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大粛清

ヨシフ・スターリンによる大規模な政治弾圧 From Wikipedia, the free encyclopedia

大粛清(だいしゅくせい)・大テロル(だいてろる)[1][2][3][4][5]: Большой террорラテン文字転写:Bol'shoy terror ボリショイ・テロル、: Great Purge、Great Terror)とは、ソビエト連邦(ソ連)の最高指導者ヨシフ・スターリン1930年代後半にソビエト連邦および国外や衛星国等でも実行した大規模な政治的粛清: purge,パージ)・政治弾圧を指す。スターリンからすれば、粛清とは党の浄化を意味した[6]1934年セルゲイ・キーロフ暗殺事件を契機として開始され、1936-1938年にその頂点に達したが、その後も粛清は続いた。

内務人民委員部 (NKVD)は国外でも粛清を行なった。西側に亡命したNKVD工作員の粛清のほか、スペイン内戦ではアンドレウ・ニンらが粛清され、1940年にはレフ・トロツキーがメキシコで暗殺された。衛星国では、ハンガリー共産党ラーコシ・マーチャーシュによるライク・ラースローらの粛清があり(1949年)、チェコスロバキア共産党ではルドルフ・スラーンスキーらが「トロツキー主義者・チトー主義者シオニスト」の罪で粛清された(1952年)。東アジアではモンゴル人民共和国ホルローギーン・チョイバルサン新疆盛世才による粛清がある。中国共産党では1940年代に毛沢東康生による整風運動があり、1960-70年代の文化大革命ではソ連の大粛清をさらに上回る犠牲を出した。カンボジア共産党でもポル・ポトクメール・ルージュによる粛清を含むカンボジア大虐殺が起きた。

1953年にスターリンが死去してから3年後の1956年2月に、ニキータ・フルシチョフ第一書記アナスタス・ミコヤンピョートル・ポスペーロフらによるスターリン批判報告で、1935年-40年までに154万8366人が逮捕され、68万8503人が銃殺されたことなどが公式に報告された(これは当時の調査の犠牲者数であり、現在はさらに増えている)。フルシチョフの報告は秘密会議におけるものだったが、各国共産党から徐々に広まり、世界中の共産主義者に衝撃を与えた[7]。1961年にはレーニン廟からスターリンの遺体は撤去された。

大粛清・大テロルは、ソビエト連邦共産党内における幹部政治家の粛清に留まらず、一般党員や民衆にまで及び、ソ連内だけでなく国外でも展開した大規模な政治的抑圧として世界でも悪名高い。

名称

ソビエト連邦の崩壊後の現在ではБольшой террор (大テロル)が一般的であり、このほか、大弾圧 (массовые репрессии)、エジョフシチナ (ежовщинаニコライ・エジョフの時代という意味)、37年 (37-й год) などとも呼ばれる。

日本では大粛清が一般的に知られ、そのロシア語はボリショイ・チーストカБольшая чисткаである[8]。このБольшая чисткаは、党員の資格点検運動を意味するчистка(チーストカ、粛清)と混同されやすいので、大テロルの方が比較的適切であるともされる[9]

大粛清(Great Purge)という用語は、歴史家ロバート・コンクエストが1968年に著した『The Great Terror(大テロル、大恐怖)』によって広く知られるようになった[10]。この書名は、フランス革命における恐怖政治:la Terreur、:Reign of Terror)を意識したものであった[11][12]

概要

1934年にセルゲイ・キーロフが暗殺された後、ヨシフ・スターリンは、ソビエト連邦共産党内にいると疑われた反体制派・異議者を排除するため、モスクワ裁判として知られる一連の見世物裁判を開始した。

粛清は主に、秘密警察を統括していた内務人民委員部(NKVD)によって実行された。1936年、NKVD長官ゲンリフ・ヤゴーダは、党中央指導部、古参ボリシェヴィキ、政府高官、地方党幹部らの「異分子」「反革命分子」の排除に着手した[13]。スターリンを批判あるいは反対した政治家たち(ニコライ・ブハーリンレフ・カーメネフグリゴリー・ジノヴィエフらを含む)は、NKVDによって職を追われ、投獄されたり処刑された。さらに大粛清は赤軍のミハイル・トゥハチェフスキー元帥をはじめとする軍幹部にも及び、軍に壊滅的な打撃がもたらされた[14][15]。さらに大粛清は、知識人層、クラーク(富農)、専門職などにも及んだ[16][17]。粛清の範囲が拡大するにつれ、「反革命分子」や「破壊分子」に対する疑念が至る所に広まり、市民生活にも影響が及んだ。

この粛清は、エジョフがNKVD長官を務めていた1936年9月から1938年8月にかけて最盛期を迎えた。そのため「エジョフシチナ」とも呼ばれる。一連の粛清は「党の基本路線」に沿って実施され、多くの場合、スターリン率いる政治局からの直接の命令によるものだった[18]

スパイ行為、破壊活動、サボタージュ、反ソビエト的な扇動、蜂起やクーデターの計画といった犯罪の容疑で、数十万人もの人々が告発され、銃殺されるか、あるいはグラーグ(強制労働収容所)へ送られた。NKVDは、ヴォルガ・ドイツ人やポーランド系市民など特定のソ連少数民族を激しく標的とし、彼らは強制移送 (強制移住)をはじめ過酷な弾圧の対象となった。粛清の期間中、NKVDは恐怖政治による市民統制の強化を図り、NKVD大規模摘発作戦においては、投獄、拷問、暴力的な尋問、そして処刑を頻繁に行った[19]

スターリンは1938年に粛清に対する姿勢を転換し、過剰な大量処刑を行ったとしてNKVDを批判するとともに、長官であったヤゴーダとエジョフの処刑を命令した。大粛清による死者数は70万人から120万人と推定されている[20][21][22][23]

粛清の終結後も、広範な監視体制や不信感はその後も数十年にわたって続いた。同様の粛清は、モンゴルや新疆でも行われた。クレムリンは粛清の最中にレフ・トロツキーを裁判にかけることを望んでいたが、彼が亡命していたため実現しなかった。トロツキーは後にスターリンの命令を受けたNKVDによって1940年にメキシコで暗殺された[24][25]

大粛清によってソ連共産党は大きな打撃を受け、旧指導層(オールド・ボリシェヴィキ)はごく一部を除いて絶滅させられた。特に地方の地区委員会、州委員会、共和国委員会が丸ごと消滅したケースもある。1934年に開かれた第17回党大会の時点での1,966人の代議員のうち、1,108人が逮捕され、その大半が銃殺刑となった。1934年時点の中央委員会メンバー(候補含む)139人のうち、110人が処刑されるか、あるいは自殺に追い込まれた。1940年のトロツキー暗殺後は、レーニン時代の高級指導部で生存しているのは、スターリンを除けばカリーニンだけだった。また、大粛清以前の最後の党大会(1934年)の代議員中、次の大会(1939年)にも出席できた者はわずか3%に過ぎなかった。1939年の党の正式メンバーのうち、70%は1929年以降の入党、つまりスターリン期の入党であり、1917年以前からの党員は3%に過ぎなかった。党の討論機関たる大会と中央委員会は、終には政治局さえも1939年以後、スターリンが1953年3月5日に死去するまでめったに開会されなくなった[26]

党指導者を目指してスターリンに対抗していた者は全て公開裁判(モスクワ裁判)で嘲笑の対象にされ、死刑の宣告を受けた。ジノヴィエフカーメネフブハーリントムスキールイコフピャタコフラデックは非共産圏のイギリスドイツフランスアメリカポーランド日本のスパイもしくは反政府主義者、あるいは破壊活動家という理由で、さらし者にされた上で殺された[27]

赤軍も5人の元帥のうちトゥハチェフスキーエゴロフブリュヘルの3名、国防担当の人民委員代理11人全員、最高軍事会議のメンバー80人の内75人、軍管区司令官全員、陸軍司令官15人の内13人、軍団司令官85人の内57人、師団司令官195人の内110人、准将クラスの将校の半数、全将校の四分の一ないし二分の一が「粛清」され、大佐クラス以上の将校に対する「粛清」は十中八九が銃殺である[28]

ソビエト国内にいた外国人の共産党員も被害者であった。1939年冬には600人のドイツ人が内務人民委員部 (NKVD) の手でゲシュタポに引き渡された。1919年ハンガリー革命の主導者クン・ベーラおよび1919年の革命政府人民委員12人が逮捕され処刑された。イタリア人共産党員200人、ユーゴスラヴィア人100人あまり、ポーランド共産党の指導者全員、そしてソ連に逃亡していた5万人ほどのポーランド人の内、わずかな例外を除く全員が銃殺された[28]コミンテルンは1942年に正式に解体された。しかし、そのスタッフと幹部は、ロシア人であるかによらず、ほぼ全員が1939年の夏までに粛清された[29]

なお、モスクワ裁判などのような政界、軍部の大物を除いては、処刑されたという事実さえ犠牲者の家族には伝えられなかったことが多く、家族には「通信の権利のない10年の懲役刑」「獄中で病死」などの虚偽の通達がなされることが多かった。中には、死亡時の詳細が現在も明らかになっていないものも多い。

背景

十月クーデタの最中およびその後[30][31]、レーニンは、赤色テロとして知られる一連の活動において、ボリシェヴィキの敵とみなされた人々に対する弾圧を、恐怖を植え付け、国民の統制を容易にするための組織的な手段として用いてきた。ロシア内戦が終結に向かうにつれて弾圧は緩和されたが、秘密警察チェーカーの活動は続いた。1924年から1928年まではグラーグ(強制労働収容所)への収容を含む大規模な弾圧が一時的に減少した[32]

1924年にレーニンが死去すると、共産党内に権力の空白が生まれた。党幹部たちが後継の座を狙う中、党書記長であったスターリンは1928年までに政敵を打倒し、党の主導権を掌握した[33]

スターリンの最大の政敵であったトロツキーは1929年に追放され、スターリンの唱える「一国社会主義」が党の方針となった。しかし1930年代に入ると、第一次五カ年計画農業集団化(ウクライナにおけるホロドモールを含む)がもたらした甚大な人的犠牲を主な要因として、党幹部らの間でスターリンの指導力に対する信頼が揺らぎ始めた。

1930年、共産党や警察の当局者は、農民の強制的な集団化に起因する1930年から1933年にかけてのソビエト大飢饉、そして数百万人の農民が都市へ向けて大量移動したことによって引き起こされる社会不安を懸念していた。社会の周縁に位置し政治的に疑わしいと見なされる人々を、将来起こる戦争の際に蜂起の火種になりうると考えたスターリンは、「破壊工作員、テロリスト、スパイから成る第五列(」敵の協力者)となり得る者たちを、先制的に排除する計画に着手した[34][35][36]

ソ連の政治的隠語における「粛清」という言葉は、「党の序列からの追放」という表現を略したものであった。例えば1933年には、党は約40万人の党員を追放した。1936年から1953年にかけてこの言葉の意味は変化し、党からの追放は、ほぼ確実に逮捕・投獄され、多くの場合、処刑されることを意味するようになった。

