福永洋一記念

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開催国 日本の旗 日本
競馬場 高知競馬場
第1回施行日 2010年5月10日
福永洋一記念
「第6回福永洋一記念」スタートの瞬間
開催国 日本の旗 日本
主催者 高知県競馬組合
競馬場 高知競馬場
第1回施行日 2010年5月10日
2025年の情報
距離 ダート1600m
格付け 重賞
賞金 1着賞金1200万円
出走条件 サラ系4歳以上オープン、地方全国交流
負担重量 定量(57kg、牝馬2kg減)
出典 [1]
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福永洋一記念(ふくながよういちきねん)は、高知県競馬組合高知競馬場ダート1600mで施行する地方競馬重賞競走である。かつて中央競馬騎手として活躍した福永洋一の功績を称え、2010年に創設された[2]。実施にあたっては福永洋一の長男である福永祐一が協賛金を提供するなど、積極的に関わり続けている[3]

競走条件・賞金

出走条件はサラブレッド系4歳以上で、2024年までは高知所属限定、2025年からは地方全国交流で行われる[1]

以下の内容は、2025年現在のもの。

出走資格
サラブレッド系4歳以上、地方競馬全国交流[1]
  • 他地区所属馬は直近の所属後1走以上しており、前年5月1日から本年5月9日の間に重賞競走で5着以上の成績を残した馬。
  • 高知所属馬は直近の所属後1走以上している馬。
出走枠
フルゲートは11頭で他地区所属4頭(同一馬主・厩舎は2頭以下)、高知所属馬7頭。
負担重量
定量(57kg、牝馬2kg減)[1]
賞金額
1着1200万円、2着480万円、3着300万円、4着180万円、5着120万円、6着以下50万円[1]
副賞
福永洋一賞、高知県馬主協会会長賞[1]

歴代優勝馬

走路はすべてダートコース。

回数施行日競馬場距離優勝馬性齢所属タイム優勝騎手管理調教師馬主
第1回2010年5月10日高知1600mフサイチバルドル騸9高知1:45.1赤岡修次田中守(組)KSDドリーム
第2回2011年5月9日高知1600mイーグルビスティー牡7高知1:45.7郷間勇太田中守備前島敏子
第3回2012年5月7日高知1600mコスモワッチミー牡4高知1:45.5宮川実田中守鈴木秀敏
第4回2013年4月29日高知1600mエプソムアーロン牡9高知1:44.5永森大智雑賀正光宮崎冴子
第5回2014年4月28日高知1600mエプソムアーロン牡10高知1:43.0永森大智雑賀正光宮崎冴子
第6回2015年4月29日高知1600mサクラシャイニー牡9高知1:44.1赤岡修次田中守須田靖之
第7回2016年5月4日高知1600mニシノファイター牡7高知1:43.6中西達也炭田健二西森鶴
第8回2017年4月26日高知1600mカイロス牡7高知1:42.1佐原秀泰那俄性哲也(有)アシスタント
第9回2018年5月3日高知1600mティアップリバティ牝5高知1:44.1宮川実打越勇児松本桂昌
第10回2019年5月2日高知1600mコスタアレグレ牡9高知1:43.3倉兼育康別府真司梶原哲朗
第11回2020年5月4日高知1600mツクバクロオー牡5高知1:43.6宮川実打越勇児松浦正春
第12回2021年5月3日高知1600mスペルマロン騸7高知1:42.8倉兼育康別府真司西森功
第13回2022年5月31日高知1600mララメダイユドール牡8高知1:43.7宮川実打越勇児藤井亮輔
第14回2023年5月30日高知1600mアポロティアモ牡6高知1:41.4多田羅誠也田中守伊藤とみ枝
第15回2024年5月26日高知1600mグッドヒューマー騸10高知1:44.1永森大智打越勇児高樽さゆり
第16回2025年5月25日高知1600mエコロクラージュ牡6兵庫1:43.6小牧太保利良平原村正紀

発祥

創設のきっかけは2009年8月に高知競馬場で行われたトークショーであった。武豊赤岡修次の縁により中央競馬の騎手4人(武豊、石橋守川田将雅、福永祐一)が招かれ、「夜さ恋ナイター」の応援イベントが実施された。その際に福永祐一が「高知といえば、坂本龍馬と福永洋一だと思います。高知競馬場で、福永洋一記念を創設できれば…」とコメントを発した[4]。この提案を高知県競馬組合が快諾し「福永洋一記念」が誕生した[5]。レースの1着賞金など賞典奨励費は高知県競馬組合が負担し、協賛金(主に広報費)や副賞品・トロフィーなどは福永祐一が提供した[5]

