松平家広 (形原松平家)
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3代当主・松平親忠の子として誕生。幼名は佐太郎、又七郎。
父・親忠は松平清康に従っていたが、清康が殺害された森山崩れ(天文4年(1535年))後の織田信秀の安祥城[注 3]攻め(天文9年(1540年))や小豆坂の戦い(天文11年(1542年))の際の動向は明らかでない。
通説では、妻の実家である水野氏が、今川氏から離反し織田氏に接近すると、主君の松平広忠と同様に妻を離縁したとされてきた。だが、於丈の方との子である家忠の誕生が、広忠の離縁よりも後の出来事であることから、水野氏との関係を維持して同氏や松平信孝[注 4]と結んで広忠に叛旗を翻していた可能性がある。また、天文16年(1547年)には今川義元が形原を奥平貞友に与えており、織田方に属して広忠と対立していた家広が今川氏に形原を追われた可能性を示唆している。もっとも、弘治年間には家広は形原に復帰して今川氏に従っている[1]。
桶狭間の戦い後、松平氏の当主である松平元康(後の徳川家康)が今川氏真から離反するとこれに従うが、深溝松平家の松平伊忠・康定との所領争いで不利な裁定が下されたことに不満を持った家広は永禄4年(1561年)に今川氏に降伏して離反してしまう。もっとも、今度は同じ今川陣営に属した幡豆小笠原氏の小笠原広重らとの所領争いから同年のうちに再び元康に帰参している[2]。