スターリンの政治的粛清は、トロツキーが指導した党内左派やニコライ・ブハーリンが指導したとされる党内右派 (右翼反対派)をはじめ、将来の反対派勢力からの挑戦を排除しようとする試みであった。ロシア内戦を経て1920年代後半にソビエト経済の再建が進むと、古参ボリシェヴィキたちは、レーニンからスターリンへと引き継がれた戦時下の一時的な独裁体制(戦時共産主義)はもはや不要であると考え、反対派は、スターリンを非民主的であり、官僚の汚職に対して甘いと批判した[37]

反対派は、党指導部が党エリートに与えていた特権や贅沢を攻撃することで、労働者階級からかなりの支持を集めていた。1932年のリューチン事件は、スターリンの疑念を裏付けるとされた。マルテミヤン・リューチンは、トロツキーやジノヴィエフを擁する大規模かつ秘密裏のソビエト反対派ブロックと連携して活動していた[38][39]

スターリン率いる党再編において、政治局はイデオロギーを決定・提示する唯一の存在となった。そのためには、異なる見解を持つすべてのマルクス主義者、とりわけ古参幹部を排除する必要があった。粛清が始まると、政府はNKVDを通じて政策上の意見の相違を理由に、ミハイル・トゥハチェフスキークン・ベーラといったボリシェヴィキの英雄たちや、レーニン時代の政治局員の大部分を処刑した。NKVDは、こうした「異端」の支持者、友人、家族を、国内外を問わず標的にした。トロツキーがメキシコで暗殺される前には、トロツキーの息子セドフはパリで暗殺されるなど、彼の家族も全滅寸前という事態に追い込まれた。NKVDはパヴェル・スドプラトフをトロツキー暗殺計画の指揮官とし、NKVD工作員でスペイン共産党員のラモン・メルカデルが暗殺を実行した[40]

1934年までにトロツキーなどスターリンの政敵の数名は、党を支配するスターリンの排除を求めた[41]

疑念と不信が党を覆う1934年12月、高官セルゲイ・キーロフが暗殺された。NKVDは当初、この事件の捜査をためらった[42]。しかし、やがてゲンリフ・ヤゴーダが主導した捜査によって、スターリンに敵対していたとされる党員たちのネットワークが明らかになっていった[43]

キーロフ暗殺後に逮捕された人々の多くは、自白を強要され、スターリンを殺害する計画があったことを認めた[44]。それらの自白の信憑性については歴史家の間で議論があるものの、キーロフの死がスターリンに大粛清を開始する決断を下す導火線となったという点では、見解が一致している[45][46]

キーロフはスターリンの忠誠者であったが、穏健派の間で人気が高まっていたため、スターリンは彼を潜在的なライバルと見なしスターリン自身がキーロフの暗殺を画策したといえる十分な証拠が存在すると考える歴史家もいる[47]。1934年の第17回党大会において、キーロフは中央委員に選出された際の反対票はわずか3票で、全候補者の中で最も少ない数だった。これに対してスターリンは292票の反対票を投じられた。キーロフの暗殺後、NKVDは、かつてスターリンに反対していた多数の党員を、キーロフ殺害容疑に加え、反逆、テロリズム、破壊活動、スパイ行為といった犯罪に関与したとして告発した。

粛清を正当化する別の理由は、戦争が勃発した場合に備えて、国内に潜むおそれのある第五列(内通者)の排除であった。政治局員として弾圧に関与したヴャチェスラフ・モロトフラザール・カガノーヴィチは、大粛清の期間を通じてこの正当化の論理を堅持し、多数の処刑者リストに署名した[48]

ドイツと日本による脅威に直面したスターリンは戦争が差し迫っており、ソ連の報道機関はファシストの工作員によってソ連が内部から脅かされていると考えていた[47]

スターリンは1929年までに党の全権を掌握し、ソ連の工業化を推進するための委員会を組織した。工業化や農業の集団化に対する反発が激化すると、スターリンは農村部における警察の取り締まりを強化した。ソ連当局は、クラーク(富農)に対する弾圧を強め、クラーク撲滅運動を推し進めた。これに対しクラークたちは、作物を破壊するなどのサボタージュを行って政府に抵抗した[49]。その結果、ソ連全土にわたる大規模な飢饉を招き、五カ年計画の進展を遅らせた。

大粛清の際立った特徴は、弾圧の犠牲者とし党員が大規模に含まれたことである。一般市民に加え、共産党の有力者たちも粛清の標的となった[50]

大粛清の背景としては、3つのモスクワ裁判などがある。

  • 1936年8月:第1回モスクワ裁判(合同本部陰謀事件、トロツキー=ジノビエフ合同本部事件、反ソ・トロツキスト・センター事件(Антисоветского объединенного троцкистско-зиновьевского центра、Anti-Soviet Trotskyist Center)
  • 1937年:革命的正義を執行するためのNKVDトロイカ(3人体制)の導入
  • 1937年1月:第2回モスクワ裁判(併行本部陰謀事件、反ソ・トロツキスト並行センター事件、Parallel anti-Soviet Trotskyist Center)
  • 1937年6月6日、ソビエトロシア刑法第58条「反革命的サボタージュ」に関する14項追加。「反革命的サボタージュ」とは、定められた職務の意識的な不履行または故意の不注意な実行のことで、政府の権威と国家機構の機能を弱体化させることを目的としたものを指す。悪質な場合は、射殺による処刑と財産没収が適用されるとされた。
  • 1937年6月11日:赤軍大粛清[51]
  • 1938年8月: 第三回モスクワ裁判:右翼トロツキスト陰謀事件、反ソビエト・右翼トロツキー派事件Anti-Soviet "Bloc of Rightists and Trotskyites"。

レーニンの赤色テロから大粛清まで

チーストカ(粛清)の始まり(1921年)

レーニン1917年に国家保安機関・秘密警察の反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会(通称Cheka:チェカー)を設立した[52]。チェカーは反革命分子を摘発し処刑した赤色テロルを推進した[52]。チェカーの幹部ラツィスは「チェカーの行動は、反革命が根をおろしてきたソヴィエト生活のすべての分野にまでひろがらなければならない」「チェカーの活動範囲からまぬがれるところはどこにもない」と述べている[52]

レーニンが存命中だった1921年夏以降、「総粛清」「大量粛清」とよばれる党員の行状の総点検は繰り返された[53]。1921年の党員の点検「チーストカ(粛清)」でチェカーは、党員の過去情報を提供した[52]。1922年、チェカーは内務人民委員部国家政治保安部(GPU)として改組された[52]

五カ年計画・集団化と粛清

粛清の起源は、五カ年計画(1928-1932年)、とくに農業の集団化の失敗のなかにあると指摘される[54]

パステルナークは「集団化は、間違った、不成功に終わった措置なのに、その過ちを認めるわけにはいかなかった。この失敗を隠すために、あらゆる組織的暴力手段を使って、人々の思考習慣や自主的判断を矯正しなければならなかった。彼らは存在しないものを見たといい、自分の眼が自分に知らせてくれるものと正反対のことを主張するように強制された。「エジョフシチナ」(粛清)の前例のない残酷さ、適用することを目的としていない憲法の発布、選挙の原則に基づかない選挙の導入はここからはじまった。」という[54]

マーティン・メイリアは、ソ連では「目の前の現実を、新しい文化、つまり、非現実的な世界を生み出すことによって否定する必要があった。国民は弾圧によって、こうした文化を新しい社会主義の本当の姿として無理やり認めさせられた」ことが、五か年計画と粛清をつなぐ基本的な論理であるとする[54]。また、この基本的な論理に加えて、スターリンの地位がまだ不安定であったこと、党も不安定な状態にあったこと、国際関係の危機などの問題がよりあわさって1936年の見せ物裁判が行われたという[54]

スターリンは五か年計画をピョートル大帝に、粛清についてはイヴァン雷帝にたとえたという[55]

1933年の粛清

1932年12月11日に、スターリンは党員が増えすぎたことを理由に、新規入党を停止した[53]。1933年初めには、共産党の総粛清が決定。点検は1933年秋に開始された[53]。1933年からの共産党の総粛清では、入党したてのものが「消極分子」として除名された[56]

こうして1929年以来4年ぶりの全党チーストカ(粛清)が行われたが[57]、このチーストカを大粛清(大テロル)の序曲とみなすか、たんに党員の乱雑さを正した綱紀粛正であったとみなすかで見解が分かれる[57]。ただし、全党チーストカ(粛清)と同時並行して「反革命分子」の摘発・粛清も行われた。1933年1月、党中央委員会は、エイスモント、トルマチョフ、スミルノフらの「反共産党グループ」を摘発し[57]、1933年3月には、農業機構で「反革命分子」が摘発され、35人が銃殺され、また経済危機の原因をイギリス人の「反革命分子」とするメトロ=ヴィッカース事件(Metro-Vickers Affair)も起きた[57]

キーロフ暗殺事件 (1934)

2月10日に選出されたソ連共産党中央委員会政治局員
上段左よりクイビシェフキーロフカリーニンコシオールアンドレーエフ、中段左よりオルジョニキーゼカガノビッチスターリンモロトフヴォロシーロフ、下段左よりポスティシェフペトロフスキーチュバーリミコヤンルズターク
だが12月に起きたキーロフ暗殺を切っ掛けとしてその多くが大粛清の犠牲となる。

ウラジーミル・レーニンの死後、党内における政争に勝利し権力を掌握したスターリンであったが、党の中には古参党員を中心にスターリンの台頭に危機を覚える者が多数存在した。そのような中、1934年12月にスターリンの後継者とみなされていた共産党幹部セルゲイ・キーロフが、レニングラード共産党支部においてレオニード・ニコラエフという青年に暗殺されるという事件が起こる[57]

指導部は、事件当日にテロリズムの審理は十日以内に終わらせ、控訴恩赦は認めず、死刑の迅速な執行を命じた[57]

スターリンは、事件の背後にジノヴィエフらがいるとみて、ジノヴィエフ派の13人が逮捕され、処刑された[57]

この事件については、当時キーロフの存在に脅威を感じるようになっていたスターリンが部下のゲンリフ・ヤゴーダに命じ暗殺させたという説もある。しかし、キーロフ暗殺はスターリンによって仕組まれた陰謀であったとする直接的証拠は(1997年時点で)発見されていない[57]

また、警部隊長ボリソフが、チェキストと同乗した車内で不審死しており、医学鑑定では交通事故死とされたが、事件との関連は不明のままである[58]

クレムリン陰謀事件(1935)とエヌキゼの粛清

キーロフ暗殺事件の翌年1935年3月にはクレムリン陰謀事件が発生した。これはキーロフ暗殺事件の捜査の過程で、スターリンの殺害計画が発覚したというものだった[59]。合計110人がNKVDの捜査対象となったが、関与を認める自白を行ったのは6人であった。カーメネフの甥でモスクワ発電技師だったニコライ・ローゼンフェルト(Nikolai Rosenfeld)も逮捕された[60]

捜査と並行して、1935年2月には、グルジアの古参ボルシェヴィキアヴェル・エヌキゼソ連共産党中央委員を解任された。

1935年3月21日、政治局は、ニコライ・エジョフが作成した「ソ連共産党中央執行委員会およびエヌキゼ同志に関する報告書」を送付した。報告書で、エヌキゼは政治的警戒を十分に怠ったとして非難された。スターリン暗殺計画には、カーメネフ、ジノヴィエフ、トロツキー、メンシェヴィキや白衛軍も関与していたと主張された[60][61]