福永洋一について

現役時代の福永洋一(1978年当時)

福永洋一は中央競馬で1968年に騎手としてデビュー、1970年から1978年まで9年連続リーディングジョッキーを獲得(2014年現在も歴代最長タイ記録[6])したほか、1978年には131勝をあげ、当時の年間最多勝記録を更新[6]するなど「天才」と呼ばれるほどの活躍をみせていた[4][6]が、1979年3月に行われた「第26回毎日杯」で競走中の落馬事故により頭部に重傷を負い、これ以降復帰は叶わず1981年に引退[5][6]。2004年にはその功績を讃え騎手顕彰者に選出され、中央競馬の殿堂入りを果たした[5]

洋一は1948年に高知県で7人兄弟の末っ子として生を受けた[4][6]。実家は地主だったが戦後に零落しており、父親は放浪癖があり、母親は洋一の幼少時に家を出て行ってしまったため、母の顔を知らずに父と暮していたが、1957年に父が急逝したため、身寄りを求め姉が嫁いだ高知競馬の騎手・松岡利男のもとを頼る。松岡家で暮らすようになった洋一も競走馬の世話に明け暮れた[4][6]

2人の兄(福永甲、福永二三雄)が騎手だったこともあり自らも騎手を志した洋一は中学2年の冬に高知を発ち、甲の師である武平三の下で暮らす。翌年、中学を卒業した洋一は平三の息子武永祥と共に東京の馬事公苑騎手養成所へ入所[4]。卒業後は前述の通り中央競馬で活躍し、騎手顕彰者にまで選ばれた[5]。現役時代には妻に「歳を取ったら高知に住みたい」とも語っていた[4]

第1回の模様

第1回が行われるにあたり、JRA調教師の藤沢和雄から「何かの力になれるなら」と副賞の記念品が提供されるなど、洋一を知る競馬関係者からの働きかけが積極的に行われた[2]。さらに第1回を実施することが公式に発表された際、高知競馬場には洋一の活躍を目にしていた世代にあたる50代・60代のファンから問い合わせが相次いだ[2]。第1回は平日の開催で、天候は小雨[7]だったが、2010年当時では最多となる1263人が来場し、関心の高さを表した[8]。当日の高知競馬場内では洋一をもてなす趣向として、高知競馬の実況アナウンサー・橋口浩二の提案により、洋一が好んだというペギー葉山の「南国土佐を後にして」が流された[4]

レース終了後の表彰式では福永洋一本人がプレゼンターとして車いすで高知競馬場を訪れ、前述の落馬事故でファンの前から姿を消した1979年以来、31年ぶりに公の場へ姿を見せた[2][注 1]。洋一を乗せた車いすが表彰台に登場すると、ファンからは「おかえり」「待ってたぞ」などの声援が飛び、大きな拍手であたたかく迎えられた[4]。待っていたファンに対し洋一は「オーイ」と呼び掛け、ファンへ応えてみせる一幕もあった[9]

第1回福永洋一記念の優勝騎手赤岡修次は、奇しくも洋一と同じ高知市立潮江中学校の卒業生という縁もあり[8][4]、レース前にそのことを伝え聞いた赤岡は優勝騎手インタビューで「今日は久々にプレッシャーを感じました。『このレースは、なんとしても獲らないと』という想いでいっぱいだった」と語った[8][4]。表彰式の終わりに、祐一はファンへ向け「父の名前を冠したレースを、父と最も縁の深い高知競馬でできたっていうことが、なにより嬉しいです。父も久々に高知に来ることができて喜んでいますし、さっき表彰台に向かっているときに、たくさんの方々が拍手で迎えてくださったんで、よかったなと思いました」と語っていた[4]

第1回の開催を終えたのち、祐一は「親父が引退して30年近くなるのに、たくさんの人が父のことを覚えてくれているのがうれしかった」と感謝し、続けて「父を誇らしく思いました。自分は豊さん(武豊)にあこがれて騎手になったつもりだったが、『俺の中のヒーローは親父だったんだ』と初めて思った」と語り、騎手としてのルーツや父の偉大さを再確認した[8][4]。さらに祐一は「父が健康であり続ける限り、レースが続く限り一緒に来たい」と続け、次なる開催へ意欲を高めた[8][4]

第2回以降

福永祐一と高知の縁

脚注

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