河北通
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競馬学校は7期生として郷原洋司・四位洋文・土谷智紀・徳吉孝士・橋本広喜・日吉正和・藤田伸二・宝来城多郎・水野貴広・安田康彦と同期になり、1991年に栗東・小野幸治厩舎からデビュー。
1年目の同年は3月2日の中京第4競走3歳新馬・フォースシクレノンで初騎乗を果たすが、2番人気で10着に終わった[1]。5月5日の京都第12競走4歳以上900万下・スリーリリックで初勝利[2]を挙げ、12月1日の中京では初の新馬勝ちと初の1日2勝[3]を記録するなど、初年度は9勝[4]をマーク。
2年目の1992年には8月29日・30日の函館で初の2日連続勝利[3]、9月6日の函館では初の特別勝ち[5]を挙げるなど、初の2桁で自己最多の26勝[4]をマークし、同年から1997年まで5年連続2桁勝利[4]を記録。
1992年には中京記念・ブライアンカーチス(13頭中11着)で重賞初騎乗[6]を果たし、3年目の1993年には8月15日の函館第5競走3歳新馬・ロングユニコーンでナリタブライアンを負かす[7] [8]。
1993年10月18日には村本善之・松永昌博・田島裕和・藤田と共に福山・中央競馬騎手招待へ参戦し[9]、第6競走指定交流C2(10)・サンケイホーマ(10頭中2着)で地方初騎乗を果たす[10] [11]。
1993年のスプリンターズステークス・ロングキャロット(14頭中13着)でGI初騎乗[6]も果たし、勝ったサクラバクシンオーについて「あの馬は体つきがまるで違っていて。ムキムキの筋肉質で、1頭だけボディービルダーが交じっているようだった。」と後に振り返っている[8]。
1994年からはステートジャガー産駒メルシーステージとのコンビで活躍し、こぶし賞(500万下)でエイシンワシントン、バイオレットステークスでフジノマッケンオーを相手に逃げ切ると、重賞初挑戦のアーリントンカップではエイシンワシントンをアタマ差退けて[12]人馬共に重賞初勝利を挙げる[13] [6]。毎日杯ではタイキブリザードの追い込みをクビ差抑え、レコードタイムで4連勝すると共に重賞2連勝を決める[14] [13]。重賞を連勝した頃には父・ステートジャガーの行方が話題になり、「廃用され行方不明」と信じられていたところに愛知県一宮市の乗馬クラブで去勢されずに生存していることが判明し、メルシーステージの活躍をきっかけに種牡馬として再び供用されることとなった[15]。4番人気に支持された皐月賞でクラシック初騎乗[16]を果たし、5F58秒8というハイペースを刻んで逃げの手に出たサクラエイコウオーの3番手に付ける積極策[17]に打って出たが、ナリタブライアンの13着[13]に終わる。初騎乗の東京優駿は序盤先頭も17着[16] [13]、メンバー中唯一の4歳馬として挑戦した天皇賞(秋)では逃げて10着[18]に終わった。
1995年からは父サッカーボーイ・母父ナオキのサウンドバリヤーとのコンビで活躍し[19]、京都4歳特別では3着[19]に入り、愛知杯では4コーナーを回って既に前を捕らえる位置取りから古豪ヤマニンフォックスを抑えて勝利[20]。1997年の新潟大賞典ではメンバー中最速上がり34秒3の末脚を繰り出し、マイヨジョンヌ・アロハドリームの3着に入った[21]。
1996年にはメルシーステージで中日新聞杯を2着に逃げ粘り[13]、3月16日には中京第10競走伊勢特別・マイハーティーズで通算100勝[22]を達成。
1997年は中京記念をセイントリファールでアロハドリームの2着[23]、毎日杯では未勝利からの連闘で14頭中12番人気のシルクジャスティスで最後方を進み、直線一気に馬群を抜き去って3着に持ってきた[24]。皐月賞からはシルクジャスティスと同じ大久保正陽厩舎のエリモダンディーとコンビを組むが、11番人気サニーブライアンと大西直宏のスローな先行逃げ戦法に嵌まった形となり、終始後方で直線伸びたものの7着に終わった[24]。続く東京優駿ではサニーブライアンよりも評価の高い4番人気に支持されたが、サニーブライアンと大西が淡々とスローで逃げる展開を最後方から進み、シルクジャスティスと共に上がり3ハロン34秒2で追った[24]。結果はメジロブライトにクビ差迫り、ランニングゲイル・エアガッツ・マチカネフクキタル・サイレンススズカに先着の4着[25]と健闘。
1997年はメガミゲランで8月3日の小倉第11競走北九州短距離ステークス、11月1日の京都第10競走アンドロメダステークスを共に逃げ切り、OP特別2勝[26]に導く[27]。重賞勝ちは無かったが、スギノハヤカゼ・エイシンバーリン・フラワーパークら短距離の一線級を相手に戦い[26]、CBC賞ではヒシアケボノ・シンコウフォレスト・マサラッキに先着の5着[28]に入った。
1998年からは1桁台の勝利が続くが[4]、2003年9月24日の門別第10競走ハスカップ特別・フジタカモニュマンで地方初勝利[11]を挙げる。
2004年にはメガミゲランの初年度産駒チリエージェ[26]でセントウルステークス5着[29]としたほか、2006年3月18日の中京第3競走3歳未勝利・ロングエンパイヤで師匠である小野に調教師通算400勝をもたらし[30]、自身も2007年7月22日の小倉第2競走3歳未勝利・シゲルダンヤバードで通算200勝[31]を達成[32]。
2007年はロングプライドとのコンビで活躍し、3月11日の中京第9競走沈丁花賞では後方追走から捲り気味に進出し、4角では3番手まで上がると、連闘ながら2着に2馬身差付けて快勝[33]。4月28日の京都第10競走端午ステークスでは出遅れて後方2番手追走から徐々に進出し、残り200mあたりで先頭に立つと後続を突き放し、最後は2着に7馬身差付けて圧巻の3連勝を飾った[34]。
かねてより左肩に脱臼癖が付いていて、本人曰く「くしゃみをしただけでも肩が外れるほど」であった。2008年には左肩の手術のため、10月5日の札幌での騎乗を最後[35]に長期療養に入った。手術は5人ぐらいの医者が立会いの下、骨を削って別の個所に埋め込みピンで固定するという大掛かりなものとなった[36]。その後はリハビリを経て、2009年1月24日の中京第7競走4歳以上500万下・スリーコンコルド(12頭中12着)で騎乗を再開するが[35]、5月3日の京都第9競走上賀茂ステークス・セフティーステージ(16頭中10着)を最後に騎乗が無くなる[37]。小原義之と共に、同年12月20日をもって現役を引退[38] [39]。
2008年7月27日の小倉第9競走天草特別・セフティーローレルが最後の勝利[31]となった。
引退後は小野幸治厩舎の調教助手[38] [39]に転身し、小野の定年後は松下武士厩舎[40]に移籍して、レシステンシアを担当[8] [41]。