2年後の1937年12月20日エヌキゼは処刑された。死後の1938年3月に行われたモスクワ裁判において、NKVD元長官であり被告の一人であったヤゴーダは、エヌキゼは「右翼陰謀事件」の黒幕で、キーロフ暗殺およびゴーリキー毒殺の首謀者であると自白した[62]

1935年3月26日、赤軍情報局第4将校ミハイル・チェルニャフスキー(Mikhail Cherniavsky)はスターリン暗殺計画に関与していたことを自白した。チェルニャフスキーはマサチューセッツ工科大学留学時に、スターリンの「指令型経済」はアメリカの資本主義に太刀打ちできないと確信し、スターリンを交代させる必要があると考えるようになった。尋問で、アメリカ滞在中にアメリカ人トロツキストに勧誘されたと認めるよう迫られたが、2日後に問われた際、何も詳細を語ることができなかった[59]

後の大粛清の時とは違って、この時は、死刑判決を受けた26人のうち、スターリンが処刑に同意したのはチェルニャフスキーと副司令官アレクセイ・シネロボフの2人だけであった[59]。(シネロボフは後に懲役10年に減刑)

1935年5月4日の演説でスターリンは、チェルニャフスキーの暗殺計画に言及して次のように述べた。「彼ら同志は、単に批判や抵抗にとどまらなかった。彼らは党内で中央委員会に対する反乱を計画し、それどころか、我々指導部の銃殺さえ計画した。彼らはレーニン主義からの逸脱を強要するために我々を力で屈服させようとしていたのだ。」[63][64]。スターリンはこの演説で、指導者への暗殺計画があったという事実から、そうした計画が生まれた背景には、ヒューマン・キャピタル (人的資本)に注目した国家運営がなされなかったためであると分析し、今後ソ連は、人的資本経営理論にもとづき、「幹部がすべてを決定する」時代に転換すべきであると主張した[64]。スターリンは言う。

我々はレーニン主義の道からの逸脱など思いもよらなかった。我々はこの道をしっかりと歩み、あらゆる障害を払い除け、さらに力強く前進した。確かに、この道を突き進む中で、一部の同志に対しては、やむを得ず厳しい対応を取らざるを得なかった。しかし、それは仕方のないことだった。正直に申し上げると、私もその一端を担った。(盛大な歓声と拍手)

技術不足に苦しんでいた過去を反映した「技術がすべてを決定する」という古いスローガンは、今や「幹部がすべてを決定する」という新しいスローガンに取って代わられなければならない。(…)しかし、現実には、人々や幹部、そして労働者に対するあの言語道断な態度(指導部の暗殺)が少なからず見受けられた。
「幹部がすべてを決定する」というスローガンは、指導者たちに対し、労働者に対して極めて親身な態度で接することを求める。幹部は、労働者を熱心に育成し、支援し、成功を収めたときには励まし、昇進させねばならない。しかし、現実には、労働者に対して無機質で官僚的、さらには言語道断な態度がとられている事例が数多くある。人々をよく見極め、その見極めを経て初めて適材適所に配置するのではなく、まるでチェスの駒のようにあちこちへ放り投げている。人々は工場に何台の機械があるかについて報告することは慣れている。しかし、ある一定期間に何人の人材を育成したか、あるいは仕事を通じて人々の成長や鍛錬をどのように支援したかについて、同じような熱意をもって報告された例は、私は一つも知らない。これはどう説明されるべきか? それは、私たちがまだ、人間を重んじること、労働者を重んじること、そして幹部を重んじることを学んでいないということなのだ。(…)

同志諸君、もし我々が人材不足を克服し、技術を前進させ、それを実際に稼働させうる十分な人材を国に供給しようとするならば、何よりもまず、人を重んじ、幹部を重んじ、そして共通の大義に貢献しうるすべての労働者を重んじることを学ばねばならない。あらゆる貴重な資本の中で、最も価値があり、かつ決定的なものは「人」であり「幹部」であるということを、今こそ認識すべきである。現下においては「幹部がすべてを決定する」ということを認識しなければならない。産業、農業、交通、軍隊において、優れた多数の幹部がいれば、ソ連は無敵になるだろう。もしそのような幹部がいなければ、ソ連の両足は不自由になるだろう。赤軍学校卒業生への演説1935年5月4日[64]

トロツキーの妹でカーメネフの妻であったオリガ・カーメネワは、1927年にトロツキーとカーメネフが失脚すると社会的地位を剥奪されていった。1935年7月27日、NKVDはクレムリン陰謀事件に関連してオリガに対しモスクワおよびレニングラードへの立ち入りを5年間禁止する処分を下した[65]。その後オリガは1936年に逮捕され、1941年のメドヴェージェフの森の虐殺で殺害された。

大テロルの開始:第1次モスクワ裁判 (1936年)

1936年から1938年にかけて、モスクワで共産党の元幹部らを対象とした3つの大規模な裁判が行われた。彼らは、ファシストや資本主義諸国と共謀してスターリン他のソ連指導者の暗殺、ソ連の解体、そして資本主義の復活を画策したとして告発された。これらの裁判は大きく宣伝され、国外でも大々的に報じられた。スターリンが政敵を排除するために利用したこのモスクワ裁判では、強要された自白が有罪判決を導く一因となった。トロツキーは欠席裁判に付され、反逆罪で死刑判決を受けたが、歴史学ではこれら告発を裏付ける証拠は確認されていない[66]

レニングラード・テロリストセンター

スターリンはキーロフ暗殺は「レニングラード・テロリストセンター」と呼ばれるトロツキー一派の仕業であるというでっちあげの公式声明を行い、その逮捕を口実に、自らの反対派抹殺に乗り出した[67]。まずレニングラードの共産党関係者が5000人ほど逮捕され、強制収容所へ連行された。

トロツキー=ジノビエフ合同本部事件

さらにかつて反トロツキーでスターリンと手を組んでいた大物たち、カーメネフジノヴィエフらも標的となった。1936年7月27日の党中央委員会秘密書簡で、グリゴリー・ジノヴィエフらはキーロフ暗殺に関わっていたとされ、トロツキー派とも組んで政権転覆をねらっていたとされた[68]。この秘密書簡によって大テロルは始動した[68]

最初のモスクワ裁判は、1936年8月の反ソビエト・トロツキスト・ジノヴィエフ・合同センター (トロツキー=ジノビエフ合同本部事件)裁判であった。この裁判は、「トロツキー・カーメネフ・ジノヴィエフ・左翼反革命ブロック」のメンバー16名を対象とし、1936年8月に行われた[69]。主要な被告は党指導者の中でも有力だったカーメネフジノヴィエフであり、彼らはスターリンに反対する「反対派ブロック」に属していると告発され[38]、「合同本部陰謀事件」を企んだとして逮捕された[56]。キーロフ暗殺およびスターリン殺害を企てた罪などに問われ、容疑を認めた後、全員が銃殺刑に処された[70][56]

1936年8月24日、ジノヴィエフら被告全員に有罪判決が下された。裁判に先立ち、ジノヴィエフとカーメネフは、処刑されないことを条件に虚偽の容疑を認めることに同意していた。スターリンはこの条件を、「言うまでもないことだ」と述べて受け入れていた。しかし有罪判決から数時間後、スターリンは彼らの処刑を命じた[71]。8月25日未明、ジノヴィエフとカーメネフは銃殺刑に処された。

ジノヴィエフの命乞いの様子は、スターリンの護衛官カール・パウカーによって再現され、嘲笑の種にされた[72]。スターリンは、ジノヴィエフが卑猥な言葉を口にしながら慈悲を請い、処刑場へと引きずられていく様子を模した演技を見て、抑えきれないほど笑ったと伝えられている[73][74][75]。しかし、パウカーも後に粛清され処刑された[76]

ジノヴィエフとカーメネフは、「自白」を認める条件として、家族の命も助けるという保証を政治局に求めた。この要求は受け入れられたが、その政治局会議に出席していたのはスターリン、クリメント・ヴォロシーロフ、エジョフの3名のみであった。スターリンは、自分たちが政治局から権限を委任された「委員会」であると称し、死刑が執行されることはないと確約した。しかし裁判後、スターリンは被告らの命を助けるという約束を破り、本人たちを処刑し、さらに彼らの親族の大部分を逮捕し、処刑させた[77]

カーメネフの次男ユー・L・カーメネフは1938年1月30日、17歳で処刑された。長男でソ連空軍将校であったアレクサンドル・L・カーメネフは、1939年7月15日に33歳で処刑された。最初の妻オリガ・カーメネヴァは、1941年9月11日、オリョール近郊のメドヴェージェフの森において、左翼社会革命党の指導者マリア・スピリドーノワクリスチャン・ラコフスキーその他160名の著名な政治犯と共に処刑された[78]。これはオリョール、メドヴェージェフ射殺事件またメドヴェージェフの森の虐殺とよばれる。強制労働収容所を生き延び、1994年まで生きたのは、末息子のウラジーミル・グレボフだけだった[79]

ジノヴィエフの最初の妻はサラ・ナウモヴナ・ラヴィチ(別名オルガ)は古参ボリシェヴィキで、北部地域内務委員長を務めたが、1934年、1937年に逮捕され、さらに1946年、1951年に逮捕されたあと、1954年に釈放された。第二の妻ズラタ・イオノヴナ・リリナとの子供ステファン・グリゴリエヴィチ・ラドムシスキーは1937年2月27日に逮捕され、射殺され、ステファンの妻も逮捕され、投獄された[80]。第三の妻エヴゲーニヤ・ヤーコヴレヴナ・ラスマンも1936年から1954年まで流刑され、収監された。

ジノヴィエフ、カーメネフたち古参ボリシェヴィキの処刑は、ソ連国内のみならず世界中で大きな衝撃を呼んだ。それとともに、1937年から1938年にかけての「大粛清」における大量逮捕と処刑への道を開くものとなった。ペレストロイカの最中である1988年、ジノヴィエフら共同被告人は、ソ連最高裁判所軍事参議会によって正式に名誉を回復された[81]

先に逮捕されたレニングラード共産党の関係者5000人もこの裁判の後に全員が銃殺刑に処されている。スターリン時代最初の大規模殺戮だった。これはまだ序の口で、粛清はこの後さらに過激さを増すことになる。

エジョフ体制の成立

ソ連では1934年7月以来内務人民委員部(NKVD)(エヌ・カー・ヴェー・デー)が秘密警察としての機能を兼務し、一連の粛清の指揮を執っていたが、スターリンはその長官ヤゴーダの取り組み方が手ぬるいと考え、1936年9月26日に更迭した[68]。ヤゴーダも1937年に逮捕され、1938年3月に銃殺された。

ヤゴーダの後任のニコライ・エジョフの下で、粛清の規模は一気に拡大した[68]。スターリンに抜擢されたエジョフは、その期待に応えるべくまずNKVDのヤゴーダ体制の刷新にあたった。NKVDの体制の刷新はエジョフが長官に就任した1936年9月の前後と1937年2月から3月の間の中央委員会総会中の二度にわたって大きく行われた。1936年9月前後の刷新は、要職をエジョフ派で固めることであり、ヤゴーダ派の左遷であった[82]。続く1937年の総会中の刷新がヤゴーダ派の粛清を意味していた。

