芝罘郵便局
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芝罘郵便局

芝罘郵便局は天津郵便局と共に日本の郵便局として1892年(明治25年)10月1日に開設された[1]。清国芝罘においては1876年(明治9年)10月6日に郵便受取所が開設されたが[2][3]、1883年(明治16年)3月31日に閉鎖され[4]、1889年(明治22年)8月1日に再び郵便受取所が開設された後[5]、同月20日にこれを廃止して以降は同地駐在の日本領事館が郵便事務を取扱っており[6]、芝罘郵便局は従来領事館で取扱っていた郵便事務を承継したものであった[7]。領事館時代においては郵便物は窓口の交付を基本としつつ[5]、非公式に配達を行っていたが、開業と共に正式に配達業務を開始した[8]。日清戦争の影響により1894年(明治27年)8月4日に一時閉鎖されたが[9]、終戦後の1895年(明治28年)9月8日に再開している[10]。1900年(明治33年)3月6日には郵便為替及び郵便貯金事務の取扱を開始し[11]、日露戦争中の1905年(明治38年)4月4日からは軍用手票の取扱を行った[12][13]。開業以来、在芝罘日本領事館において業務を行っていたが、1903年(明治36年)4月に独立した局舎を有するに至った[14]。当時の清国においては同国から承認を受けずに設置された外国郵便局が複数存在し、日本が設置した芝罘郵便局もその一つであったが、1903年(明治36年)5月18日(光緒29年4月22日)に日清間に郵便仮約定が締結され、在清国日本郵便局の存在は同国からの実質的承認を得た[15][4]。日清間において1908年(明治41年)10月12日に締結された電信協約及び同年11月7日に締結された芝罘関東海底電信線ノ運用ニ関スル取極に基づき[16]、日露戦争中の1904年(明治37年)5月に敷設された佐世保 - 大連間の海底電信線とロシアによって敷設され戦中に切断されていた旅順 - 芝罘間の海底電信線を活用し、芝罘郵便局においては1909年(明治42年)7月16日から電信事務の取扱を開始した[17][18][19]。第一次世界大戦においてはこの芝罘における電信線を活用し、青島攻略戦に関する新聞電報が多数送受された[20][21]。1922年(大正11年)2月1日のワシントン会議太平洋及極東問題総委員会における支那国ニ於ケル外国郵便局ニ関スル決議を受け、各国が中華民国に設置している郵便局は別に定めるものを除いて撤去することとなり、1923年(大正12年)1月1日に芝罘郵便局は廃止された[22][23]。
芝罘電信局
芝罘郵便局の郵便事務は下関郵便局、郵便為替及び郵便貯金事務は門司郵便局が承継したが、電信事務及び会計事務については同日より新設された芝罘電信局が承継した[22]。芝罘電信局は日清電信協約や芝罘関東海底電信線ノ運用ニ関スル取極に基づき、日本電信系に発着する和文電報並びに日本政府の欧文官報を取扱う一等電信局であった[22][24][25][26]。日華間の事変勃発によって1937年(昭和12年)8月20日に一時閉鎖されたが、1938年(昭和13年)2月5日に業務を再開している[27]。情勢の変化に伴い、芝罘発着の電報はそれまで満洲方面発着の電報と同様に取扱われていたところ[28]、1939年(昭和14年)1月1日からは北支発着の電報と同様に取扱うこととなり[29][30]、合わせてその業務範囲も改められた[31]。日本と中華民国臨時政府の合弁企業であった華北電信電話が、同地方における電信電話事業を管掌するようになった後も、芝罘電信局はそのまま日本逓信省の電信局として存置されていたが、大戦中の1942年(昭和17年)8月に芝罘 - 大連間の海底電信線が断線し、その復旧が戦局の悪化によって困難であったため、1945年(昭和20年)5月31日に業務の一切を同社に移管した[26][32]。その後、同年8月24日に芝罘は八路軍によって占領され[33]、同年12月に芝罘電信局は正式に廃止された[34]。
芝罘における日本人の進出
芝罘は1862年(同治元年)3月の開港[35]以来、山東省における貿易の拠点として栄えており[36]、煙台山周辺の地域においては外国人居留地が設けられ、各国の領事館が進出していた[37][38]。1876年(明治9年)5月19日には外国人マクレーン(George F. Mclean)を名誉領事として日本領事館が設けられ、1883年(明治16年)10月9日からは初めて日本人として東次郎が駐箚した[39][40][41][42]。日本郵船により1886年(明治19年)12月22日に開設された長崎 - 天津線や1889年(明治22年)4月に開設された上海 - 浦塩線は芝罘を経由して運行され[43]、高橋藤兵衛をはじめとする日本商人の進出が少数ながら開始された[44][41]。日清戦争や北清事変を経て大阪桐材商等の日本商人の進出は更に活発となり、日露戦争中には満洲における日本人が流れこんだことも相俟って、同地における日本人は約1300名にまで増えたが、戦後関東州や満洲が日本の勢力圏に入ったため、芝罘の重要度は低下し、1907年(明治40年)における居留民は約400名に減少した[44][41]。第一次世界大戦中に青島在留の日本人が流れ込み人口が増加したが、その後は再び衰微し、1919年(大正8年)当時における居留民は約350名となっている[41][44]。その後、日華事変以来の北支への日本人進出に伴って増加し、1938年(昭和13年)7月1日時点における日本人は835名であった[41]。
領事館と郵便局並びに電信局以外に日本人によって設置された公共機関としては、1907年(明治40年)8月15日に芝罘在留民団小学校として創立され、1915年(大正4年)4月12日に在外指定学校に指定された芝罘尋常高等小学校[45]や同じく芝罘在留民団によって運営されていた医院などがあった[46][47][48]。また、1904年(明治37年)9月13日に中央気象台の臨時観測技手が派遣されて芝罘における気象観測を開始しており、1905年(明治38年)12月5日にはその観測所庁舎が落成している[49]。
歴史
芝罘における郵便受取所
本項については郵便受取所の項も参照のこと。
1876年(明治9年)開設の郵便受取所

芝罘においては1876年(明治9年)5月19日に在芝罘日本領事館が開設され[39]、同年10月6日、駅逓局は清国芝罘、鎮江、漢江、寧波、牛荘、福州、九江及び天津に郵便受取所を開設した[3][2]。日本が設置した郵便受取所であったが、実際の業務は外国の領事館や貿易商に委託されており[50]、その委託先は元上海郵便局長日下亥太郎の証言によれば、英国系の商社たるバターフィールド(Butterfield & Swire)やジャーデン(Jardine, Matheson & Company)であったという[51]。駅逓局はこれら郵便受取所の開設をその年報において次のように述べている[52]。
支那国芝罘鎮江漢江寧波福州牛荘九江天津ノ八所ニ我カ郵便受取所ヲ開設セリ是同国政府モ亦郵便事業ヲ挙行スルノ日ニ至ル迄姑ク之レヲ開設シテ日支両民ノ交際ヲ便シ合セテ他邦ノ人民ヲモ利セントスルノ権義ニ出ツルナリ — 『駅逓局年報 自明治五年 至明治十九年』、(所収:郵政省編、『郵政百年史資料 第九巻』(295頁)、1968年(昭和43年)3月、吉川弘文館)
芝罘をはじめとするこれらの郵便受取所は、1881年(明治14年)9月28日に廃止が決定された[53]。『太政類典』には次のようにあり、廃止の理由として取扱上の損失と取扱人の不足を挙げている[53]。
十四年九月廿八日
清国芝罘外七ヶ所ニ設置ノ郵便受取所廃止
別紙農商務省伺清国芝罘等七ヶ所ニ設置ノ我郵便受取所廃止ノ儀ハ御聴許相成可然歟内務部協議ノ上左案ヲ付シ仰高裁候也(九月十六日 会計検査院及大蔵省ヘ通牒) — 『太政類典』、(所収:郵政省編、『郵政百年史資料 第一巻』(391頁)、1970年(昭和45年)3月、吉川弘文館)
農商務省伺
従来清国芝罘鎮江漢江寧波福州牛荘九江天津等ノ八ヶ所ヘ設置有之候郵便受取所ノ儀ハ其取扱上多少損失モ有之且右取扱人ノ人撰ニモ差閊不尠候間今後右受取所ハ悉皆廃止相成度御允裁ノ上ハ駅逓総官ヲシテ右ノ趣在瑞西万国郵便聯合総理局ヘ通報為取計申度此段相伺候成(八月廿日 農商)
(朱書)「伺ノ趣聞届候事(九月廿八日)」
駅逓局回答(会計部宛)
去ル二日御問合有之候清国各港ヘ設置ノ郵便受取所ノ儀ハ別紙写ノ通去ル九年十月中御届済ニ有之爾来便宜ヲ以テ芝罘等ノ八ヶ所ヘ開設相成居候処都合有之今般廃止ノ儀相伺候儀ニ有之候条此段御承知有之度候也(九月五日)
会計部議案
廃止の理由については駅逓局年報においては万国郵便条約に準拠し難いことを理由に挙げており[54]、また望月みわは「取り扱い数が少なく、受取所を運営しても採算が合わなかったと推測される」と考察している[4]。
実際の廃止は1883年(明治16年)3月末に行われた[4]。在スイスの万国郵便連合からは1882年(明治15年)7月限りで廃止の旨を諒承されていたが、その後も受取所廃止後の日清間における郵便交換について同国税関総監との協議を行っていたためで、これにより締結された日本帝国郵便局及清国税関郵政局間郵便物交換規則により、以降は上海郵便局と清国のいわゆる海関郵政との間で郵便物交換を行うこととされた[55]。駅逓局は次のように公告し、清国が万国郵便連合非加盟国であるため、上海以遠の同国内に逓送する郵便物には追加の郵便料金を要する旨を示した[56]。
◯公告
清国芝罘鎮江福州漢江牛荘寧波九江及ひ天津にある本邦郵便受取所の儀本月三十一日限り閉鎖候条爾後該地への郵便物は従来の通上海出張郵便局を経て差立るを得べしと雖も郵便税は上海迄其効を有し該地より届先へは清国内地の郵便に托し之を逓送するに付更に該国内地の郵便税を受取人へ課すべし(但英国郵便局出張所ある地への郵便物は単に聯合税額を以て香港を経て差立るを得べし)
右公告候事明治十六年三月
駅逓局 — 中外郵便週報「駅逓局録事」、(所収:郵政省編、『郵政百年史資料編 第十巻』、1969年(昭和44年)3月、吉川弘文館)
また、1883年(明治16年)5月22日には梓万16第72号によって、上海並びに英仏郵便官署のない清国内に宛てる郵便物は、郵便料金不足等の場合にその金額を徴収することが難しいので、必ず上海までの郵便料金前払いのものに限るように次のごとく通達した[57]。なお梓万16第72号の旨は同年5月駅逓局公告により一般にも示されている[58]。
◯梓万十六第七十二号
在清国郵便受取所閉鎖候に付ては我出張局ある上海及ひ英仏郵便受取所ある場所を除くの外清国内地宛の郵便物先払或は不足税の分は其税額徴収方差支候条自今同所宛の郵便物は必らす上海まて郵便税前払のものに限るへく且つ書留手数も上海以外は無効のものと心得へし此旨相達候事
明治十六年五月廿二日
駅逓総官 野村 靖 — 中外郵便週報「駅逓局録事」、(所収:郵政省編、『郵政百年史資料編 第十巻』、1969年(昭和44年)3月、吉川弘文館)
1889年(明治22年)開設の郵便受取所
概要
1889年(明治22年)8月1日、清国芝罘に郵便受取所を開設し、郵便物の受渡を開始した[5]。しかし、同月20日にこの郵便受取所は廃止され、以降は在芝罘日本領事館において書留郵便物を除く郵便物の受渡を取扱うものとされた[6]。
沿革

1888年(明治21年)2月28日、在仁川日本領事鈴木充美は、1886年(明治19年)に長崎と北支の間に郵船会社の敦賀丸による航路が開設され、商人の往来が活発になるなか、芝罘や天津と仁川の間には郵便線路が開設されておらず、またその取扱場所もないため、商人はやむを得ず該船の乗組の知人に委託するか、長崎 - 上海間の航路をもって郵便物の発送を行っている状況であるが、全員が乗組員に知己を有するわけではなく、長崎 - 上海間を経由していては時間がかかって商機を逸する虞もあるため、仁川と北支の連絡が疎遠になっている有様であることを指摘し、且つ仁川や京城の外国公使館等においても敦賀丸によって送るほうが便利であるために私的に敦賀丸へ郵便物を委託する例が相次いでおり、先に明治9年に郵便受取所が天津等の領事館に開設されていた先例もあるから、芝罘と天津に郵便受取所を新設されたいとの趣旨の照会を外務次官青木周蔵に対し行った[59][4]。芝罘における日本郵船の航路は、1886年(明治19年)3月から試験運行を開始し、同年12月22日の同社による請願により政府補助金を受けて開設された長崎 - 天津線(仁川・芝罘経由)のほか、1889年(明治22年)4月からは上海 - 浦塩線(芝罘・仁川・釜山・元山経由)が就航していた[43]。この照会に接した外務省では同年3月に逓信省へその設置可否につき照会を行い、逓信大臣榎本武揚は次のように回答した[59]。
外甲第四二七号 受第二八七〇号
清国天津芝罘ノ両地ヘ我郵便局開設方ノ儀ニ付仁川鈴木領事ノ上申書相添本月十四日付送第三四号ヲ以テ御照会ノ趣了承致候然ルニ御承知ノ通右両地ニハ嘗テ我郵便受取所設置有之処実際聯合条約ヲ履行難致場合不尠且又多少ノ損失トモ相成候ニ付去十六年中総テ閉鎖候条次第ニテ現今ニ於テモ公然再置ノ儀ハ何分難相運候尤モ別ニ当省ノ出費ヲ不要領事館ニ於テ便利ノ為メ郵便取扱方負担相成候儀ハ当省ニ於テ別ニ差支ノ廉無之候得共要スルニ右ハ汽船航通ノ季節ニ於テ前両地ヨリ発シ及両地ヘ宛タ郵便物ヲ取扱フニ止リ北京其他本邦ノ郵便線路不通ノ地ヘ宛タル郵便物継越逓送ノ如キハ実際施行難相成儀ト存候此段及御回答候也
外務大臣伯爵大隈重信殿 — 明治21年3月23日附外甲第427号、(所収:11.清国芝罘天津ノ両地ヘ我郵便線路開通ノ義在仁川領事具申ノ件 同二十一年」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B12081149100、郵便事務関係雑件 第二巻(3.6.10.1_002)(外務省外交史料館) )
明治二十一年三月二十三日
逓信大臣子爵榎本武揚(印)
上記引用の通り、先に1883年(明治16年)に芝罘等の郵便受取所を閉鎖した事情に鑑み、領事館で郵便を取扱うくらいであればともかく、郵便線路の通じていない北京等の清国内地への郵便物逓送のような郵便局を再設置することは難しい旨を回答したが[59][4]、その後1889年(明治22年)2月21日には次の通り郵便受取所を設置するため、その事務を受託する在留日本人を推薦されたい旨、外務省へ通知している[60]。
外乙第二八五号 受第一七五七号
清国天津及芝罘ヘ郵便受取所設置致度見込ニ付両港居留本邦人中ニ於テ該事務ヲ取扱フヘキ者推薦方別紙ノ通両港駐在領事ヘ依頼致度候条御差支無ニ候ハヽ御伝達相成度此段及御依頼候也
通商局長浅野徳則殿 — 明治22年2月21日附外乙第285号、「1-2.天津及芝罘ヘ帝国郵便局開設ニ関スル件 明治二十二年」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B12081214800、清国ニ帝国郵便局開設関係雑件 第一ノ一巻(3.6.10.3_001_001)(外務省外交史料館)
明治二十二年二月廿一日
外信局次官中野宗宏
外務省
この逓信省の方針転換について、望月みわは朝鮮国海関と清国海関の間において国際郵便取扱を開始する動きがあるとの報告に接した逓信省が従来の日本の長崎経由朝鮮上海間の郵便線路の存在を脅かされることを危惧し、より速達性の高い朝鮮上海間の通信を実現しようとしたのではないかと考察し、「華北地域の郵便受取所は、朝鮮半島、特に仁川における商勢拡大を見込んだものであり、朝鮮と上海との通信の中継地点として位置づけられていたといえよう」と評価している[4]。

上記引用の通り、逓信省は当初在留日本人へ郵便事務を委託しようとしていたが、在天津日本領事鶴原定吉は一商人にこれを委託すると「他商人等営業上ノ関係ヨリ或ハ疑念ヲ生シ」かねないとしてこれに反対し、領事館においてその事務を取扱うことを提案している[61]。芝罘においては英国系のコルナベ商会にこれを委託する案が出ていたが、在芝罘日本副領事代理能勢辰五郞が「外国人ニ取扱ハセ候儀ハ甚不安心ニテ他日我帝国郵便ノ信用上ニ」問題を生ずることを危惧し、天津と同じく領事館においてその事務を取扱うことを提案した[62]。これら領事の提案により両地においてはしばらく駐在領事がその事務を取扱うこととなった[4]。このような経緯により、1889年(明治22年)8月1日に開設された芝罘郵便受取所は、同月20日にすぐ廃止され、以降は在芝罘日本領事館において書留郵便物を除く郵便物の受渡を取扱うものとされた[5]。望月みわは「民間人や外国人への委託も含めて運営方法が模索されたが、領事の主導により領事館を基盤とする運営体制が決定づけられた」と評価している[4]。
『逓信省年報』は、天津及び芝罘各郵便受取所の設置は同地経由の航路開設によるものであり、またその廃止は元々領事館に委託するはずだったのに外務省から回答がなかったため、暫時郵便受取所を設置したけれども先方より承諾の回答があり、且つ海外だから郵便事務を受託する適任の者を選び難いからであるとして次のように述べている[63]。
五月二十四日告示第百二十六号ヲ以テ清国天津ニ、六月二十七日告示第百三十七号ヲ以テ清国芝罘ニ郵便受取所ヲ設置スル旨ヲ示セリ、是レ日本郵船会社ノ長崎仁川間定期航海航路ヲ延長シテ清国天津ニ及ホシ且ツ新ニ同国上海ヨリ芝罘等ヲ経テ魯領浦塩斯徳ニ至ル定期往復ヲ開始セシヲ以テナリ◯六月二十二日告示第百三十五号ヲ以テ清国天津ニ、八月十二日告示第百五十九号ヲ以テ清国芝罘ニ設置ノ郵便受取所ヲ廃シ右両地ニ於ケル郵便物受渡事務ハ我領事館ニ嘱託シテ之ヲ取扱ハシム、其旨趣ハ両地領事館ヘ該事務ヲ嘱託スルノ都合ナリシモ其照会ニ対スル回答ナカリシヲ以テ是等受取所ヲ設置シタリシカ其後承諾ノ回答アリ且ツ海外ノコトニテ適任ノ人ヲ得ルノ難キヲ以テ遂ニ之ヲ廃スルニ至リシナリ — 逓信省、『逓信省第四年報』(6頁)、1891年(明治24年)2月、逓信省
在芝罘領事館においては書留郵便物を除く一般郵便物のみを取扱い、その受渡は次に掲げる手続書に従って行われた[5][60]。
芝罘領事館ニ於テ郵便物受渡手続書
一 本邦各地並ニ在清国上海及朝鮮本邦郵便局ヘ並郵便物ヲ受付日本郵船会社汽船出帆前仝社支店ヘ渡ス事
但到着後一ヶ月ヲ経テ受取人無之郵便物ハ其旨加ヘ上海若クハ仁川郵便局ヘ還付スヘシ — 芝罘領事館ニ於テ郵便物受渡手続書、「1-2.天津及芝罘ヘ帝国郵便局開設ニ関スル件 明治二十二年」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B12081214800、清国ニ帝国郵便局開設関係雑件 第一ノ一巻(3.6.10.3_001_001)(外務省外交史料館)
但郵便物ハ一括シテ行嚢ニ納メ封印ヲナシ其差立ノ方向ニ随ヒ上海郵便局若クハ仁川郵便局宛標札ヲ付スヘシ
一 前傾各地郵便局ヨリ差立タル並郵便物ヲ日本郵船会社支店若クハ仝社汽船乗込役員ヨリ受取ル時ハ之ヲ預リ置受取人ノ請求ヲ待テ之ヲ渡ス事
上記手続書の示す通り、領事館の取扱う郵便事務は簡易なものに限定されており、1908年(明治41年)発行の雑誌には匿名記事により天津及び芝罘領事館における郵便の取扱がどのようであったかが次のように記されている[8]。
北清への内地便は一ヶ月何回位到着するかと問はれたならば今でこそ殆ど隔日以上と答へ得るが、其昔の有様を聞けば誠に憐れなものであつた、明治十九年逓信省は始めて天津に向つて郵船会社の船舶に依る一ヶ月一回の命令航路を開き同時に芝罘と天津との領事館に郵便受取所を設けた、但し看板を出すのでもなく唯だ名義のみで別に通信官吏を来らずさればとて領事館で代りて事務を取扱ふのでもなかつた、但領事館の前には郵便函が出してあるのでこの郵便物は領事館で取り集めて船へ届けて居た位である、切手葉書も勿論領事館になくて初航で来た武内といふ人(今の武齋洋行)に売捌かせて居たのである(中略)右の受取所は仁川局の管轄でスタンプは引受も到着も皆仁川局で押して居つた、書留の制度もなく為替貯金等は勿論取扱はなかつた、到着した郵便は受取所に留置となすの定めであつたが便宜を計つて領事館のボーイに配達せしめた、之を外国人などは領事館が配達事務をも取扱ふものと早合点して、配達が遅れた時などは返信が入港翌日の出帆に間に合はなかつたと云つて不平を持ち込んで来た滑稽もあつた相だ、当時は在留日本人が三十人位も居たらうか、是等も配達が遅れるといふので自分等で一人の支那人を雇つて着便の時はこれに配達させやうなど相談した事もあつた、領事館の前に郵便函あるに拘はらず西洋人中には態々同館へ郵便物を携へて来て直接依頼して行くのもあつたが便宜受付けてやつた、切手等も買ひに来る西洋人があつたがそんな時は領事館の買置きのものを臨機流用してやつたとの事である — 郵便小僧、「郵便茶話」、『燕塵』第7号所収(29から33頁)、1908年(明治41年)7月、 燕塵会
芝罘郵便局の開設
1891年(明治24年)2月20日、在芝罘領事代理能勢辰五郎は外務次官岡部長職に対し、次の通り在芝罘日本領事館における郵便取扱がかなり盛況であり、将来においてもその増加が見込まれることを報告した[64]。
公第一六号 受第二三五九号
本館郵便事務取扱ニ於ケル実況逓信次官ヘ報告ノ件
外務次官子(爵)岡部長識殿 — 明治24年2月20日附公第16号、「1)芝罘郵便局開設一件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B12081214900、清国ニ帝国郵便局開設関係雑件 第一ノ一巻(3.6.10.3_001_001)(外務省外交史料館)
去二十二年九月以来逓信省ノ嘱託ニ依リ本館ニ於テ取扱居候郵便事務ハ差ニ満一ヶ年余ヲ経過致候処仝年四月中ヨリ二十三年十二月迄満一年四月間取扱候発信惣数三千二百六十通着信仝断千九百八十一通仝計五千二百四十一通ニシテ一ヶ月ノ取扱数三百二十余通目下ト共ニ天津ニ比スレハ加倍ノ数量ニ相成居候処尚ホ追々公衆ニ於テ其便利ヲ知得スルト供ニ信書ノ追加ヲ見ルハ必然ニ付当初ヨリ今日迄ノ実況別紙前島逓信次官宛公信ニ詳記致候間御経覧ノ上仝官ヘ御伝達相成候様致度此段申進候也
明治二十四年二月二十日
在芝罘領事代理能勢辰五郎(印)
逓信省は芝罘や天津における郵便物取扱数が盛況であり、ますます発展しつつある状況に鑑み、同年7月23日に在天津日本領事館に対し書留郵便物の取扱等を開始すべく天津芝罘領事館郵便物取扱手続案を示している[65]。これに対し在同地領事代理荒川巳次は「館員両名ニシテ館務繁多ナルガ為メ目下ノ場合本務ニ差支ヲ生スル虞モ」あることなどを理由として逓信省案をそのまま施行することは難しい旨を回答している[66]。

