本国内の娼婦と比べ高給を得ていたという説や、インフレや送金制限の為、慰安婦の収入は乏しかったという説があり、論争になっている。
「慰安所管理人の日記」によると、多くの慰安婦は自分の貯金口座を持っており[219]、管理人は、慰安婦たちの求めに応じ、彼女たちの収入を預金したり朝鮮に送金していた[220]。
ビルマで慰安婦を調べた米軍のレポートによれば、慰安婦の前借金の額に応じて、兵士が支払った料金の半分以上を慰安所経営者が受け取り、その他に経営者は食料やその他の物に高額な料金を付けて請求するため、慰安婦らはそれらを支払うと生活が困難になる有様だったという[221]。 一方で、文玉珠のように、唄と日本語がうまかったことで宴席にたびたび呼ばれ将校からチップを受取れた[222]為にかなりの貯金を 貯めた上に5000円になる金額を郷里に送ったなどの例もある[223][224]。ただし、地域や時期により扱いが異なるものの、その多くが強制貯金や受取制限のために事実上手にすることが困難な制度になっていたとする説がある[224]。実際に戦後、文玉珠とともにその補償を求めて日本政府に対し裁判を起こした多数の徴用工・慰安婦らはこの金銭の大部分あるいは全額を手にすることが出来ていない[224][225]。慰安所によっては慰安婦に給与が無い場合すらあったという意見もある[226]。
一次資料としては、以下のようなものがある。
- 米軍の日本人戦争捕虜尋問レポート No.49(1944年)。このレポートによると、慰安婦らは月平均で1500円の総収益を上げ、750円を経営者に返済していた。ただし、経営者は慰安婦らの食費や様々な経費に高値をつけ、それによる搾取で慰安婦らは生活に困難をきたすほどだったとしている。
- 米軍ATISの調査報告書No.120 (1945/11/15)では、兵士らは利用料金を軍票で支払い、料金は一般兵士は1回1.5円で、下士官は3円、士官は5円であった。また、慰安婦の売り上げ(gross)は最高1500円、最低300円/月で慰安婦は経営者に最低150円/月は支払わなければならなかったとの証言記録がある[要出典](当時の日本兵の月給は二等兵で6円、少尉で70円、大将で550円[227])。但し、これでは慰安婦は月に千人近い客の相手をしていたことになる。吉見義明は、軍自体の軍票乱発によるインフレのために将校がものを買えなくなり慰安婦にチップとして渡したため、このような高額になったとしている[228]。別の慰安所の女性となるが、文玉珠は、自身が将兵らに人気があり、将兵らがいつ自分は死ぬか分らないからとチップを弾んでくれたことで高額の貯金が出来たとも証言している[229]。
戦後
戦後軍票に対する日本政府の支払義務が免除されたため、軍票が紙くず同然となり[230]、払戻しを受けられなくなったケースもあった。
慰安婦の貯金
複数の元慰安婦らが、同様に郵便貯金の払い戻し払戻が受けられなかった男性徴用工らとともに、1991年頃から払戻請求訴訟「軍事郵便貯金訴訟」を開始した[231][232]。多くのケースは、報酬が日本円でも軍票でも受取れなかった、強制貯金をさせられ大部分ないし全額を受取ることができなかった、郷里に送金するなどとして実際には送金されていなかったというものであった[233]。
例外的に、元慰安婦の文玉珠のケースでは、贔屓客からチップを集めることが出来た為、多額の貯金をした上で、これとは別に5,000円を実家に送金していた[217][234][235]。当時は、千円で故郷の大邱に家が一軒買えたとされる[236]が、文玉珠自身はこれらの金額を結局1円も手にすることは出来なかった[224]。文玉珠自身は送金は兄が使い果たしてしまったとしている[229]が、寧ろ一般的には現地のインフレ影響を極力遮断するために、受取りを本人に限ることにしていたケースもあるとされる[224]。貯金については、文玉珠の知人の慰安婦姉妹が帰郷しようとして乗った船が米軍の攻撃で沈没、妹は亡くなり、姉が救助されて日本にたどりつき、下関で引出しに成功している[234]。しかし、戦後に帰郷した文玉珠自身は戦後の混乱の中で引き出さないまま、やがてGHQの指示で貯金が封鎖され、そのまま完全に受け取れなくなってしまっている[224]。郵便局の調査で、文の預金は預入元金だけでも2万6145円あったことが判明している[237][234]。