この中でエジョフが自らの側近に選んだのは、ミハイル・フリノフスキーレオニード・ザコーフスキー、ベールマン兄弟などであった。また1937年半ばに粛清したが、ヤーコフ・アグラーノフも初めは重用していた。前長官ヤゴーダ、および明確なヤゴーダ側近だったパウケル、ゲオルギ・モルチャーノフ、プロコーフィエフらは総会中に粛清された。ヤゴーダ派とされた下々の機関員達もこの時期に大量粛清されている[83]

大量粛清でNKVDの組織を固めたエジョフは、共産党幹部たちを徹底的に調査させ、政治的逮捕の組織化を行うとともに、地域ごとの逮捕人数の割当まで指示している。エジョフ就任直後の1936年秋ごろから逮捕の範囲が一気に拡大している。また粛清の理由として「右翼」「トロツキスト」「ジノヴィエフセンター」「日独ファシストの手先」などかねてからのレッテル貼りに加えて「産業破壊活動」を理由にするようにもなった。ソ連の経済的混乱・貧困などスターリンの失政を「反ソ分子の陰謀」のせいにして覆い隠すためであった。

1937年の大粛清

第2次モスクワ裁判

大粛清の国際的な正当化を図るため、外国ジャーナリストを招いた「公開裁判」を行うことも忘れなかった。

1937年1月に行われた第2回モスクワ裁判では、「反ソビエト・トロツキスト・センター」と呼ばれる17名が被告となった。ゲオルギー・ピャタコフ(重工業人民委員第一代理)、カール・ラデック(元コミンテルン執行委員)、グリゴリー・ソコリニコフ(元財務人民委員/駐英全権代表)、ニコライ・ムラロフゴスプラン幹部会員)ら被告は「併行本部陰謀事件」の首謀者として死刑判決を与えた上で銃殺刑に処した。このグループは、ドイツおよびトロツキーと共謀したとして告発された。被告のうち13名は銃殺され、残り4名は強制労働収容所へ送られ、まもなくそこで死亡した[84]。ラデック、ソコリニコフは懲役10年だったが、両者とも1939年獄中で不審な死を遂げている。この第2次モスクワ裁判は、大テロルの一つの頂点ともされる[68]

さらに1937年2月中央委員会総会中には、ブハーリン(元コミンテルン議長・元党政治局員)、ルイコフ(前首相・元党政治局員)、ヤゴーダ(前任の内務人民委員)らを「右翼トロツキスト陰謀事件」を企んだとして逮捕し、翌1938年の第3次モスクワ裁判において死刑にした。

粛清は、単に反スターリン的な人物だけに留まらず、スターリンに忠実だった者たちへも及び、パーヴェル・ポスティシェフスタニスラフ・コシオールヤン・ルズタークのような1920年代にスターリンの粛清や集団化を支持した共産党幹部たちも次々と粛清されていった。

第2回裁判で、カール・ラデックはトロツキー派とは別の第三の組織が存在し[85]、そこには「半トロツキスト、四分の一トロツキスト、八分の一トロツキスト、テロ組織とは知らずに協力したが同情的だった人々、自由主義や党への反抗心から協力を行った人々がいた」と証言した[86]、ここで「第三の組織」と呼ばれたのは、ブハーリン率いる右翼反対派のことだった。ラデックは次のように証言した。

私には、もう一つ罪悪感を覚えることがある。それは、自らの罪を認め、組織の実態を暴露した後でさえ、ブハーリンに関する証拠を提出することを頑なに拒んだことだ。ブハーリンの置かれた状況が私と同様に絶望的であることは分かっていた。法的な側面はさておき、本質的な意味において、我々の罪は同じものだった。しかし、我々は親しい友人であり、知的な絆で結ばれた友情は強固なものだった。ブハーリンもまた、私と同じように激しい動揺の中にいることを私は知っていた。だからこそ、彼を縛り上げたまま内務人民委員部に引き渡すようなことはしたくなかった。ブハーリン自らが過ちを認めるべきだった。[85]

ブハーリンは翌年のモスクワ裁判の被告となる。ラデックは10年の流刑の判決を受けたが、1939年「左翼反対派」の同志であるヴァレジュニコフと喧嘩の末、スターリンの命令により強制労働収容所で殺害された[87]。フルシチョフの雪解け後のソ連共産党中央委員会とKGBの調査によると、ラデックの殺害はNKVD上級工作員ピョートル・クバトキン監督の下で組織された[88]。そのクバトキンもレニングラード事件で逮捕され1950年に処刑された(死後1954年に無罪が認められた)。

階級闘争激化論による正当化

スターリンは1937年2月から3月にかけての共産党中央委員会総会で「党活動の欠陥とトロツキスト的およびその他の二心者を根絶する方策について」を演説し、キーロフ事件以後の「教訓」として「階級闘争が前進するほどに、打ち破られた搾取者階級の残党たちの怒りはますます大きくなり、彼らはますますはげしい闘争形態にうつり、ソビエト国家にたいしてますます低劣な行動をとり、命運つきた者の最後の手段として死物狂いの闘争手段にますますかじりつくであろう」などとする階級闘争激化論によって大粛清を正当化した[89]。この総会が大テロルの絶頂ともされる[68]

地方党での粛清

1937年春ごろからは地方党組織にも粛清を開始した。まずエジョフは各地域のNKVDトップの首を挿げ替えて、実質的な指揮権を現地の党組織からモスクワのNKVD本部へと変えた。そしてロシア革命以来、領主のように振る舞っている地方党組織の大物たち、イオシフ・バレイキスボリス・シェボルダエフなどを続々と粛清していった。

第十七回共産党大会において、中央委員または中央委員候補だった者139人のうち98人がこの時期にNKVDによって逮捕・銃殺されるに至った。

ウクライナ

ウクライナでもクラーク撲滅運動と農業集団化によって大飢饉(ホロドモール)が起きるなか、現地の共産党員や知識人にも粛清の嵐が吹き荒れた[90]

赤軍大粛清

赤軍元帥ミハイル・トゥハチェフスキー、1937年6月11日処刑

第一次モスクワ裁判では、ムラチュコフスキーロシア語版将軍(ウラル軍管区英語版司令官)やスミルノフ将軍(シベリア方面赤軍司令官)など赤軍高官も処刑されていたが、彼等は赤軍という派閥以前に、スターリンに並ぶオールド・ボリシェヴィキとして粛清された。

1936年7月にNKVDに逮捕されたドミトリー・シュミットロシア語版将軍(キエフ軍管区戦車隊司令官)が、拷問の末廃人にされ、1937年6月1日に自分に対するすべての告発を認め、赤軍内の“共犯者”の名前を“自白”した。シュミット将軍は同年7月20日に処刑された。妻アレクサンドラも1938年12月に母国への裏切り者の家族として5年間の強制労働収容所での懲役を言い渡された。シュミットの「自白」を機に赤軍の粛清が本格化した。

1937年6月にはミハイル・トゥハチェフスキー元帥を含む赤軍指揮官を対象とした秘密軍事裁判が行われた[91]。これは「トロツキスト・反ソビエト軍事組織事件」として、トゥハチェフスキーのほか、一等軍司令官のイオナ・ヤキールイエロニム・ウボレヴィッチ軍団司令官ロベルト・エイデマニスヴィートウト・プトナ、司令官・モスクワ軍管区副局長ボリス・フェルドマン、第二階級司令官アウグスト・コルクレニングラード軍管区副司令官ヴィタリー・プリマコフ赤軍政治局長ヤン・ガマルニクら名だたる高官が告発された。1937年6月11日には彼ら赤軍高官がまとめて銃殺され、翌6月12日には処刑が公表された。

イギリス共産党機関紙デイリーワーカー(以下DW紙)は6月12日に「ソ連諜報機関のおかげで、国際労働者階級の祖国への破壊分子に壊滅的な打撃が与えられた」、6月14日に「赤軍の裏切り者、処刑される」と報じ、6月16日には、党中央委員会は「ファシズムと結びついた官僚的変質者たちの排除」を歓迎し、ソ連政府を祝賀した[92]。アーノットは6月18日DW紙で、トゥハチェフスキーらの陰謀が「事実であることは、理性があれば誰も疑いようがない」と述べた[92]。翌日、モンタギューも「赤軍粛清はファシズムへの打撃となった」とし、他の労働者運動で活動している破壊工作員に警戒せよと呼びかけた[92]。パット・スローンは『ロシア・トゥデイ』7月号で「ソ連の真の友人ならば、ソ連軍におけるスパイ、破壊工作員、サボタージュ実行者たちの活動が終焉を迎えたことに満足していることだろう。『独裁者』スターリンの個人的な権力闘争などというおしゃべりはすべて右翼が作りあげたナンセンスだ」と主張した[92]。ダットは6月21日DW紙で、疑念を抱いたブレイルスフォードに「スパイと労働者、ソ連とファシスト、どちらの側に立つのか?」と激しく攻撃し、ジャック・ガスターは6月22日DW紙で、粛清に不合理なところがあると述べた『ヘラルド』紙による「中傷」を糾弾した[92]

以降、翌1938年までいわゆる「赤軍大粛清」が吹き荒れた。犠牲者35,000人のうち、元帥5人のうち3名、軍司令官級15人のうち13人、軍団長級85人のうち57人、師団長級195人中110人、旅団長級406人中220人など将官級の90%、大佐級の80%が処刑され[93]、大佐以上の高級将校の65%が粛清された計算になる。政治委員(共産党から赤軍監視のために派遣されている党員たち)も最低2万人以上が殺害され、また赤軍軍人で共産党員だった者は30万人いたが、そのうち半数の15万人が1938年代に命を落とした。この赤軍での粛清によって赤軍は大打撃を受けた[68]。原因は不明だが、スターリンが軍のクーデタを恐れたためともいわれる[68]

トロツキー査問委員会

モスクワ裁判におけるトロツキーへの告発に関する真相を究明するため、米国においてトロツキーの支持者らにより調査委員会が設置された。1937年3月にアメリカ合衆国でジョン・デューイカールトン・ビールス英語版オットー・リューレ英語版ベンジャミン・ストルバーグ英語版スザンヌ・ラフォレット英語版アルフレッド・ロスマー英語版エドワード・ロス英語版ジョン・チェンバレン英語版カルロ・トレスカ英語版フランシスコ・ザモラ・パディラスペイン語版フランツ・ボアズジョン・ドス・パソスルイス・ハッカー英語版シドニー・フック英語版ラインホルド・ニーバージョージ・ノバック英語版ノーマン・トマス英語版エドマンド・ウィルソンらによってトロツキー査問委員会が設立し、トロツキーへの告発を調査した。同委員会は、米国の哲学者ジョン・デューイが委員長を務めたことから、デューイ委員会としても知られる。1937年9月に公表された報告書では、モスクワ裁判はフレームアップ(捏造)による告発であり、モスクワ裁判で非難されたすべての人々が無罪であると報告された。

調査の過程で、裁判における告発が事実でありえないことを裏付ける証拠が明らかになった[94]。たとえば、ゲオルギー・ピャタコフは、トロツキーから指示を受けるために1935年12月にオスロへ飛行したと証言したが、飛行記録はなかった[95]。別の被告イヴァン・スミルノフは、1934年12月キーロフ暗殺に関与したことを「自白」したが、その当時、彼は投獄されていた。

