月光院

江戸時代の日本の女性。父は勝田玄哲(加賀藩士、浅草唯念寺の住職)、母は和田治左衛門の娘 From Wikipedia, the free encyclopedia

月光院(げっこういん / がっこういん[注釈 1]貞享2年(1685年)または元禄2年(1689年[2] - 宝暦2年9月19日1752年10月25日))は、江戸幕府の第6代将軍・徳川家宣側室で、第7代将軍・徳川家継の生母。名は喜世[1]または喜代[3](きよ)、輝子[1][4]本姓藤原氏[5]。また局としての名に左京の局(さきょうのつぼね)がある[1] 。家宣没後には月光院と称する[6]位階従三位従二位[6]

生涯

父は浅草唯念寺の塔頭林昌軒の住持を務めていた勝田著邑(法名玄哲)[2]、母は松平伊勢守の家臣和田治左衛門の娘とされる[6][3]。異説としては『兼山麗沢秘策』の小谷勉善書簡には「宇治茶師家来の娘」とあり、考証家の三田村鳶魚は典拠不明ながら京都で医者をしながら手習いの師匠をしていた松井文治という男が父親であるとしている[6]

徳川実紀』や『幕府祚胤伝』、『以貴小伝』では貞享2年(1685年)生まれ、『月光院殿御年譜』では元禄2年(1689年)に生まれたとされる[2] 。『月光院殿御年譜』の聞書[注釈 2]によれば、月光院には生まれたときから「貴徴」があり、父の著邑は「俳優の業」を習わせて大名のもとに仕えさせようとしていたという[9]松尾美恵子は当時大名家に置くことが流行していた踊り子だったのではないかとしている[9]。初め豊岡藩京極家、次に新庄藩戸田家に出仕した[10]。そして元禄14年(1704年)には4代将軍徳川家綱乳母矢島局の養子であった矢島次太夫義充の娘分として、甲府藩主徳川綱豊(後に家宣)の桜田御殿(桜田御用屋敷)に出仕した[11]。矢島次太夫の娘は唯念寺に嫁いでおり、月光院との縁もそこからあったと見られる[6]。やがて喜世は綱豊から寵愛を受ける。その年の12月には5代将軍徳川綱吉の養嗣に綱豊が迎えられ、江戸城西の丸に入ることになり、正室近衛熙子や喜世らの側室も西の丸に同行した。

宝永6年(1709年)には綱豊が家宣となり6代将軍に就任する。同年7月、喜世は男児(家宣の四男)を出産、鍋松と名付けられた。後の家継である。喜世も左京の局と呼ばれるようになった。また、右近の方(お古牟の方)が「一のお部屋様」、新典侍(お須免の方)が「二のお部屋様」と称されたのにならい、左京の方は「三のお部屋様」とも呼ばれた。この時、家宣には大五郎(家宣の三男)という側室の須免が産んだ子がいたが、宝永7年(1710年)に大五郎が3歳で急逝した。通例であれば正室である熙子は跡取りとなる鍋松を養子とするが、養子となっていた子らが育たなかったため、家宣夫妻の相談で養子とはされなかった[12]

その2年後の正徳2年(1712年)10月に家宣が死去し、喜世は月光院と号した。大奥での順位は、先代御台所であり従一位の天英院(近衛熙子)が首座となり、月光院は次席となる[13]。翌正徳3年(1713年)、家継に将軍宣下。11月13日に月光院は従三位の位を賜った[3]。『兼山麗沢秘策』の正徳三年閏五月九日の記事には、大奥で月光院の威光が増し、天英院は頼りにできる人がいないため京都に帰りたいと老中間部詮房に告げたという記述がある[12]。詮房は天英院を諌め、嫡母[注釈 3]として一生養護していくべきであると説いたという[12]

正徳4年(1714年)、月光院付きの御年寄・江島が家宣墓参り代参の帰りに歌舞伎役者生島新五郎を宴会に招いて大奥門限に遅れ、これから江島生島事件が発生、江島は失脚・遠島処分となった。この事件は天英院と月光院の対立や、月光院派である間部詮房を追い落とそうとする幕閣内の権力闘争であるという見方が小説などで語られている[14]。一方で『兼山麗沢秘策』所収の室鳩巣書簡では、江島らの取り調べを命じたのは月光院と詮房であるとされており、また江島への厳罰を主張したのは詮房であるとされている[14]。月光院は江島の減刑を嘆願し、高遠藩内藤氏へのお預けに変更されている[15]