こうした従来のような領事館職員のみで取扱う郵便事務を発展させ、1892年(明治25年)10月1日に一等郵便局として芝罘郵便局及び天津郵便局が開設された[1]。当初は郵便貯金及び郵便為替事務は取扱わず、郵便事務のみを取扱った[1]。在芝罘日本領事代理久水三郎は次のように外務次官林董へ報告している[64]。
第一四〇号 受第一二九九号
本月一日当港ニ於テ帝国郵便局開設事務取扱ノ趣同局長ヨリ届出候ニ付此段及御通知候也
外務次官林董殿 — 明治25年10月1日附第140号、「1)芝罘郵便局開設一件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B12081214900、清国ニ帝国郵便局開設関係雑件 第一ノ一巻(3.6.10.3_001_001)(外務省外交史料館)
明治廿五年十月一日
在芝罘
領事代理久水三郎(印)
1892年(明治25年)12月11日の第4回帝国議会衆議院予算委員会においては政府が予算を議会の協賛を経ずに既に執行した分について要求していることが問題となり、芝罘及び天津郵便局の開設に言及した衆議院議員岡田孤鹿の質問に対し、逓信次官河津祐之は次のように述べている[7]。
ソレカラ天津芝罘ニ新規ニ郵便局ヲ開イタノハ甚ダ余計ナコトヲナシタルモノデアルト云フコトデゴザイマスガ、天津芝罘ニ新ニ郵便局ヲ開イタト云フト大層声ハ大キウゴザイマスガ、サウデハナイノデ、天津芝罘ニハ領事館ガゴザイマシテ其領事館ニ取扱ハセテ置イタノデゴザイマス、然ル所段々是モ矢張前申シマス通リ郵便ハ殖ヘテ参リマスカラ、天津芝罘ノ領事ニ片手間ニ遺ル訳ニ参ラナクナリマシタノデゴザイマス、ソレ故ニ天津芝罘ニハ一人ツヽノ書記ヲ遣ツテサウシテ郵便ヲ取扱ハセルコトニ致シタ、其郵便ヲナスニ就イテ別段ニ郵便局長ヲ置イタノデナイ、唯逓信省ヨリ郵便ノ書記ヲ遣リ之ガ領事館詰ト云フ訳ニハ参リマセヌセラ、天津ニ郵便局ト云フモノヲ置イテ領事ト云フモノニ郵便局長ヲ兼サセ、ソレニ逓信省カラ書記ヲ一人遣ハシテ之ニ郵便ノコトヲ専務ト致サセル、芝罘モ其通リ、故ニ何如ナル処ニ其局ヲ開イテ居ルカト云ヘバ矢張領事館デ開イテ居ツタ、卽チ天津芝罘ノ郵便局ヲ開イタト云フコトハ言ヒ直セバ郵便専門ノ書記ヲ一名ヅヽヲ増シテ郵便事務ヲ取扱ハセタ、唯招牌ヲ附ケタノガ大業デアツタト云フニ過キナイノデアル、故ニ費用モ極ク僅々タルノデアルノデゴザイマス — 河津祐之、(出典:『第四回帝国議会衆議院予算委員会速記録(第21号)』(8から9頁)、1892年(明治25年)12月11日)
続いて政府の言うように逓信省から書記を一名派遣するだけで、新たに局舎を設けたり借りたりしないのかと質問した衆議院議員藤田孫平に対し、河津祐之は次のように述べている[7]。
借屋モ致シマセヌ、別ニ新築モシマセヌ、只天津芝罘ハ元来郵便モ少ナフゴザイマスカラ領事館ニ事務ヲ頼ンデ置キマシタノデゴザイマス、処ガ領事ノ方ノ外務ノ方ノ仕事ガ大分殖ヘテ来マスシ郵便モ毎年殖ヘテ参リマスノデ、専任ノ人間ヲヨコシテ呉レナケレバ其郵便ヲ捌クコトガ出来ヌト云フ次第ナノデアリマス、ソコデ天津芝罘ニ一人ヅヽノ書記ヲ増シテ其郵便ヲ処分スルト云フコトニナリマシタ、併ナガラ逓信省ノ書記ヲ天津芝罘ニ各〻一人出シマスニ領事館ノ所属員トスル訳ニ往カヌ、矢張逓信省ノ書記ヲ出ス次第デアル、ソレ故ニソレ程事務モ殖ヘタカラ郵便局ト云フ招牌ヲ出シマシテ、郵便局長ハ別段置キマセンデ従来頼ンダ者ニ兼ネテ貰ツテ、書記ヲ独リ遣ツテ書記ガ其領事ノ命ヲ受ケテ取扱フ、其事務所ハ何処カト云フニ矢張前ノ通リ領事館デ致シテ居リマス — 河津祐之、(出典:『第四回帝国議会衆議院予算委員会速記録(第21号)』(8から9頁)、1892年(明治25年)12月11日)

上掲の政府答弁のように芝罘及び天津郵便局の局長は引き続き同地在留領事館の館員がこれを兼任したが、芝罘郵便局については逓信省から書記見習高垣徳治が一名派遣されている[67]。在芝罘日本領事は1896年(明治29年)まで芝罘郵便局長を兼任したが、同年からは高垣徳治が局長となり、書記補渡邊彌太郎と共に業務にあたった[4][68]。その理由については第9回帝国議会衆議院予算委員会において衆議院議員草刈親明の質問に対し、逓信次官田健治郎が郵便取扱量の増加や郵便為替事業開設の準備のためであるとして次のように答弁している[69]。
御答シマスガ、此天津、芝罘ヲ専任局長ニスルト云フコトハ必ズシモ為替開始ノタメニバカリデアリマセヌ、従来ハ外務省ニ掛合ヒマシテ、領事ガ兼テ居リマシタガ、併ナガラ、此領事ハ全ク貿易事務ノ方ノ人デアリマシテ、ドウモ郵便ノコトハ固ヨリ知ラヌ、又迚モ事実郵便ノ方ノ事ヲ心ヲ入レテ監督スルト云フコト迄往キ兼ル、ソレデ外務省モ迷惑ナガラヤツテ居ルト云ハヌバカリデアリマスカラ、所ガ、事実ノ上デハ天津、芝罘ハ隨分郵便物類ガ段々増シテ来マシテ、ソレデ今日ナドデハ余程利益ヲ得テ居ル、総テ海外局ハ上海デモ天津デモ芝罘デモ、收支ノ差引ヲシマスト外国ヘ往ツテ郵便切手ヲ売ツテ、サウシテ、実費ヲ差引マスト、余程余ルト云フコトデアリマスカラ、詰リ郵便ノ事務ガソレダケ増加シタト云フ訳デアリマス、ソコヘ持ツテ往ツテ、為替事務ヲ開カウト云フ訳デアリマスカラ、旁々以テ局長ハ専任ヲ置キ、同書記モ増員ヲシタイト云フ見込デアリマス — 田健治郎、(出典:『第九回帝国議会衆議院予算委員会速記録(第4科第4号)』(5頁)、1896年(明治29年)1月16日)
1908年(明治41年)発行の雑誌には匿名記事により天津及び芝罘郵便局の開設の所以が次のように記されている[8]。
領事館の締切はいつも出帆前一時間であつた、併し此船便は一ヶ月一度しかないので通信機関としては到底在留民の希望を満足せしむる訳には行かなかつた、此処で一つの便利は上海天津間を往復する招商局、恰和洋行(ジヤーデン)及太古洋行(バタフイルド)の船が好意を以て日本の切手を貼付せる郵便物を上海局へ送り届け、又上海局よりも此種の郵便物を持つて来て呉れた事であつた、独逸郵便局も既にかゝる方法で該三会社と郵便物を受授して居つた、後には領事より表て向き郵便物の行嚢運搬を依頼したが是亦快く承諾して呉れて上海を経由しても日本韓国宛郵便物を送り得る様になつたがこの事は義和団匪の頃まで継続して居つた様である、当時内地と上海とは書状一通の料金五銭、北京天津とは十銭であつたが是は上海から北京天津迄支那海関の郵便局に托送してその料金が五銭を要するからであつた、先づ支那の十銭の切手を貼つて日本行の書状を天津の支那局へ投函すれば支那局は之を上海へ送る、そこの支那局は日本の五銭の切手を買つて呉れて更に之を書状の上に貼り付け上海の日本局へ交付する事となつて居つた、上海経由の日本来郵便物も其反対の方法で送達せられ、北京天津では支那郵便局が配達して居つた、だから此方法に依る方が一ヶ月一回の郵便船を待つよりも遥かに便利であつた、かくして芝罘天津の受取所が郵便局に改まつたのは明治二十五年十月で翌年解氷後愈々逓信省より局員も渡来し此時より特別の配達人も一人出来た — 郵便小僧、「郵便茶話」、『燕塵』第7号所収(29から33頁)、1908年(明治41年)7月、 燕塵会
芝罘における各国郵便局の進出
芝罘外国人居留地の概要
芝罘における外国人居留地の詳細についてはzh:烟台公共居留地を参照のこと。


1858年6月26日(咸豊8年5月16日)に締結せられた英清間のいわゆる天津条約においては登州を開港地とすると指定していたが、これが不便であるということで1862年(同治元年)3月[35]に芝罘が開港した[70][71]。開港前は一箇の漁村に過ぎなかった芝罘は、外国との貿易を開始してから漸次殷賑の港町となり、各国の領事館が煙台山を包含する東砲台に至る芝罘第一区に集中して設けられ、同所附近在留の外国人は相互に申し合せて共同委員会(General Purpose Committee)を組織し、自らに不動産税及び人頭税を課し、道路修築や下水道整備をはじめとする公共事業に支弁していた[37][38]。ただし、本委員会はなんら法的拘束力を持たない自治組織に過ぎず、租税滞納者に対しても所属国の領事にこれを注意するのみで強制力はなく、また清国人に対してはなんらの負担も求めなかった[37]。
1897年(明治30年)9月3日、同所在留外国人の団体は芝罘において共同租界を設定し、上海における工部局と同様の組織を結成し、行政並びに司法権を管掌したい旨の請願書を各国在留領事に提出した[37][38]。この請願書を受けた領事団は同月21日に共同租界設定に向けて委員を任命し、行政規則や居留地設計について研究する旨を決議し、また1898年(明治31年)2月9日の会議においては租界章程案を在北京各国公使に提出することに決したが、本案はドイツ国政府の反対するところとなり清国政府への提議は見送られた[37]。利害の一致する各国において運動を行いたいとする米国の提案により、日本、英国及び米国は1899年(明治32年)6月に清国政府に対し租界設置の提議を行い、清国政府は在芝罘各国領事と協議する旨を回答したが、その後の進展は特になかった[37]。その後も1905年(明治38年)4月に再び芝罘の各国領事団は、在北京各国公使に租界章程案を提出し、英米の説得に動かされたドイツ公使を加えて1906年(明治39年)4月10日に清国政府へこれを提出しているが、本案は同国政府の容れるところとならず、租界設定案はついに実現しなかった[37][38]。
1909年(明治42年)12月31日、芝罘の共同委員会は同地在住の清国人に公共事業費を負担させ、在留外国人と共同して地方行政に参与させるため、国際委員会(International Committee)を組織して行政事務を管掌する旨を決議し、各国領事の承諾を得た上、1910年(明治43年)1月10日の総会においてこれを解散し、芝罘国際委員会規則(International Committee Regulation, Chefoo)の定めるところにより外国人と清国人から各6名を選出して、同月14日にその最初の会合を催行し、以降同地における自治を担任した[37][38]。本国際委員会は1917年(大正6年)12月16日に同地における外国人の代表団体としてこれを承認して、領事団においてその権限を決定されたい旨の請願を各国領事団に対して提出し、英国及びスウェーデン領事の支持を得たが、日米両国の反対するところとなって頓挫している[37][38]。
上述の如く芝罘における外国人居留地の自治組織は外交協定に立脚せずに組織されたものであり、1910年(明治43年)の国際委員会設立の際には、清国官憲側との間においてその自治に関する取決めがなされているが、これは外国人と清国人の共同管理にかかる本委員会の自治の有様を認めたものに過ぎず、警察権は清国政府の管轄下にあった[37][72]。しかしながら同委員会は他地域から独立した行政を展開していたため、芝罘における外国人居留地は事実上共同租界に準ずる地域であったと評価されている[71][70][37][38]。清国並びに中華民国のみならず、外国からの正式な承認も受けることなく、芝罘の国際委員会は1930年(昭和5年)2月18日の終焉まで自治を継続した[38]。
清国海関郵便局と共同委員会による郵便局
芝罘においては清国総税務司の海関郵便局が各開港場間において郵便取扱を行っていたところ、上述のごとく日本郵便局が進出し、これに続いて外国郵便局の設置が相次いだ[73]。まず在芝罘英国領事アーレンの発起により、1893年(明治26年)6月1日に外国人居留民のための郵便局が設けられた[64]。芝罘上海間は海関郵便局による郵便の逓送を行い得たが、その郵便料金が高額であったため、上海における工部局と連絡し同地工部書信館と同様の性格を有する通信機関を設けることがその目途であった[64]。1899年(明治32年)9月25日、在芝罘日本領事館はこれらの通信機関につき次の通り報告している[74]。
旧来清国ニ於ケル郵政ハ兵部之ヲ総官シ要衝ノ地ヲ撰テ局ヲ置キ之ヲ駅站ト称シ常ニ局内ニ馬匹ヲ貯ヘ一切官信ノ逓送ニ供シ地方官之カ監督ヲナシ又民間ニ在リテハ私立ノ信局ト称スル者アリテ専ラ信書ノ逓送ヲ業トナセリト雖モ其方法頗ル不完全ナルヲ以テ各開港場ニ於ケル外国人ハ工部書信館ヲ設ケ清国政府ニ於テハ総税務司ロバートハートノ建議ニヨリ光緒十六年始メテ各税関内ニ郵便局ヲ設置シ公私信書ノ逓送ヲナセリ此二種ノ郵便局ハ外国人ノ取扱ニ係ルヲ以テ孰レモ文明的郵便ニシテ迅速完全ナレ𪜈只ニ各港間ノ往来ニ止マリ若シ内地ニ信書ヲ発送セントスル時ハ清国政府ノ官書ハ旧来ノ駅馬ニヨリ私信ハ之ヲ信局ニ托スルノ外ナカリキ然ルニ近年清国政府ハ漸ク文明的郵便ノ便益ヲ覚リ光緒二十二年又ロバートハートノ建議ニ基キ税関郵便ヲ改良整頓シ漸次郵便為替小包郵便ヲモ開始シ近頃又内地郵便局ノ設立ヲ謀リ将来益拡張ノ方針ヲ取レリ
当山東省ニ於テモ従前ハ芝罘港ニ一局アルノミナリシカ近来続々各地ニ新設セラレ目下左ノ十九局トナレリ
右ノ中芝罘膠州二局ハ開港場ニ在ルヲ以テ之ヲ主管局(General Office)トイヒ其他ハ之ヲ分局(Sub Office)ト称シ芝罘局ハ税関長局長ヲ兼務シ膠州湾ハ独逸人威海衛局ハ英国人局長タレトモ以外ノ諸局ハ悉ク支那人ナレハ当分多少ノ不完全ハ免レサルヘシト雖トモ従来ニ比シテ通信上ノ便益ハ実ニ鮮少ナラサルナリ — 「清国山東省内地郵政局設立(三十二年九月廿五日附在芝罘帝国領事館報告)」、『通商彙纂』第150号所収(59から60頁)、1899年(明治32年)11月8日、外務省通商局
(中略)
芝罘外国人居留地における郵便局は、前述の芝罘共同委員会によって運営され、郵便事業によって得られた利益は居留地内における道路整備等の公共事業費にあてられていたが、その後清国政府が郵便物の運送を拒絶するに伴って事業継続が困難となり、1899年(明治32年)までに廃止された[75]。
英仏独露郵便局の開設

在清国英国郵便局についてはEN:British post offices in China、在清国ドイツ郵便局についてはEN:German post offices in China、在清国フランス郵便局についてはEN:French post offices in China、在清国ロシア郵便局についてはEN:Russian post offices in Chinaを参照のこと
1896年(明治29年)12月1日、在芝罘ロシア帝国副領事館において郵便局が開設された[76]。在芝罘日本領事久水三郎は次のように報告している[76]。
公信第一一五号 受第一二八四六号
在当地露国副領事館ニ於テ本日ヨリ郵便局ヲ開ラキ事務取扱旨告示有之候
右御通知及候敬具
明治廿九年十二月一日
在芝罘
二等領事久水三郎(印)外務次官小村寿太郎殿
別紙郵税表添 — 明治29年12月1日附公信第115号、「46.在芝罘露国副領事館ニ於テ郵便事務開始之旨同国駐在ノ久水二等領事ヨリ報告之件 明治二十九年十二月」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B12081153200、郵便事務関係雑件 第三巻(3.6.10.1_003)(外務省外交史料館)
1903年(明治36年)8月発行の雑誌において在芝罘ロシア郵便局は次のように記されている[14]。
四 魯西亜郵電局 に至れば五十位の局長J.M.Weinglassあり外に欧人一名清人一名を使役す事務室は十畳位にて次に局長室あり茲にあること已に五年と云ふ其以前は黒龍にありしとか電信は旅順に至る — 「清国漫遊記」、『韓国交通会誌』第4号所収、1903年(明治36年)8月、韓国交通会
1892年(明治25年)6月1日に在芝罘ドイツ副領事館に開設されたドイツ郵便支局は、1900年(明治33年)1月1日に独自の消印を有する正式な郵便局に昇格した[73][77][78]。1903年(明治36年)8月発行の雑誌において在芝罘ドイツ郵便局は次のように記されている[14]。
三 独逸郵便局 此局は今や完全なる煉瓦の二階建新屋成り日本郵船会社支店の隣にありKaiserlich Deutsche Post Amt と金看板を掲ぐるも現在は旧局舎に在りKeine氏局長たり外一人の独人あり何れも英語を能くす此局は電話事務を開始し一昨年より之を創設せるに初は十七名の加入者ありしも今は已に四十名に達せりと十二畳位の室内が事務所現業室兼交換室にて丸で五十人附の交換台一個を据へ朝は八時より夜八時迄清人二名にて之が取扱を為す別に技師あるに非らず又清国の特許を得たるにも非らざるが如し此局には尚電信を取扱ひ膠州湾に一条を設けたり元より当然の権利として為せるものならん電話料金は月額五円にて別に加入料などなし — 「清国漫遊記」、『韓国交通会誌』第4号所収、1903年(明治36年)8月、韓国交通会
また、1902年(明治35年)11月頃には在芝罘フランス郵便局が開設された[79]。在芝罘日本領事水野幸吉は次のように報告している[79]。
公信第二二七号 受第一五三四六号
英仏郵便局開設ニ関スル件
在当港仏国領事ハ此程所謂外国人居留地内ナル旧大北水綫電報公司構内ニ仏国郵便局ヲ開設シ既ニ事務ノ取扱ヲ開始セリ、又英国郵便局モ明年一月ヲ以テ設置セラルヽ筈ナリト云ヘバ当芝罘港ハ遠カラズシテ日、英、仏、独、露、清六ヶ国ノ郵便局ヲ有スルニ至ルベシ
外務大臣男爵小村寿太郎殿 — 明治35年11月18日附公信第227号、「6.芝罘ニ英仏郵便局開設ニ関スル件 同年十一月」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B12081233500、各国郵便局関係在外帝国領事報告一件(3.6.10.22)(外務省外交史料館)
右及報告候敬具
明治三十五年十一月十八日
在芝罘
領事水野幸吉(印)
上掲の報告中に言及されている在芝罘英国郵便局は、1903年(明治36年)1月2日に開設された[80]。在芝罘日本領事水野幸吉は次のように報告している[80]。
公信第一号 受第六八〇号
英国郵便局開設ノ件
本年一月ヨリ当地ニ英国郵便局開設セラルベキコトハ昨年中已ニ報告シ置キタルガ該郵便局ハ愈本月二日ヨリ当港「カーチス」商会ノ構内ニ開設セラレ事務取扱ヲ開始セリ、而シテ当地ニ於テ香港銀四仙ニ相当スル郵便切手ヲ貼用シ該局ニ投シタル信書ハ「ペニーポステージ」信書トシテ英領何レノ地方ヘモ自由ニ発送セラルヽコトトナレリ
外務大臣男爵小村寿太郎殿 — 明治36年1月5日附公信第1号、「8.芝罘ニ英国郵便局開設之件 明治三十六年一月」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B12081233700、各国郵便局関係在外帝国領事報告一件(3.6.10.22)(外務省外交史料館)
右及報告候敬具
明治三十六年一月五日
在芝罘
領事 水野幸吉(印)
1907年(明治40年)3月15日附在芝罘日本領事小幡酉吉の報告によれば、同所においては青島方面の郵便はドイツ郵便局、威海衛及び香港方面の郵便は英国郵便局によって逓送するのが最も便利であったという[73]。
在芝罘ドイツ郵便局における電気通信事業

ドイツ政府は1897年(明治30年)に青島 - 芝罘間に海底電信線を敷設し、続いて北清事変中の1900年(明治33年)に同線を上海に延長して通信を行った[81]。1899年(明治32年)作成のドイツ政府文書によれば、本線は膠州湾租借地を世界の電信系統に確実に接続させるための事業であり、青島や上海におけるドイツ郵便局がその運用を行うことが想定されていた[82]。なおこの上海へ至る海底電信線は北清事変の混乱に乗じて敷設されたもので、清国及び大北電信会社の承認は受けていなかったが、1907年(明治40年)5月31日に疎通する電報はドイツ官報に限るとして清国政府と協約が成立した[83]。1905年(明治38年)11月1日には上海と独領ヤップ島の間にも海底電信線が敷設されており、同国は太平洋と東亜において独自の海底電信網を構築していた[81][84]。在芝罘ドイツ郵便局においてはこうした電信事務のほか、1901年(明治34年)の夏以来、電話事務も取扱っていたが[73]、1910年(明治43年)に清国政府に買収されている[85][86]。買収後の電話事業については、『逓信協会雑誌』に次のようにある[87]。
芝罘は先年独逸郵便局の経営たりしを五六萬弗を以て支那政府の買収せるもの独逸の譲渡上の条件中同国製造の機械材料に限り使用するの一項ありし由なるも戦後の今日は米国輸入のものと稀には日本製のものあるを見る
加入者四百名、申込料墨銀十弗、使用料は月額墨銀五弗。 — 愛敬生、「支那に於ける電話と無線」、『逓信協会雑誌』第155号(45頁)、1921年(大正10年)5月、逓信協会
日清戦争による一時閉鎖
1894年(明治27年)8月1日、清国ニ対スル宣戦ノ詔勅が渙発され[88]、日清両国は戦争状態に入り、芝罘郵便局は同月4日に閉鎖された[9]。これに先立ち逓信大臣黒田清隆は同年7月24日に外務大臣陸奥宗光へ領事館引揚の際は、天津及び芝罘郵便局員も同様に保護の手続を行うよう依頼している[89]。他の在清国郵便局も同じく閉鎖されたが、日清両国間における郵便交換は停止されたわけではなく、明治27年逓信省告示第193号に北京や芝罘等の清国各地に宛てる郵便料金を改正しているように、両国間における郵便交換自体は行われていた[90][91]。終戦後の1895年(明治28年)7月20日にその再開が予告され[92]、同年9月8日より事務取扱を再開した[10]。在芝罘日本領事久水三郎は同日より逓信官吏高垣徳治が選任書記として来着し事務取扱を開始したと同月13日に報告している[64]。
日露戦争の影響
郵便物逓送
日露戦争の開戦に伴い、芝罘をはじめとして北支において日本郵便局を設置していた北京、天津及び牛荘に対する清韓小包郵便を逓送すべき従来の航路による方途が杜絶し、同地域に対する小包郵便物の逓送は、万国郵便連合小包によるほかない旨が1904年(明治37年)2月10日に告示された[93][94]。これらの各地に対する通常郵便物は暫時上海郵便局経由で清国に委託し、また小包郵便物についてはドイツ国及びフランスの媒介によって万国郵便連合小包として逓送を行ったが、清国との交渉の結果、同年3月1日に上海郵便局経由による清韓小包郵便の北支方面に対する逓送が実現し、その取扱が再開された[94][95]。
軍用手票の取扱

