東海林さだお
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しょうじ さだお 東海林 さだお | |
|---|---|
| 本名 | 庄司 禎雄[1] |
| 生誕 |
1937年10月30日[1] |
| 死没 |
2026年4月5日(88歳没) |
| 職業 | 漫画家、エッセイスト |
| 称号 |
紫綬褒章 旭日小綬章 |
| 活動期間 | 1967年 - 2026年 |
| ジャンル | 4コマ漫画他 |
| 代表作 | アサッテ君他 |
| 受賞 |
第16回文藝春秋漫画賞 第11回講談社エッセイ賞 第45回菊池寛賞 第30回日本漫画家協会賞大賞 |
東海林 さだお(しょうじ さだお、男性、1937年10月30日[1] - 2026年4月5日[4][3])は、日本の漫画家、エッセイスト。本名は庄司 禎雄[1](読み同じ)。1974年6月16日から2014年12月31日にかけて毎日新聞朝刊に13,749回連載した4コマ漫画の『アサッテ君』で、一般全国紙の連載漫画の最多掲載記録を作った[注 1]。他の漫画・エッセイの連載においても、ほとんどが40年超のロングランとなっている。
受賞歴
東海林は1937年10月30日、東京府東京市杉並区高円寺南[2]で生まれた。父は小西六(現在のコニカミノルタ)の社員だった[5]。小学生時代に戦火を避け、父以外の家族で山梨県大月市に疎開[5]。終戦後も東京には戻らず、母方の実家のある栃木県那須郡武茂村(のちの馬頭町)に移り、中学2年時まで過ごす[2][5][6]。このころに野球、漫画、絵物語に親しみ、漫画家を将来の目標に定める[5][7]。
東京都立立川高等学校卒業[2]。現役で早稲田大学政経学部および慶應義塾大学法学部を受験し失敗[5][8]。1浪後、再び早大と慶大に出願。計9学部を受験し、そのうち早大第一文学部美術史科を受験する予定だったが隣の窓口にロシア文学科があり、「女のコとつき合うとき、美術史よりも露文のほうがモテるのではなかろうか[8]」という理由で急に出願先を変更。そのロシア文学科に合格し、入学を果たした。
大学2年時、創設されたばかりの早稲田大学漫画研究会に入部し、1年上級のしとうきねおと園山俊二、1年下級で同い年の福地泡介らと出会う[5][9]。福地泡介によれば[10]、東海林だけは講義にほとんど出ず、当時八王子市に移り酒販店を経営していた実家[5][11]からの通学で疲れ切り、そのまま大学近くの福地の下宿部屋に直行してそこで眠り込むことが多かったという。福地は、東海林が「実家で売れ残って変色した日本酒を、世話になっている礼のつもりかよく持ってきた」と回想している。東海林はこのころ、「一生懸命ユーモアを探してた」といい、太宰治、木山捷平、鹿島孝二、北杜夫らの小説や、5代目古今亭志ん生の落語に熱中した[5]。
1959年に東海林・福地ほか、他校の学生漫画家を加えた4人で「グループ'59」を結成し、一般誌に合作漫画の売り込みを行ったが、東海林の採用は『美しい十代』(学習研究社)における1ページ作品数回にとどまるなど、グループ活動はうまくいかず、数か月で解散に追い込まれている[5][12]。
早大中退後、東海林は『週刊漫画サンデー』編集部のアルバイト[5]や黄小娥のアシスタント[5]、実家の手伝い[11]などの傍ら、1964年に結婚[5]。その後、プロとして成功した福地の新居をたずねた折り、玄関先に置かれた牛乳瓶を見て「漫画を描いて牛乳をとろう[13]」と思い立ち、原稿の持ち込み活動を開始。1967年、『週刊漫画TIMES』の『新漫画文学全集』で連載デビューする。
1968年[5]より漫画の傍ら、イラスト付きのエッセイの執筆でも活動。エッセイ集の刊行冊数は漫画作品の単行本を上回っている。特に1970年代以降、マンガは大部分が新聞雑誌掲載のみで単行本化されていないのに対しエッセイはほぼ全部が単行本化、文庫本化されている。
東京ドームを借りて試合をするほどの草野球愛好者でもある。ポジションは内野手[5]。仕事に対するスタンスについても東海林は、「毎回いいものが書けるわけがない。野球と同じで三割打てればいいんだ」「プロだから残り七回全部三振はダメだけど、バントとかポテンヒットとかで誤魔化しながらね」と、野球にからめた比喩を語っている[14]。
