日割御子神社
熱田神宮の境内摂社となっている名神大社
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祭神
歴史
孝安天皇の治世に創建されたとする社伝があるが、実際の創建年は不詳。文献上は平安期から確認でき、『続日本後紀』承和2年(835年)12月条に高座結御子神社・孫若御子神社と並んで熱田大神の御児神の一つとして挙げられている。
尾張国 日割御子神 孫若御子神 高座結御子神 惣三前奉レ預二名神一 並熱田大神御児神也 — 『続日本後紀』承和二年十二月条
10世紀成立の『延喜式神名帳』には、尾張国愛智郡「名神大 日割御子神社」として記載がある。『延喜式神名帳』の訓が付されている写本では「ヒサキミコノ」と訓じている。平安末期成立の『尾張国内神名帳』熱田本に「正二位 日割名神」、国府宮本に「正二位上 日別名神」とあり、一部写本では「ヒワリ」と訓じている。鎌倉期には既に八剣宮の近くに位置していたらしく、文暦年間頃成立の『尾張親継申状案』断片には当社が八剣宮とともに火災に巻き込まれて炎上した記録が残っている[1]。
右件私領名田文書等、去年十二月廿八日未尅、自鎭皇門之」西夾火出來、暴風起巽之間、八劔宮拝殿・日張宮御殿炎上并」在家百餘宇燒亡之刻、今所注進之調度文書等併以所□」燒失也 — 『尾張親継申状案』断片(熱田神宮文書)
鎌倉期成立とされる『熱田宮秘釈見聞』は、当社の下には大明神が東夷を討った際に伊勢神宮から賜った御座の火打石があるとし、本地を地蔵菩薩としている[2]。
又五智織顯錦有、大宮辰巳角有、ソサノヲ尊持給、年上木本納給、大明神東夷討下給時、伊勢大神宮給御坐火打、日ハリノ宮御殿下有、抑此八頭八尾大地云者、熊野権現化身也、八頭八識也、十六目十六大井智恵之眼也、八尾八大童子也、劔者本寂光城坐五智中臺法界躰性劔也、大宮本地五智、八劔宮不動明王、高蔵毘沙門、日破宮地蔵井、氷上宮聖觀音、源大夫殿文殊、大福田虚空藏、記大夫殿十一面觀音、青衾千手觀音 — 『熱田宮秘釈見聞』
南北朝期成立の『神道集』も当社の本地を地蔵菩薩とし、三郎の御神であるとしている[3]。室町期成立の『熱田太神宮秘密百録』には「日破宮下伊勢太神宮日本武尊給火打在之」とあり、日本武尊が授かった火打石があるという『熱田宮秘釈見聞』と類似する伝を載せている[4]。
正応4年(1291年)と天文22年(1553年)に社殿を造営した記録が残る。江戸期には日破宮(にっぱきゅう)と称されており、八剣宮の東南の「御所町」と称する場所にあった。江戸期には貞享3年(1686年)と元文5年(1740年)に修造がなされたが、第二次世界大戦の際に焼失し、現在の本殿は戦後に再建されたものである[5]。
「ヒサキ」の語源については、海に突き出た熱田台地の先端を意味する「干崎」の意であるとする説があるが[5]、前述のように中世にはしばしば「ヒワリ」と訓じる例も散見され定かではない。
