坂合部内親王
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薨伝によると、
とあるため、光仁天皇よりも年上であったことは確実である。
聖武朝の天平11年(739年)、无位から従四位下を授けられる[2]。
光仁朝の宝亀元年(770年)11月、衣縫内親王・難波内親王・能登内親王・弥努摩内親王とともに内親王となり、四品を授けられる[3]。
宝亀5年(774年)11月、光仁天皇は坂合部内親王の邸宅に行幸し、文室大市が従二位から正二位に昇叙し、内親王も三品を授けられている[4]。このことから、文室大市が天皇に扈従し、坂合部内親王第へ出かけたのか、あるいは林睦朗の説によると、内親王が大市の妻であった可能性が問われている[5]。翌日、大市の妾も外従五位下を授けられているため、大市が内親王宅で、妾を伴ない、奉仕したことは間違いない。
宝亀9年(778年)5月、薨去。壱志濃王が喪事を監護した。喪礼に用いるものはみな官から支給され、天皇はこのために朝を廃(や)めること(政務を休むこと)が3日間続いた、という[1]。
脚注
参考文献
- 宇治谷孟『続日本紀』(上巻)講談社学術文庫、1992年
- 宇治谷孟『続日本紀』(下巻)講談社学術文庫、1995年
- 『続日本紀』2・4・5 新日本古典文学大系13・15・16 岩波書店、1990年、1995年、1998年
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