文明元年(1469年)の『都賀庄寺庵帳』に「弐反 大 河原 吉(き)し寺(でら)」とあり、中世文書に「岸寺」とも表記される寺院があった。『神戸の町名』によれば帰化人系の吉士氏(きしし)と関係があるのではといわれ、「岸地」を「キシジ」と読み「岸地」の文字が当てられたという[3]。
旧字名の太田川というのは篠原村の西南に、後に鍛冶屋村に併合された大田村があってそこに流れていた細い清流であり、刀鍛冶に良好な水であったという[4]。
鍛冶屋という村の名は野鍛冶が住んでいたからだといい、江戸時代は刀だけでは生活できず、百姓道具も手がけたという[4]。鍛冶屋村は天領で、現・神戸市域内で初めてサツマイモが飢饉対策として幕府から奨励されて、栽培された土地であり、甘藷村と書いた記録も残るが[4]、これも鍛冶の「鋳物師(いもじ)」からイモ=甘藷になったのではと異説があり『灘区の町名』では鵜呑みにできないとしている[4]。