「ビールの最良の『あて』は串カツである」と多くのエッセイで記述している。
2015年に見つかった肝臓癌を手術で治し、その体験を2017年にエッセイ『ガン入院オロオロ日記』(文藝春秋社)として出版した。酒は医師に止められているが、最近は「ノンアルコールビールがおいしくなった」という[15]。
作風・評価
取材活動・アイデア
- 「僕の商売道具というのはユーモアです[14]」「役に立たないとか、非建設的ということこそ大切なんじゃないか[5]」と自負している。
- 東海林は平日は仕事場としている東京・西荻窪のマンションに泊まり込み、週末のたびに八王子市の自宅に帰る生活を続けている[5]。東海林はサラリーマンを主役にした漫画作品を多数描いているが、サラリーマンとしての勤務経験がないため、自宅と仕事場を行き来する電車の中での人物観察を作品に生かし、経験不足をカバーしているという。
- アイデアの書き留めや取材のために、ケント紙をノート状に製本したものを文具店に特注している[5][17]。
- 普段から取材メモとともに、「顔だけファイル[17]」と称する、似顔絵や「いかにも実在しそうな一般人の顔」のストックノートをつけており、漫画やエッセイに活用しているという。
- エッセイの対象が食べ物、生活観察、旅行などが中心なのに対し、漫画では社会的事件、政治問題など時事問題を頻繁に取り上げており、はっきりとジャンルの線引きがなされている。音楽についてははっきり「関心がない[要出典]」と述べている。
- エッセイのイラストならびに漫画の中で、東海林本人が出てくることはめったにない。自画像については『ショージ君の旅行鞄』等に掲載されたことがあるが、極めて少ない。
漫画
- 力をこめずに急いで書いたようなタッチが特徴。枠線を除いて、効果線や建物の描写において定規が用いられた形跡はほとんど見られない。スクリーントーンもほとんど用いない。
- ふきだしは楕円形ではなく、指示部の両端が大きくくぼんだ形状をした多角形で描く。ふきだし内の文字は版下を用いず、ペンによる手書きのままのことがほとんどである。
- 「グヤジー」「ユルジデ」など、カタカナや濁音を活用したセリフ回しを多用する。
- 山藤章二は東海林の画風を、読者との距離を縮めるためにあえて技巧を捨てたと捉え、「ミスター・ヘタウマ」と評している[18]。
- 平凡社『マイペディア』においては「ナンセンスを交えてサラリーマンの悲哀を描いた[1]」と評され、講談社『日本人名大辞典』においては「サラリーマンのペーソスをえがいて人気を博す[1]」と評されている。東海林はサラリーマン漫画において「役職では計れない人間の本質を描いている[要出典]」とコメントしている。
- ペン入れ中、仕事場のテレビをつけっぱなしにし、次作以降のアイデアに備えている[5][19]。
エッセイ
- 東海林は日本におけるユーモアエッセイの一人横綱的存在とされ、擬声語の多用や、句点のたびに改行を重ねるなど軽薄でスムーズな感じを抱かせる独特な文体(昭和軽薄体)が知られる。この文体を使う理由として、東海林は「エッセイに論理はあまりいらないんじゃないか。論理を繋げていくより、漢詩みたいにいいリズムがあればそれでいいような気がしてる[14]」と語っている。
- エッセイでは、旅行記、体験記を除いては仕事場での泊まり込み生活(自炊、外食、買い物など)が中心に描かれるため、一見独身生活者風である。家族(妻、子)は、ごく初期のエッセイに娘の幼い頃が描かれたほかはあまり登場しない。書かれる対象は、食を中心とした日常生活の些事が殆どで、まれに旅行、スポーツ観戦(初期には雑誌側が用意した体験記)が混ざる程度であり、政治はもちろん社会、映画、音楽芸能などを論じることはまずない。読書家だと言われるが書評もほとんど書かない。
- 高島俊男も東海林の文章を「二十世紀日本の文章の天才をたった一人あげろ、と言われたらわたくしは、『太宰治』と答えるに躊躇しない者であるが、それにつぐのはあるいは東海林さだおではないか、と思っている[20]」と、激賞している。東海林と対談集の共著を上梓している椎名誠も、「丸かじりシリーズ」を高く評価している。
- かつて、小説家の金井美恵子も「小林秀雄や朝日新聞にはせこい繊細さがあり、東海林さだおには繊細なせこさがある、両者は天と地ほどちがう」といったことを発言した。