日露両国関係の緊張に鑑み、日本政府は1904年(明治37年)2月6日に軍用切符取扱順序を閣議決定し、円銀10銭、20銭、50銭、1円、5円及び10円の6金種を発行して流通した[12][96]。在外郵便局においては、まず同年5月10日に京城、平壌、仁川、鎮南浦及び元山の在大韓帝国日本郵便局にその取扱を開始し、続いて1905年(明治38年)4月4日に芝罘、天津及び北京郵便局において取扱を開始した[12][13][97]。その取扱手続の順序については同年6月30日附秘第1809号天津芝罘及北京本邦郵便局ニ於ケル軍用手票及円銀等受入手続によって改正され、以降の取扱はこれによって行われた[12][13]。なお、秘第1809号天津芝罘及北京本邦郵便局ニ於ケル軍用手票及円銀等受入手続は、1911年(明治44年)5月19日附秘乙第821号により同月18日に廃止された[98]。
横浜正金銀行は政府の要望により軍用手票の声価維持や軍需品代金の支払いを目的として芝罘出張所を開設し、同所において1905年(明治38年)6月9日から当該業務を行っていた[99][100]。芝罘郵便局において受入れた軍用手票や円銀は同出張所へ納入して保管し随時中央金庫に納付することとなっていた[13]。かつて横浜正金銀行芝罘出張所に勤務した與田作造は当時の業務について次のように回想し芝罘郵便局職員の助力を得たとしている[101]。
芝罘は、渤海を隔てていても、旅順といわば目と鼻の間にあるところです。日露戦争の最中に、ロシア側はこの芝罘にあった露亜銀行の支店に命じて日本軍票の安売をさせたので、日本側もこれに対抗手段を講じようということになりました。そこで、明治38年(1905)6月、政府の意を受けた正金は芝罘の英租界に店を開き、露亜銀行よりもよい相場で―上海の軍票相場と芝罘の華街で建つ相場をにらみ合わせながら―どんどん日本軍票を買上げたのです。(中略)このとき芝罘の店で働いていたのは、杉原支配人以下4~5名の日本人と5~6名の中国人です。これだけの人数ではとても扱いきれないほどの軍票が毎日持ち込まれては苦労していました。それを、近くにあった日本郵便局の高垣という局長が、見るに見かねて手伝いに来ているうちに、とうとう本職をやめて正金の行員になった、という話もあります。 — 與田作造、「東西印象記」、(所収:東京銀行編、『横浜正金銀行全史・第六巻』(488頁)、1984年(昭和59年)3月、東京銀行)
日露戦争後の1909年(明治42年)9月末をもって同出張所は普通業務の発展の見込みがないとして閉鎖された[100]。従前、芝罘郵便局においては同出張所により資金及び超過金の授受を媒介していたが、この閉鎖によって暫時現金逓送便により上海郵便局においてその授受を行うこととなった[102]。しかし、上海郵便局は遠方であって不便であるため、1910年(明治43年)6月からは日本通貨に限り牛荘郵便局においてこれを行うように改められた[102]。
郵便業務の変遷
一般規則
1893年(明治26年)3月2日、天津及芝罘郵便局郵便取扱順序(明治26年郵第1046号達)を定めた[103]。その内容は芝罘郵便局については次の通りであった[103]。
芝罘郵便局郵便取扱順序
総則
(引用者註:本達の末尾に掲げる各書類の様式は省略する) — 明治26年郵第1046号達、(所収:逓信省編、『明治廿九年八月現行 逓信法規類纂 郵便編』(718から727頁)、1897年(明治30年)3月、逓信省)
一 此順序ハ芝罘郵便局ノ郵便物取扱手順ヲ規定ス
二 此順序ニ明文ナキ事項ニシテ郵便取扱規則ニ準據シ得ヘキ事項ハ総テ該規則ニ従ヒ便宜処理シ局長其責ニ任スヘシ
但万国郵便条約仝実施細目規則其他規則令達ニ明文アルモノハ各其規則令達ニ従フヘシ
郵便物受付方
三 郵便物ヲ差出シタルトキハ自局ニ於テ受付ヘシ
但清国及朝鮮国中本邦出張郵便局ナキ地ニ達スルモノハ之カ受付ヲ拒絶スヘシ
四 書留郵便物ヲ受付ルトキハ受付原簿(ロ号)ヘ式ノ如ク記入シ一片ヲ領収證トシテ差出人ヘ交付シ他ノ一片ハ扣トシテ保存スヘシ
五 清国海関郵政局若クハ工部書信館ニ依リ逓送スヘキ郵便物ヲ受付ルトキハ其郵便物ノ仝局館ノ成規ニ抵触セサルヤ否ヤヲモ検査スヘシ
差立郵便物取扱方
六 凡テ郵便物ハ検査済ノ後貼付切手又ハ税額印面ニ消印ヲ施シ郵便物ノ実数ヲ其種類ニ従ヒ送致證(イ号)ノ相当欄内ニ記入シ信書端書ト其他ノ郵便物トヲ区分シテ各別ニ結束シ行嚢ニ納メ封印ヲナシ名宛郵便局名ヲ記シタル標札ヲ付スヘシ
七 書留郵便物ハ原簿ト同一ノ番号ヲ朱記シ一括シテ書留目録(ハ号)ヲ添付シ赤行嚢ニ納メ封印ヲ施シ更ニ通常郵便物ノ行嚢ニ納ムヘシ
但送致證(イ号)ハ毎便二葉ニ調製添付スヘシ且到着局ニ於テ船中集ノ郵便物数ヲ其相当欄内ニ記入シ返礼シタルトキハ当初其局差立ノ員数ト合算スヘシ
八 不足税若クハ未納税ノ郵便物ハ不足若クハ未納印ヲ押捺シ他ノ郵便物ト区別ヲナシ一括トシテ通常郵便物行嚢ニ納ムヘシ
但不足税郵便物ノ内信書ハ未納税其他ノ郵便物ハ完納税ノモノト合算スヘシ
九 海関郵政局若クハ工部書信館ニ依リ逓送ノ郵便物モ成ル可ク前各項ニ準シテ取扱フヘシ
郵便物発送方
十 郵便物ハ日本郵船会社汽船ニ依リ発送シ冬季北洋航路不通ノ間天津ヘノ郵便物ニ限リ清国海関郵政局ニ依リ逓送スヘシ
但天津上海朝鮮及本邦ヘ航行ノ外国船舶ニシテ我郵便物ノ搭載ヲ承諾スルモノアリテ局長ニ於テ安全ト認ムルトキハ之ニ依テ差立ヲ為スヿヲ得
十一 上海局宛締切ノ郵便物ハ工部書信館ニ依リ逓送スルヿヲ得
但此場合ニ於テ書留郵便物ハ海関郵政局ニ依リ書留トシテ逓送スヘシ
十二 郵便物ハ天津上海若クハ仁川ノ本邦郵便局宛締切行嚢トシテ差立ヘシ
但本文各地ヲ除キ朝鮮各開港若クハ本邦ヘ航行スル船舶ニ依リ郵便差立ヲ要スル場合アルトキハ其最初ノ到着地ナル本邦郵便局宛締切トナスヘシ
十三 海関郵政局若クハ工部書信館ニ依リ差立ル郵便物ハ行嚢ヲ用ヒス信書端書ト其他ノ郵便物トヲ区分シ各別ニ厚紙ヲ以テ充分安全ニ包装シ名宛郵便局名ヲ表記シ其海関郵政局ニ依ルモノハ書留トナシテ発送スヘシ
十四 船舶若クハ其所属会社ヘ郵便物ヲ交付スルトキハ行嚢交付帳ヲ適宜調製シ行嚢数ニ対スル受領證ヲ取置クヘシ
但海関郵政局又ハ工部書信館ヘ郵便物ヲ交付スルトキハ成ル可ク本項ニ準シテ取扱フヘシ
到着郵便物取扱方
十五 凡テ郵便物到着スルトキハ先ツ其送致證ニ照シテ実数ヲ検査シ一々日附印ヲ押捺シテ之ニ保管シ置キ受取人ノ請求ヲ待テ其正当受取人タルヲ證明セシメテ之ヲ交付スヘシ
但到着ノ日ヨリ二週間以内ニ交付シ能ハサル郵便物ハ其表書ヲ謄写シ二週間局前ニ掲示シ尚ホ受取人ナキトキハ其旨付箋シテ天津上海若クハ仁川局ヘ送付スヘシ
十六 書留郵便物到着スルトキハ到着原簿(ニ号)ヘ式ノ如ク其氏名宿所等ヲ記入シ受取人ヘ交付ノ際該原簿ノ「領収印」トアル部ヘ受取人ノ記名調印「外国人ナレハ記名ノミ」ヲ取置クヘシ
但差立局ヨリ送付ノ書留目録ハ郵便物ニ対照シ相違ノ廉ナキトキハ「受取主任印」トアル部ニ押印シ次便ヲ以テ差立局ヘ返戻スヘシ
十七 日本郵船会社若クハ其他ノ船舶船員ヨリ船中集郵便物ヲ受取ルトキハ総テ自局ニ於テ受付タルモノト同様ニ取扱フヘシ
但其郵便物数ハ該便差立局ヨリ到着ノ郵便物数ト合算スヘシ
十八 他局ヨリ送付ノ送致證ニ記載ノ事項ニ誤謬アルトキハ之ニ校正シテ主任者之ニ検印シ且該便ニ属スル船中集郵便物アルトキハ送致證ノ船中集郵便物相当欄内ヘ夫々記入ノ上次便ヲ以テ其一葉ヲ差立局ヘ返戻シ他ノ一葉ハ其局ニ保存スヘシ
十九 不足税若クハ未納税郵便物ハ受取人ニ交付ノ際其不足税若クハ未納税ノ二倍ニ相当スル高ノ郵便切手ヲ貼付シ不足若クハ未納ノ印ヲ以テ之ヲ消印シ其金額ヲ徴収シテ後交付スヘシ
補則
二十 郵便締切時刻ハ其郵便物ヲ搭載スヘキ船舶出帆時刻又ハ海関郵政局若クハ工部書信館郵便締切時刻前一時間以内ニ於テ予メ適宜ニ之ヲ定メ可成局前等ヘ掲示スヘシ
但船舶出発時刻等予知シ難キ歟若クハ予定時刻変更ノ場合ニ於テハ本項ノ規定ニ拘ハラス局長ニ於テ適宜締切時刻ヲ定メ出帆時間ニ後レサル様注意スヘシ
廿一 総テ発着ノ郵便物数ハ毎年一月ヨリ始メ三ヶ月毎ニ送致證ニ依テ調査シ別紙式紙ニ準シテ記載シ次月初メニ於テ郵務局ヘ報告スヘシ
1898年(明治31年)9月1日、在清国本邦郵便局郵便物取扱順序(明治31年逓信省公達第395号)を施行し、天津及芝罘郵便局郵便取扱順序(明治26年郵第1046号達)を廃止した[104]。その内容は次の通りであった[104]。
◯公達第三百九十五号 明治三十一年七月三十日
在清国本邦郵便局
在清国本邦郵便局郵便物取扱順序左ノ通相定メ来九月一日ヨリ施行ス
但シ明治二十六年三月郵第一〇四六号天津及芝罘郵便局郵便取扱順序ハ本公達施行ノ日ヨリ廃止ス在清国本邦郵便局郵便物取扱順序
(引用者註:本達の末尾に掲げる各書類の様式は省略する) — 在清国本邦郵便局郵便物取扱順序(明治31年逓信省公達第395号)、(所収:逓信省通信局編、『明治三十四年十二月一日現行 逓信法規類纂 郵便編』(674から684頁)、1901年(明治34年)12月、逓信省通信局)
第一章 総則
第一条 此ノ公達ハ在清国本邦郵便局ノ郵便物取扱手続ヲ規定ス
第二条 此ノ公達ニ明文ナキ事項ハ郵便局長此ノ公達ノ精神ニ従ヒ便宜処理シ其ノ責ニ任スヘシ但シ万国郵便条約、同実施施目規則其ノ他規則令達ニ明文アルモノハ各其ノ規定ニ従フヘシ
第三条 郵便局ノ執務ヒ及開局時間ハ局長之ヲ定メ逓信大臣ニ届出ツヘシ其之ヲ変更スルトキ亦同シ
第二章 差立郵便物取扱方
第四条 郵便物ハ郵便局ニ於テ之ヲ引受ヘシ但シ清国中本邦郵便局ノ設置ナキ地ニ宛テタルモノハ之カ引受ヲ拒絶スヘシ
第五条 書留郵便物ヲ引受ルトキハ引受原簿(イ号)ヘ炭酸紙ヲ用ヰ式ノ如ク記入シ引受證ノ部ヲ切放チ差出人ニ交付スヘシ
第六条 凡テ郵便物ハ引受ノ後充分点査ヲ遂ケ貼附切手若ハ税額印面ニ日附印ヲ押捺シ又他局引受ノ郵便物ニシテ自局継越ニ係ルモノハ其余白ヘ日附印ヲ押捺シ通常郵便物ハ信書端書ト其ノ他ノ郵便物トヲ区分シテ各別ニ結束シ行嚢ニ納メ封印ヲ施シ名宛郵便局名(大字)及差立郵便局名(小字)ヲ記シタル標札ヲ附スヘシ
第七条 書留郵便物ハ引受原簿ニ記載セルモノト同一ノ番号ヲ記入セル標符(ロ号)ヲ貼附シ若ハ同一ノ番号ヲ朱記シ書留差立原簿(ハ号)ヘ炭酸紙ヲ用ヰ式ノ如ク記入シ書留目録ノ部ハ切放チ郵便物ニ添付シ赤行嚢ニ納メ封印ヲ施シ更ニ通常郵便物ノ行嚢ニ納ムヘシ
第八条 別配達不足税未納税ノ郵便物及到達證ヲ要スル郵便物ハ各其ノ記号ヲ郵便物ニ表記シタル后他ノ郵便物ト区別シ各把束トナシ別配達及到達證ヲ要スルモノハ赤行嚢ニ不足税未納税ノモノハ通常郵便物ノ行嚢ニ納ムヘシ
第九条 行嚢送達證(ニ号)ハ式ノ如ク調製シ通常郵便物ノ行嚢ニ納ムヘシ
送致證ヲ納レタル行嚢ニハ其ノ標札ニ特ニ「送致證」ナル文字ヲ記載スヘシ
第十条 郵便行嚢ハ日本郵船株式会社及特ニ指定セル会社ノ汽船ニ依リ又冬期間北洋氷結其ノ他特別ノ事情アルトキハ清国郵便局若ハ外国郵便局ニ托シ差立ツヘシ但シ本邦、清国及附近諸港若ハ韓国ヘ航行ノ内外国船舶ニシテ局長ニ於テ安全ト認メ得ルモノアルトキハ便宜之ニ依リ差立ツルコトヲ得
第十一条 前条ノ場合ニ於テハ相当ノ資格ヲ有スル局員会社若ハ船員ヲシテ郵便行嚢受取書(ホ号)ニ記名若ハ調印セシムヘシ
第十二条 同一航路ノ汽船寄港地ニ於ケル郵便局ヘ差立ツヘキ郵便物ハ総テ最初ノ郵便局宛締切行嚢ニ納ムヘシ但シ郵便物数夥多ナルトキハ若ハ船舶発着時刻等ノ都合ニ依リ最近局ニ於テ継越ノ手続ヲナス遑ナシト認ムルトキハ特ニ各局宛締切行嚢ニ納ムヘシ
第三章 到着郵便物取扱方
第十三条 郵便物ヲ搭載セル汽船入港シタルトキハ旗章掲揚若ハ局前掲示等ノ方法ニ依リ成ルヘク速ニ其ノ旨公衆ニ告知スヘシ
第十四条 郵便物到着シタルトキハ先ツ其ノ行嚢送致證及書留目録ニ照シ点差ヲ遂ケ相違ノ廉ナキヲ認ムルトキハ行嚢送致證ハ其ノ儘保管シ書留目録ハ其ノ受取證ノ部ニ式ノ如ク記入シ主任者記名若ハ調印ノ上之ヲ切放チ次便ヲ以テ差立局ヘ送付スヘシ若シ相違ノ廉アルヲ認ムルトキハ其ノ箇処ヲ訂正シ次便ヲ以テ其ノ旨差立局ヘ通知スヘシ
第十五条 到着郵便物ハ一々検査ノ上日附印ヲ押捺シ自局到達ノモノハ其ノ局ニ保管シ窓口ニ於テ交付ノ準備ヲナスヘシ
第十六条 受取人ヨリ郵便物ノ交付方申出ツルトキハ其ノ正当受取人タルコトヲ認メタル後通常郵便物ハ直ニ書留郵便物ハ交付證(ヘ号)ト引換ニ之ヲ交付シ書留目録ノ附註欄内ヘ其旨ヲ記載スヘシ但シ書留郵便物ノ交付方ニ付テハ明治二十八年六月公達第二百二十五号ノ規定ヲ準用スヘシ
第十七条 不足税若ハ未納税郵便物ハ受取人ニ交付ノ際其ノ不足税若ハ未納税ノ二倍額ニ相当スル郵便切手ヲ貼附シ不足若ハ未納ノ印ヲ以テ之ヲ消印シ其ノ金額ヲ徴収シタル后交付スヘシ
第十八条 到着セル郵便物ニシテ清国中本邦郵便局ノ設置アル地ニ宛タルモノハ第六条乃至第十二条ノ手続ニ依リ本邦郵便局宛締切行嚢ニ納メ次便ヲ以テ差立ツヘシ
第十九条 本邦若ハ其ノ他ノ郵便聯合国ヨリ到着シタル郵便物ニシテ清国中本邦郵便局ノ設置ナキ地ニ宛タルモノハ日附印ヲ押捺シ閉嚢ニテ清国郵便局ヘ交付スヘシ但シ書留郵便物ニ対シテハ領収證ヲ徴シ書留目録ノ附註欄内ヘ其ノ旨ヲ記載スヘシ
第二十条 本邦汽船ヨリ船中集郵便物ヲ受取ルトキハ総テ自局引受ノモノト同様ニ取扱フヘシ
第四章 附則
第二十一条 郵便締切時刻ハ其ノ郵便物ヲ搭載スヘキ船舶出帆時刻又ハ清国若ハ外国郵便局ノ郵便締切時刻前一時間以内ニ於テ適宜之ヲ定メ成ルヘク局前等ニ掲示スヘシ但シ本項ニ掲クル出帆若ハ締切時刻予知シ難キ歟若ハ予定時刻変更ノ場合ニ於テハ本条ノ規定ニ拘ラス局長ニ於テ適宜締切時刻ヲ定メ出帆若ハ締切時刻ニ後レサル様注意スヘシ
第二十二条 此ノ公達ニ規定セル式紙及帳簿ニハ適宜邦語若ハ清国語ヲ以テ其ノ訳文ヲ附記スルモ妨ケナシ
該式紙及帳簿ハ毎一箇年分綴置キ三箇年間之ヲ保存スヘシ
上掲の在清国本邦郵便局郵便物取扱順序(明治31年逓信省公達第395号)は、1910年(明治43年)4月1日の清韓郵便規則(明治43年逓信省令第11号)及び清韓郵便取扱規程(明治43年逓信省公達第269号)施行に伴い廃止された[105][106][107]。清韓郵便取扱規程は清韓郵便規則の日清郵便規則への改称に伴い、1911年(明治44年)1月1日に日清郵便取扱規程と改称され(明治43年逓信省公達第1020号)[108][109]、その後、大正2年逓信省令第105号により諸令中の「清国」を「支那」、「日清」を「日支」に改めた際に合わせて日支郵便取扱規程と改称された(大正2年逓信省公達第765号)[110][111][112]。
配達証明郵便の取扱開始
内地においては1892年(明治25年)5月16日より配達証明郵便規則(明治25年逓信省令第8号)を施行し、配達証明郵便の取扱を開始していたが、同令第8条によって外国郵便には適用されていなかった[113]。この配達証明郵便規則第8条は、1898年(明治31年)10月20日に改正され、「帝国郵便局ノ設置アル清韓各地」を例外として、各在外郵便局が配達証明郵便の取扱を開始した[114][115]。
小包郵便
1898年(明治31年)12月1日、芝罘郵便局は小包郵便の取扱を開始した[116]。これに伴い小包郵便法施行細則(明治25年逓信省令第13号)に清韓小包の章を設け、清韓両国における小包の配達及び別配達はその郵便局の配達地域に限ること、小包にかかる関税については輸出税は差出人、輸入税は受取人において負担すべき旨などを定めた[117]。合わせて清韓小包郵便取扱手続(明治31年逓信省公達第583号)を定め、清韓小包は内国小包郵便と見做す旨などを定めた[118]。
1900年(明治33年)10月1日、清韓小包郵便に関する規程として別に清韓小包郵便規則(明治33年逓信省令第56号)を施行し[119]、合わせて清韓小包郵便取扱規程(明治33年逓信省公達第462号)を定め、清韓小包郵便取扱手続(明治31年逓信省公達第583号)を廃止した[120]。これにより以降在清国日本郵便局における小包郵便の取扱は、清韓小包郵便取扱規程第27条から第31条によって行うものとされた[120]。ただしこの時代における清韓小包というのは、清韓両国側の郵便官署において取扱うものではなく、両国に設置されていた日本郵便局が取扱うものであって、日清及び日韓間のみならず、清韓間における小包の逓送も日本郵便局がこれを管掌した[121]。
1902年(明治35年)1月1日、外国小包郵便規則(明治34年逓信省令第51号)を施行し[122]、合わせて各在外郵便局において取扱う外国小包郵便物については上記の清韓小包郵便規則及び外国小包郵便規則のうち、外国小包郵便規則に抵触しない規定を準用する旨が定められた[123]。
各地宛郵便物の内国郵便物化
1899年(明治32年)1月1日、台湾を含む日本及び在大韓帝国日本郵便局及び電信局と在清国日本郵便局との間ならびに在清国日本郵便局相互間に発着する郵便物は万国郵便条約を適用せず、内国郵便物として取扱い、内国郵便料金を適用することとなった[124][125]。これにより以降日清韓両国の日本郵便局相互間における郵便物はすべて内国郵便料金によった[126]。ただし、引受、逓送、配達及び交付等の手続きは従前の例によるものとされた[127]。また、1900年(明治33年)10月1日より施行された郵便規則(明治33年逓信省令第42号)は、各在外郵便局においても別に定めるものを除きこれを準用するものと定められた[128]。
在清国日本郵便局における郵便切手及び収入印紙の特殊取扱

