片岡直温
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| 片岡 直温 かたおか なおはる | |
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| 生年月日 |
1859年10月13日 (安政6年9月18日) |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1934年5月21日(74歳没) |
| 死没地 |
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| 前職 |
警察官僚 実業家 |
| 所属政党 |
(自由党→) (国民協会→) (山下倶楽部→) (実業同士倶楽部→) (立憲国民党→) (立憲同志会→) (憲政会→) 同成会 |
| 称号 |
正四位 勲一等瑞宝章 |
| 配偶者 | 片岡祝子 |
| 親族 |
片岡直輝(兄) 片岡安(娘婿) |
| 内閣 | 第1次若槻内閣 |
| 在任期間 | 1926年9月14日 - 1927年4月20日 |
| 内閣 |
加藤高明内閣 第1次若槻内閣 |
| 在任期間 | 1925年8月2日 - 1926年9月14日 |
| 在任期間 | 1930年4月11日 - 1934年5月21日 |
| 当選回数 | 8回 |
| 在任期間 |
1892年2月15日 - 1893年6月9日 1898年3月15日 - 1898年6月10日 1908年5月15日 - 1920年2月26日 1924年5月10日 - 1930年1月21日 |
片岡 直温(かたおか なおはる、1859年10月13日〈安政6年9月18日〉- 1934年〈昭和9年〉5月21日[1])は、明治から昭和初期の実業家、政治家。土佐国高岡郡半山郷永野村(現在の高知県津野町永野[2])出身。片岡直輝の弟で、片岡安は娘婿。
高知県の下級士族・片岡孫五郎の次男として生まれ、高知の陶治学校を卒業したが、貧しい家計を助けるために古着の行商やお寺の味噌摺坊主に入り込み死に物狂いで苦学を重ね三等訓導の資格をとって小学校の教員となった。 小学校教員、郡書記、滋賀県警部長を経て1880年(明治13年)に上京、伊藤博文に知られその縁で内務省に入省。1889年(明治32年)に官僚を辞し、弘世助三郎に日本生命保険会社の実務を任せられ、創立時に副社長に就任。日本生命初代社長鴻池善右衛門に続き、1903年(明治36年)より1919年(大正9年)までの17年に渡って2代目社長を務めた。1915年(大正4年)、都ホテルの社長に就任。共同銀行、関西鉄道などでも活躍した。
政界にも地歩を築き、1893年(明治26年)に衆議院議員に選出。以降当選8回を数える。この間に桂太郎の新党構想に関与して所属の立憲国民党の分裂を引き起こして桂新党(立憲同志会)に参加、後に後身の憲政会総務を務める。第2次加藤高明内閣にて、商工大臣として初入閣。第1次若槻内閣で大蔵大臣を務める。
1927年(昭和2年)3月14日の衆議院予算委員会で、大蔵大臣として「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と実際には破綻していなかったにもかかわらず失言する。これを機に取り付け騒ぎが発生、これが昭和金融恐慌の引き金となり、若槻内閣は総辞職に追い込まれる。
その後、1930年(昭和5年)4月11日に貴族院勅選議員に勅任し[3]、同成会に所属して1934年(昭和9年)に死去するまで在任した[1][4]。
伊藤との面会
明治14年(1881年)6月、当時高知県知事(旧称・県令)であった田辺良顕が地方官官制改正に伴い就任すると、県内の行政人事をめぐって自由派と国民派の対立が激化した。田辺は管内の人事を一新し、各郡長や幹部をすべて自由党系の人物から登用し、国民派と見なされる者を悉く罷免したため、県民有志の間で強い反発が生じた[5]。
この混乱のなかで、元高岡郡長・南亮輔が東京に赴き佐々木高行や土方久元に訴えたが、いずれも「同情による打算的訴え」とみなされて取り合われなかった。そこで県内有志は「政府の手によって改革の道を開くほかない」と結論し、東京への陳情代表を選出することとなった。
選ばれたのが、当時二十歳を越したばかりの片岡直温であった。片岡は土佐勤王党の流れを汲む国民派の若手として知られ、すでに明治13年(1880年)には高岡郡半山郷十三箇村総合村会の議員および議長に選ばれていた。もっとも、有志の中には「若すぎる」との懸念もあり、年長者谷脇修彝(当時56歳)が同行することとなった[6]。
同年6月14日、両名は上京し、参議伊藤博文邸を訪ねた。しかし当初は幾度訪れても面会が許されず、執事を通じて追い返される日々が続いた。ついに片岡は筆を取り、「拙者どもは一身一家の私情を携えて推参するものではない。県政の乱れを黙認するに忍びず、多数の有志を代表して上京したものである」との文言を名刺の裏に書き付け、日時を指定して執事に託した[7]。
数日後、ようやく面会の機会が与えられた。邸内の豪華な絨毯や家具を見た片岡は「人民の血を絞ってかような贅沢をしている」と反感を覚えたと記している。伊藤が現れ、団扇を手に椅子に腰かけたまま軽く目礼するのみで、沈黙を保った。片岡が一時間あまり田辺県令の横暴を訴えると、伊藤は突如として応答し、陳情の要点をすべて把握した上で、一つひとつを論破した [8]。
片岡はその鋭さに「まるで獅子が兎を狩るに全力を用いるよう」と驚嘆しており、のちに「伊藤の頭脳がこれほど抜きんでているとは予期しなかった」と述懐している。激論は三時間に及び、伊藤は徹頭徹尾、陳情を粉砕した[9]。
議論の終盤、片岡が「もはや何も申し上げません」と退こうとした際、傍らに控えていた紳士が口を開いた。その人物は内務卿の松方正義であり、「参議との応答はつぶさに聞いたが、そなたの言い分も筋が通っておる」と穏やかに評した。松方は伊藤の見解をも尊重し、「もはや食事時でもあろう、ご飯を召し上がって帰られよ」と柔らかく場を収めた[10]。
後日、伊藤はこの「土佐の若者」が気にかかり、佐々木高行・土方久元に書簡を送り、さらに自ら土方邸を訪ねて「田辺が国民派に人材がないというのは無理がある。彼(片岡)のような若者がいるではないか」と語ったという。片岡はこの言葉を聞き、「胸中の鬱憤がすっかり晴れた」と記している[11]。
その他
- 片岡は第1回衆議院議員総選挙から第17回衆議院議員総選挙まで、途中3回立候補しなかったのを除いて、全部で14回立候補をしているが、自らの意志で8回も立候補をする選挙区を変え、成績は8勝6敗であった[12]。立候補した選挙区の内訳は高知2区(4回)、大阪2区(2回)、三重郡部区(1回)、高知郡部区(1回)、京都郡部区(2回)、高知4区(1回)、京都2区(1回)、京都1区(1回)である[13]。片岡は高知県出身で一時官吏をしていたが、その後に大阪に本社を置く日本生命の役員や三重県四日市市に本社のある関西鉄道の役員や京都の都ホテルの社長を歴任しており、選挙区を頻繁に変えた理由には仕事の都合があったとされている[13]。