上知我麻神社
熱田神宮の摂社
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祭神
歴史
社伝によれば、大化3年(647年)創建とされるが定かではない。江戸期以前は源太夫社と称され、1949年(昭和24年)の区画整理により移転するまで現在地よりやや南の市場町(現在の熱田区伝馬1丁目1-4付近)に位置していた。かつては「海神社」「大黒社」という摂社が存在していた。
旧社名の「源太夫」は人名と見られるが、平安期の『尾張国熱田太神宮縁起』には源太夫に関する記述は全く確認できない[1]。源太夫に関する言及が確認できるのは中世からで、その認識については各書様々である。鎌倉期成立とされる『熱田宮秘釈見聞』は、熱田神宮の摂社の一つとして源太夫社を挙げ、本地を文殊菩薩としている。南北朝期成立の『神道集』は、源太夫社の本地を文殊菩薩とした上で、熱田大明神が最初に天下った時に紀太夫(下知我麻神社の旧称)は宿を貸した人であるのに対し、源太夫は雑事を行なった人であるとしている。同時期の『崇光上皇院宣寫』(熱田神宮文書)には、尾張家仲という人物が禰宜職を安堵されたという記述がある。
大宮本地五智 八剣宮不動明王 高蔵毘沙門 日破宮地蔵菩薩 氷上宮聖観音 源大夫殿文殊 大福田虚空蔵 記大夫殿十一面観音 青衾千手観音 — 『熱田宮秘釈見聞』
後見源太夫殿文殊也、此第一記太夫殿本地彌勒也、此兄也、熱田大明神始天下時、記大夫殿宿借人也、源太夫殿雑事進人也 — 『神道集』第十一 熱田大明神事
熱田社惣惣校検校兼并験大夫祢宜職以下所帯等、奏聞之處、家仲當知行不可有相違由者、院御氣色如レ此、悉之、以狀、貞治六年十一月十四日 在判
美作權守 — 『崇光上皇院宣寫』
室町期の『兼邦百首哥抄』は源太夫は猿田彦であるという認識を示し、同じく室町期の『日本書紀聞書』や謡曲『源大夫』は源太夫を橘姫の父としている[1]。さらに屋代本『平家物語』剣巻では、源太夫を岩戸姫の父としている[1]。このうち「橘姫」や「岩戸姫」は明らかに宮簀媛をモチーフにしたものである[1]。
猿田彦の事。神宮にては興玉の神、山王にてはさうい、あつたにてはけん大夫、道祖神とも云り。 — 『兼邦百首哥抄』
尾張国熱田ノ源太夫ガムスメ橘姫ヲ召シ具セラム — 『日本書紀聞書』
尾張国ニ下テ、マツコノ島ト云所ニテ、源大夫ト云者ノ家ニ留マリ、源大夫カ最愛ノ姫アリ。岩戸姫ト云ヘリ。ミメ形吉カリケレハ、日本武尊是ヲ始メテアヒ給フ。一夜ノ契リ深クシテ志不浅。 — 屋代本『平家物語』剣巻
中世末成立とされる『尾張氏系図一本』(熱田如法院伝)には、「乎止与命 是源太夫也今按一奉号千竈下明神乎」とあり、源太夫は尾張国造の乎止与命と同一人物であると述べられている[2]。
江戸初期に成立した『信長公記』には、織田信長が桶狭間の戦いに際してこの神社の前で東を見て煙が上がっていることを知ったとの記述があり、この時点ではまだ「源大夫殿宮」と呼ばれていたことがわかる。
あつたまで、三里一時にかけさせら れ、辰の剋に源大夫殿宮のまへより東を御覧じ候へぱ、鷲津、丸根落去と覚しくて、煙上り候。 — 『信長公記』永禄3年5月19日条
江戸中期の『熱田旧記』は、当社を地主の神であるとし、地元の住民が税を納め、沿岸の地域からは様々な魚が献上されるとしている。二度の祭礼の際には知多郡寺本村と乙川村から銭六十貫文が奉納され、かつては雅楽を演奏する者も居たがいつしか途絶えてしまったとする。同じく江戸中期の『熱田本社末社神躰尊命記集説』は、当社を東海道の守護神であるとし、東国へと行き来する者は誰もがこの神社に立ち寄ると述べている。江戸後期の『尾張志』は「源太夫」という人物について不詳としつつも、かつて当社の禰宜を務めた人物名ではないかとする説に言及している。本殿は貞享3年(1686年)に大規模な修理が行われたが、宝暦2年(1752年)5月28日、宿場の火災の際に巻き込まれて炎上した。江戸期には磯部家が神主を務めていた。
上知我麻神社への比定
江戸中期、天野信景らにより『延喜式神名帳』の尾張国愛智郡「上知我麻神社」に比定され、定説となった。ただし天野の比定に先立って、延宝5年(1677年)に熱田神宮祠官が著した『熱田尊命記』に「上知我麻」の名が現れるため、江戸前期には当社が上知我麻神社であるという認識があったようである。「上知我麻神社」は、『尾張国内神名帳』熱田本に見える「正二位 千竈上名神」、国府宮本に見える「正二位上 千竈上名神」と同一である。平安期の『和名類聚抄』では尾張国愛智郡の郷として「千竈」「厚田」を別々に挙げているため、古代における「上知我麻神社」と「下知我麻神社」は熱田とは別の地である愛知郡千竈郷に所在していたと推定されている。この千竈郷の位置を巡っては江戸期の学者の間で議論となっており、『尾張志』などは「千竈」を塩竈と結び付けて名古屋市南区の星宮社に比定する説を述べていた。しかし近年見つかった鎌倉期の文献の記述や[注釈 1]、『倭名類聚抄』の郷の記載順序から、千竃郷を現在の名古屋市中村区南部から中川区北部に比定する説が有力になっている[3]。郷土史家の三渡俊一郎は「知我麻」は塩竃とは無関係で、庄内川流域のガマの植生に由来する地名ではないかとしている[3]。また、歴史学者の福岡猛志は「知我麻」は「千竈」の古表記で、好字二字令の影響で「千竃」という表記に変更されたのではないかと考察している。
上知我麻神社が熱田神宮の摂社となった時期については定かではないが、平安時代末期の『尾張国内神名帳』には既に熱田神宮周辺の他の摂社とともに纏めて記載されている。『尾張国地名考』は『長尾山東海寺之古記』を引用し、上知我麻神社は古は他所にあったが火災により焼失したため市場町の文殊堂に配祀したという古伝を紹介している。