1899年(明治32年)12月20日、在清国日本郵便局が売下す収入印紙には清国の文字を加刷し、翌1900年(明治33年)1月1日には郵便切手にも支那の文字を印刷し、いずれも日本国内においては使用不可とした[129][130]。当時、清国における在留日本人の日常的取引には洋銀を用いており、切手や印紙の購入のために一々これを邦貨に換算する煩を避けるため、邦貨との間に差を設けず、等価によってこれを売下していたが、通貨相場は邦貨が優位にあったため、在外局各所で購入したものを内地の郵便局において払戻して差額を利得する転売行為が横行していた[131]。このため、在外郵便局発行の郵便切手や収入印紙を内地に通用させないようにこのような措置がとられた[131]。なお、芝罘郵便局においては1900年(明治33年)5月1日より収入印紙の売下を開始した[132]。
1908年(明治41年)3月1日、郵便切手に支那の文字を加刷するとした明治32年逓信省令第48号を廃止し、新たに明治41年逓信省令第8号によって関東都督府管内を除く在清国郵便局が売下す郵便切手には支那の文字を印刷する旨を定めた[133]。更に1910年(明治43年)1月1日には明治41年逓信省令第8号を廃止し、明治42年逓信省令第61号によって郵便切手のみならず、往復葉書の返信部を除く郵便葉書にも支那の文字を加刷し、日本内地において通用し得ないように定めた[134]。
軍事郵便物の取扱開始
海外派遣ノ軍隊軍艦軍衛其他軍人軍属ニ関スル郵便物ノ件(明治27年勅令第67号)によって定められた軍事郵便取扱細則(明治27年逓信省公達第241号)第5条においては、野戦郵便局が設置されていない場所において軍事郵便物の取扱を必要とする場合には、普通の郵便局を指定してその取扱を行うことができると規定されていた[135]。これにより北清事変に際して芝罘郵便局は1900年(明治33年)6月30日に軍事郵便物の取扱局に指定された[136][137]。なお北支派遣の軍人軍属等や天津及び芝罘郵便局に宛てて内地より発する郵便物については、広島郵便電信局宇品支局及び門司郵便電信局がその直接差立局に指定された[138]。
価格表記郵便物、代金引換郵便物及び現金取立郵便物の取扱開始
1902年(明治35年)6月20日、在清国及び大韓帝国各在外郵便局所において特殊取扱郵便物のうち、価格表記通常郵便物、代金引換通常郵便物及び現金取立郵便物の取扱を開始した[139]。基本的な取扱は郵便取扱規程(明治33年逓信省公達第432号)の規程を適用したが、本邦ト在外局相互間ニ発着セル価格表記代金引換及現金取立郵便物取扱方ノ件(明治35年逓信省公達第308号)により、価格表記郵便物は配達を行う局であるか否かにかかわらず、あらかじめ配達証を受取人に送付し、その出頭を待って配達証との引換によりこれを交付するものと定められた[140]。また、価格表記通常郵便物、代金引換通常郵便物及び現金取立郵便物の逓送は臨時船に託することを禁じられていた[140]。
価格表記信書及び箱物の取扱開始
1902年(明治35年)12月1日、日本は万国郵便連合の価格表記信書及箱物交換約定に加盟し[141]、合わせて外国郵便規則(明治33年逓信省令第55号)を改正し、価格表記信書及箱物交換約定施行細則(明治35年逓信省告示第541号)を定めた[142]。ただし、外国郵便規則第1条により在清国及び大韓帝国日本郵便局においては、その取扱を当分行わない旨を告示していた[143]。その後、1905年(明治38年)9月1日よりその取扱を開始することとなった[144]。
郵便為替及び郵便貯金業務
1900年(明治33年)3月6日、芝罘郵便局においては外国郵便為替事務を除く郵便為替及び郵便貯金事務の取扱を開始した[11]。外国郵便為替事務については、同年7月1日に英国及びその媒介為替及び米国為替の受払ならびにベルギー為替の払渡を除き取扱を開始している[145]。
同年中には北清事変勃発の影響により、6月30日に通常郵便為替の制限額が解除され[146]、9月15日には證書一枚の金額に制限を付せずに通常為替の振出を取扱う旨が定められたが[147]、その後情勢の変化に伴い、1901年(明治34年)3月26日に郵便為替振出にかかる最高額は一人一日金百円に制限された[148]。『逓信省年報』はその理由につき、次のように述べている[149]。
北清事件ノ起ルヤ一般金融機関ハ杜絶シ金円ノ送受ハ一ニ郵便為替ニ依ルノ外ナキニ至リタルヲ以テ為替ノ振出大ニ増加シ常規ニ依リテハ其煩ニ堪ユル能ハス故ニ天津及芝罘局振出為替金高ノ制限ヲ解キテ其手数ヲ省略シ併セテ派遣軍人軍属其他在留人ノ利便ヲ図レリ然ルニ本年度末ニ至リ銀価ノ下落及其他ノ原因ニ依リ当時北清地方ニ在リテハ郵便為替ヲ利用シ奇利ヲ貪ラントスル者アリ為ニ北清本邦局所ニ於ケル為替ノ振出ハ非常ニ増加シタルヲ以テ其弊害ヲ防止センコトヲ企図シ其振出最高限ヲ一人一日百円ニ限定シタリ — 逓信省総務局文書課、『逓信省第十五年報』(175頁)、1902年(明治35年)4月、逓信省総務局
1900年(明治33年)9月20日、上海郵便局は外国郵便局に対し直接万国郵便連合為替ならびに香港及びその媒介による為替の振出及び払渡の取扱をする局に指定され、芝罘郵便局は同局経由によりその受払を行う旨が定められた[150]。その後、外国郵便為替取扱開始時に取扱わないと定めていた外国郵便為替のうち、同年10月1日に米国為替の受払[151]、同年11月6日に英国及びその媒介為替の受払を開始した[152]。1901年(明治34年)6月20日には在芝罘ドイツ郵便局をはじめとする在清国ドイツ郵便局振出の郵便為替払渡を内地の各郵便局が開始したのに伴い[153]、芝罘郵便局におけるドイツ為替の払渡が廃された[154]。また、同年10月1日にはフランス為替の振出及び払渡が廃止され[155]、同年11月16日にはベルギー為替の払渡が開始された[156]。
1903年(明治36年)9月25日、各郵便局所において取扱わない外国郵便為替の種別が一括して示され、そのうち芝罘郵便局においてはフランス為替の振出及び払渡ならびにドイツ及びその媒介為替の払渡を取扱わない旨が改めて定められた[157]。なお、同時に在芝罘ドイツ郵便局は万国連合郵便為替約定により日本と外国郵便及び電信為替を交換する郵便局に指定された[158]。

日本と英国の間においては英領香港並びに在清国各英国郵便局[159]を除き、帝国日本駅逓局ト大英国駅逓院トノ間ニ取結ヒタル郵便為替定約(明治14年太政官布告第51号)に基づき1881年(明治14年)10月1日より郵便為替の交換を開始し[160][161]、その後1890年(明治23年)7月1日の大日本帝国逓信省ト大貌列顛郵政院トノ間ニ締結セル改正郵便為替定約(明治23年勅令無号)によってこれを全部改正していた[162][163]。1904年(明治37年)2月13日に芝罘郵便局においては英国及びその媒介為替の払渡を取扱わない旨が定められたが[164]、同年3月10日より在芝罘英国郵便局が前記の日英間特別郵便為替条約にかかる外国郵便及び電信為替を交換する郵便局に指定された[165]。同時に芝罘郵便局においては香港及びその媒介為替の払渡を取扱わない旨が新たに定められた[166]。
1908年(明治41年)2月24日、芝罘郵便局においては北京郵便局及び天津郵便局並びにその出張所と共に電信為替通報及び電信為替證書の別配達事務を除く電信為替事務の取扱を開始した[167]。『逓信省年報』においては次のようにその理由が記述されている[168]。
従来北清各局ニ於テハ牛荘郵便局ヲ除クノ外其所在地ニ電信局ノ設ケナカリシカ為メ電信為替ノ取扱ヲ為サヽリシカ戦後国運ノ発展ニ伴ヒ北清各地ニ渡航スルモノ愈々多キヲ加フルニ至レルヲ以テ此等渡航者ノ需要ニ応センカ為メ天津局並ニ其出張所及北京芝罘ノ各局ニ電信為替ノ取扱ヲ開始シ而シテ其通報ハ芝罘局ニ在リテハ大連電信局ヲ経由シ其他ハ総テ営口電信局ヲ経由セシメ該電信局ト当該郵便局間ハ郵便接続ノ方法ニ依ラシムルコトヽシ四十一年三月十六日ヨリ之ヲ施行セリ — 逓信省、『逓信省第廿二年報』(50頁)、1909年(明治42年)3月、逓信大臣官房
独立局舎への移転
1900年(明治33年)2月16日、逓信省の明治32年度歳出科目臨時部営繕費の款に芝罘郵便局倉庫新営費の目を追加した[169]。しかし、1901年(明治34年)11月19日に会計検査院が提出した明治32年度歳入歳出決算検査報告において本支出は予算要求がないにもかかわらず支出したもので、且つ倉庫の新築に名を借りた事実上の局舎建設にあたるものであり、予算に定める目的外使用を禁ずる会計法(明治22年法律第4号)第12条違反であると次の通り報告された[170]。
本項ニ於テ逓信省通信局ノ支出ニ係ル清国芝罘郵便局倉庫新営工費
ハ本年度予算ニ要求ナキモノナルニ本項(引用者註:第三款営繕費第三項新営費)ヨリ支出シタルモノナリ又設計書類ニ依レハ煉瓦造二階建トシ楼上ヲ倉庫ニ下室ヲ局舎ニ充ツルノ目的ヲ以テ玄関ヲ設ケ小使室、物置便所等ヲ建設スルノ計画ニシテ其後明治三十三年度ニ至リ更ニ楼上ノ一部モ亦寝室ニ併シタル等其事実倉庫新営ニアラサルコト明ナリ依テ本件ハ名ヲ倉庫新営ニ藉リ局舎ヲ新築シタルモノニシテ予算ノ目的外ニ属シ会計法第十二条ニ違背シタルモノトス — 明治三十二年度歳入歳出決算検査報告、(出典:会計検査院長官官房調査科編、『検査報告集 第一輯 (自明治二十四年度至明治三十四年度臨時軍事費特別会計)』、1935年(昭和10年)、会計検査院長官官房調査科)
これに対し、政府は本倉庫新営工事は当初より予定したものであり、且つ倉庫の位置が局舎(在芝罘日本領事館)と離れているため、局員や雇員を配置する必要があるから多少の設備を施したに過ぎず、予算の目的外使用にはあたらない旨を次の通り弁明し、貴衆両院において適法と認められた[170]。
本項ハ各所新営ニ予定セル工事ノ一ニ属シ偶其工費ノ五百円以上ニ渉リタルカタメ一目ヲ設置シ之ヲ整理シタルニ過キス又該倉庫ノ位置ハ局舎ト隔離セルヲ以テ貯蔵物品ノ取締上局員若クハ小使ヲシテ之ヲ管守セシムル必要アルニ依リ其構造ノ一部ニ多少ノ設備ヲ為シタルニ過キスシテ其建設ノ目的タル素ヨリ物品格納ノ必要ニ出テタルモノニ外ナラス故ニ予算ノ目的外ト云フヲ得ス — 明治三十二年度歳入歳出決算検査報告、(出典:会計検査院長官官房調査科編、『検査報告集 第一輯 (自明治二十四年度至明治三十四年度臨時軍事費特別会計)』、1935年(昭和10年)、会計検査院長官官房調査科)
この倉庫新築の後、当初に比して業務量が増大し事務所の拡張が必要であったため、1903年(明治36年)4月に煙台山麓において独立の局舎を有するようになったという[7][171][14]。当時の雑誌には次のように記載されている[14]。
一、帝国郵便局
局長高垣徳治氏あり已に十一年此地に在勤すと局員二名清人二名にて小使及配達人たり局舎は本年四月の借入に係り八畳敷二間の支那煉瓦屋にて大北部会社支店と相並ぶ其裏手に局員の官舎として二室あり其狭隘言語に絶す仁川局官舎は之に比すれば遥かに勝るを見る局長は領事館内の局倉庫に住す可なりの高屋なり — 「清国漫遊記」、『韓国交通会誌』第4号所収、1903年(明治36年)8月、韓国交通会
官制の改革
等級制と芝罘郵便局

清国においては上海郵便局のほか、1892年(明治25年)10月1日に一等郵便局として天津及び芝罘に日本郵便局が開設され[1][172]、朝鮮国においても1876年(明治9年)11月10日の釜山郵便局をはじめとして各所に日本郵便局が開設されており[173]、両国における日本の郵政官署が増加するに及んで、内地における郵政官署と性質の異なるこれら在外郵便官署には監督上の不便を生じていた[174]。また、1889年(明治22年)7月16日に公布された郵便及電信局官制(明治22年勅令第96号)第6条においては二等郵便電信局及び郵便局長は判任とするとの規程があり[175]、在外郵便官署の長は該地駐箚の領事が兼任する場合が多かったにもかかわらず、1890年(明治23年)7月8日に上海郵便局を含む各在外郵便局を二等郵便局に列した[176]ためにこれを判任する必要に迫られるなど、在外郵便官署にのみ適用すべき特別の官制を制定する必要が主張されるようになっていた[177][174]。なお芝罘郵便局を含む各在外郵便官署の等級は、1893年(明治26年)11月10日に二等に改められた[178]。
そこで1896年(明治29年)10月3日に在外郵便電信局、郵便局官制(明治29年勅令第320号)が公布され、日本国外における郵便官署は本勅令によって運用されることとなった[179][180]。これに伴い芝罘郵便局を含む各在外郵便官署は再び二等から無等の郵便電信局及び郵便局へ改められた[180]。この在外郵便電信局、郵便局官制(明治29年勅令第320号)は、1897年(明治30年)8月18日に在外郵便電信局、郵便局官制(明治30年勅令第270号)に全部改正され、郵便電信書記及び郵便電信書記補の官職名を通信書記及び通信書記補と改めた[181][182]。
1903年(明治36年)4月1日、通信官署官制(明治36年勅令第40号)の施行に伴い、郵便官署の現業機関の組織名称等の統一が図られ、在外郵便官署に係る官制もこれに包含されることとなった[174][183]。これに伴い在外郵便電信局、郵便局官制による在外郵便局は、通信官署官制による在外郵便局となった[184]。在外郵便局の長は一等郵便局長でも二等郵便長でもない在外郵便局長と定められ、以降しばらく在外郵便局に等級を付することはなくなった[183][174]。


1910年(明治43年)4月1日に通信官署官制(明治36年勅令第40号)は廃止され[185]、代って通信官署官制(明治43年勅令第91号)が施行された[186]。これと同時に上海郵便局、天津郵便局、北京郵便局、牛荘郵便局及び漢口郵便局は一等郵便局に列せられ[187]、一等郵便局とならなかった芝罘郵便局を含む各在外郵便局については、二等郵便局に列せられることとなった[188]。その後、1921年(大正10年)9月14日に芝罘郵便局は再び一等郵便局に列せられた[189]。
郵便局経費渡切制度と芝罘郵便局
1903年(明治36年)3月20日、郵便局経費渡切規則(明治36年勅令第44号)を定め、郵便局における渡切費の制度が創設された[190][191]。本勅令は明治36年度予算から施行するものとされたが、翌1904年(明治37年)4月6日に郵便局経費渡切規則施行細則(明治37年逓信省令第30号)が公布され[192]、また明治37年逓信省告示第254号により郵便局経費渡切規則及び郵便局経費渡切規則施行細則に基づき渡切費を交付する郵便局とその種類等が示された[193][194]。芝罘郵便局は各在清国日本郵便局と共に明治37年逓信省告示第254号別表第1号にその局名が掲出され、明治37年度より郵便局経費渡切規則施行細則第1条各号に掲げる経費、すなわち器具器械費、式紙帳簿雑品費、図書購入費、薪炭費、点燈費、通信運搬費、傭人費、賄費及び諸雑費の交附を行うものと定められた[193]。
1905年(明治38年)3月22日、新たに通信官署経費渡切規則(明治38年勅令第62号)が公布され、明治38年度予算からこれを施行することとなった[195]。逓信省は同年4月4日、通信官署経費渡切規則施行細則(明治38年逓信省令第30号)を定め[196]、また明治38年逓信省告示第174号により通信官署経費渡切規則及び通信官署経費渡切規則施行細則に基づき渡切費を交付する郵便局とその種類等を示した[197]。芝罘郵便局は各在清国日本郵便局と共に明治38年逓信省告示第174号別表第1号にその局名が掲出され、通信官署経費渡切規則施行細則第1条第1号ないし第7号及び第11号ないし第13号に掲げる経費、すなわち器具器械費、式紙帳簿雑品費、図書購買費、薪炭費、点燈費、通信運搬費、傭人費、船舶車輛費、賄費及び諸雑費の交附を行うものと定められた[197]。
1907年(明治40年)4月1日、通信官署経費渡切規則施行細則(明治38年逓信省令第30号)を全部改正し、通信官署経費渡切規則施行細則(明治40年逓信省令第14号)を公布したが、傭人費を傭人料と改めたほかは芝罘郵便局に交附する経費の種別に変更はなかった[198][199]。1913年(大正2年)6月13日に通信官署経費渡切規則は郵便、電信及電話官署経費渡切規則、通信官署経費渡切規則施行細則は郵便、電信及電話官署経費渡切規則施行細則と改称されたが[200][201]、ここにおいても芝罘郵便局は各在支日本郵便局と共に明治40年逓信省告示第223号別表第1号に属した[202]。1919年(大正8年)5月15日の改正においても同様であった[203]。
1922年(大正11年)4月1日、これまで通信官署の渡切費について規定していた郵便、電信及電話官署経費渡切規則(明治38年勅令第62号)は、会計規則(大正11年勅令第1号)の制定により廃止されたが、会計法(大正10年法律第42号)第22条に基づく同規則第61条第1項第2号の定める逓信官署については、当分の間、郵便、電信及電話官署経費渡切規則施行細則を準用するものと定められた[204][205]。これに伴う明治40年逓信省告示第223号改正においても、芝罘郵便局は同告示別表第1号に属し従前の区分を踏襲した[206]。
日清郵便仮約定と日清郵便約定
本節は上海郵便局#日清郵便仮約定と日清郵便約定と同一の内容である。
日清郵便仮約定

日清戦争と北清事変を経て清国における日本郵便官署は増設され、1901年(明治34年)には10局に達したが、いまだ清国との間に郵便物交換に係る公的な条約は締結されていなかった[15]。一方、当時の清国における郵政機関を管掌していたのが、仏国人たるテオフィル・ピリー(FR:A. Théophile Piry)であった関係上、フランスは各国に先駆けて1900年(明治33年)2月3日(光緒26年1月4日)に清国と郵便交換協定(Arrangement setting forth the relations established between the Postal Administration of France and the Postal Administration of China)を締結していた[15]。そこで日本もこれに倣って清国と郵便に関する協定を締結するために折衝を行い、1903年(明治36年)5月18日(光緒29年4月22日)に北京において郵便仮約定(Mail Service Provisional Arrangement)及び小包郵便仮約定(Parcel Post Provisional Arrangement)を両国間に締結した(正文は英文)[15]。その内容は次の通りであった[207]。
郵便仮約定(訳文)
第一条
一 清帝国郵便局ハ在清国日本帝国郵便局相互間ノ総テノ閉嚢郵便局ヲ聯合ノ料金ヲ以テ逓送スヘシ又日本帝国郵便局ハ清帝国郵便局ノ閉嚢郵便物ヲ同様ノ料金ヲ以テ逓送スヘシ
二 前項ニ規程スル郵便物ノ逓送料ハ千九百〇三年十一月ヲ初メトシ毎年五月及十一月交互ニ最初ノ二十八日間ニ於テ調査スヘキ統計ニ基キ毎年日清両国郵便庁ノ間ニ精算スルモノトス
三 清国ノ郵便ニ従事スル汽船ニ依リ逓送スヘキ日本帝国郵便局ノ閉嚢郵便物ハ清帝国郵便局ヲ経テ搭載スヘシ又日本ノ郵便ニ従事スル汽船ニ依リ逓送スヘキ清帝国郵便局ノ閉嚢郵便物ハ日本帝国郵便局ヲ経テ搭載スヘシ但シ其ノ方法ハ各港ニ於テ協定スルモノトス
四 日本ノ郵便ニ従事スルト否トニ拘ラス日本ノ汽船ニシテ日本帝国郵便局ノ媒介ヲ経ス直接ニ清国ノ郵便物ヲ搭載スル場合ニ於テハ同様ノ業務ヲ為ス他国籍ノ汽船ト同様ノ特権、便宜及免除ノ特典ヲ享有スヘシ
第二条
一 清帝国郵便局ハ清国以外ノ地ニ於テ差出シ日本郵便切手ヲ以テ附録第一号表ニ掲記セル日本ノ郵便料ヲ前納セル郵便物ヲ日本帝国郵便局ヨリ閉嚢ニテ交附セラルルトキハ無料ニテ現ニ清帝国郵便局ノ設置アル若ハ今後設置セラルヘキ清国各地迄逓送配達スヘシ
二 日本帝国郵便局ハ清国ノ郵便切手ヲ以テ承認セラレタル郵便料ヲ前納セル郵便物ヲ清帝国郵便局ヨリ閉嚢ニテ交附セラレタルトキハ逓送及配達ヲ取扱フヘシ但シ該郵便物ハ日本若ハ在韓国日本帝国郵便局所所在地宛ノモノニ限リ無料トシ聯合諸国宛郵便物ニ付テハ第一条第一項及第二項ノ規程ニ従ヒ逓送料ヲ徴収スルモノトス
三 該郵便物カ清帝国郵便局ノ開設ナキ清国内地ニ宛テタルモノニシテ民局経由逓送ヲ要スル場合ニ於テハ従前ノ通リ追加料ヲ名宛人ヨリ徴収スルモノトス又信書及郵便端書ヲ除キ容積若ハ重量過大ノ郵便物(新聞紙、書籍、小包等)ニシテ鉄道若ハ汽船ノ聯絡セサル内地ニ宛テタルモノニ付テハ内国郵便料ヲ徴収スルモノトス
四 日本若ハ在韓国日本帝国郵便局所所在地宛郵便物ニ対スル郵便料ハ附録第一号表ニ照シ日本帝国郵便局ニ於テ徴収スル料金ヨリ低下ナルヲ得ス其ノ他ノ郵便聯合諸国宛郵便物ニ対スル郵便料ハ附録第二号表ニ據ル
第三条
前掲各条ニ規程セルモノノ外日清両国間郵便上ノ関係ニ付テハ華盛頓締結万国郵便諸条約ノ規程ヲ適用スルモノトス
第四条
本約定ハ六箇月前ノ通知ニ依リテ解除スルコトヲ得且本約定ハ本日後二箇月ヨリ施行セラルルモノトス千九百〇三年五月十八日北京ニ於テ本約定書二通ヲ作成シ各之ニ署名ス
日本郵政庁ニ代リ
在北京日本公使館一等書記官 松井慶四郎清国郵政庁ニ代リ
郵政書記官長 テイ、ピリー右承認ス
在北京
日本皇帝陛下ノ特命全権公使 内田康哉清国総税務司兼郵政総監 ロバート、ハート
(引用者註:附録第一号表及び第二号表は引用を省略する) — 郵便仮約定(訳文)、(所収:外務省条約局編、『日支間並支那ニ関スル日本及他国間ノ条約』、1923年(大正12年)3月、外務省条約局)
本仮約定はその内容を概ね万国郵便条約の趣旨に沿うものの、第二条第一項の定めるところにより清国の郵便局は附録第一号表の清国各地宛郵便物ニ対スル日本郵便料金表の郵便料金を前納した郵便物を逓送する義務を負っており、この料金表に定められている郵便料金は、日本内地における内国郵便料金と全く同一のものであった[208]。すなわち従前においては、在清国日本郵便局との間においてのみ適用されていた内国郵便料金が、清国側の郵便局のみが設置されている清国内地においても適用されることとなった[208]。これに伴い、逓信省は本仮約定第4条の定める実施日である1903年(明治36年)7月18日に諸外国宛通常郵便物料金表の改正を施行した[209][15]。
また清国としては同国内より日本郵便局を撤廃したい意嚮であったが、本仮約定は清国における日本郵便局の存在を前提とするものであり、これを実質的に承認するものであった[210]。これまで清国側から何らの承認を得られていなかった同国内における日本郵便局は、本仮約定の締結によって初めて承認され、且つ両国間における正式な郵便交換が開始されるに至った[211]。
日清郵便約定
日清郵便仮約定の締結後、清国は1906年(明治39年)9月に英国人ロバート・ハートやテオフィル・ピリー等の外国人を首班として郵伝部を設置し、その下に船政、路政、電政、郵政及び庶務の五司を置き、郵政司は郵便をつかさどる機関となった[15][212]。先の郵便仮約定は全4条の簡易な取決めであり、種々の問題を孕んでいたので日清両国は再び正式な郵便協定を締結するため協議し、1910年(明治43年)2月9日(宣統元年12月30日)、正文を英文として「日本帝国郵政庁及清帝国郵政庁間ニ設定セル関係ヲ規定スル約定」(Agreement setting forth the relations established between The Imperial Postal Administration of Japan and The Imperial Postal Administration of China)及び「日本帝国郵政庁及清帝国郵政庁間ノ小包郵便物ノ交換ヲ規定スル約定」(Agreement regulating the exchange of postal parcels between The Imperial Postal Administration of Japan and The Imperial Postal Administration of China)を締結し、北京において調印式を行った[15][212]。
本約定は1910年(明治43年)4月1日より実施され、逓信省は同日より清韓郵便規則(明治43年逓信省令第11号)を施行した[213]。本令によって日本、大韓帝国、在清国日本郵便官署区内及び関東都督府管内の相互間並びに在清国日本郵便官署区内及びその相互間に発着する郵便物は、清韓郵便物と称せられ、特段の定めを設けるものを除いて内国郵便物に関する規程を準用するものと定められた[213]。これに伴い、清韓小包郵便規則(明治33年逓信省令第56号)と在外郵便局において郵便規則を準用する旨を定めていた明治33年逓信省令第43号は廃止され、以降は本例によって郵便物の取扱を行うこととなった[213]。日本、関東州及び大韓帝国と清国設置の郵便局は小包郵便物の直接交換を開始し、芝罘郵便局は山東省宛の小包郵便物の廻送を受けるものとされた[214]。
清韓郵便規則は韓国併合に伴い、1911年(明治44年)1月1日に日清郵便規則と改称され、清韓郵便物は日清郵便物と改称された[215][216]。1912年(大正元年)8月1日には第三種郵便物の料金を改正し、第一種から第三種までの郵便料金がすべて内国料金と同一になった[217][216]。また、辛亥革命による清国の滅亡と中華民国の発足に伴い、1913年(大正2年)12月27日に日清郵便規則は日支郵便規則と改称され、日清郵便物も日支郵便物に改められた[110][216]。
電信事務の取扱開始
日露戦争に伴う軍用海底電信線の敷設

