松平忠正
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3代当主・松平家次の子として誕生[2][3]。桜井松平家は祖の信定の代から安祥松平家に敵対的であり、忠正も当初は三河一向一揆では松平家康(徳川家康)と戦うも敗れ、以後は家康に仕えた。
永禄11年(1568年)の遠江国掛川城攻略、元亀元年(1570年)の姉川の戦いに従軍した。
元亀4年(1573年)1月からの野田城の戦いでは、野田城主・菅沼定盈と共に籠城するが、水の手を断たれ、定盈とともに武田方の捕虜となった[2](『寛政譜』によれば、定盈・忠正の命と引き換えに兵卒を助命する交渉を行おうとしたが、信玄に捕らえられたという[2])。その後、徳川方に出されていた山家三方衆の人質と交換され[2]、菅沼定盈と共に帰参した[2]。天正3年(1575年)の長篠の合戦では武田の軍兵若干を討ち取り、織田信長の感賞を受けた[2]。
天正5年(1577年)閏7月20日に死去した[2]。享年34[2]。
子の亀千代(松平家広)が幼少であったため[4]、弟の松平忠吉が家督を継承した。なお、忠吉も天正10年(1582年)に若くして死去しており[4]、家督を継いだ家広を弟の松平忠広が後見した[4]。