享保元年(1716年)4月、家継が没した。その後の8代将軍には、家宣の遺言ということもあり、紀州徳川家から徳川吉宗が迎えられた。月光院は落飾して大奥を離れた。城内で一万坪の敷地に吹上御殿が建造され、9月にそこに移った[16]。年間8600両、米1600俵の手当が贈られた[16][17]。『兼山麗沢秘策』の小谷勉善書簡には、家継没後の記述で月光院に「奢り」があり、天英院と「御不和」であった旨が記されている[18]

吉宗は度々月光院の元を訪れ、年始の挨拶では長時間にわたって会話をしていた[19]大御所時代では暗くなる頃まで話していたという[16]。一方で将軍家重は無口で、小用で席を外すことも多く、帰りも早かったという[16]

宝暦2年(1752年)に68歳で没する。法名は月光院理誉清玉智天大禅定尼。墓所は増上寺。また林昌軒の後身である林柔寺には位牌が祀られている。文政11年(1828年)には従二位追贈されている[6]

埋葬された増上寺で徳川将軍家の墓地が改葬された際に、遺骨の調査を担当した鈴木尚が中心となって編纂した『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』によれば、血液型はA型で、四肢骨から推定した身長は144.4センチメートルである。この鑑定によって、当時としては目元がかなりぱっちりとしていたこともわかっている。[要出典]

人物

『徳川実紀』では、貞淑で慎ましく、学問好きであり、家継の養育にも熱心な女性だったと記されている[20][21][22]。読書にも熱心で、四書や『古文真宝』を側から離さず、『徒然草』『吉野拾遺』を好み、四書や『枕草子』はその一節を口ずさむこともあったという[21][23]国学賀茂真淵とも対面して対話し、『賀茂真淵応要稿抄』にその問答が収められている[24]書道では尊円法親王の筆跡(尊円流)を学んでいた[21]仏教神道にも深く帰依し、特に真言宗を学んで自ら梵字を書くこともできたという[25]。また楊弓双六将棋といった遊戯も得意であったという[21]。『月光院殿御年譜』の聞書では、晩年になっても三絃に合わせて舞うことがあり、その技は名手の域を越えていたとされる[9]。また吹上御殿の頃には口数は少なく、家継時代の事は特に話さなかったが、桜田御用屋敷時代のことは口にすることもあったという[26]

特に和歌を得意としており、享保19年ごろから冷泉為久の指導を受けていた[21][4]。没後には為久の子である冷泉為村に今まで詠んだ歌を送り、為村はこのうち300首を選んで歌集『車玉集』(『月光院集』 、『月光院様御詠草』とも)としてまとめた[24]桜町天皇の時代には勅撰集を作成するという動きがあり、『車玉集』の端書には、月光院を「三位尼」として記すべしという天皇の言葉があったと記されている[27]。『車玉集』には月光院自らが自信作とした28の歌があり、勅撰集を作成する際にはこの歌から選んでほしいという希望があったという[28]。また写本を作った後に自筆の詠草を焼いて、その灰で月光菩薩像を作成してほしいとしている[4]

また『徳川実紀』では、大奥の規律を守ることにも熱心であったとされる[29]。侍女が上方風の振る舞いをすることも嫌い、吹上御殿の侍女は化粧も薄く、振る舞いも違っていたという[25]。また『兼山麗沢秘策』の室鳩巣書状によると、父の著邑には自分のつてを頼ろうとする新しい客人には会わないようにとたびたび伝えており、鳩巣は外戚が勢を振るうことを戒めた家宣の遺徳によるものだとしている[30]

一方で、太宰春台が著したとされる『三王外記』では、全く異なる悪評が書かれている。「章王(家継)幼く、月光夫人の所に在り。即ち昼夜無く詮房独り之に従う、因りて夫人と通ず」と、老中間部詮房と密通していたとされている[31]。また病弱な家継を伴って詮房らと中庭で酒宴を開き、家継が風邪をひいても治りきらないうちにまた中庭に連れ出し、医者の山田宗円は諫言して役目を引いたとされる[32]。さらに家継が早逝したのは天命であるが、それを早めたのは月光院と詮房であるとしている[32]。ただし、『三王外記』は興味本位の風説を多く収録されており、信頼しがたい著作であると評価されている[21]。また尾張藩朝日重章の日記『鸚鵡籠中記』では、江島事件の際に月光院も江島と同類で不行跡があり、そのため厳しい取り調べが行われたという記述があり、月光院の素行を疑う噂が存在していた[18]。 『月光院殿御年譜』の聞書には、「口さかない世の噂にどれだけ傷つかれたであろう」という侍女の思いが記されている[33]