清国においては北清事変に際し、連合軍が軍事通信を行うため、各所において電信線を敷設しており、その端緒となったのは1900年(明治33年)8月2日に米軍が天津占領後に設置した塘沽 - 天津間の電信線であった[218]。ロシア軍は同事変において破壊された東清鉄道沿線の電信設備を復旧すると共に、同年中に大北電信会社に委託して芝罘 - 旅順間に海底電信線を敷設し、爾来その運用を行っていた[218][219][220]。日露戦争開戦後の1904年(明治37年)3月9日に日本海軍は通信封鎖を企図してこの芝罘 - 旅順間の海底電信線を公海上において切断した[221]。同年5月15日からは芝罘 - 旅順線の一部接収作業を行い、回収された電纜は各所において転用された[222]。ロシア側はこれに対抗して在芝罘ロシア領事館に無線電信設備を設けて旅順との連絡を図ったが、日本側は電纜敷設船沖縄丸によって佐世保と大連の間に1904年(明治37年)5月に海底電信線を敷設している[19][17]。この佐世保 - 大連線は同年11月に巨文島経由となり、同島より済州島まで引き込まれた[19]。本線は日本が初めて大陸方面に開通させた海底電信線であり、戦時中の軍事通信において重大な役割を果たした[19][218]。
日清電信協約の締結
日露戦争の結果、両国間に日露両国講和条約及追加約款(ポーツマス条約)が締結され、また同講和条約で得た日本の権益について日清間に満洲ニ関スル条約(満洲善後条約)が締結され、関東州及び南満州鉄道附属地に係る日本の権益が承認された[223][224]。この満州善後条約にかかる日清間の交渉においては戦中に日本が満洲において設置した陸上電信線や芝罘 - 旅順間の海底電信線についても議論がなされ、条約中には明文化されなかったものの、同条約に附随して取極められた満洲ニ関スル日清条約附属取極の第七項において「奉天省内ニ於ケル陸上電信線及旅順煙台間海底電信線ニ関スル接続交渉事務ハ随時必要ニ従ヒ両国協議シテ処置スヘシ」と定められた[218][225]。本取極に従い、1906年(明治39年)1月7日に清国電政顧問デンマーク人ドレッシング(F.N.Dressing)は、在芝罘日本領事小幡酉吉と会談して交渉を開始したが、満洲における電信主権の恢復と芝罘 - 旅順間海底電信線の日清合弁化を目論む清国側の見解とこれを維持しようとする日本側において双方の主張が平行線をたどった[218]。

この間、日本は同年5月15日から安東、営口、大連、旅順、遼陽及び奉天等の軍用通信所において公衆電報の取扱を開始し、順次これを拡大して通信機関の既成事実化を企図し、一方で清国は露清間に電信協約を締結して満洲においてロシアが設置した鉄道附属地外における電信設備を回収し、鉄道附属地内における電信利用を鉄道業務上必要のものに限定して、南満洲鉄道と東清鉄道との直通電信連絡を牽制した[218]。この露清電信協約に関し、同年12月10日に駐清国ロシア公使ポコチロフ(ru:Покотилов, Дмитрий Дмитриевич)が1年以内に露清間の電信協約と同等の条件で日本と協定し得ない場合にはこれを破棄すると清国政府に伝達したことから、同国電政局襄辦周萬鵬は日本の南満洲における国際通信開始によって大東電信会社の利権を失うことを懸念していた英国に両国交渉の調停を依頼した[218]。その結果、英国は日清両国に対して譲歩を勧奨し、満洲の数ヶ所で日清両電信系を連絡し、大連から芝罘に至る海底電信線を新設して日清間に通信路を建設することで両者が歩み寄り、1908年(明治41年)5月4日にポルトガル首府リスボンにおいて開催された万国電信会議(International Telegraph Conference)の帰途、周萬鵬及びドレッシングは、東京に立寄って外務次官石井菊次郎、外務省政務局長倉知鉄吉及び逓信事務官田中次郎等と折衝を進めた[17]。こうして同年10月12日に日清電信協約(Telegraph Convention)、同年11月7日に芝罘関東海底電信線ノ運用ニ関スル取極(Agreement Regarding The Working of The Chefoo Kwantung Cable)及び在満洲日清電信線ノ運用ニ関スル取極(Agreement Regarding The Working of The Japanese and Chinese Telegraph Lines in Manchuria)が締結された(いずれも正文は英文)[17][16]。電信協約の内容は次の通りであった[16]。
下名ハ関東州芝罘間ノ海底電信線及在満洲日本電信線ノ案件ヲ相互和協ノ精神ヲ以テ妥定スル為日本国政府及清国政府ヨリ正式ノ委任ヲ受ケ左ノ諸条ヲ協定セリ
第一条
日清両国政府ハ関東州ノ一点ト芝罘トノ間ニ海底電信線ヲ敷設スヘシ日本国ハ右海底電信線ノ中関東州ヨリ芝罘ヲ距ル七哩半迄ノ部分ヲ敷設維持シ清国ハ前記海底電信線ノ中芝罘ヨリ芝罘ヲ距ル七哩半迄ノ部分ヲ敷設維持シ右ノ点ニ於テ海底電信線ノ両部分ヲ連結スヘシ右電信線ノ関東州端ハ日本国専ラ之ヲ運用シ芝罘端ハ清国専ラ之ヲ運用スヘシ但シ日本国特殊ノ必要ニ応セムカ為毎執務日中充分ナル時間ヲ協定シ其ノ間在芝罘日本郵便局ト右海底電信線トヲ直接連絡セシメ日本郵便局ハ芝罘発着ノ日本国官報並芝罘発着ノ仮名私報ヲ前記電信線ニ由リ日本電信系ノ直轄スル地方ト往復スルノ権利ヲ有スヘシ日本国ハ右ノ通信ニ対シテ追テ協定スヘキ一定ノ首尾料ヲ清国ニ支払フヘシ清国芝罘電信局及在芝罘日本郵便局間ノ連絡線ハ清国ニ於テ之ヲ架設維持スヘシ日本国ハ出来得ル限リ清国自余ノ地ニ往復スル通信ノ芝罘ニ於テ転送セラルルヲ防遏スルコトヲ約ス日本国ハ又将来ニ対スル最恵国待遇ノ保留ノ下ニ其ノ都度予メ清国政府ノ承諾ヲ得スシテ其ノ租借地又ハ鉄道附属地外ノ清国ニ於テ海底電信線ヲ陸揚シ又ハ陸上電信電話線ヲ架設シ若ハ一切ノ無線通信ノ設備ヲ為ササルコトヲ約ス芝罘関東州間海底電信線ノ首尾料及中継料ニ関スル一切ノ細目ハ特別ノ協約ヲ以テ之ヲ妥定スヘシ
第二条
日本国ハ五万円ノ支払ニ対シ満洲ニ於テ鉄道附属地外ニ在ル一切ノ日本電信線ヲ直ニ清国ニ引渡スヘシ日本国ハ満洲ニ於テ鉄道附属地外ニ在ル日本電話事業ニ関シ一ノ協定ヲ成立セシムルノ目的ヲ以テ何時ニテモ清国ト交渉ヲ開始セムトス右協定締結ニ至ル迄日本国ハ予メ清国政府ノ承諾ヲ得スシテ満洲ニ於ケル其ノ現在ノ電話系ヲ拡張シ又ハ清国電信線ト競争シテ其ノ電話線ヲ電話送受ノ用ニ供セサルヘシ
第三条
清国政府ハ日本鉄道附属地ニ近接セル満洲ノ開市場若ハ条約港即安東、牛荘、遼陽、奉天、鉄嶺及長春ニ於テ十五箇年間前記開市場若ハ条約港ヨリ該鉄道附属地ニ達スル一線若ハ二線ノ特別電信線ヲ日本国政府電信事業ノ専用ニ供スルコトヲ承諾ス該電信線ハ鉄道附属地ニ到ル迄清国政府ニ於テ善良ノ状態ニ維持スヘキモノトス
第四条
第三条記載ノ特別電信線ハ清国電信線ハ清国電信局内ニ於テ日本国政府ノ任用スル日本取扱員之ヲ取扱フ之カ為清国政府ハ年額総計墨銀七百弗ノ賃料ヲ以テ適当ノ特別事務所及設備ヲ供給スヘシ但シ右設備中ニハ取扱員ノ居宅ヲ含マサルモノト知ルヘシ
第五条
第三条記載ノ特別電信線ハ日本電信系ノ直轄スル地ニ発着スル電報ノ交換ニ限リ使用セラルヘキモノトス
第六条
第三条記載ノ開市場若ハ条約港ニ於テ日本電信部ハ清国電信局内ニ受付事務室ヲ有スヘク其ノ通信配達ハ特殊ノ制服ヲ著セサル配達夫之ヲ行フモノトス
第七条
日本国政府ハ在満洲日本電信線ニ由リ送受スル一切ノ通信ニ対シ報効金トシテ年額三千円ヲ清国政府ニ支払フヘシ
第八条
本協約ハ関係両国政府ノ承認ヲ経タル上芝罘関東州間海底電信線及在満洲日本電信線ニ関スル協約ノ細目議定セラルルヲ待テ之ヲ実施ス
右證據トシテ下名ハ本協約ニ記名調印スルモノナリ
千九百八年十月十二日東京ニ於テ英文二通ヲ作ル外務次官 石井菊次郎
外務省政務局長 倉知鉄吉
電政局襄辦 周萬鵬以書柬致啓上候陳者本日即チ千九百八年十月十二日締結ノ日清電信協約ニ関シ下名等ハ左ノ口約ヲ確認致候
大孤山陸揚日本国海底電信線ハ成ルヘク速ニ同所ヨリ撤去セラルヘキモ今後数月間ハ事情之ヲ許ササルヘキヲ以テ清国政府ハ本日ヨリ二十箇月以内ノ期間大連佐世保海底電信線ニ故障アルトキハ其ノ故障中大孤山電信線ヲ日本電信部ノ使用ニ供スヘキモノト知ル可シ
此段申進候敬具千九百八年十月十二日 東京ニ於テ
エフ、エヌ、ドレージング
周萬鵬外務省
倉知鉄吉殿 — 電信協約(訳文)、(所収:外務省条約局編、『日支間並支那ニ関スル日本及他国間ノ条約、1923年(大正12年)3月、外務省条約局)
石井菊次郎殿
芝罘関東海底電信線ノ運用ニ関スル取極の内容は次の通りであった[16]。
千九百八年十月十二日ノ日清両国間電信協約ノ規程ニ基キ右両国政府ハ芝罘関東海底電信線ノ適当ナル運用ニ便スル為左ノ追加取極ヲ締結セリ
第一条
日本国及清国ハ本取極ノ実施後事情ノ許ス限リ速ニ前記協約第一条ニ掲ケタル規定ニ従ヒ芝罘(山東)ト遼東半島租借地内ニ於ケル関東州ノ一地点トノ間ニ旧線ヲ修理シ若ハ新線ヲ敷設シテ海底電信線ヲ設備スルコトヲ約ス
第二条
両締約国ハ該海底電信線ヲ常時良好ナル運用状態ニ維持シ且不通ノ場合ニ於テハ出来得ル限リ速ニ修理ヲ為スヘキコトヲ約ス
若本海底電信線カ接続点即チ芝罘ヨリ七哩半ノ点ニ於テ破損シタルトキハ修理ノ費用ノ一半ハ日本国ニ於テ他ノ一半ハ清国ニ於テ之ヲ負担スヘシ
第三条
各締約国ハ各自ノ費用ヲ以テ前記海底電信線ノ各自ノ海岸ニ於ケル陸揚庫、陸揚連絡及局舎ノ必要ナル設備ヲ設ケ且之ヲ維持スルコトニ同意ス
第四条
前記海底電信線ノ運用ニ使用スル電信機械ハ別段ノ取極ナキ限リ「モールス」又ハ「ウヰートストーン」トス
第五条
在芝罘日本電信局ノ設備及維持ノ費用ハ日本国ニ於テ之ヲ負担スヘシ
第六条
在芝罘清国電信局ハ毎日午前六時ヨリ午後十一時ニ至ル間毎三時間中一時間転換機ニ依リ在同地日本電信局ヲ前記海底電信線ニ直接接続スヘシ而シテ其ノ以後ト雖清国局ニ於テ実際海底電信線ヲ使用セサルトキハ二十四時間中毎日残余ノ七時間日本局ハ同様転換機ニ依リ海底電信線ニ直接接続セラルヘシ
右ノ外両締約国ハ其ノ適法ナル通信ヲシテ成ルヘク遅延セシメサル様十分和衷協力シテ従事スルコトヲ努メ以テ前記海底電信線ノ適当ナル運用ニ対シ両局相互ニ有ユル利便ヲ与フヘキコトニ同意ス
第七条
日本国及清国ハ事情ノ許ス限リ速ニ遼東半島租借地外最近ノ清国電信局ヲ日本海底線電信局ト直通ニシテ最利便多キ日本電信局ニ接続スルコトヲ取計フヘシ此ノ接続線ハ各締約国ニ依リ各自ノ領域内ニ於テ建設、維持及運用セラレ且前記租借地以北ニ在ル清国電信系内各地ニ発着スル通信ノ交換ニ使用セラルヘシ
第八条
甲、前記海底電信線ヲ経由シテ日清両局間ニ交換スル通信ニ対スル毎一語ノ特別海底電信線料金ヲ左ノ如ク定ム
一、日本国
イ、関東発着信 墨銀 一五仙
ロ、関東中継信 墨銀 一〇仙
二、清国
芝罘発着信 墨銀 四仙
乙、関東以遠日本陸線ノ料金ハ一語ニ付墨銀五仙トス
電報本文ノ全部ヲ数字四個ノ聯集ニテ記載シタル支那電報ニ対スル日本国ノ分収額ハ一語ニ付墨銀八仙トス
清国以遠ノ国ニ発着スル電報ニ対スル日本国ノ分収額ハ一語ニ付墨銀十仙トス
前記海底電信線ヲ経由シテ伝送スル電報ニ対シテハ日本国ハ清国所定ノ現行料金ヲ徴収スヘシ而シテ右通信ニ対シ日本国ハ全料金ノ中ヨリ前記日本国ノ分収額ヲ控除シタルモノヲ清国ニ支払フヘシ但シ右電報ノ総料金ハ如何ナル場合ニ於テモ他ノ清国線路ヲ経由シテ同一ノ地ニ宛ツル電報ノ料金ヨリ高価ナルヘカラスト知ルヘシ清国ハ必要ナル料金表ヲ日本国ニ交付スヘシ
第九条
別段ノ取極ヲ為ス迄芝罘関東海底電信線ハ芝罘発着日本官報及芝罘発着仮名電報ヲ除クノ外清国以遠ノ地ニ発着スル日本国電報ニ之ヲ使用スルコトヲ得ス
第十条
前記協約第一条ニ依リ在芝罘日本局カ取扱ヒタル電報ニ対シ日本国ハ其ノ徴収セル総料金ノ一割ヲ清国ニ支払フヘシ右金額ハ月計計算表ヲ以テ計算スヘシ
第十一条
前記海底電信線ヲ経由シテ交換シタル通信数ノ照合ハ毎日電報ヲ以テ交換局間ニ之ヲ行フ
決算ハ毎月末ニ之ヲ行ヒ其ノ総額ハ一箇月後場合ニ応シ東京ニ於テ日本国ヘ又ハ上海ニ於テ之ヲ支払フヘシ
此ノ計算ニ関シ年月ハ「グレゴリアン」暦ニ依リ又両締約国ノ電信局間ノ総テノ通信ニハ英語ヲ用フヘシ
第十二条
精算ハ墨銀ニ據ルヘシ
他電信主管長ヘノ継送料支払ニ関シ徴収スル料金率ハ両締約国間ニ於テ毎三箇月ニ付之ヲ定ム此ノ料金率ハ之ヲ定メムトスル月ニ先ツ前三箇月間ノ上海平均銀行為替相場ニ基キ之ヲ定メ其ノ翌月以降三箇月間ニ之ヲ適用ス
何時ニテモ若一期(三箇月)ニ満タサル期間ニ於ケル徴収料金率ヲ定ムルノ必要アルトキハ其ノ端数期ニ先チ三箇月間ノ上海平均銀行為替相場ヲ以テ其ノ基礎ト為スヘシ
第十三条
前記海底電信線ヲ経由スル新聞電報ノ料金ハ追テ日清両国間ニ之ヲ定ムヘシ
第十四条
本取極ニ別段ノ規定アルニ非サレハ現行万国電信条約及同附属細目規則ニ掲クル規定ハ前記海底電信線ヲ経由シテ電送スル電報ニ之ヲ適用ス
第十五条
本取極ハ承認ヲ経ル為日清両国政府ニ提出セラレ其ノ承認ノ通知ヲ交換シタル日ヨリ効力ヲ生スヘシ
本取極ハ双方ノ合意ニ依リ修正又ハ廃棄セラルル迄効力ヲ有スヘシ
右證據トシテ下名ハ各其ノ政府ノ委任ヲ受ケ本取極ニ署名スルモノナリ千九百八年十一月七日東京ニ於テ英文二通ヲ作ル
石井菊次郎
倉知鐵吉
田中次郎
周萬鵬以書柬致啓上候陳者将ニ署名セラレムトスル芝罘関東海底電信線運用ニ関スル取極ニ関シ清国ハ近キ将来ニ於テ其ノ内国電信料ヲ低減スヘク且其ノ国際電信料ノ低減ハ前記取極実施中ニ之ヲ行フコトアルヘキ旨申進候前記低減愈相行ハレ候節ハ日本国ニ於テモ前記取極第八条ニ記載シアル電信料ニ対シ右ニ応当セル低減ヲ行フコトニ同意セラルヘキコトヲ希望致候然ルニ本件ヲ現取極中ニ記載スル儀ハ御異議アル様存候ニ付成ルヘクハ本件ニ関スル書面ノ御交付ヲ得度少クトモ清国カ前記低減ヲ行フ場合ニ日本国政府ニ於テ之ニ応答セル減額ヲ為スノ件ハ同政府ニ於テ友好ノ精神ヲ以テ詮議セラルヘキコトヲ約諾セラルル様希望致候敬具
千九百八年十一月六日 東京ニ於テ
エフ、エヌ、ドレージング
外務次官閣下以書柬致啓上候陳者清国ニ於テ近キ将来ニ於テ其ノ内国及外国電信料ヲ低減スルコトアルヘキ件ニ関シ昨六日附貴柬ヲ以テ御申越ノ趣致敬承候清国政府ニ於テ右電信料ノ低減愈決定相成候節ハ日本政府ハ友好ノ精神ヲ以テ本件ヲ詮議可致候間右様御承知相成度此段及御回答候敬具
— 芝罘関東海底電信線ノ運用ニ関スル取極(訳文)、(所収:外務省条約局編、『日支間並支那ニ関スル日本及他国間ノ条約、1923年(大正12年)3月、外務省条約局)
千九百八年十一月七日 東京ニ於テ
石井菊次郎
倉知鐵吉
田中次郎
エフ、エヌ、ドレージング殿

上掲の電信協約及び芝罘関東海底電信線ノ運用ニ関スル取極に基づき、1909年(明治42年)2月10日に大連において日清共同で旧芝罘 - 旅順線の電纜回収が行われ、同年5月より小笠原丸によって芝罘 - 大連間への海底電信線敷設作業が開始された[218][20]。大連から開始された作業は同年6月に協定地点の芝罘港外において接続を完了し、芝罘の陸揚地においてはまず清国側の電信局へこれを引込み、続いて同局から地下線によって芝罘郵便局へ連絡した[21][20]。
こうして芝罘郵便局においては、1909年(明治42年)7月16日に電信事務の取扱を開始した[18]。ただし電信協約第1条及び芝罘関東海底電信線ノ運用ニ関スル取極に基づき、欧文電報は日本政府官報を除き取扱を行わないものと定められた[226][227]。これは当時、日清両国において大北電信会社が有していた国際通信独占権に配意したものであり、実際に同社は関東州は租借地であって正式な日本領土ではないことを理由として大連 - 佐世保間における海底電信線敷設に抗議していた[228][17]。日本政府は同社の主張をしりぞけたものの、芝罘郵便局における電信事務取扱もあくまで日本電信系との通信に限定されていた[17]。上述の通り清国電政顧問ドレッシング(F.N.Dressing)は大北電信会社の本国たるデンマーク人であり、『日本無線史』は「大北電信会社が清国政府部内に売り込んだデンマーク人顧問が、その専門知識を清国電政のために提供すると同時に、デンマーク利権の守護者として働いていたことは申すまでもないところである」と評価している[229]。
『逓信協会雑誌』は、芝罘郵便局における電信事務開始を次のように伝えている[230]。
大連より芝罘に至る海底電信線の布設工事は浦田逓信技師主任と為り布設船小笠原丸に坐乗して之に当り去る六月二十二日を以て完成し次て大連及芝罘両日本郵便局並に芝罘清国電信局の局内装置も亦完成したるに付愈々本月十六日より右海底線上に於て一般公衆通信を取扱ふことゝなれり而して芝罘日本郵便局に於て取扱電報は同地と日本電信系内各地との間に発著する一切の電報(但し欧文は日本政府官報に限る)にして其の料金は芝罘と本邦内地、台湾及樺太との間通常電報一語三十銭、(和文電報に於ては片仮名、数字を通し七字を以て一語と計算す以下之に同じ)、新聞電報一語十二銭、芝罘と韓国及満洲との間通常電報一語十銭、新聞電報五十字又は其の未満毎に金三十銭とす又満洲内日本郵便局は右海底線を経由し芝罘清国電信局の中継に依りて伝送せらるべき清国各地及其の以遠各地宛の電報を受付くることを得。
本海底電信線の開通に依りて一般公衆の享受する利便の莫大なるは敢て多言を須ひざる所なり — 「大連芝罘間海底線の開通」、『逓信協会雑誌』第13号(108頁)、1909年(明治42年)8月、逓信協会