デューイ委員会は調査結果を公表した。

委員会は、被告や証人の証言(外部証拠)とは独立して、以下の通り認定する。
  • モスクワ裁判の進行は、真実を究明しようとする試みは一切なされなかったと確信させるようなものであった。
  • 自白は慎重に検討されるべきものであるが、本裁判での自白の内容は、それを引き出す過程で用いられた手段の如何を問わず、真実を反映していないと確信させるような不自然さが確認された。
  • 被告人や証人のいずれに対しても、トロツキーがソ連に敵対する外国勢力と協定を結ぶよう指示した事実はなく、また、ソ連における資本主義の復活を画策し、あるいは試みた事実もない。

委員会はモスクワ裁判で有罪判決を受けたすべての被告は無実であり、モスクワ裁判は捏造(でっちあげ)であると結論付けた[96]

NKVD命令第00447号

NKVD命令第00447号

1937年7月30日付でニコライ・エジョフNKVD命令第00447号に署名した。二週間後の8月15日までに101,000人が逮捕され、14,000人が有罪判決を受けた。1938年末までに386,798人の市民が処刑された[97]

グラーグ収容者の処刑

グラーグ(強制労働収容所)に収容されていた政治犯も多数処刑されたが、収容者全体で見れば、その大多数は非政治犯だった[98]

歴史家アーチ・ゲティ、リッタースポーン、ヴィクトル・ゼムスコフによれば、グラーグの収容者数は1937年に175,487人、1938年に320,828人増加した[99]

NKVD命令第00447号は、「収容所内の最も悪質かつ頑強な反ソビエト分子」を標的とし、その全員を銃殺するよう定めていた。同命令では1万人の処刑が規定されていたが、実際には少なくともその3倍の人数が1938年3月-4月に銃殺された[100]

「社会的危険分子」の家族への粛清

スターリンは1937年11月7日に「社会主義国家を破壊しようと企むものや、その構成民族の一つでも分離を図ろうとするものはだれであろうと、ソヴィエト国家と国民のゆるしがたい敵である。そしてわれわれはこのような敵を、その一族、家族もふくめて一人残らず撲滅する。」と語った[101]

エジェフは1937年12月「われわれがさらに成功するかどうかは、階級敵のわれわれに対する狡賢いやり方を暴き、この害虫をソヴィエトから排除するわれわれの意思にかかっている」「わがソヴィエト人は全労働者の唾棄すべき敵である大資本家の唾棄すべき奉仕者を最後の一人まで抹殺する」と演説した[102]。エジェフは裏切り者の妻全員を監禁し、15歳以上の子供を「社会的危険分子」として逮捕する命令を出した[102]

エジェフは「人民の敵」を逮捕するために人数割り当てを盛り込んだ計画を作成し、1937-38年にかけてNKVDは157万5000人を逮捕し、うち68万1692人が処刑され、残りはグラグ強制収容所)へ収監された[103]。逮捕されたのは労働者、農民、公務員などふつうの人々がほとんどだった[103]

同年には、NKVDにより婉曲法による事実上の処刑者リストが作成されるようになった。8月14日付のスターリン、モロトフ宛ての「最高裁判所軍事委員会で裁かれる人物リスト」の冒頭には、「第一カテゴリー (1-я категория.)」と記されていた[104]。これは事実上の死刑指示であり、「第二カテゴリー」は「10年の懲役」を意味した[105]。このリストの一番目に名前を記された元ロシア・プロレタリア作家協会書記長のレオポリド・アヴェルバフロシア語版(ヤゴーダの義兄)は、同様に名前を記されたNKVD将校らと共に同年に処刑された。

スペイン内戦での大粛清

スペイン内戦でNKVDは共和国軍の反スターリン主義分子(トロツキストとアナーキスト派)の粛清を指揮し[106]マルクス主義統一労働者党の指導者アンドレウ・ニンおよびその指導部メンバー、翻訳家ホセ・ロブレスが処刑された[107][108][109]

アンドレウ・ニンはソ連に忠実なスペイン共産党に代わるマルクス主義統一労働者党(POUM)を設立した。1937年の春、共和派警察はニンがフランシスコ・フランコに宛てたとされる手紙を発見した。その手紙ではマドリードでの第五列による蜂起計画を支持すると書かれており、ニンがファシストであることを示す証拠とされた[110][111]。この手紙はNKVDによる偽造だったことが判明している[111]。これ以降、ソ連派の共産主義者によるPOUMへの弾圧は激化し、POUMの指導者たちは、ファシストでありフランコと共謀していると公然と非難された[112]。共産党の圧力により、POUM機関紙「ラ・バタヤ」の発行は停止された[113]1937年6月16日、共産党が支配した人民戦線政府から非合法と宣言された[114][115]。その後、ニンは行方不明となった[116]

ニンは当時死亡しているが、彼の死を取り巻く様々な状況は依然として不明である[117]。拉致された後のニンは数日間、尋問と拷問を受けたとも指摘されている。歴史学者ヒュー・トーマスは、ニンはNKVD私設刑務所が設置されていたアルカラ・デ・エナレス大聖堂に連れて行かれたと述べている[118]。歴史家ポール・プレストンによると、ニンは6月22日にオルロフの命令とヨシフ・グリグレヴィチにより、皮を剥がされて殺害された[119]

共和派は独立勢力のニンを「扇動者の集団」とみなしており、共和派政府の首班フアン・ネグリンは、ニンが「ゲシュタポ」によって救命されたと発表した[120]。共産主義者は、ニンはフランコ派のいるサラマンカか、ナチスのベルリンに逃げたと主張した[121]。ソ連は国際旅団のドイツ人義勇兵をナチス・ゲシュタポの工作員に見せかけて茶番劇を仕組んだともされる[122]

ニンを含むPOUM党員の逮捕と即決処刑を指揮したのはアレクサンドル・オルロフだった[123]。オルロフのスペインにおける主な任務は、トロツキスト、アナキスト、フランコの国民党支持者であるカトリック教徒、その他の敵と疑われる人物を逮捕し処刑することであった。NKVDのアーカイブから公開された文書でオルロフによる殺害の詳細が記されている[123]

オルロフは1937年2月頃、スペインのNKVD長官に昇進した。間もなく、スターリンと新NKVD長官ニコライ・イェジョフは「大粛清」を開始し、ソ連国外にもその影響が及んだ。スペインでは、すべての粛清はオルロフの指揮下で計画・実行された。彼はスターリンとイェジョフによって敵と宣告された人々を迫害することに専念した[124]。やがて、自身が大粛清の標的となることを恐れたオルロフは1938年7月にアメリカに亡命した。さらに暗殺を恐れたオルロフは、スターリンに、自分と家族の命を助けてくれるなら、知っている秘密をすべて守ると約束する手紙を送った[125]。オルロフは約束を守り、1953年のスターリン死後、回顧録『スターリン犯罪秘密史』を出版した[126][123][127]。オルロフは米国に亡命後、ニンの処刑は、ソ連からやって来た「ボロディン」というスパイのせいにしたが、ニンの死に対する自分の責任逃れのための発言だったとみられている[118]。ただし、ニンの処刑命令はクレムリンから出されている[128]

ホセ・ロブレスはスターリン主義者で有力な将校でもあり、左翼作家ジョン・ドス・パソスの翻訳者でもあったが、ソ連はロブレスがファシストのスパイだったと発表した[129]。デューイ委員会メンバーでもあったドス・パソスはモスクワ裁判について知見があったため、ソ連発表は疑わしいと考えた。ドス・パソスは、ソ連発表を信じたアーネスト・ヘミングウェイから『移動祝祭日』で公然と侮辱され、絶交した[129]。その後、ドス・パソスは共産主義を非難していった。ドス・パソスは「スペインの共産主義者がソビエト国家政治保安部(GPU)の手法を導入したことは多くの害をもたらした。全能の秘密警察が、狂信者や誰かに掌握されれば、それが一度動き出すと、政治体 (国家)を腐敗させるまでもはや誰にも止められない。ロシアでは起こっているのはそれだ。」と述べ、「市民の自由はあらゆる段階で守られなければならない」と述べている[130]

各国共産党における粛清

スターリンは各国の社会主義的変革を主導しうる数千人の外国の共産主義者を抹殺した。東ヨーロッパにおいては、ブルガリア共産党では600人の党員が粛清され、強制労働収容所で命を落とした[131]ハンガリー共産党ユーゴスラビア共産党ポーランド共産党などでも同様の弾圧措置が講じられた[131]

多くのユダヤ人が1937年にNKVDによって逮捕されナチスに引き渡された[132]

ユダヤ系オーストリア人の物理学者アレクサンダー・ヴァイスベルク=ツィブルスキはオーストリア共産党員かつドイツ共産党員でソ連に航空機情報を提供していた。1931年、ハルキウ物理技術研究所員となった。1936年、妻シュトリカーが陶芸デザインにシオニズムとファシズムの象徴を隠し、スターリン暗殺を計画したとして逮捕された[133][134]。ヴァイスベルク=ツィブルスキの働きかけでシュトリカーは釈放されたが、1937年に自分が逮捕された[132]。ヴァイスベルク=ツィブルスキへの尋問は数か月にわたった。彼は嫌疑に対し否認を続けたが、睡眠・休憩なしで3人の検察官が何日間も交代で追及し続ける尋問(コンベヤーと呼ばれる[135][136])を受け、スターリン暗殺を主導したと自白を強制されたが、のちに供述を撤回した[137]。ヴァイスベルク=ツィブルスキの逮捕は国際的に知られ、アインシュタインジャン・ペランキュリー夫妻らが抗議したが釈放されなかった。1939年末、ヴァイスベルク=ツィブルスキはナチスへ引き渡されポーランドで収監された。ユダヤ人処刑対象者リストに自分の名が載っていることを知った彼は脱獄した。1948年にスウェーデンに脱出した。1951年、体験記『被告:ソヴィエト大粛清の内幕』を出版した[138]

オランダ系オーストリア・ドイツ系の物理学者でドイツ共産党員だったフリッツ・ハウターマンスは1935年ソ連に移住してハルキウ物理技術研究所員となったが、1937年にNVVDに逮捕され、拷問によりスパイであることを自白した。1940年、スターリンからナチスに引き渡されて投獄されたが、マックス・フォン・ラウエの尽力で釈放された[139][132]。ハウターマンスはウクライナの歴史学者コンスタンティン・シュテッパと刑務所で同室であった。シュテッパはNKVDへの情報提供者だったが、1938年に逮捕され、ソ連の刑務所に収監されていた。ハウターマンスとシュテッパは1951年にペンネームで『ロシアの粛清と自白の強制』をイギリスで出版した[140]

ドイツ国際共産主義者(IKD)のエルヴィン・ウルフは1937年7月、スペインまたはソ連で殺害された[141]

シオニストでパレスチナ共産党書記だったジョセフ・バーガー=バルジライは1937年の粛清されて後、刑務所や強制収容所グラーグで1956年まで20年間を過ごした[142][143]