慰安婦全般に関する問題についていえば、外地でのインフレが、慰安婦の生活や貯金にどのような影響を与えたかについては、様々な見解がある。吉見義明は、兵士がインフレでものを買えなくなり軍票があっても意味がなくなったことで慰安婦らにチップとして弾んだものとし[238]、文玉珠も自分の収入が多かったことについて将兵らに人気がありチップをいろいろと貰えた為としている[229]。また、慰安婦に料金規定の通りに軍票が支払われたか、支払われても経営者の搾取や強制貯金等により慰安婦が実際にそれを手にすることが出来たのか、とりわけ軍票の扱いについては地域・時期によりさまざま[224]で、故郷への送金に制限がなかったか、他通貨との交換レートは1:1に設定されていたが果してその通りすんなり実現するものであったかどうか、様々な見解がある(「日本軍の慰安婦に関する論争」)。
慰安婦の生活状況
仕事の状況
歴史学者の秦郁彦は、慰安婦は公娼より報酬の条件がいい[239] 一方で、戦地であることや酔った兵の横暴にさらされやすかったなどの危険が、内地の低級娼婦よりも多かったと見ている。
金冨子によると、日本兵の休日の慰安が他にないこと、相対的に慰安婦の数が少ないことなどから、1人の慰安婦に少ない時で一日10人程度、多い時は数十人の兵士が詰めかけた[240][要ページ番号]。
吉見義明によると、地域の状況を問わず、軍の進出に伴い、兵士が存在する地域には慰安所が設置されていったため、慰安婦が前線基地に派遣される場合も多く、そのため、慰安婦が空襲や爆撃の被害を受けたこともあった[241][242]。

(1944年8月14日)
1944年に米軍がビルマで捕虜にした慰安所経営者夫婦と朝鮮人慰安婦20名に対する聞き取りをもとに作成した報告書には、慰安婦の前借金(前払い金)や月々の売上げ、娯楽、将兵たちとの交流や結婚、健康管理についての情報が記されている。報告書には、慰安婦の裕福な生活を伝える一方、経営者による搾取や、募集人から慰安婦業について正確な情報を与えられていなかったことも記されている[243]。
休日と外出制限
1932年までの郭(くるわ)内の公娼(集娼制)では遊女は外出はできない状況にあったが[244]、慰安婦の外出制限も、地域によって違いはあるが同様に厳しいものであった。
慰安婦の休日は無しか、月1回[245]、一日の就業時間と休日が厳守された[71]。日本軍が住民に嫌われていたと言われる中国・フィリピンなどでは、開業前や休日でも出歩ける範囲に制限があったり[246]、監視警備区域内に住まわせられていた。
慰安婦の多くは地元から遠く戦地へと派遣されていた場合が多く、そのような場合は、事実上慰安所から逃亡することはほぼ不可能であった。許可制により外出が認められていた場合はあるが、多くの場合軍機密の保持や安全上の必要などから制限を課されていた。[要出典]
ビルマ中部のマンダレーでは、経営者の証印がある「他出証」を携行すれば休日の外出は可能で、インドネシアのセレベス島の場合は、全て原住民系慰安婦で休養のための外出が自由だった[71]。国内と違って占領地の軍隊専属であったため、部隊移動にともなう繁忙・閑散期の差は大きかった[247]。
ビルマに出征した古山高麗雄は、慰安婦の中には金銭に余裕のある者もおり、買い物が出来たので、兵士が煮干しを食べている時でも卵や鶏肉を現地で購入して食べていた。束縛はあったが兵士より自由だったのではないかと当時を振り返っている[248]。
米軍の日本人戦争捕虜尋問レポート No.49によれば、ビルマのミッチーナにおける慰安婦の生活環境は、買い物や外出などが可能で、比較的良好であり、将兵と共にスポーツ、ピクニック、娯楽、社交ディナー等、蓄音機も楽しんだ。慰安婦らは個室を与えられ、接客を断る自由もあったという。
自殺