電信事務開始と共に職員も増え、1908年(明治41年)5月1日時点においては官吏としては局長中川傳治及び遠藤昌開の2名体制であったが[231]、1910年(明治43年)5月1日時点においては局長中川傳治以下、通信書記杉戸彬及び杉山悦造並びに通信書記補藤原常造の4名となり[232]、1911年(明治44年)5月1日時点においては通信書記補沼田敦を加えて計5名の官吏が勤務した[233]。このうち杉山悦造は主任を務めており、また日本人と清国人の集配人が2名勤務していたという[20][21]。
日清電報規則(明治43年逓信省令第101号)及び日清無線電報規則(明治43年逓信省令第102号)の制定
電信事務開始当初は本邦ト在韓国本邦郵便電信局郵便局間直発着電報取扱規則(明治33年逓信省令第8号)及び韓国内電報規則(明治38年逓信省令第40号)を準用し、在大韓帝国日本郵便局の規程に準じてその取扱を行っていたが[226][227]、日韓併合に伴い、1910年(明治43年)11月1日に日清電報規則(明治43年逓信省令第101号)及び日清無線電報規則(明治43年逓信省令第102号)を施行して、日本電信系により内地、台湾または樺太と満洲または芝罘の間ならびに朝鮮及び満洲と芝罘の間において送受される電報を日清電報と称し、日本海岸局の媒介により且つ日本船舶局と満洲または芝罘との間において送受される無線電報を日清無線電報と称し、以降の取扱は同規則によることとなった[234][235]。これにより日清電報及び日清無線電報は、特段の定めあるものを除いて内国電報に関する諸規定を準用するものと定められた[234][235]。1911年(明治44年)11月15日、日清無線電報規則は改正され、関東都督府無線電信局を除く日本無線電信局及び関東都督府無線電信局の双方もしくは一方の媒介により関東都督府船舶局を除く日本船舶局と満洲もしくは芝罘との間または関東都督府船舶局と日本もしくは芝罘との間に発着する無線電報、日本無線電信局及び場合によって関東都督府無線電信局の媒介により関東都督府船舶局相互間または関東都督府船舶局と満洲との間に発着する無線電報、関東都督府無線電信局及び場合によって日本無線電信局の媒介により日本船舶局相互間または日本船舶局と日本との間に発着する無線電報及び日本無線電信局及び関東都督府無線電信局の双方もしくは一方の媒介によりまたはその媒介なく日本船舶局及び関東船舶局との間に発着する無線電報を日清無線電報と称するように改められた[236][237]。なお、日清電報規則及び日清無線電報規則は清国の滅亡により、1913年(大正2年)12月27日にそれぞれ日支電報規則及び日支無線電報規則と改称された[110]。
日本における大北電信会社の国際通信独占権失効

1870年9月20日(明治3年8月25日)、日本とデンマーク政府の協定により、大北支那及び日本拡張電信会社(The Great Northern Extension China and Japan Telegraph Company)に対し、長崎及び横浜に海底電信線を陸揚することなどが免許され、同社はこれにより長崎 - 上海間及び長崎 - 浦塩間の海底線を接続して海外通信の取扱を開始し、また1873年(明治6年)4月26日の東京 - 長崎間の政府陸上線の開通により、各地からの電報は長崎の同社電信局においてその授受を取扱うこととなった[32]。その後、1882年(明治15年)12月28日には同社に対し、長崎 - 上海間及び長崎 - 浦塩間の海底電信線を2条に増設する権利が認められたが、同時に同社へは向こう30年間にわたる海外通信独占権が付与されていた[32][238]。
日本政府はこの大北電信会社の有する独占権が、1912年(大正元年)12月27日に失効することを機として同年7月以来同社との交渉を進め[239]、上海への海底電信線陸揚権や芝罘における海底電信線の日支間通信に開放することなどにつき、同年12月31日に合意に達した[240]。この合意に基づき、日本と大北電信会社は1913年(大正2年)8月23日に日支間電信問題ニ関スル日本、大北会社間約定(Agreement with The Great Northern Telegraph Company regarding the telegraphic questions between Japan and China)を締結した(正文は英文)[241][242]。本約定により、大北電信会社は日清電信協約によって芝罘 - 大連線に認められている通信のほか、日本電信系と中華民国の間に発着する全ての通信に対する開放に同意した[243][242]。日本政府は大北電信会社の同意した芝罘 - 大連線の全面的開放につき中華民国政府と交渉したが、これは実現に至らなかった[241]。ただし、芝罘関東海底電信線ノ運用ニ関スル取極中の交換公文等に言及されている料金低減を実現することとなり、1913年(大正2年)10月4日に両国間において芝罘関東間海底線料金ノ低減ニ関スル交換公文(Note exchanged regarding The Reduction of Rates of Chefoo-Kwantung cable)が成立した(正文は英文)[244]。
芝罘郵便局における電信事務の評判
芝罘郵便局における電信事務取扱開始は、同地在留日本人に歓迎され、1909年(明治42年)7月1日には在芝罘日本領事館において電信開通祝賀会が催行された[21]。『日本無線史』には、「これは釜山以来第二回目の在外電信局の設置で、日本の和文電報は山東の一角にも出入することになった。芝罘在留日本人の喜び方は一通りでなかった」とある[245]。明治42年度において芝罘電信局の取扱った電報は、内国電報は発信13717通、着信15862通、外国電報は発信3778通、着信3215通であった[246]。電報は日本人のみならず、現地在住の清国人にも多く利用された[218]。元芝罘郵便局主任杉山悦造は、その利用の奨励を行ったことについて次のように述べている[247][21]。
私は電信局として支那に置かれたる以上は支那人に和文電報を紹介し其使用を慫慂することが事業の為めと思惟しました、当時の芝罘局長たりし中川傳治氏(現に青島の局長)は多年在支能く支那の消息に通じて居られて教導指揮愆るなく電報を利用する支那人は日一日と増加しました、対岸の関東都督府の加藤逓信局長も芝罘の電信に対し同情ある後援者の一人でありました。私は日露戦争に従軍し満洲で学んだ生噛の這個々支那語では我電信法規に全く不案内なる支那人に満足なる説明が出来ぬことを自覚し、仍ち焦眉の急需として逓信省編のPhraces and lettersを用ひて一支那人に就いて事務用語を学習して辛ふじて窓口会話に差支なくなりましたが、支那人は由来尊大な性質で自ら発信の為め来局するなぞは絶対にありませぬ、クリーか夥計などを遣はし来ります之れが応対説明には、可なりの労力と忍耐が要りました。
一方台湾や関東都督府管区の支那人が使用しつ〻ある片仮名の電報新編を支那商人中に分配して、片仮名使用を極力奨励しました結果、所謂同文同種の彼等には片仮名を学ぶことは容易であつたのでせう日一日と支那人の書く片仮名電報が増加し来て私は快心に堪へませんでした。
在外局の取扱数を公表する事が出来ませぬは遺憾ですが兎に角電信開始は支那人への発着は本邦人と比して一割にも達せなかつたが三四年の後には全通数の一割が本邦人発着で支那人が九割を占むると言ふ状況を呈しました — 杉山生、「在外局電信の始」、『逓信協会雑誌』第154号(180から181頁)、1921年(大正10年)4月、逓信協会
在留本邦人は男女幼老を合わしても僅々四百名に達せず、電報利用程度の低きは明白、業務の進展を図る途はただ支那公衆に対し日本電報につき説明し、その利用に習熟せしむるに外ならず、すなわち支那文電信案内を印刷して重なる支那商社に配付し、或いは漢字電報新符表等をも贈与し仮名電報利用の便益を理解せしめんと努力し、一方私ども従業員としても少なくも窓口会話上必要なる支那語をマスターするの必要を自認し、逓信省編のPhrase and Lettersを用い一支那人につき専ら事務用語辞を学習した。
かくして支那人中、仮名電報利用者は、日に月に増加の傾向を示し私どもは窃に快心に堪えなかった。支那人は学ばずして能く仮名を筆しア(力)、イ(人偏)、エ(工)、オ(才)等々漢字の音読を為しつつあって電報本文不明等に関して電話問合せの場合もこの新按音読法を実用した。 — 杉山悦造、「芝罘電信局の憶い出」、(所収:『逓信史話 上』所収、1961年(昭和36年)12月、電気通信協会)
清国における電報は漢字1語を数字4桁を用いて表していた(電碼)が料金が高額であり、芝罘電信局をはじめとする日本の電信局においては、清国人から受付けた漢字電報に振り仮名を付し、これを受ける局において漢文に直していたが、料金が清国局に比して低廉であり、また通信速度も比較的速かったことから一般の同国人にも歓迎されていた[218]。しかし、このように漢文電報を事実上受付けていたことは、清国政府による批判の的となっていた[218]。1911年(明治44年)6月9日附の英字新聞『北京天津タイムス』は次のように報道した[247]。
一昨年締結せし日清電信協約にては明に漢字は一語十六銭又欧文は一語三十二銭として、日本郵便電信局のみの取扱電報は邦字の片仮名電報に限る事となり居るに拘らず、日本は盛に何種の電報にても受付け、加之ならず当然清国電報局に託送さるべき筈のものをも吸収するに力めつ〻あるは彼我条約を無視せること明白にして、此際清国に在りても芝罘対満洲各地電報料金を一語二仙に改め、取扱通数の恢復を図ること寧ろ当然の報復手段なりとす — 杉山生、「在外局電信の始」、『逓信協会雑誌』第154号(180から181頁)、1921年(大正10年)4月、逓信協会
在芝罘ロシア郵便局の衰退
一方、日露戦争の結果、こうして電信事務を日本に接収された在芝罘ロシア郵便局長は、次のように慨嘆したという[248]。
露国郵便局長を訪ふ、十一年此地に在り、戦役前は中々の盛況にて郵便事業も到つて繁忙、行嚢は毎日数十個を受け他局にも継越せるに、今や事務は全く閑散となり其事務は悉く貴国の局に移れりとて、大に今昔の感に堪へざるものゝ如かりき。且つ語て曰く、此大厦新築の局も今は無用の長物となり、電信は日本の経営となり、欧州行行嚢亦た日本の扱となる、吾何の為すなし、貴邦は此建物と土地を買入れざるやと。噫。何ぞ其言葉の慇懃にして意味の悲嘆なるぞ。愚生暫く暗然として語るに忍びざりき。 — 田中次郎、「南満だより(其一)」、『逓信協会雑誌』第8号所収(69から76頁)、1909年(明治42年)3月、逓信協会
在芝罘日本領事館は日露戦争後の在芝罘ロシア郵便局について次のように報告している[86]。
同局ハ日露戦役前ニアリテハ普通郵便事務ノ外旅順大連電信ヲモ取扱ヒ殊ニ東清鉄道ノ開通後露国ハ当地郵便局ヲ以テ北支那ニ於ケル欧州郵便物発着ノ仲継所ニ指定シ其規模ヲ拡張セルモ戦後形成一変シ旅大行電信ノ取扱ハ中止スルノ止ムヲ得サルニ至レルノミナラス普通郵便物モ亦大ニ其取扱数ヲ減セリト云フ目下為替貯金郵便事務ヲ取扱ヒ居レリ局員ハ局長及外一名ノ露国人支那人雇員一名他人一人アリ — 外務省通商局編、『在芝罘日本領事館管内状況』、1921年(大正10年)4月、外務省通商局
その後、中華民国内のロシア郵便局は1920年(大正9年・民国9年)9月にロシア国内の政変に鑑み、中華民国政府によって閉鎖されている[249][250]。
第一次世界大戦と芝罘郵便局
日支電報の防諜措置

1914年(大正3年)8月23日、独逸国ニ対スル宣戦ノ詔書が渙発され、日本はドイツ国に対して宣戦布告した[251]。東亜におけるドイツ根據地たる膠州湾租借地攻略のため、千歳、秋津州及び常磐より編制された日本海軍第二艦隊第六戦隊は同年9月2日龍口に到着して、聯合陸戦隊による上陸を完了し、続いてその支援を受けた山田良水少将率いる混成旅団(山田支隊)も上陸した[252][253]。激しい風雨の影響を受けて日本陸軍独立第18師団主力部隊の上陸完了は同月12日に遅れたが、同月24日に青島近郊の即墨に至り、堀内文次郎少将率いる歩兵第46聯隊も英国海軍トライアンフ及びウスク(EN:HMS Usk (1903))の護衛の下、英国陸軍少将バーナディストン(EN:Nathaniel Barnardiston (British Army officer))隷下の同国陸軍歩兵一個大隊と共に同月24日まで労山湾附近に全部隊の上陸を完了した[254][255]。同月28日には孤山から浮山に至る一帯の高地からドイツ軍を撃退して同所の陣地を占領している[256]。
このように渤海一帯における情勢が悪化する中、まず宣戦布告に先立って1914年(大正3年)8月21日に電信法(明治33年法律第59号)第4条及び万国電信条約書第8条[257]の規定により、日支電報規則に定める日支電報において私報は原則として普通辞を以て記載することとされ、隠語の使用は東京中央電信局、横浜郵便局、静岡郵便局[258]、大阪中央電信局、三宮郵便局、名古屋郵便局、四日市郵便局、下関郵便局、長崎郵便局、門司郵便局、札幌郵便局、函館郵便局及び小樽郵便局に頼信するものに限定され、該電報を頼信する場合には訳文と関係隠語書を呈示するものと定められた[259]。同時に電報は日本官憲による検閲に付され、発信人に通知せずにその停止を行い得るものとされた[259]。同様の旨は朝鮮総督府及び台湾総督府においても定められ、朝鮮においては釜山郵便局[260]、台湾においては台北郵便局、台北郵便局大稲埕出張所、淡水郵便局、基隆郵便局、台中郵便局、台南郵便局、打狗郵便局及び嘉義郵便局に限定して前記の取扱を行った[261]。

同年11月7日午前6時、膠州湾租借地総督アルフレート・マイヤー=ヴァルデックは日本側に開城を通告し、同日午前6時半から陸軍少将山梨半造及び海軍少佐高橋寿太郎並びに英国海軍中佐カルスロップはドイツ海軍大佐ザックセルと会談してその降伏にかかる規約を締結した[262]。この後、同年12月11日に日支電報における隠語使用の制限は緩和され、上記の郵便局等に限定せず、取扱局において必要と認める場合において電報訳文や関係隠語書を呈示することを要するのみに改められた[263]。朝鮮においては大正3年朝鮮総督府令第124号を廃止して同様の旨を定め[264]、台湾においては大正3年台湾総督府令第49号を改正した[265]。
また、1916年(大正5年)12月25日には日支電報のみならず、外国郵便物、日支郵便物、外国電報、外国無線電報、日支無線電報及び外国郵便為替に対して制限措置がとられ、敵国と看做されたドイツ及びその保護国、オーストリア、ハンガリー、ボスニア・ヘルツェゴビナ、オスマン帝国[266]及びブルガリアの各国及びその国民[267]との間の郵便物や電報は配達せず、これを禁制品とし、郵便官署及び電信官書において要求のある場合はその国籍及び住所氏名を証明することが定められた[268][269]。この旨は朝鮮総督府及び関東都督府においても同様に定められた[270][271]。
その後、1915年(大正4年)1月8日に大正3年台湾総督府令第49号を廃止し[272]、1919年(大正8年)9月1日に大正3年逓信省令第22号[273]、同月11日に大正3年朝鮮総督府令第170号が廃止された[274]。また、1919年(大正8年)11月20日に大正5年逓信省令第63号[275]、同月26日に大正5年朝鮮総督府令第101号[276]、同月28日に大正5年関東都督府令第37号も同様に廃止されている[277]。
青島攻略戦の報道と芝罘郵便局

日独関係の悪化に鑑み青島在留の日本人は在芝罘日本領事館の手配した汽船利済丸により1914年(大正3年)8月21日に芝罘に逃れた[278]。その避難民の中には官命を帯びた者や新聞記者等が多く、芝罘郵便局においては新聞電報をはじめとして官報及び私報電報の取扱通数が増加の一途をたどり、昼夜を分かたず非常な繁劇の状を呈した[20]。元芝罘郵便局主任杉山悦造は当時の状況を次のように回想している[21]。
宣戦布告せらるるや、青島に在留の同胞は芝罘日本領事の特派せる利済丸に搭じ倉皇引揚げて来たのを始め、特別任務を有する人々、新聞記者等、日々集来した。当時日本の各新聞は芝罘発新聞電報を多数に掲げないものは、芝罘は本邦人の青島方面に行く唯一の要路であったので恰も堤防決潰せし洪水の如き勢いをもって押寄せ、腰に十幾足の草履をぶら下げ、背に七、八升入の白米袋を負い、空拳徒手で港に上陸する者があるのを見るようになった。滞留するものも次第に増加し一時は領事館においてその取締りに窮するに至った。
わが電信業務は、俄かに長文の新聞電報、官報および商用私報の激増に、昼夜を通じての大繁忙となったが、非常時だけに大いに頑張った。
青島陥落の詳報を本邦新聞紙中第一番に登載したのは大阪及び東京の毎日新聞であって、われらの芝罘局からの発信電報であったことは大いに誇りを感じた。 — 杉山悦造、「芝罘電信局の憶い出」、『逓信史話 上』所収、1961年(昭和36年)12月、電気通信協会
上記回想中に言及されている大阪及び東京毎日新聞の青島陥落報道の新聞電報利用について『日本報道百年史』に次のようにある[279]。
戦況や従軍記などの原稿は、電報と野戦郵便で送られた。電報の場合、十里余の道を歩いて芝罘までおもむき、ここに配した大連通信員加茂貞次郎が打電したが、この戦争における最大ニュースは、なんといっても青島占領で、これをいかにして早く本社に入れるかが勝敗の決するところであった。このとき『大毎』のとった戦法は、青島から芝罘までの連絡員を使うことにし、一里間隔で一人ずつ十人の中国人を配置して、リレー式に運送することを計画した。しかし、いつ占領となるか、十日たっても、二十日過ぎても陥落しない。一人一日十円の日当を出して雇いきりにしているので、経費がかさむことおびただしく、これには、奥村社会部長も心配して、いちおう引き揚げを指示しようとしたところ、それから一週間ほどして陥落した。リレー送りの効果はたちどころにあらわれて、他社より三日も早く報道することができたという。 — 全日本新聞連盟編、『日本報道百年史』、1976年(昭和51年)11月、全日本新聞連盟出版局
芝罘 - 青島間海底電信線の接収と在芝罘ドイツ郵便局の閉鎖
在芝罘ドイツ郵便局へ接続されていた芝罘 - 青島間海底電信線は、逓信省電纜敷設船沖縄丸によって1914年(大正3年)11月5日から接収作業を開始し、同月23日にその作業を完了した[280]。本海底電信線に使用されていた電纜は、その後敷設された佐世保 - 青島間の海底電信線に転用された[280]。また、中華民国政府は1917年(大正6年・民国6年)3月14日にドイツ国との国交を断絶し、続いて同年8月14日に宣戦布告を行い、ドイツ国及びオーストリア=ハンガリー帝国との間の各条約を破棄した[281][282]。在芝罘ドイツ郵便局は独支国交断絶の1917年(大正6年)3月に閉鎖された[86]。
しかし、在芝罘日本郵便局長は逓信省にその後も元在芝罘ドイツ郵便局長は芝罘に留まり、何かを企てている様子であること、大北電信会社のデンマーク人が在東京のドイツ人と文通し、その通信に便宜を与えている様子であることを報告し、その通信取締上の必要に鑑みて逓信次官内田嘉吉は外務次官幣原喜重郎に次の通り照会している[283]。
外第四六一〇号 大正七年八月廿四日
逓信次官 内田嘉吉(印)
在芝罘帝国郵便局長ヨリノ報告ニ依レバ現下時局ノ進展ニ伴ヒ避暑ヲ名トシテ陸続芝罘方面ニ入込ム敵国人アルニ際シ仝地独逸郵便局閉鎖後モ引続キ仝地ニ在留スル元仝局長独逸人 J.Merkentrp ハ仝地ノ元捷成洋行 Diedrichsen & Co (敵商)一味ノ支那人ト共ニ何事カヲ企図スル虞アリ尚又仝地大北電信会社丁抹人 Volkerson ハ独逸崇拝家ニシテ独逸人ヲ妻トシ在東京独逸人 Petzold 及 Römisch 外各地二三ノ敵国人ト文通セシノミナラス支那ノ通信検閲ノ殆ト有名無実ナルニ乗シ敵国人ノ通信ニ便宜ヲ与ヘムトスル虞アル趣ニ付テハ通信取締上ノ必要モ有之候条貴省ニ於テモ何等カ御聞込ミノ点モ有之候ハヾ何分ノ義至急御回報相煩度此段照会申進候也 — 大正8年8月24日付外第4610号、(出典:「15.在芝罘敵国人通信取締ノ件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B08090109700、欧州及日独両戦争ノ際ニ於ケル通信関係雑件 第十一巻(5.2.18.65_011)(外務省外交史料館))
外務次官 幣原喜重郎殿
通信取締ニ関スル件
排日運動と芝罘郵便局
いわゆる対支二十一ヶ条要求に起因する排日運動は、山東省一帯においても東亜和平維持会丁世鐸の唱導によって広く展開され[284]、芝罘においては日本紙幣の拒絶や日本商品の不買をはじめとする日貨排斥が行われていた[285]。1919年(大正8年)8月8日、逓信省通信局長は外務省政務局長に対し芝罘郵便局においては現地学生の排日行動によって郵便電信事務に妨害を加えつつある状況を通知した[285]。これを受けて、同月13日附を以て外務大臣内田康哉は在芝罘日本領事代理益子齊造に事態の詳細を調査するよう通牒している[285]。その後、同月23日に益子齊造は同年7月下旬に芝罘郵便局からの郵便を受取った現地在住者に対し脅迫を行った者があり、且つ日本の商品を小包郵便を用いて取寄せた者がその受領後に国貨維持団員に発見され、罰金を課せられた事件が2、3件認められたとしつつ、逓送事務自体が妨害を受けたわけではないことを報告し、「貴信ノ事実ハ誇大ニ失セル嫌アリ」と評価した[285]。
在華外国郵便局の撤廃決定
本節は上海郵便局#在華外国郵便局の撤廃決定と同一の内容である。
中華民国の万国郵便連合加盟