瑤泉院との関係

『兼山麗沢秘策』の小谷勉善書簡には、月光院が赤穂藩浅野長矩夫人瑤泉院に、「軽き奉公」していたという記述がある[34]。その後赤穂藩の改易に伴い、瑤泉院の老女を叔母、富森助右衛門をいとことして家宣のもとに奉公したとしている[34]。その後も月光院は旧恩を忘れず、正徳4年(1714年)に瑤泉院が没するまで、進物や手紙のやり取りをしていたとされる[34]。また『月光院殿御年譜』には、家宣が赤穂浪士の助命嘆願を行ったと見られる記述があり、その背後には月光院の存在があったと匂わせる記述がある[26]。また月光院が赤穂浪士の切腹を残念がっており、家宣が度々助命嘆願を行っていたという記述や、吹上御殿には赤穂浪士の関係者の女性が出入りしていたという記述もある[26]

ただし、『月光院殿御年譜』やそれを参考としたと見られる『徳川実紀』や[26]、『柳営婦女伝系』、『幕府祚胤伝』、『以貴小伝』には赤穂藩に仕えたという話は記されていない[35]。一方で『柳営婦女伝系』には、月光院の姉妹が赤穂浅野家に仕えていたという記述がある[26]

1940年から初演となった真山青果の戯曲『元禄忠臣蔵』の第5幕「御浜御殿綱豊卿」には、甲府屋敷に仕える「お喜世」が旧恩のある浅野家再興に関わるという場面がある[32]。また諸田玲子の小説『四十八人目の忠臣』は、磯貝十郎左衛門の恋人であった「おきよ」が討ち入りと浅野家再興のため、綱豊の側室となるという物語である[32]。諸田は月光院と赤穂浅野家のつながりは、ゆかりの寺の逸話や進物のやりとり、藩の分限帳の名などから「荒唐無稽な話とも思えない」としている[32]

一族

生家の勝田家は『寛政重修諸家譜』によれば、元々秦氏を称していたが、勝田能登守祐清の代に足利直義の命で藤原氏を称するようになったとされる[3]。祖父の市郎左衛門清崇は加賀藩前田利常に仕えていたが、浪人となったとされる[3]。清崇には男子が二人おり、兄の宗信(寿迪)は医者であった[3]。弟の著邑は佐藤治部右衛門の名で加賀藩に仕えていたが、浪人した後に唯念寺塔頭の住持となったという[2] 。正徳2年に隠居料として二百人扶持が与えられている[6]

月光院が甲府藩に奉公した際に義理の父となった矢島次大夫は、内藤氏から典愛を婿養子として迎えていたが、実子が生まれたために離縁していた[6]。形式的には典愛は月光院の兄となり、宝永5年(1708年)12月19日には「勝田典愛」として召し出され、西の丸桐の間番を命じられ、廩米三百俵を賜った[6]。宝永6年(1709年)には1000石の知行取として旗本寄合席に列し、正徳2年には3000石に加増され[6]、月光院の願いで宗信の養子となった[10]。『寛政重修諸家譜』では月光院も宗信の子扱いで表記されている[3]

また著邑にはもう一人娘がおり、松平淡路守家臣の中村正道の子で柳生新陰流の剣術家元邑を婿として家を継がせた[10]。元邑は仕官しなかったが、正徳2年にはその子の元著に1000石、元溥に500石が与えられた[10]。享保18年(1733年)に元著が没すると元溥がその養子となり、あわせて1500石を知行した[10][36]。元溥は『月光院殿御年譜』の聞書によれば文才があり、月光院とはいつも書物の話をしていたが、家宣の遺命によって役職につくことはなかったという[10]

関連作品

歌舞伎
小説
映画
テレビドラマ
テレビ番組

脚注

参考文献

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