女たちの戦争と平和資料館(wam)は、苦痛から自殺した女性も多くいたとしている。慰安婦に対する厳しい監視は、自殺を防止する目的もあったとし、人間らしい生活を送ることも、死を選ぶこともできない状況は、極めて過酷なものであったと証言されている。また、慰安婦は性的な奉仕だけでなく、明るく振る舞うことも求められたという。その様子を「楽しかった」と語る兵士がいた一方で、彼女たちの置かれた状況を理解していた兵士もいたと、wamでは説明している[249]。
待遇
wamによると、「慰安婦」には日本式の名前が付けられ、着物の着用や日本式の髪型も施された。慰安所には昼間は下士官や兵士が、夜間は将校が訪れ、体調不良時や月経中であっても拒否することはできなかった[249]。
wamによると、1日に10人から20人、あるいはそれ以上の相手を強いられる場合もあり、病気や性感染症に罹患した「慰安婦」も多く存在した。慰安所に入所する女性は、当初必ず性病検査を受けることになっていたため、性感染症は兵士から感染したものである[249]。
逃亡に対する処罰
一部の元慰安婦の証言によれば、逃亡を防ぐため腕に識別用の印を入れ墨で施された女性もいたとされる。また、朝鮮語の使用を禁じられ、使用した女性が処罰されたという証言もある。到着後には、写真、戸籍、本人の供述書、保護者の同意書、警察の許可証、地方行政機関の身分証明書などを確認する登録手続きが行われ、その書類の写しは関係当局に送付されたとされる[218]。
暴行
wamによると、文必ギは、「日本兵は部屋に入ると、軍刀を畳に突き立てて迫ってきた。要求に従わなければ殺すという威嚇であった」と証言している[249]。
宋神道は拒否したために激しい暴行を受け、鼓膜が破れて右耳の聴力を失った。脇腹には10数センチに及ぶ軍刀による傷痕があり、股の付け根にも深くえぐられた傷痕が残っている。宋神道と同様に、当時受けた傷を身体に残している女性も多くおり、日本兵による暴力の前で、彼女たちは抵抗することが困難な状況に置かれていたと、wamでは解説している[249]。
医療・健康
特効薬のない時代、日本では性病は「亡国病」とも呼ばれた。国民皆兵制下の日本軍は、市中から軍隊内に性病が持ち込まれることと、軍隊が国外から国内に性病が持ち込むことを警戒し[注 23]、国内であっても軍指定以外の遊郭への出入りを禁じた。徴兵検査でも性病の検査は徹底され、兵士たちには、性病の危険性についての教育も行われた[251]。しかし、シベリア出兵(1918年-1922年)では多数の性病患者を出し、これが後に日本軍が戦地に慰安所を設置する一因となった[252]。
当時、性病としては梅毒が怖れられていたが、軍としては兵が感染すると行軍すら困難になる淋病対策が重要問題であった。シベリア出兵で性病が蔓延し、全シベリアに7個師団を展開していながら実質1個師団が消滅したと同様との判断が下されたこともあったという。千田夏光は、この性病による戦力損耗とそれに対応するための費用増大が性病対策の必要性を軍に痛感させ、民心離反の懸念もあって、軍としての管理売春制度の設立にやがて繫がっていったとする[253]。
慰安婦は、軍医による検査に合格しなければ営業許可を得られず、就業後も定期的に検査を受けなければならなかった。性病が見つかれば休業が指示された[219]。性病の治療には、サルバルサン(六〇六号)が使用された[254]。
慰安所には、軍から支給されたコンドームや消毒薬が常備され、使用が義務付けられていたが[255]、使用しない兵士もいた。売上げの低下を恐れて性病検査を誤魔化す慰安婦もおり、慰安所による性病予防効果は完全ではなかった[256]。
森川万智子によれば、慰安婦は性病だけでなく、しばしば不妊症になった[229]。
また、とうぜん自殺を図る者も多く、例えば文の同僚の一人は自殺により亡くなっている[229]。率については、例えば日本内地の通常の娼妓の平時の死亡率でさえ1.3%(1921年~1924年期間累計)という高率で、その内の実に23.5%を情死・変死(自他殺)が占め[257]、外地・戦時の慰安婦に至っては具体的な率は不明である。秦郁彦は、戦時の慰安婦の死亡率を4.2%と主張しているが、これは、日赤の従軍看護婦は通常は外地でも日赤の病院に居ることの多かったであろうが、慰安婦も日赤の従軍看護婦と同率のはずとの前提による数字である[258]。[独自研究?]