1914年(大正3年・民国3年)3月1日、中華民国政府は万国郵便連合に加盟することとなり、同年9月1日より実施された[286]。これにより日本との間における日本郵便局の設置されていない同国宛の郵便物には、万国郵便連合の郵便料金を適用することとなった[287]。また、同日より同国は小包郵便物交換条約にも加入している[288][289]。以降、同国は機会ある毎に、同国内に郵政官署を設置している各国に対し、その撤廃を要求するようになった[290]。逓信省監察官牧野宝一は当時の状況を次のように述べている[291]。
併し乍ら支那にして万国郵便諸条約に加入せざる限り、たとへ交通の頻繁な二三の国と或種の交換条約を結んだにしても、万国に対して自由に外国郵便を交換するには困難がある。そこで今迄無関心でやつて来た支那も、千九百十四年を期して郵便条約を初め、聯合条約に加入することになつた。
其後支那は外国郵便局の撤廃を主張する機会を伺つて居つた。偶々マドリツトの郵便会議に、或議事の進行中、突然支那委員劉符誠氏は立つて此問題を議せんことを提議したのであるが、大体、問題の性質が郵便会議のものでないので、有耶無耶にされて仕舞つた。殊にマドリツト会議後支那が注目した点は、土耳古等に於ける郵便局が条約面から段々其影を薄めて来たので、それまでは兎に角相当の態面を持つて居る土耳古の様な国にも、外国郵便局が有つて、支那にとつても道伴れがあつたのだが、さうなつて来ると支那も之れに倣はなければ、大国たる態面に関すると云ふ感じは、当然の事として起こるのである。で其主張の方法として一種の詭弁ではあるが、法理論で目的を貫徹しようと試みた。それは「支那が聯合に這入らぬ内は聯合国に取つても、聯合領域の敷衍又は拡張として、聯合外の支那に郵便局を置く必要もあらうし、理論にも叶ふが、既に立派に支那が聯合の一国となり、其全土に聯合条約が行はれる以上、他の聯合国が支那内に郵便局を置いて、聯合領域の重複を図る必要はない、否それ自体矛盾である」と云ふのである。 — 牧野宝一、「外郵三年」、『逓信協会雑誌』第226号所収、1927年(昭和2年)6月、逓信協会
上記引用文中に言及されている第7回万国郵便大会議(EN: Postal Union Congress)は、スペイン王国首府マドリッドにおいて1920年(大正9年)11月1日に開会した[292]。中華民国政府代表者は同会議において同国内における外国郵便局撤廃について主張したが、特に諸国より反応を得られることなく、同年11月30日に万国郵便条約等が新たに定められた[293][294][292]。逓信省は同条約に対応するため、外国郵便規則(明治40年逓信省令第42号)を廃し、新たに外国郵便規則(大正10年逓信省令第56号)を定め、1922年(大正11年)1月1日より施行した[295]。同令第1条及び第2条においては、中華民国についても原則として万国郵便条約が適用されるとしていたが、同時に日本の郵便官署区内と万国郵便連合に加盟する他国の郵便局のみが設置されている地域においては、これを除くものとしており従来の日支郵便物の原則を踏襲した[294][295]。
ワシントン会議

1921年(大正10年・民国10年)11月12日に開会したワシントン会議においては、軍縮問題等種々の国際問題について各国が論議したが、東亜における事件については特に太平洋及極東問題総委員会を設けてこれを討議した[294][296][297]。劈頭、米国全権国務長官ヒューズは、本委員会における討議事項が中華民国の利害に重大なる関係を有することを指摘し、同国が辛亥革命以来の難局を克服して中央政府の確立に至ることを希望する旨を陳述し、また中華民国全権施肇基は同国の領土保全や門戸開放を原則として諸国が同国内外に有する権益等を明確化し明文化し且つこれを公表することを提案した[296]。このような米華両国の思惑の下に支那ニ関スル九国条約(大正14年条約第8号)が締結され、門戸開放と機会均等を基調とする新たな国際秩序を東亜にもたらそうとする試みが行われた[296]。
こうした性格を有するワシントン会議の太平洋及極東問題総委員会において、1921年(大正10年・民国10年)11月25日に中華民国全権施肇基は同国内における外国郵便局の撤廃案を提出した[249]。既に第一次世界大戦の勃発以来ドイツ国の在華郵便局は閉鎖されており、ロシア帝国の在華郵便局についても同国の政変によって1920年(大正9年・民国9年)9月に撤廃されていたため、当時中華民国内に郵便局を置いているのは日本、英国、米国及びフランス[298]の4ヶ国であった[249][250]。翌26日、さらに本案の審議を行った結果、各国は原則として在華郵便局の撤廃につき同意し、1923年(大正12年)1月1日よりこれを実施することが申し合わせられた[249][250]。日本も南満洲鉄道附属地及び関東州を除く地からの日本郵便局の撤廃に同意しており、1922年(大正11年・民国11年)2月1日の第5回本会議において本案は採択された[249][250]。その決議文は次の通りであった[23]。
決議第五
支那国ニ於ケル外国郵便局ニ関スル決議
甲 支那国ニ於ケル外国郵便局(租借地内ニ在ルモノ又ハ条約ニ依リ特ニ規定セラレタルモノヲ除ク)ノ廃止ヲ期スル為支那国政府ノ表示シタル希望ノ正当ナルコトヲ認ムルニ因リ左ノ如ク決議ス
千九百二十二年二月一日軍備制限会議第五回総会ニ於テ之ヲ採用ス — 支那国ニ於ケル外国郵便局ニ関スル決議、(所収:外務省条約局編、『条約集 第一輯第一号 華府会議諸条約及諸決議』、1922年(大正11年)8月、外務省)
(一)前記郵便局ヲ有スル四国ハ左記条件ノ下ニ之ヲ廃止スルコトニ同意ス
(イ)有効ナル支那郵便業務ノ維持セラルルコト
(ロ)支那国政府ハ外国人総弁ノ地位ニ関スル限リ現在ノ郵政ニ変更ヲ加フルノ意ナシトノ保証ヲ与フルコト
(二)支那国及関係諸国ヲシテ必要ノ処置ヲ為スコトヲ得シムル為本取極ハ千九百二十三年一月一日迄ニ之ヲ実施スヘシ
乙 外国郵便局ノ撤廃完了ニ至ル迄ハ関係四国ハ右郵便局ヲ経由スル一切ノ郵便物(外部ヨリノ検査ニ依リ明ニ書状ノミヲ包有スルモノト認メラルヘキ普通信書ハ書留タルト否トヲ問ハス之ヲ除ク)中有税品、禁制品又ハ其ノ他支那国関税法規ニ抵触スル物品ヲ包有スルモノナキヤ否ヲ確ムル為支那国税関官憲カ当該郵便局内ニ於テ検査ヲ為スニ対シ充分ノ便宜ヲ与フヘキコトヲ各別ニ約ス
こうして英国は新界及び威海衛租借地、フランスは広州湾租借地、日本は関東州及び南満洲鉄道附属地を除く中華民国内の外国郵便局を1922年(大正11年・民国11年)12月31日までに撤廃することが決定された[250]。
芝罘郵便局の廃止と芝罘電信局の設立

ワシントン会議における在華郵便局撤廃の決議を受け、1922年(大正11年・民国11年)12月8日に日本と中華民国の両政府代表は日本帝国及支那共和国間郵便物交換ニ関スル約定、日本帝国及支那共和国間価格表記書状及箱物交換ニ関スル約定及び日本帝国及支那共和国間ニ於ケル小包郵便物交換ニ関スル約定並びに日本帝国及支那共和国間郵便為替交換ニ関スル約定に調印し、前述の1910年(明治43年)2月9日(宣統元年12月30日)調印の日本帝国郵政庁及清帝国郵政庁間ニ設定セル関係ヲ規定スル約定及び日本帝国郵政庁及清帝国郵政庁間ノ小包郵便物ノ交換ヲ規定スル約定は、1923年(大正12年・民国12年)1月1日の新約定実施日に廃止されることとなった[299]。
1923年(大正12年)1月1日、芝罘郵便局は廃止され、その郵便事務は下関郵便局、郵便為替及び郵便貯金事務は門司郵便局が承継した[22]。同時に芝罘電信局が一等電信局として開設され、芝罘郵便局の会計事務と電信事務を承継し、日本電信系に発着する和文電報並びに日本政府の欧文官報を取扱うこととなった[22][24][25]。なお直配達区域を芝罘とし、直配達外区域を芝罘港外、東山及び玉皇項と定めた[25]。先のワシントン会議においては、在華外国郵便局のみならず、在華外国無線電信局についても支那国ニ於ケル無線電信局ニ関スル決議及附属声明により条約や特許によらずして設置されているものについては、これを撤廃すべき旨が決議されていたが[300]、先の日清電信協約や芝罘関東海底電信線ノ運用ニ関スル取極等の両国間特別条約に基づき、郵便局より独立して電信局が開設され、郵便局時代において取扱っていた電信事務を元の通りに取扱った[26][301]。また、芝罘郵便局時代と同じく芝罘電信局は郵便、電信及電話官署經費渡切規則施行細則第1条第1号ないし第7号及び第11号ないし第13号に掲げる経費、すなわち器具器械費、式紙帳簿雑品費、図書購買費、薪炭費、点燈費、通信運搬費、傭人費、船舶車輛費、賄費及び諸雑費の交附を受ける局と定められた[302]。
日支電報規則(明治43年逓信省令第101号)及び日支無線電報規則(明治43年逓信省令第102号)の改正
先に述べたように日清電報規則及び日清無線電報規則は、1913年(大正2年)12月27日にそれぞれ日支電報規則及び日支無線電報規則と改称された[110]。1915年(大正4年)8月1日、日支電報規則を改正し、同規則附則第2項において日支電報から除外していた予約新聞電報規則(明治41年逓信省令第39号)を適用し、予約新聞電報の取扱を開始した[303]。ただし、その適用は内地満洲間に限定され、芝罘には適用されなかった[303]。
1923年(大正12年)1月1日、芝罘郵便局の廃止に伴う芝罘電信局の開設により同局の直配達区域及び直配達区域外が定められたため、日支電報規則を改正し、電報直配達区域外に対する電報であってその配達方法に指定のないものは、受信人からあらかじめ別使、艀船または書留郵便の配達請求がない場合は、返信料金前納証書を伴うものを除き、普通郵便によってこれを送達することとした[304]。ただし、1928年(昭和3年)9月29日に芝罘電信局の取扱事項を定めた大正12年逓信省告示第16号が改正され、直配達区域外の項より東山及び玉皇項は削除された[305]。
1925年(大正14年)11月1日、日支電報の定義を内地、台湾、樺太または南洋群島ヤップ島(ヤップ郵便局)と満洲または芝罘との間に発着するもの及び朝鮮、満洲または芝罘相互間に発着する電報と改め[306]、日支無線電報の定義にヤップ島を除く南洋群島と満洲または芝罘との間に発着する無線電報を加えた[307]。
1931年(昭和6年)11月18日、日支電報規則及び日支無線電報規則は、それぞれ日華電報規則[29]及び日華無線電報規則[308]と改称され、規則中支那とある箇所は中華民国と改められた[309]。また、1932年(昭和7年)7月1日には日支電報による新聞電報を南洋群島ヤップ島に拡大した[310]。
日満電報規則(昭和8年逓信省令第35号)及び日満無線電報規則(昭和8年逓信省令第36号)の制定

満洲国の建国以来、満洲においては同国と関東州並びに南満州鉄道附属地の間において電気通信上の連絡を円滑ならしめることが課題となっており、日満両国共同で本問題を研究していたが、施設の二重投下を防止することなどを理由として会社組織による両国合弁の株式会社による経営が適当であると判断され、1933年(昭和8年・大同2年)3月26日、新京において満洲ニ於ケル日満合弁通信会社ノ設立ニ関スル協定(昭和8年条約第1号)が締結された[311][312]。本協定に基づき、同年8月31日に満洲電信電話が創立総会を開催し、翌9月1日から営業を開始した[312]。
1933年(昭和8年)9月1日、満洲電信電話の営業開始と同時に従来の日華電報規則(明治43年逓信省令第101号)及び日華無線電報規則(明治43年逓信省令第102号)は廃止され、日満電報規則(昭和8年逓信省令第35号)及び日満無線電報規則(昭和8年逓信省令第36号)が施行された[313][314][28]。日満電報規則にいう日満電報は日本内地、朝鮮、台湾、樺太または南洋群島ヤップ島と関東州、南満州鉄道附属地及び満洲国との間ならびにこれらの各地と芝罘との間において日本電信系及び満洲電信電話の電信系によって疎通する電報をいい[313]、日満無線電報規則にいう日満無線電報は無線電報(ただし線上伝送については日本電信系または満洲電信電話の電信系によるものに限る)のうち、日本内地、朝鮮、台湾、樺太または南洋群島にある海岸局の媒介により日本または満洲国に属する船舶局もしくは託送発受所と関東州、南満州鉄道附属地、満洲国または芝罘との間に発着するもの、関東州、南満州鉄道附属地または満洲国にある海岸局の媒介により日本または満洲国に属する船舶局もしくは託送発受所と日本または芝罘との間に発着するもの、関東州、南満州鉄道附属地または満洲国にある海岸局の媒介により関東州及び南満州鉄道附属地を除く日本に属する船舶局もしくは託送発受所と関東州、南満州鉄道附属地または満洲国との間に発着するもの、関東州、南満州鉄道附属地または満洲国にある海岸局及び日本内地、朝鮮、台湾、樺太または南洋群島にある海岸局の媒介により関東州及び南満州鉄道附属地を除く日本に属する船舶局もしくは託送発受所相互間に発着するもの、日本内地、朝鮮、台湾、樺太または南洋群島にある海岸局及び場合により関東州、南満州鉄道附属地または満洲国にある海岸局の媒介により関東州、南満州鉄道附属地または満洲国に属する船舶局もしくは託送発受所相互間に発着するもの、日本内地、朝鮮、台湾、樺太または南洋群島にある海岸局及び関東州、南満州鉄道附属地または満洲国にある海岸局の双方もしくは一方の媒介によりまたはその媒介なく日本に属する船舶局もしくは託送発受所と関東州、南満州鉄道附属地または満洲国に属する船舶局もしくは託送発受所との間に発着するもの、ヤップ島を除く南洋群島と関東州、南満州鉄道附属地、満洲国または芝罘との間に発着するものをいった[314]。
日満電報制度の開始は満洲電信電話の営業開始に伴い、従来内地と関東州、南満州鉄道附属地及び芝罘との間の日華電報及び日華無線電報と日満両国間における電報の制度が異なっており、諸種の不便を生じていたため、これを統一して両管内において同一の取扱をすることに主たる目的があった[28]。日華電報時代と同様に特に規定ある場合を除き、内国電報に関する規定を準用し、官報及び私報共に課金上の基礎はその語数によった[28]。また、満洲国現地民の便宜を図り、本文全部を中国電報新編(電碼)による数字によって記載する和文電報は、名宛も数字によって記載し得るよう数字和文電報が認められている[28]。
その後、1934年(昭和9年)4月1日に日満電報規則及び日満無線電報規則は改正され、各種料金を低減して利用者の便宜を図った[315][316][317]。また、同年12月15日からは日満電報において年賀電報の取扱を開始し[318]、1937年(昭和12年)10月1日から慶弔電報の取扱を開始した[319]。
事変下の芝罘電信局
芝罘電信局及び青島電信局の閉鎖
1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件に端を発する華北における日華両軍の軍事的衝突により、芝罘における在留日本人は同年8月17日の引揚命令によって暫時内地へ引揚げることとなり、芝罘電信局は同年8月20日に一時閉鎖された[27][320]。事変前の1934年(昭和9年)時点の芝罘における在留日本人は約300名程度であり[321]、芝罘電信局の局員やその家族も内地に逃れた[320]。また同じく北支において設置されていた日本電信局の青島電信局も1937年(昭和12年)9月3日限りをもって閉鎖された[322]。
日本陸海軍の作戦
青島占領

北支においては日本陸海軍の山東方面進出を予期した中華民国官憲の公認の下、1937年(昭和12年)11月下旬から同地方における日本人財産の掠奪が開始され、青島においては市当局の指令によって同年12月18日に日本人経営の紡績工場が爆破された[323]。日本人財産は灰燼に帰し、損害は2億円以上と見積もられた[323]。また、青島港口は小型汽船やジャンク船を沈めて閉塞され、膠州湾における船舶の航行は禁ぜられた[323]。このような状況を受け、青島引揚居留民の代表者は外務省に適当なる処置を講ずるよう陳情している[323]。同月30日に至るまで青島における日本人経営の工場や商店はことごとく破壊された[323]。同月31日には沈鴻烈等の市政要人も青島を離れ、青島における治安維持は急務となっていた[323]。
こうした情勢を受け、支那方面艦隊司令長官長谷川清中将は青島における治安恢復のため、1938年(昭和13年)1月2日に第四水雷戦隊や第四航空戦隊をもってB部隊を編制し、第四艦隊司令長官豊田副武中将がその指揮及び訓練を実施するよう命じ、青島占領作戦であるB作戦の準備を行った[323]。B部隊各隊は同月6日まで旅順近海の裏長山泊地に集結し、同月8日に青島に向けて同所を出撃した[323]。同部隊は旗艦を足柄として複数の巡洋艦や駆逐艦を擁し、また龍驤や能登呂などの航空部隊は上空偵察や警戒にあたった[323]。同月10日にB部隊は青島に到着し、掃海や砲撃を行った後、海軍陸戦隊が上陸し、青島市政府庁舎を占領して、同日18時半までに市内の掃蕩を完了した[323]。同月11日以降は日本陸軍第二軍の第五師団の部隊も逐次到着した[324][323]。先に到着した海軍部隊が市内のめぼしい施設を占領していたため、その管理権や警備分担をめぐって陸海軍の間に対立を生じたが、同月17日に大本営陸海軍部間に協定(青島市及其附近要地占拠ニ関スル大本営陸海軍部間ノ協定)を締結し、現地においては同年3月26日に至って港務、郵務及び電政に関する協定が第四艦隊と第二軍の間に成立して問題が解決した[324][323]。青島の治安は同年1月17日の青島治安維持会の成立によって急速に恢復し、同月21日から日本人の帰還が開始されている[323]。
芝罘占領

上述の通り1938年(昭和13年)1月に青島を占領した日本陸軍第二軍は、同年2月初旬に同所から歩兵一個大隊程度の沖部隊(隊長沖作蔵少佐)を芝罘に派遣し、これを占領する計画を立案していた[325]。日本海軍においては陸軍に策応し、在芝罘日本領事の帰任の護衛や情勢安定までの警備を実施するため、同年1月28日に第四艦隊司令長官豊田副武中将がB部隊電令をもってC部隊を編制し、芝罘への進出を下令した[325]。C部隊は第三潜水戦隊司令長官の鋤柄玉造少将の下、球磨を旗艦として主隊は第九潜水隊(伊号第二十三潜水艦及び伊号第二十四潜水艦)、第十三潜水隊(伊号第二十一潜水艦及び伊号第二十二潜水艦)及び第二砲艦隊(長平丸、鮮海丸及びでりい丸)、警戒部隊は第二十七駆逐隊(蓼及び菱)、掃海部隊は第十七号掃海艇、徴傭船第一寶栄丸及び第二寶栄丸、陸戦部隊は球磨、第二十七駆逐隊及び第二砲艦隊の各艦派遣陸戦隊によって編制され、同年2月2日に旅順に集結した[325]。同日夕刻より第二砲艦隊及び掃海部隊が先発し、芝罘沖の掃海作業を行っている[325]。翌3日に第十三潜水隊を除くC部隊主力部隊も芝罘に到着し、同日午後1時に陸戦隊による市内掃蕩を完了、周辺の砲台や火薬庫等の軍事施設を占領した[325]。同年2月1日に青島を出発していた日本陸軍第二軍の沖部隊も同日早暁に芝罘へ到着しており、C部隊は同部隊と警備協定を締結した[325]。海軍陸戦隊は同月4日に陸軍部隊と交代して市内全域の警備に当たり、翌5日に掃海部隊と陸軍沖部隊は青島へ帰還した[325]。同月14日からは牟平方面に来襲の匪賊討伐を行い、同月16日にこれを完了、同月17日以降は警備任務を横須賀鎮守府第1特別陸戦隊派遣隊に引継ぎ、同月19日にC部隊の名称は廃止された[325]。芝罘においては警察機関が機能しており、治安はよく維持されていたが、牟平方面においては匪賊の抵抗が続き、海軍陸戦隊はその後も残敵の掃蕩に当たっている[325]。
元芝罘電信局長平澤勇藏は、匪賊の便衣戦術に苦心したことを次のように記している[326]。
一、当芝罘は焦土戦術とは反対に無血上陸せしめたる後邦人襲撃の執拗なるゲリラ戦術に出でたる為市内外の掃匪は中々困難の模様なるが吾々平和の民は内心は第一線に立つて居ても素手では進んで防ぐ方法が無いので唯退いて五段七段の構をなし堅く閉す事と侵入通報方法の考案を主とする外ありません。
一、当地は四季を通じて天気晴朗なるも冬が永いのと復帰以来今日迄郊外は勿論市内でも一部の通行に限られて居るので人口十八万と云ふ可なりの市街であるに不拘行動範囲は至つて狭く恰も籠城状態に在るので一般に皆運動不足の感が大です且又面子関係から心ならずも俥に乗せられるなど精動違反の感とで良い様な悪い様な気分不安定の中を彷徨して居ります。 — 平澤勇藏、(出典:「大陸第一線に聴く」、『交通経済』第11巻第1号所収(51から52頁)、1940年(昭和15年)1月、交通経済社)
なお、C部隊旗艦球磨には在芝罘日本領事長岡半六と同地出身の要人張化南が乗船しており、日本軍の占領後、2月4日に長岡半六は在芝罘日本領事館において国旗掲揚式を行い、張化南は中華民国臨時政府の傘下の芝罘市長に就任し同市政府において就任式を挙行した[325][27][327]。
芝罘電信局及び青島電信局の再開

青島は上述の通り芝罘より早く1938年(昭和13年)1月に日本軍の占領下に入ったが、通信機械の掠奪や海底電信線の切断等の被害が甚大であった。逓信省においては軍と協力の上、電纜敷設船南洋丸を派遣して復旧工事に尽力した[27]。その結果、同年1月13日に局内工事を完了してまず無線連絡による公衆電報の受付を再開し、同月17日から海底電信線を用いた通信を開始した[328]。その後しばらく海軍の管理下に置かれていた同局は、同年4月1日から正式に元の通り独立した電信局としての業務を再開した[328]。
一方、芝罘においても日本軍による占領の後、逓信省から技手及び技工各一名が派遣され、通信連絡の復旧に努めた[27]。芝罘電信局においては青島電信局のような甚大な被害はなかったが、中華民国側の電報局においてはほとんどの通信機械が同国の兵士により持ち去られていたという[27]。総工費3,800円をもって復旧工事は完了し、1938年(昭和13年)2月5日に芝罘電信局は通信を再開した[27][329]。この際にはクラインシュミット鍵盤鑽孔機(EN:Kleinschmidt keyboard perforator)が新たに設備され、芝罘と大連の間における自動通信に供せられた[27]。ただし芝罘電信局及び青島電信局ともに海岸局業務は同年6月8日に復旧し、日満船舶との発着無線電報の取扱を再開した[330]。
元芝罘電信局長平澤勇藏は、愉快だったことを尋ねられ、次のように再開後の芝罘電信局について記している[326]。
(一)愉快なりし事
一、電報料金収入増加し従来支出の半額に達せざりしものが十三年二月復帰再開以来可なりの黒字収支となりましてよい気持です。
一、復帰当時の寂寥なりし吾が芝罘に比し昨今は新東亜の芝罘として其の色彩愈々鮮明となりつゝあります。 — 平澤勇藏、(出典:「大陸第一線に聴く」、『交通経済』第11巻第1号所収(51から52頁)、1940年(昭和15年)1月、交通経済社)
華北電信電話の設立