1939年のヒトラー=スターリン条約締結後には、スターリンは、ドイツ共産党数千人の党員[131]、およびその大半が共産主義者だったドイツ市民数百人[144]をナチスのゲシュタポへと引き渡した。ロゴヴィンは、ドイツ共産党中央委員会のメンバー16人が大テロルの犠牲となったと指摘している。大粛清の最中、ソ連に亡命していたドイツ人の60パーセントが粛清され、ドイツ共産党政治局員については、ナチス・ドイツ国内よりもソ連において死亡した者の方が多かった[144]

逃亡者・亡命者の粛清

ソビエトのスパイでNKVD将校だったイグナセ・レイスは、スターリンによって同僚が粛清され、処刑されていくことを目にし、自分も粛清される可能性があることに気づいた[145]。レイスは1937年7月17日付の手紙で、スターリンの粛清と行動を非難するとともに赤旗勲章を返し[146][147]、さらにトロツキー派に参加すると述べた[148][149]。レイスは家族とスイスに逃げていたが、1937年9月、NKVDエージェントでレイスの秘書だったゲルトルード・シルトバッハから呼び出されたレイスは、NKVDのフランソワ・ロッシ(ウラジミール・プラヴディン)とエティエンヌ=シャルル・マルティニャに機関銃で銃殺された[145][150][151][152][153][154]

ソ連の諜報官ウォルター・クリヴィツキーは1937年9月にフランスに亡命、翌1938年に米国に移り、ソ連の内幕を西側に伝えたが、米国の左翼からは嘘であると非難された。クリヴィツキーは亡命直後から暗殺対象となり、1941年に遺体で発見された。多くの情報源によれば、これはソ連による暗殺だった[155][156][157]。生前、クリヴィツキーは友人のシドニー・フックらに、「もし私が自殺した遺体で発見されたら、それはNKVDに追いつかれたのだ」と語っていた[158]。元アメリカ共産党員でソ連のスパイだったが、大粛清とモスクワ裁判を受けて離党[159]したウィテカー・チェンバースも、もし自分が死体となって発見されたとしても決して自殺したとは決して信じないようクリヴィツキーが妻子に伝えていたと述べている[155]。他方でクリヴィツキーはソビエト政府こそが我らの最良の友人であると妻子に宛てた手紙で書いているが、これが偽手紙であったかは不明である[155]。スターリンを批判したために投獄されたが、国際運動によって救出されメキシコに亡命した作家・元コミンテルン共同設立者のヴィクトル・セルジュ は、クリヴィツキーを暗殺したGPU工作員の名も事件の全容も判明していると関係者から聞いている[160]。しかし、NKVDによる暗殺工作を把握していなかった米国警察の捜査では、自殺とされた[161][162]

1938年の大粛清

第三回モスクワ裁判

ニコライ・ブハーリン

1938年3月、コミンテルン元議長ニコライ・ブハーリンらが右翼トロツキスト陰謀事件容疑で第三回モスクワ裁判で裁かれ、処刑された。この裁判は、それまでの裁判で未解決だった問題に決着をつけるものでもあり、関与した人物や告発内容の規模から、ソ連の公開政治裁判(見世物裁判、ショー・トライアル)の中で最もよく知られている。この裁判では、「反ソビエト・右翼=トロツキスト・ブロック」に属したとされる21人の被告が裁かれたため、21人裁判とも呼ばれる。国際的に著名なボルシェヴィキの理論家だったブハーリンが被告になったことからブハーリン裁判とも呼ばれる。この第三回モスクワ裁判で19人が処刑され、スターリンによる古参党員の反対派狩りは完成された[68]。死刑判決ではなかったラコフスキーら3名も遅れて1941年のNKVDによる囚人大量虐殺(メドベージェフの森の虐殺)で殺害され、最終的に被告全員が殺害された。

大粛清の第一段階を担当した内務人民委員部長官ゲンリフ・ヤゴーダも1938年に処刑された。
大粛清の第二段階を担当した内務人民委員ニコライ・エジョフも1940年に処刑された。
大粛清の第三段階を担当した内務人民委員ラヴレンチー・ベリヤも1953年に処刑された。

「反ソビエト・右翼=トロツキスト・ブロック」は、ブハーリンが率いていたとされるもので、被告には他に、元首相のアレクセイ・ルイコフ、元フランス大使で左翼反対派クリスチャン・ラコフスキー、外交官ニコライ・クレスチンスキー、NKVD長官として大粛清の第一段階を指揮しながら直前に失脚していたゲンリフ・ヤゴーダらが含まれた[38]

トロツキーとジノヴィエフ派が主導する反対派の勢力は存在していたものの、歴史家ピエール・ブルエによれば、ブハーリンはその一派には加わっていなかった[38]。他方でジュール・アンベール=ドロズ, a former Broué ally,[163]は、スターリンを指導部から排除するためにジノヴィエフやカーメネフと派閥を結成したとブハーリンから聞かされた、と述べている[164]

クリスチャン・ラコフスキーは1922年のグルジア問題において、民族ソビエトの設置を提案してレーニンに認められ、かつ国際主義的なメッセージが農民層を離反させており、中央集権主義がソビエトの影響力を危うくしているとスターリンら指導部を批判した[165]。当時よりスターリンと対立していた。ラコフスキーはトロツキーの左翼反対派に参加するが、1927年末に左翼反対派が党内政治で敗北すると、コミンテルンや党中央委員を解任され、ソ連共産党からも除名された[166]。その後も市民的自由の回復や党組織の縮小や集団化の停止などを訴えた[167]。その後1934年にスターリンに屈服し、トロツキーらをドイツのスパイと認めて、党に復帰した[168]。1935年には日本大使になっている[169]。1937年秋に逮捕され[167]、翌年のモスクワ裁判で日本のスパイであると強制自白させられた[169]。他の被告が即処刑だったのに対してラコフスキーは20年の重労働刑であったが、1941年スターリンの命令により、オリョール郊外でのメドヴェージェフの森の虐殺において銃殺された[167]

ヤゴーダへの告発は、粛清がいかに急速にその担い手たちをも飲み込んでいったかを示していた。スターリン時代の数ある事件の中でも、国際的な名声を誇る理論家ブハーリンの裁判と処刑は西側の知識人を強く惹きつけた[170]

1937年5月に逮捕されたニコライ・クレスチンスキーは獄中で意識を失うほどの暴行を受け続けた。レフォルトヴォ刑務所の医師は、殴打は凄まじく、クレスチンスキーの背中には打撲による変色がない箇所はなかったという[171]。しかし、裁判で他の被告が罪を認める一方で、1938年3月12日にクレスチンスキーは書面による自白を撤回し、自分はトロツキー派でないことなど、すべての起訴事実について無罪を主張して大きな波紋を呼んだ。しかし翌日には、「特別措置」(拷問)を受けて、左肩の脱臼その他の負傷を伴いながらその主張を翻し、罪を認めた[172]

最終的にブハーリンも「自白」を認めた。ブハーリンは最終弁論を次のように締めくくった:[173]

私の犯した罪の甚大さは、ソ連の闘争の新たな段階において、計り知れないものです。この裁判が最後の厳しい教訓となり、ソ連の偉大な力が万人の目に明らかとなることを願ってやみません。

アナスタス・ミコヤンヴャチェスラフ・モロトフは、ブハーリンは拷問を受けてはいなかったと語ったが、実際には尋問官たちに「殴打の許可」が与えられ、この「目玉」となる被告人から自白を引き出すよう圧力がかけられていた。ブハーリンは3ヶ月耐えたが、妻子への脅し、そして「身体的強制手段」によって追い詰められていった。スターリンによって加筆・修正された自白調書を読まされた際、その内容を拒絶すると、尋問官を2人1組の体制にして尋問が再開された[174]

イギリスの駐ソ連大使アーカーズ=ダグラスは、「モスクワ裁判での被告人の自白は、中世の法理に基づいている」とし、ブハーリンがいくつかの告発を論破し、「事件全体を打ち砕き得ることを示した」とも記録している[175]

ブハーリンの自白は、共産主義による破壊的所業を象徴するものであった。それは、自らの「息子たち」を破滅させると同時に、彼らを自己破壊と自己否定へと駆り立てるものでもあった[170]。その自白は、「資本主義の復興」のために働く「堕落したファシスト」であるといった極端な自己批判と、裁判に対する微妙な批判とが入り混じったものだった。ソビエトを支持する作家ロマン・ロランらは、ブハーリンへの寛大な処置を求めてスターリンに書簡を送ったが、効果はなかった。ブハーリンの自白は西側の左翼知識人、親ソ派知識人に衝撃を与えた。アメリカ共産党の創設メンバーだったバートラム・ウルフジェイ・ラブストーンドイツ共産党員でソ連に移住し、コミンテルンでも活動したアーサー・ケストラーハインリヒ・ブランドラーといった共産主義者にとって、ブハーリン裁判は共産主義との決別を決定づけ、その後、彼らは共産主義を批判していった[176][177]。ケストラーは1940年にモスクワ裁判を題材にした小説『真昼の暗黒』を発表し、西側で反響を得、モーリス・メルロ=ポンティの『ヒューマニズムとテロル』などで議論となった。

大量粛清の緩和とエジョフの粛清

1938年11月17日の人民委員会議・党中央委員会秘密決定で、これまで「人民の敵」の撲滅のために多くが行われてきたとし、一部で歪曲もあったが、これは内務人民委員会に潜入した「人民の敵」による根拠のない大量抑圧だったとし、大量逮捕を禁じ、テロルの収束を打ち出した[68]

1939年3月の第18回共産党大会では、5年前の第17回共産党大会での代議員1966人のうち1108人が逮捕され、そのとき選出された委員139人のうち98人が処刑されていた[68]。党規約から「チーストカ(粛清)」への言及がけずられ[68]、大量粛清が廃止され、党職に就任する条件も緩和された[56]

1938年12月、スターリンに忠実で、大粛清に大きく加担したニコライ・エジョフは内務人民委員会を解任された[68]。エジョフは1939年に逮捕され、無実の者を逮捕してきた罪を問われて、1940年2月に銃殺された[178]ラヴレンチー・ベリヤが後任となった。ベリヤのもとでも粛清は行われたが規模は小さくなっていった[68]。ベリヤも1953年に処刑された。

スターリンは、自分の権力を脅かす可能性のある古参ボルシェビキとその仲間、家族を粛清し、赤軍による権力奪取を恐れ赤軍を粛清し、元メンシェビキ、社会革命党員、立憲民主党員も粛清し、クラーク、聖職者、元地主、修道士も粛清した[178]。また、密告したものには出世を約束するなどして密告を奨励した。大粛清をへて、スターリンの個人書記局が正規の共産党をおしのけて絶大な権力を持つにいたった[68]

トロツキー一族の粛清

息子レフ・セドフ

レフ・セドフ

トロツキーの息子レフ・セドフロシア語版は1929年にドイツに亡命していたが、第一回モスクワ裁判の欺瞞と捏造を暴いた告発書を1936年10月に発表した[179]。セドフは、裁判において陰謀組織が存在したことの物的証拠の不在と、脅迫や拷問や家族を人質にした自白の強制、その他の矛盾などを指摘したうえで、スターリンが大規模な見せしめ裁判を行った理由を、競合相手の古参幹部を抹殺し、自らの官僚主義的独裁権力を絶対的なものにするためであったと論じた[179]。スターリンはこの書籍に怒り、1938年2月セドフはパリで不審死した。元ソ連の工作員ウォルター・クリヴィツキーやアレクサンダー・オルロフによれば、セドフは暗殺されたという[180]