軍医
1901年に軍医の菊池蘇太郎は「軍隊ニオケル花柳病予防法」を発表し、公娼制度の目的は性病(花柳病)予防と風俗頽壊防止を目的としていたと記している[259]。
証言
- 元慰安婦の金徳鎮は、慰安所には避妊具(サック)が豊富に用意されていたが、時々使用しない兵士もいた。一、二カ月に一回軍医から検診を受け、病気が見つかれば数日休むよう命令されたと語っている。過酷な労働から、性器が腫れて出血する人も多かったとも[260]。
- 李英淑は、週に一回病院で検査を受けたと述べている。経営者は嫌がったが、少しでも異常があると軍人の相手をすることを禁じられたので、わざと局部を洗わずに検査を受けることで仕事を休むこともした。多くの軍人を相手にすると性器が腫れたと回想している。六〇六号の注射はとても痛かったという[261]。
- 米軍の日本人戦争捕虜尋問レポート No.49によれば、慰安婦には、避妊用具が支給され、軍医による週一回の検診などで彼女らの健康状態は良かったという。
兵士との関係
- 元兵士の伊藤桂一は、慰安婦らは「ときには性具のように取扱われはしても、そこにはやはり連帯感のつながりがあった。だから、売りものに買いもの、という関係だけではない、戦場でなければ到底持ち得ない、感動のみなぎる劇的な交渉も、しばしば持ち得たのである」と述べ、当時の兵士と慰安婦たちの人間的な交流があったエピソードを紹介している[262]。
- 歴史学者の吉見義明は、兵士から見れば慰安婦は血なまぐさい戦場で、身近の唯一の女性であり、恋愛を含めた心の交流があったと話す場合が多いが、元慰安婦の証言からはそうした状況はまったく違って述べられているという。慰安婦側から見れば、愛想良く対応しないと殴られる、兵士の求めるような形で応対する事で少しでも楽に「仕事」を済ましたい、将校と仲良くなることで少しでも待遇をよくしてもらいたい、という動機であるとしている[242]。
- ビルマでの朝鮮人慰安婦について、ある町の慰安婦について、彼女ら自身が兵士とともに自決することを申し出たと主張する話がある一方で、実際にはこれは、慰安婦としての仕事に加えてさんざん看護婦代わりや水運び等にも利用した挙句に兵士らの自決に先立って殺害されたのだというのが真実だとする話を伝える生存兵士もいる[263]。また、中国との南方最前線で玉砕を前にした日本兵による慰安婦の集団殺害を、国民党軍が目撃し、辛くも逃げることに成功した慰安所の女経営者を保護し、従軍していた中国人ジャーナリストが彼女の語る内容を報道している[264]。
- 元慰安婦の朴永心の証言によれば、1日に平均約30人の兵士を相手にさせられ、少しでも抵抗すると、日本兵に屋根裏部屋へ連れて行かれ、裸にされたうえで殴打されたという。また、ある日には「命令に従わない」として日本兵に腹部を刃物で刺されたとも証言している。さらに、慰安婦が妊娠した場合には子宮を摘出され、その後も慰安婦として働かされ続けたと証言している[265]。
- 日本兵は、慰安婦に対する強姦や暴行を「征伐」と表現していたとされる。2010年に公開された、旧日本陸軍第6師団所属の武藤章一分隊長による1938年の日記には、「今日は楽しい遠足だ。石川と二人で先ず朝鮮征伐にかかった。順番は四番目だった。トミ子、慶尚南道」との記述がある[265]。
- 1944年の米国戦争情報局心理作戦班報告によればビルマのミッチーナーの慰安所では、日本の軍人からの求婚もあり、実際に結婚したもケースも報告されている[214]。このほか、酒に酔った兵に脅された例、逆に刀を刺してしまった例、無理心中させられそうになった例、慰安婦に頼まれて自由にする金を横領した主計将校など様々な逸話がある[要ページ番号][70]。
慰安所