事変の進展に伴い、1937年(昭和12年)12月14日に王克敏を首班とする中華民国臨時政府が発足し、同政府と日満合弁の電気通信会社設立のため、まず1938年(昭和13年)1月1日に華北電政総局が発足した[331]。その後、同年7月30日に同臨時政府は華北電信電話股份有限公司条例(民国27年7月30日臨時政府臨字第98号)を施行し、華北電政総局は華北電信電話に発展解消された[331]。同社は北支における電信電話事業を管掌し、芝罘においては日本による占領後の1938年(昭和13年)2月に華北電政総局により電話局及び電報局が開設されている[332]。この電話局と電報局は、同年8月1日から芝罘電報電話局と改称された[333]。日本逓信省によって設置されていた芝罘電信局や青島電信局についても華北電信電話側はその経営を同社に移譲するよう希望したというが、これは実現せず両電信局はそのまま存置された[334]。『華北電電事業史』は次のように芝罘電信局に言及している[335]。
中国の電信電話は、創業のはじめから外国の手に握られ、その間北洋大臣李鴻章などにより幾度か電気通信の自主権の回復を図ろうとする努力がなされたが、究極において外国勢力の強力な束縛を脱し得なかった。すなわち電信事業創業の初期における大北電信会社(デンマーク系)や大東電信会社(英国系)の海底ケーブルへの進出を初めとし、団匪事件以後は中国政府の統治力の弱体に乗じて、外国通信権の横行時代を招くにいたった。
中国が自ら通信施設を設ける場合も、これらの工事はほとんど外国の借款に依存する始末であり、しかもその借款も他の政治目的に流用されることもあって、通信施設は等閑に付され、日中戦争発生当時の中国通信施設は、外国の権益に属するものを除けば、市内電話はおおむね磁石式手動交換機であり、市外電話は重要区間も裸線であった。電信機械にいたってはモールス印字機が主体の有様であった。華北においても首都である北京、人口百万を擁する大都市の電話が全部手動式であり、政治、経済上最も重要な区間である北京・天津間の市外電話がわずかに裸線6、7回線という貧弱極まるものであった。華北には日本の権益による青島電信局、芝罘電信局があったが、これは当時中国における最も整った通信設備であった。華北における日本と中国との経済提携の一環として電気通信整備の問題が第一に着眼されたのも、このような背景により理解せらるべきである。 — 北電会編、『華北電電事業史』(50から51頁)、1975年(昭和50年)12月、電気通信協会
日華電報規則(昭和13年逓信省令第87号)及び日華無線電報規則(昭和13年逓信省令第88号)の制定
1939年(昭和14年)1月1日、日華電報規則(昭和13年逓信省令第87号)及び日華無線電報規則(昭和13年逓信省令第88号)が施行された[336][337]。両規則の制定に伴い、日満電報規則(昭和8年逓信省令第35号)及び日満無線電報規則(昭和8年逓信省令第36号)中の芝罘発着電報についての条項は削除され[338][339]、以降は芝罘電信局における電報取扱は日華電報規則及び日華無線電報規則によることとなった[30]。
日華電報規則による日華電報とは日本電信系によりまたは日本電信系及び満洲電信電話の電信系によりもしくは中華民国の電信系によって内地、朝鮮、樺太または南洋群島と中華民国の間に発着する電報をいい[336]、日華無線電報規則による日華無線電報とは関東州を除く日本または中華民国に属する艦船もしくは航空機の間に発着する電報であってもっぱら日本政府及び中華民国の移動局、陸上局またはその電信系により取扱う無線電報をいう[337]。日本と関東州、南満州鉄道附属地及び満洲国並びに芝罘の間においては、従来より日満電報規則及び日満無線電報規則によって簡易且つ低廉な料金によって電報取扱を行っていたが、日華間における事変勃発以来、北支情勢が一変したことに鑑み、日本と経済的関係が強い同地方との間に発着する電報は、1937年(昭和12年)9月1日から一部の例外規定を除き、日満電報と似通った内容の取扱を行っていた[340]。芝罘発着電報が日満電報ではなく、日華電報によることとなったのは、この事変以来の北支発着電報と同様に取扱うこととなったためであり[30]、日華電報規則第12条によって日本電信系を経由し芝罘電信局を含む在華日本電信官署と関東州、満洲国または中華民国との間に発着する電報も本規則に準じて取扱うこととなった[336]。
本改正に伴い、従来芝罘電信局における取扱事項を定めていた大正12年逓信省告示第16号は廃止され[341]、昭和13年逓信省公達第1736号により次の通りその取扱事項を改めた[31]。
芝罘電信局ノ電報取扱事項(昭和十三年十二月二十七日公達第千七百三十六号)
芝罘電信局ノ電報取扱事項左ノ通定ム
直配達区域外 芝罘港内 — 昭和13年逓信省公達第1736号、(出典:鹿島庄太郎編、『外国無線電信法規』(894頁)、1939年(昭和14年)4月、電信協会)
本公達ハ昭和十四年一月一日ヨリ之ヲ施行ス
一、取扱種別
帝国、満洲国又ハ上海ニ発著スル和欧文電報
二、配達地域
直配達区域 芝罘
大正12年逓信省告示第16号において芝罘電信局取扱電報は、日本電信系に発着する和文電報ならびに日本政府の欧文官報と限定されていたが[25]、本公達においては欧文電報の取扱を官報に限定しないなど業務範囲を拡大した[31]。
東亜電信電話規則(昭和16年逓信省令第26号)の制定
1941年(昭和16年)4月1日、東亜電信電話規則(昭和16年逓信省令第26号)が施行され、日華電報規則及び日華無線電報規則は廃止された[342]。東亜電信電話規則における東亜電報は関東州を除く日本と関東州、満洲国または中華民国との間に発着する電報をいい、東亜無線電報は関東州を除く日本に属する艦船または航空機と関東州、満洲国または中華民国との間に発着する無線電報、関東州を除く日本と関東州、満洲国または中華民国に属する艦船または航空機との間に発着する無線電報、関東州を除く日本に属する艦船または航空機と関東州、満洲国または中華民国に属する艦船または航空機との間に発着する無線電報及び関東州を除く日本と関東州を除く日本に属する艦船または航空機との間または関東州を除く日本に属する艦船または航空機相互間に発着する無線電報であって満洲電信電話または中華民国に属する移動局、陸上局または電信系を経由するものをいい、従来の日満電報、日満無線電報、日華電報及び日華無線電報を一元化したものであった[343]。
東亜電報の取扱上において北支那と称する地域には華北電信電話所属の各局と芝罘電信局を含めることとされ、内地と北支那の間に発着する電報の特例事項として芝罘宛電報については別使配達及び電話送達の取扱をしないこと、慶弔電報の特殊取扱は行わないことが定められた[343]。また、日華電報と同じく日本電信系を経由し芝罘電信局を含む在華日本電信官署と関東州、満洲国または中華民国との間に発着する電報は東亜電報の規定によって取扱うこととされている[343]。
昭和期における官制の改革
本節は上海郵便局#昭和期における官制の改革と同一の内容である。
等級制の廃止
芝罘電信局は一等電信局として設置されていたが[344]、1941年(昭和16年)2月1日の通信官署官制改正によって通信官署における等級制は廃止された[345]。郵便局については普通郵便局、指定郵便局及び特定郵便局の別を内部的に設けていたが、電信局については一等電信局及び二等電信局ともに単に電信局と称することとなった[346]。
郵便、電信及電話官署經費渡切規則施行細則の廃止
1941年(昭和16年)7月1日、郵便、電信及電話官署經費渡切規則施行細則[347]及び明治40年逓信省告示第223号は廃止され[348][349]、普通郵便局、電信局及電話局渡切経費施行規程(昭和16年逓信省公達第487号)及び特定郵便局等渡切経費施行規程(昭和16年逓信省公達第488号)により渡切経費を規定することとなった[350]。在外電信局については普通郵便局、電信局及電話局渡切経費施行規程別表第1号においてその渡切経費を規定した[350]。
芝罘電信局の終焉

大戦勃発後の1942年(昭和17年)8月に芝罘 - 大連間の海底電信線が断線し、断線中は大連と華北電信電話の芝罘電報電話局の間に臨時無線設備を施して大連との間における連絡を行っていた[26]。しかし、戦局の悪化に伴って海底電信線の復旧の目処は立たず、1945年(昭和20年)5月31日に芝罘電信局の業務の一切は華北電信電話に委託された[334][26]。玉音放送後の同年8月24日に芝罘は八路軍の占領下に入り[33]、同年12月に芝罘電信局は正式に廃止された[34]。なお、東亜電信電話規則は1946年(昭和21年)4月1日に廃止された[351]。
芝罘電信局の業務の一切を委託された華北電信電話は、中華民国交通部への業務継承のため、聶傳儒を首班とする同国接収班との交渉を同年9月から10月11日まで継続した[352]。その後も多数の日本人職員が留用され大陸にとどまったが、1946年(昭和21年)7月の第二次国共内戦勃発に伴い、満洲方面は共産軍の占拠するところとなり、同年12月に19名を残して帰国した[352]。残された19名は中共に継続して留用された2名を除き、1948年(昭和23年)11月に帰国している[352]。
年表
- 1876年(明治9年)10月6日 - 芝罘郵便受取所を開設する[2][3]。
- 1883年(明治16年)3月31日 - 芝罘郵便受取所を廃止する[4]。
- 1889年(明治22年)
- 1892年(明治25年)10月1日 - 一等郵便局として芝罘郵便局を開設する[1]。ただし郵便為替及び郵便貯金事務は取扱わない[1]。
- 1893年(明治26年)
- 1894年(明治27年)8月4日 - 日清戦争開戦のため、追って告示するまで一時閉鎖する[9]。
- 1895年(明治28年)
- 1896年(明治29年)10月3日 - 在外郵便電信局、郵便局官制(明治29年勅令第320号)を施行し[179]、在外郵便局の等級を廃する[180]。
- 1897年(明治30年)8月18日 - 在外郵便電信局、郵便局官制(明治29年勅令第320号)を全部改正し、在外郵便電信局、郵便局官制(明治30年勅令第270号)を公布する[181]。
- 1898年(明治31年)
- 1899年(明治32年)1月1日 - ワシントン締結万国郵便連合郵便為替事務約定並びにその施行細則を施行する[353][354]。
- 1900年(明治33年)
- 3月16日 - 郵便為替及び郵便貯金事務の取扱を開始する[11]。ただし外国郵便為替事務は取扱わない[11]。
- 5月1日 - 収入印紙の取扱を開始する[132]。
- 6月30日 - 当分の間、芝罘郵便局においては通常郵便為替の制限額に超過するものであっても払渡を行うべき旨を定める[146]。当分の間、内地から芝罘郵便局に宛てる郵便物は広島郵便電信局宇品支局、門司郵便電信局及び赤間関郵便電信局を直接差立局とする[355]。軍事郵便物の取扱局に指定する[136]。
- 7月1日 - 外国郵便為替の取扱を開始する[145]。ただし英国及びその媒介為替及び米国為替の受払ならびにベルギー為替の払渡を取扱わない[145]。
- 9月15日 - 当分の間、證書一枚の金額に制限を付せずに通常為替の振出を取扱う旨を定める[147]。
- 9月20日 - 上海郵便局を外国郵便局に対し直接万国郵便連合為替ならびに香港及びその媒介による為替の振出及び払渡の取扱をする局に指定し、芝罘郵便局は同局経由によりその受払を行う旨を定める[150]。
- 10月1日 - 米国為替の受払の取扱を開始する[151]。
- 11月6日 - 英国及びその媒介為替の受払の取扱を開始する[152]。
- 1901年(明治34年)
- 1902年(明治35年)6月20日 - 価格表記通常郵便物、代金引換通常郵便物及び現金取立郵便物の取扱を開始する[139]。
- 1903年(明治36年)
- 3月20日 - 郵便局経費渡切規則(明治36年勅令第44号)を公布する[357]。
- 4月 - 独立局舎に移転する[7][171][14]。
- 4月1日 - 通信官署官制(明治36年勅令第40号)を施行し、在外郵便電信局、郵便局官制(明治30年勅令第270号)を廃止する[183]。
- 5月18日 - 日清間に郵便仮約定及び小包郵便仮約定を締結する[15]。
- 9月25日 - 各郵便局所において取扱わない外国郵便為替の種別を示し、芝罘郵便局においてはフランス為替の振出及び払渡ならびにドイツ及びその媒介為替の払渡を取扱わない旨を定める[157]。在芝罘ドイツ郵便局を万国連合郵便為替約定により日本と外国郵便及び電信為替を交換する郵便局に指定する[158]。
- 11月7日 - 外国郵便取扱規程(明治33年逓信省公達第18号)第3条にいう交換局に芝罘郵便局を指定し、直接外国へ郵便を差立てもしくは受取る局となる[358]。
- 1904年(明治37年)
- 2月10日 - 当分の間、清国北京、天津、芝罘及び牛荘へは万国郵便連合の郵便小包によるほか小包郵便物を逓送すべき方途がない旨、告示する[93]。
- 2月13日 - 明治36年逓信省告示第454号を改正し、芝罘郵便局においては英国及びその媒介為替の払渡を取扱わない旨を定める[164]。
- 3月1日 - 芝罘宛清韓小包郵便物の逓送を再開する[95]。
- 3月10日 - 明治36年逓信省告示第452号を改正し、在芝罘英国郵便局を特別郵便為替約定により日本と外国郵便及び電信為替を交換する郵便局に指定する[165]。明治36年逓信省告示第454号を改正し、芝罘郵便局においては香港及びその媒介為替の払渡を取扱わない旨を定める[166]。
- 4月6日 - 郵便局経費渡切規則施行細則(明治37年逓信省令第30号)を定め[359]、芝罘郵便局は郵便局経費渡切規則施行細則第1条各号に掲げる経費、すなわち器具器械費、式紙帳簿雑品費、図書購入費、薪炭費、点燈費、通信運搬費、傭人費、賄費及び諸雑費の交附を受ける局となる[360]。
- 1905年(明治38年)
- 3月22日 - 通信官署経費渡切規則(明治38年勅令第62号)を公布する[361]。
- 4月4日 - 通信官署経費渡切規則施行細則(明治38年逓信省令第30号)を定め[362]、芝罘郵便局は通信官署経費渡切規則施行細則第1条第1号ないし第7号及び第11号ないし第13号に掲げる経費、すなわち器具器械費、式紙帳簿雑品費、図書購買費、薪炭費、点燈費、通信運搬費、傭人費、船舶車輛費、賄費及び諸雑費の交附を受ける局となる[363]。軍用手票の取扱を開始する[12][13][97]。
- 7月26日 - 明治36年逓信省告示第454号を廃止し、各郵便局所において取扱わない外国郵便為替の種別を示し、芝罘郵便局においてはフランス及びその媒介為替、ドイツ及びその媒介為替、英国及びその媒介為替ならびに香港及びその媒介為替の払渡を取扱わない旨を定める[364]。
- 9月1日 - 万国郵便連合の価格表記信書及箱物交換約定による価格表記信書及び箱物の取扱を開始する[144]。
- 1907年(明治40年)4月1日 - 通信官署経費渡切規則施行細則(明治38年逓信省令第30号)を全部改正し、通信官署経費渡切規則施行細則(明治40年逓信省令第14号)を公布する[365]。芝罘郵便局は通信官署経費渡切規則施行細則第1条第1号ないし第7号及び第11号ないし第13号に掲げる経費、すなわち器具器械費、式紙帳簿雑品費、図書購買費、薪炭費、点燈費、通信運搬費、傭人料、船舶車輛費、賄費及び諸雑費の交附を受ける局となる[366]。
- 1908年(明治41年)
- 1909年(明治42年)
- 7月1日 - 電信開通祝賀会を催行する[21]。
- 7月16日 - 電信事務の取扱を開始する[18]。佐世保、大連及び芝罘間海底電信線を経由して日本と芝罘郵便局の間に発着する普通電報ならびに日本海岸局の媒介により且つ佐世保、大連及び芝罘間海底電信線を経由して日本船舶局と芝罘郵便局の間に発着する無線電報には、本邦ト在韓国本邦郵便電信局郵便局間直発着電報取扱規則(明治33年逓信省令第8号)を準用する[226]。ただし欧文電報は日本政府官報を除き取扱わない[226]。大連芝罘間海底電信線を経由し芝罘郵便局と在大韓帝国日本通信官署及び在清国満洲日本通信官署の間に発着する電報には、韓国内電報規則(明治38年逓信省令第40号)を準用する[227]。ただし欧文電報は日本政府官報を除き取扱わない[227]。大連芝罘間海底電信線を経由し芝罘郵便局と在大韓帝国日本通信官署及び在清国満洲日本通信官署の間に発着する新聞電報には、新聞電報規則(明治39年逓信省令第61号)を準用する[367]。ただし同規則第2条第1項の新聞電報料金は五十字毎に金30銭とし、第15条の逓信大臣は別に定めるところにより新聞電報に関する料金の予納または後納を許可することがあるとの規定はこれを適用しない[367]。
- 1910年(明治43年)
- 2月9日 - 日本帝国郵政庁及清帝国郵政庁間ニ設定セル関係ヲ規定スル約定及び日本帝国郵政庁及清帝国郵政庁間ノ小包郵便物ノ交換ヲ規定スル約定を締結する[15][212]。
- 4月1日 - 通信官署官制(明治36年勅令第40号)を廃止し[185]、通信官署官制(明治43年勅令第91号)を施行する[186]。芝罘郵便局は通信官署官制による二等郵便局となる[188]。清韓郵便規則(明治43年逓信省令第11号)及び清韓郵便取扱規程(明治43年逓信省公達第269号)を施行し、在清国本邦郵便局郵便物取扱順序(明治31年逓信省公達第395号)を廃止する[105][106][107]。
- 11月1日 - 日清電報規則(明治43年逓信省令第101号)及び日清無線電報規則(明治43年逓信省令第102号)を施行する[234][235]。本邦ト在韓国本邦郵便電信局郵便局間直発着電報取扱規則(明治33年逓信省令第8号)、韓国内電報規則(明治38年逓信省令第40号)、明治42年逓信省令第29号、明治42年逓信省令第30号及び明治42年逓信省令第31号は廃止する[234]。
- 1911年(明治44年)1月1日 - 清韓郵便規則を日清郵便規則に改める[215]。
- 1913年(大正2年)
- 1921年(大正10年)9月14日 - 等級を一等郵便局に改める[189]。
- 1922年(大正11年)4月1日 - 郵便、電信及電話官署経費渡切規則を廃止する[204]。ただし会計法(大正10年法律第42号)第22条に基づく会計規則(大正11年勅令第1号)第61条第1項第2号の定める逓信官署については、当分の間、郵便、電信及電話官署経費渡切規則施行細則を準用する[205]。
- 1923年(大正12年)1月1日 - 芝罘郵便局を廃止し、郵便事務は下関郵便局、郵便為替及び郵便貯金事務は門司郵便局、電信事務及び会計事務は芝罘電信局が承継する[22]。一等電信局として芝罘電信局を開設し[24]、その取扱事項を日本電信系に発着する和文電報ならびに日本政府の欧文官報、直配達区域を芝罘、直配達区域外を芝罘港内、東山及び玉皇項と定める[25]。明治40年逓信省告示第223号の芝罘郵便局を芝罘電信局に改める[302]。日支郵便規則は日満郵便規則に改める[370]。
- 1928年(昭和3年)9月29日 - 大正12年逓信省告示第16号を改正し、直配達区域外の項より東山及び玉皇項を削る[305]。
- 1931年(昭和6年)11月18日 - 日支電報規則を日華電報規則、日支無線電報規則を日華無線電報規則と改める[309]。
- 1933年(昭和8年)9月1日 - 日満電報規則(昭和8年逓信省令第35号)及び日満無線電報規則(昭和8年逓信省令第36号)を施行し、日華電報規則及び日華無線電報規則を廃止する[313][314]。
- 1934年(昭和9年)12月15日 - 日満電報において年賀電報の取扱を開始する[318]。
- 1937年(昭和12年)
- 1938年(昭和13年)2月5日 - 芝罘電信局を再開する[27]。
- 1939年(昭和14年)1月1日 - 日華電報規則(昭和13年逓信省令第87号)及び日華無線電報規則(昭和13年逓信省令第88号)を施行し、日満電報規則及び日満無線電報規則から芝罘発着電報に関する規定を削る[336][337][338][339]。大正12年逓信省告示第16号を廃止し[341]、芝罘電信局における取扱事項を日本、満洲国または上海に発着する和文電報、直配達区域を芝罘、直配達区域外を芝罘港と定める[31]。芝罘電信局の電報上用いるべき特別名称を和文電報はチイフウ、欧文電報はChefooと定める[371]。
- 1941年(昭和16年)
- 1942年(昭和17年)8月 - 芝罘大連間海底電信線が断線する[26]。
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)4月1日 - 東亜電信電話規則を廃止する[351]。
組織
芝罘郵便局

上述の通り、1876年(明治9年)開設の郵便受取所の実務は、外国の領事館や商人に委託されており[50][51]、1889年(明治22年)開設の郵便受取所とその後に郵便事務を継承した在芝罘日本領事館においては、その事務を同地駐箚の領事並びにその館員が取扱っていた[4]。1892年(明治25年)10月1日の芝罘郵便局開設後は当初は局長の任務を在芝罘日本領事が務めつつ、逓信省から高垣徳治が派遣されて実務を担っていたが、1896年(明治29年)から高垣徳治が局長となり、逓信書記補書記補渡邊彌太郎が勤務した[4][68][67][372]。当初判任官は2名体制であったが、1899年(明治32年)2月1日時点においては局長高垣徳治のほか、通信書記荘益衛及び根岸政造の3名が勤務している[373]。1902年(明治35年)5月1日時点の職員録においては2名体制に戻ったが[374]、1903年(明治36年)5月1日時点の職員録から再び3名体制となった[375]。1909年(明治42年)7月16日の電信事務取扱開始後、1910年(明治43年)5月1日時点の職員録においては局長中川傳治、通信書記杉戸彬及び杉山悦三、通信書記補藤原常造の4名体制となっている[376]。その後も職員の増員は続き、廃止直前の1922年(大正11年)7月1日時点における職員は、局長葭村外雄以下、通信書記佐藤榮造、道明時太郎及び津川義道、通信書記補矢羽野幸一、雪田光幹、葛西良太郎、岩島庄作、菊池鐵三郎及び大阪三郎の10名が掲載されている[377]。なお、1919年(大正8年)10月18日の在芝罘日本領事館報告によれば、局長1名、通信書記3名、通信書記補6名のほか、雇員として日本人2名、現地民11名が在籍していたという[86]。
1889年(明治22年)開設の郵便受取所開設以来の歴代局長は次の通りであった(第4代局長までは在芝罘領事館職員が兼任)[378][379][380][381][382][383][384][385][386][377]。
- 初代 - 能勢辰五郎
- 2代 - 久水三郎
- 3代 - 伊集院彦吉
- 4代 - 久水三郎
- 5代 - 高垣徳治
- 6代 - 中川傳治
- 7代 - 細川辰也
- 8代 - 服部本一
- 9代 - 葭村外雄
芝罘電信局


1924年(大正13年)7月1日時点において芝罘電信局には局長江口壽一のほか、通信書記津川義道及び雪田光幹、通信書記補葛西良太郎、岩島庄作、菊池鐵三郎、大阪三郎及び今村常和の8名が勤務していた[387]。『大正十四年九月現在 逓信省職員録 乙』等によれば、芝罘電信局の定員は通信書記2名、通信書記補5名と定められており、実際に勤務する官吏もこの定員数に1名前後の推移があったが、おおむねこの通りに推移した[388][389][390][391][392][393][394][395]。
芝罘電信局の歴代局長は次の通りであった[387][388][389][390][391][392][393][394][395][396][397]。
- 初代 - 江口壽一
- 2代 - 舟橋尚
- 3代 - 土肥友二
- 4代 - 濱田粂市
- 5代 - 若狭確之輔
- 6代 - 毛利武雄(局長心得)
- 7代 - 平澤勇藏
- 8代 - 濱本長松
- 9代 - 栗本仲太郎
- 10代 - 小川甚三郎