セドフの周囲にいた人類学者マルク・ズボロウスキー(エティエンヌとも呼ばれる)が暗殺に加担したのではないかと疑い調査をしていたトロツキー派のルドルフ・クレメントも1938年7月13日にパリでスターリン派の工作員に拉致され殺害された[181]。ズボロウスキーはセドフの死後、トロツキー派(左翼反対派)の機関紙の編集者にまでなったが、現在ではスターリンからトロツキー派を粉砕するために送られた秘密工作組織の大物であったとみなされている[181]

レフ・トロツキー

メルカデルがトロツキー暗殺に用いたピッケル

1940年8月20日、レフ・トロツキーはメキシコの自宅で、トロツキー派になりすまし、論文を見てくれと頼んできたスペイン人の工作員ラモン・メルカデルの論文を読み始めたところ、メルカデルによってピッケルで後頭部を打ち砕かれ、翌日死亡した。

妹オリガ・カーメネワと甥

トロツキーの妹でカーメネフの妻であったオリガ・カーメネワは1927年12月にスターリンとの権力闘争でトロツキーとカーメネフが失脚すると社会的地位を剥奪されていった。1935年7月27日、NKVDはクレムリン陰謀事件に関連して、オリガに対しモスクワおよびレニングラードへの立ち入りを5年間禁止する処分を下した[182]

1936年8月25日、カーメネフが処刑された後、オリガは投獄された。次男ユーリは1938年1月30日に17歳で処刑され、長男で空軍将校であったアレクサンドルは1939年7月15日に33歳で処刑された[183]

1941年9月11日、オリガはクリスチャン・ラコフスキーマリア・スピリドーノワ、その他160名の著名な政治犯と共に、オリョール郊外のメドヴェージェフの森で銃殺された(メドヴェージェフの森の虐殺)[184]。この処刑は1941年に行われたNKVDによる囚人大量虐殺の一つであった。

コリツォフの粛清

取材先で執筆するコリツォフ

プラヴダで多くの記事を執筆したジャーナリスト・編集者のミハイル・コリツォフミハイル・コリツォフロシア語版は一時、アレクサンドラ・コロンタイらの労働者反対派に参加したが、レーニン死後はスターリンの側近となり、1933年にはスターリンによる反革命分子への対策を称賛する書籍を出版した[185]

1935年6月にコリツォフがパリで反ファシズム文化会議を開催すると、フランスの知識人は、イサーク・バーベリボリス・パステルナークといったソ連の反体制派作家を参加させなければ会議をボイコットするとコリツォフに告げた[185]。スターリンはこれを容認したが、マルロー、ジッド、ガエターノ・サルヴェミーニたちがソ連を批判する演説を行うと、激怒した[185]。作家ヴィクトル・セルジュがトロツキー主義者として告発されたことは不当だとマグダレーネ・パスが会議で抗議し、ジッドとサルヴェミーニもこの抗議を支持した。ソ連代表団はスターリンを擁護して、セルジュはキーロフ暗殺事件に関与したと反論したが、スターリンは数ヶ月後にセルジュを釈放した。スターリンはこの外交的失態を招いたことについて、コリツォフを許さなかった[185][186]

1937年5月、コリツォフはスターリンとの3時間にわたる会合後、スターリンから「リボルバーを持っているか」と聞かれ、「持っています」と答えると、スターリンは「自殺するつもりはあるか」と聞いてきた[185]。コリツォフは警告として受け取った[185]。以後、コリツォフはイズベスチヤでモスクワ裁判に関する一連の記事や演説で、ブハーリン、ルイコフ、トロツキーらを革命の裏切り者として非難し、モスクワ裁判を正当化した[185]。この頃、コリツォフは狂信的と言えるほどにスターリンを信じていたとコリツォフの弟ボリス・エフィモフは証言している[185]

しかし、次第にコリツォフはスターリンに疑念を抱き始めた。「考えに考えても、何ひとつ理解できない。一体どうなっているんだ? どうして突然、これほど多くの敵を抱えることになったのか? 彼らは長年の仲間じゃないか! 軍の指揮官、内戦の英雄、古参の党員たちだ! 彼らは獄中に入るやいなや、即座に自分たちが『人民の敵』、スパイ、外国諜報機関の工作員であることを自白する。一体どうなっているんだ? まるで気が狂いそうだ」[185][187]

1937年12月19日、コリツォフはモスクワ裁判について、自らの身を守るために罪のない人々に汚名を着せた者たちがいると指摘し、ソビエト市民の権利を侵害するような、冷酷な嘘をつくことはやめるべきだと紙面で訴えた[185]。コリツォフはエジョフの「死の名簿」に自分の名前があることをすでに知っていた[185]。1938年9月にはプラハで旧友のイギリスのジャーナリストクロード・コックバーンに、コリツォフは自分ももうすぐ逮捕されるだろうと言って架空の裁判の茶番劇を演じた[185]。コリツォフはチェコスロバキア大統領エドヴァルド・ベネシュにソ連が軍事援助を用意していることを伝える権限を持っており、ソ連とイギリス・フランスの団結を希望していたが、ミュンヘン会談でイギリスとフランスがヒトラーの要求を認めたため実現せず、コリツォフは絶望した[185]。コリツォフはパリに向かおうとしていたが、ソ連への即時帰還を命じられ、1938年12月14日に逮捕された。コルツォフは、ヴァルター・クリヴィツキー、アレクサンドル・オルロフ、エレンブルクバーベリパステルナーク、マリア・オステン、マルローマクシム・リトヴィノフ(1939年に逮捕、拷問を受けたが偽証せず、1941年に10年の懲役刑を受けた)、エフゲニー・グネーディン(アレクサンドル・パルヴスの息子で外務官)、メイエルホリドらのスパイ・ネットワークの指導者であると告発された[185]。彼は拷問を受け、フランスおよびドイツの諜報機関と協力していたと自白を強制された[185]

エジョフは逮捕後の1939年5月に、自分の妻エヴゲーニヤはイギリスにスパイとして雇われ、情報を得るためにコルツォフと不倫したと供述した[188][189]

1940年1月16日にベリヤが政治局に提出した346人の「人民の敵」のリストには、エジョフのほか60人のNKVD将校、エヴゲーニヤの愛人だったコリツォフとバーベリが含まれていた。コルツォフは1940年2月2日に銃殺された[190]。彼の3番目の妻であるマリア・オステンも有罪判決を受け、銃殺された。

死刑執行人

当初、チェーカー(全ロシア非常委員会)に死刑執行人専用のポストはなく、どのチェキストにも死刑の責務があった[191]。1918年に皇帝派大臣の処刑が赤軍兵士によって行われ、のちには中国人が処刑を担当した[191]

1920年代初頭からは、常任にちかい死刑執行人グループがつくられ、その後数十年活動することになる[191]。この特別班には、全ロシア非常委員会のある建物の武装警護を担当する司令部所属の隊員がおおく含まれ、かれらはほぼ毎日処刑を担当した[191]。スターリンの身辺警護人のなかにもこの特別班の隊員がいた[192]。1922-30年の執行命令書への署名で多いのは、グリゴリー・クルスタレフ、グリゴリー・ゴロフ、イヴァン・イグナティエフらである[193]

死刑執行人は通常より若く死亡したり、精神疾患、アルコール中毒になった[194]。死刑執行人も処刑されている。レーニンの元警護人だったロベルト・ガバーリンは同性愛の容疑でチェーカー名誉隊員のバッジも剥奪され、収容所に送られた[194]

1937-8年のトロイカ裁判で死刑判決をうけた者の処刑を担当した死刑執行人イザイ・ベルグは、処刑直前までスターリンを賛美するものに対しては「いま殺しているのは敵だ」と説明することで部下の士気を鼓舞せよと命令されていた[195]。イザイ・ベルグは自動車の排気ガスを用いた処刑方法の開発に携わり、車にのせられた死刑囚は、ガスを充満させられたあと、その遺骸をおろされた。これで死刑囚のスターリン賛美を聞かなくてもよくなった[195]

グルジアの国家政治保安部(OGPU)長官ラヴレンチー・ベリヤは、部下のチェキストに、銃殺前に死刑囚をよく殴っておけと命じた[196]グルジア・ソビエト社会主義共和国内務人民委員所属の隊員は、捕縛された死刑囚を銃床で容赦なく殴りつけた[196]。処刑法は地域によっても異なり、斧、ロープ、釘抜きなどを用いた処刑も行われた[196]

ニコライ・エジョフは、1937年秋、かつての同志イアコレフを処刑する際、イアコレフの直前に処刑される者の隣に座らせて、処刑を目撃させた[197]。ヤゴーダ、ブハーリンも同様に、直前の処刑をみることを強要させられた[197]。エジョフは、処刑直前のヤゴーダを警備隊に殴らせた[197]

ワシリー・ブロヒン

ワシリー・ブロヒン

ワシリー・ブロヒンロシア語版は政治局局員候補ロベルト・エイヘの目を殴ったあと、スパイであると自白しないので処刑した[198]。ブロヒンは大量の同僚を処刑しており、そのなかには元上司たちもいた。ブロヒンは死刑執行人という職務のおかげで粛清をまぬがれた。ブロヒンが「人民の敵」であるヤゴーダとつながっているという密告があったときには逮捕寸前までいったが、エジョフは「一切問題なし」としてブロヒンについての告発を葬った[199]。エジョフは粛清の任務を実行するうえでブロヒンが必要だったが、1940にエジョフはブロヒンに処刑される[198]。スターリンも同様に、ブロヒンについての告発を知っていたが、汚れ仕事の人を逮捕してはならないと考えていた[200]

ブロヒンの階級はあがり、勲章もおおくもらった。赤星勲章(1936年)、栄誉勲章(1937年)、赤旗勲章(1940年、1944年、1949年の3度)、労働赤旗勲章(1943年)、レーニン勲章(1945年)、1等祖国戦争勲章(1945年)、名誉チェキスト、金時計ももらった。3度のモスクワ裁判のあとに勲章をもらっている(1936年11/28,1937/7/22-12/19,1940/4/26)[201]

ブロヒンが処刑した人数は少なく見積もっても1万-1万5000人になる[202]。1953年ブロヒンは祝福されながら除隊した。スターリン死後のベリヤやアバクーモフらの取り調べの過程でブロヒンも出頭させられたが、命令に従った死刑執行人に過ぎず私怨ではないとされ罪を科されなかった[203]

スターリンのテロリズム

Front page of a booklet
モロトフ、スターリン、ヴォロシーロフカガノーヴィチ、ジダノフが署名した大粛清のリスト

スターリンは1937年2月から3月にかけての共産党中央委員会総会で「党活動の欠陥とトロツキスト的およびその他の二心者を根絶する方策について」を演説し、階級闘争激化論による正当化を行なった