日本政府の調査によれば、日本軍の慰安所は、沖縄[268]、中国、フィリピン、インドネシア、マラヤ(現:マレーシア)、タイ、ビルマ(現:ミャンマー)、ニューギニア、香港、マカオ及びフランス領インドシナ(当時)に設置されたことが確認されている。これらは日本軍の要請により民間業者によって運営され、その数は約400箇所であったとされる[269]。
現在の中国湖北省 武漢市にあった漢口特殊慰安所は日華混在地区にあり、慰安所の前に歩哨と憲兵がいたという[270]。
慰安所の朝鮮人管理人の日記
2000年に韓国で発見された朝鮮人の慰安所管理人(帳場人)の日記には、慰安婦の渡航や廃業に関する申請手続き、健康診断や出産、預金、送金などの情報が記載されていた[220]。
元慰安婦への支援
女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)
1994年8月31日、日本の村山富市首相が談話で慰安婦問題にふれ、政府と国民が協力して解決にあたることを推進。1995年7月18日、「アジア女性基金」への拠金を呼びかけ、政府が4.8億、民間募金5.65億に加え基金の財産より500万を加え5.7億を償い金として、更に5年で8.3億円の政府資金で医療福祉支援事業を実施。 橋本龍太郎首相(当時)および小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎歴代首相の連名の「お詫びの手紙」とともに、「償い金」として一人当たり200万円を支給。 「医療福祉支援金」は、当時の物価水準を検討して、韓国と台湾について一人当たり300万、フィリピンについて120万、また別方式でオランダに300万。 インドネシア では同国政府の方針により「高齢者社会福祉推進」事業に政府資金により3.7億を支援した。[271]
日本政府は、アジア女性基金設立から解散までの間に約48億円の資金を拠出した。 [272]
フィリピン
支援組織
元慰安婦向け居住施設 ロラズ・ハウス
日本の市民組織の支援による施設。非政府系NGO「リラフィリピーナ」(フィリピンの慰安婦被害者の会)が運営。「ロラ」とはフィリピン語で「おばあさん」の意味で、施設はフィリピン人元「従軍慰安婦」と彼女らを支援する市民たちの活動拠点である。日本の女性組織によるロラズハウス基金を通して施設が購入された。 [275]
居住者の証言集「Lolas'House」(Curbstone Books、2017)の作家、フィリピン系アメリカ人のマリア・エヴェリーナ・ガラン(英語: M. Evelina Galang)は、FRIEND OF LOLAS を通して元慰安婦への支援を行なっている。
韓国
慰安婦の博物館
日本軍の慰安婦を中心に描いた作品
日本軍の慰安婦が登場したり、日本軍の慰安婦をテーマにした映画・ドラマ・ドキュメンタリー作品。
日本語版ウィキペディア記述への批判
佐藤由美子は、日本語版ウィキペディアの冒頭部分で「売春」という用語が用いられている点について、慰安婦が強制的に動員されたものではないという近年の日本の民族主義的主張に沿う形での表現である可能性を指摘している。また、ページ全体にわたって「売春」「強姦」「慰安婦」といった用語が区別なく使用されており、問題の本質を曖昧にしていると批判している[21][276]。
一方、同一テーマに関する英語版ウィキペディアでは、慰安婦を「sexual slavery(性奴隷)」と表現している[21]。
青山学院大学のチェルシー・センディ・シーダー教授は、慰安婦の強制動員や南京事件を否認する右翼的な修正主義的な歴史解釈が、歴史的な細部や証拠に対する一般的な無知を利用し、日本語版ウィキペディアを含む多くのオンライン空間で影響力を持っている一方で、英語圏の学術界ではこうした主張は全く支持を得ていないと指摘している[277]。