スターリンは、カール・マルクスの「古い社会の殺人的な断末魔の苦しみと新しい社会の血なまぐさい産みの苦しみを短縮し、簡潔にし、集中させる唯一の方法がある。それは革命の恐怖だ。」(1848年)[204]や「大きな運動が流血なしで始まったことはない」(1879年)などの発言[205]、エンゲルスの「革命は存在するもののなかで最も独裁的なものである。それは一部の人々がほかの人々に、ライフル、銃剣、および大砲によって、自らの意思を強要する行為である。…革命はこの支配を、その武器が反動主義者に抱かせる恐怖によって維持しなければならない。」(1874年)といった言葉[206]を繰り返し用いて、テロルを正当化した[207]

大粛清はスターリン主導で始まったものではなく、また、大粛清の開始後は事態が制御不能に陥っていたという見方も一部でなされた[208]。エジョフが、粛清の側面についてスターリンを誤解させていた可能性があるとの指摘もある[208]。スターリンはイェジョフの下でのNKVDの行き過ぎを予見できず[208]、エジョフが粛清した多数の人々について異議を唱えていた可能性がある。スターリンは、20万人の党員が追放されたとエジョフが発表した際、その数は「あまりに多い」と指摘し、かつてのトロツキスト3万人とジノヴィエフ派600人を追放することの方がより大きな勝利」になるだろうと語った[209]

歴史学では、スターリンがこの粛清に深く関与していたことが公文書の分析から裏付けられている。歴史学者オレーク・V・フレヴニュークによれば、大テロルが自然発生的かつ突発的な性質を帯びていたとする説、大規模な弾圧の過程において中央による統制が失われていたとする説、テロルの開始に地方指導者が主導的な役割を果たしたとする説などは、いずれも歴史的記録によって裏付けられていない[210]。スターリンはエジョフが作成したリストに署名しただけでなく、特定の個人について個別に指示を出すこともあった。ある時彼はエジョフに対し、「この紳士を締め上げて、汚い悪事について白状させてはどうか? 今どこにいるんだ、刑務所か、それともホテルか?」と語りかけている。また、エジョフのリストに目を通した際、M. I. バラノフの名前に「殴れ、殴れ!」と書き加えている[211][212]。このM.I.バラノフは軍医で、赤軍ファシスト陰謀事件 (военно-фашистском заговоре)の容疑で1938年に処刑され、バラノフの妻は「祖国への反逆者」の家族であるとして強制労働収容所に送られた[213][214]。スターリンは1937年と1938年に357件のリストに署名し、約4万人の処刑を承認した。そのうち9割は銃殺されたことが確認されている[215] 7.4 percent of those executed legally.[216]。あるリストに目を通していた際、スターリンはこう呟いた。「10年か20年も経てば、こうした連中を誰が覚えているか? 誰も覚えてはいないだろう。イヴァン雷帝に粛清されたボヤール(貴族)たちの名を、今や誰が覚えているか?」[217]

またスターリンはモンゴルの仏教僧侶ラマの10万人の粛清を命じたが、政治指導者のペルジディーン・ゲンデンはその命令に抵抗した[218][219][220]。ゲンデンはレーニンと仏教を同時に信奉していたが、1937年11月26日に反動主義者・日本のスパイとして処刑された。

スティーブン・G・ウィートクロフトは、ヒトラーによる「意図的な死」は「殺人」に当たるのに対し、スターリンによるものは「処刑」の範疇に入るとしながら、しかし、「犯罪的な怠慢や冷酷さによって死をもたらした」点においては、「スターリンはおそらくヒトラーを上回っていた」と指摘している[221]

終結

ニコライ・エジョフ記憶破壊(ダムナティオ・メモリアエ)。 エジョフは処刑後、スターリンと一緒に写った写真から削除され、党の記憶からも抹消されていった。

1938年夏、エジョフはNKVD長​​官を解任後、裁判にかけられて処刑された。後任にはラヴレンチー・ベリヤが就いた。1938年11月17日の人民委員会議共産党中央委員会による逮捕・検察・捜査に関する布告(モロトフとスターリンが署名)、およびそれに続くベリヤ署名のNKVD命令により、大粛清に関するNKVD命令の大部分が取り消され、死刑判決の執行が停止され、大粛清は終結した[222]

しかし、その後の1940年代にも小規模の粛清は続いた[223]アレクサンドル・ソルジェニーツィンは、1936-38年の大粛清は西側知識人の間で注目を集めたが、他にも、1928-33年の第一次五カ年計画に伴う集団化やクラーク(富農)の排除など、革命直後の1918年から1956年まで同様の規模の粛清がいくつも存在したと述べている[224]

エジョフ政権下で逮捕された軍司令官らは、ベリヤ政権下で処刑された。1939年2-3月には、元元帥アレクサンドル・エゴロフ(妻G・A・イェゴロワは1938年8月に銃殺)、陸軍司令官イワン・フェドコ、司令官ゲオルギー・ボンダーが処刑された[225]。旗手コンスタンチン・ドゥシェノフは1938年5月に逮捕され、1940年2月に銃殺された[225]。彼らは全員、死後に名誉回復された[225]

1937-1938年にかけて処刑された被害者の親族の問い合わせに対してNKVDは、「通信の権利のない10年間」の刑を宣告されたと説明した。その後10年が経過してから親族が国家保安委員会(MGB)に消息を尋ねたところ、獄中で死亡したと告げられた[226]

しかし1938年後半に入ると、大量抑圧によって国家機能や経済運営が支障を来たすほどになり、弾圧の実行者である治安機関がその責任を問われることとなった。1938年末になると、スターリンはエジョフとNKVDを批判するようになり、エジョフはついにNKVD長官の座をラヴレンチー・ベリヤに奪われ、さらにスターリン暗殺計画を企んだとして1940年に銃殺された。またフリノフスキーはじめエジョフの部下たちも次々と処刑され、粛清にあたったNKVDの関係者たちでスターリン時代を生き残れた者は多くなかった。

1933年に40万人が除名、1935年と36年にそれぞれ20万人が除名され、36年末に党員は145万に減り、4年間で75万人が党から消えた[6]。1937年には50万人が粛清された[6]。しかし、1938年末には45万の新党員が代わりに採用され、1939年と1940年に毎年50万の新党員が追加されていった[6]。こうしてスターリンは、共産党の人員整理を進め、党を刷新することとなった。

スターリン死後

その後、独ソ戦期・冷戦期にもベリヤの指導で政治弾圧は続いたものの、大粛清期に比べるとはるかに縮小した。1953年3月5日にスターリンが死去した。

フルシチョフのスターリン批判

スターリン死後、党内で粛清の真相が明らかになり始めると、1956年2月25日、ソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフは第20回党大会の非公開会議において「個人崇拝とその結果について」を演説した。フルシチョフは、共産党内では民主主義が存在するとされてきたが、実際にはスターリンが説得や説明ではなく、自らの考えを押し付け、自身の意見への絶対的な服従を要求していたと告白した。さらに、「スターリンの考えに反対したり、自らの見解や立場の正当性を証明しようとしたりした者は、指導部から排除され、その後に道徳的かつ肉体的に抹殺された」と述べた。第17回党大会で選出された中央委員および中央委員候補139名のうち98名(70パーセント)が逮捕され、銃殺された」。フルシチョフはこれを「党幹部に対して大規模なテロを行使し始めたスターリンによる権力の乱用」に起因するものとし、「逮捕・告発された多くの者からの自白は、残酷かつ非人道的な拷問によって得られたものだった」と述べた[227]。このフルシチョフのスターリン批判は全界の共産主義者、ソ連支持者に衝撃を与え、各国の共産党でも離脱者が出たり、分裂するなどの混乱を招いた。

被害者の名誉回復

フルシチョフのスターリン批判に合わせて、大粛清で処刑・流刑された共産党や赤軍の幹部たちに対する恩赦や名誉回復ロシア語版が始まった。しかし、1964年のフルシチョフの失脚後、レオニード・ブレジネフの政権下では一時名誉回復運動は停滞した。

1985年にはミハイル・ゴルバチョフによって再び「改革派」が勢いづくとともにスターリン政治の実態がさらに明らかにされ、さらに多くの死亡者たちの名誉が回復された。1990年8月13日付けソビエト連邦大統領令第556号「20年代から50年代にかけての政治的弾圧における全ての被害者の名誉回復について(О ВОССТАНОВЛЕНИИ ПРАВ ВСЕХ ЖЕРТВ ПОЛИТИЧЕСКИХ РЕПРЕССИЙ 20 - 50-Х ГОДОВ)」によって、スターリン政権時代に「政治的弾圧」を受けた全ての被害者の名誉が回復された。

犠牲者数・死亡者数

ソ連時代の統計[228]の開示[229]や、第三者による検証[230]を経ても、粛清された人物の合計数は今もなお公式に確定していない。

ペレストロイカ後の情報公開によれば、1930年代のスターリンによる大粛清では、250万人が逮捕され、そのうち68万余が処刑、16万余が獄死したことが確認できる[231]。後述するNKVDの1953年統計報告によれば、1921年から1938年までの間に処刑されたのは74万5220人にのぼる。

ロシア連邦国立文書館にある統計資料 (公式統計)によれば、1937年から1938年までに、134万4,923人が即決裁判で有罪とされ、68万1,692人が死刑判決を受け、63万4,820人が強制収容所刑務所へ送られた[232][233][234]。ただし、この人数は反革命罪で裁かれた者に限る。それに加えてグラーグでの死亡者数は116,000人であり、反革命罪(ソビエトロシア刑法第58条)違反により非公式に2000人が銃殺された[235]

エルマンの2002年の研究では、1937年から1938年にかけての弾圧による死者数は95万人から120万人である[235]

コンクエストは1968年に「合法的な」処刑が70万件だったと推定したが、コンクエストは2007年の著書で死刑に処された人数が約100万人であるという重要な点については正しかったと書いている[236]

J.A.ゲッティとオレグ・ナウモフは大粛清における処刑人の推定は50万人から700万人と様々であるが、現時点で入手可能なデータからは、1937~38年に処刑された人の数は、数十万人であった可能性が高いことを示しているとする[237]

歴史家コリーナ・クールは、大粛清の間に逮捕された250万人のうち70万人が処刑されたとする[238]。ネラール・フランソワ・ザビエは、逮捕された130万人のうち70万人が処刑されたとする[239]。ある推定では、80万人が16か月にわたって毎月5万人の割合で処刑された[240]

大粛清の犠牲となった死者は全体で800万~1000万人とも推定される[241]。ユーゴスラビアのヴィルコ・ミチュノビッチセルビア・クロアチア語版は、1934-1940年の銃殺を100万人、抑圧の被害者は1850万人とした[242][243]

NKVDの1953年統計報告

1930~50年代までの粛清による犠牲者を弔う墓碑

ソ連政府はミハイル・ゴルバチョフの時代にNKVDの後身ソ連国家保安委員会 (KGB) が「スターリンが支配した1930年から1953年の時代に786,098人が反革命罪で処刑されたこと」を公式に認めた。さらにソ連崩壊後にはロシア連邦国立文書館 (GARF) がNKVDグラーク書記局が1953年に作成したという統計報告書を公開した。それによるとNKVDは1937年と1938年の2年間に1,575,259人の者を逮捕しており、このうち87%以上の1,372,382人に及ぶ人が反革命罪および反国家扇動罪などに問われた政治犯であった。

1938年11月12日のわずか1日だけでスターリンとモロトフは3,167人への銃殺を指示している[244]

さらに見る 西暦, 逮捕者総数 ...
ロシア連邦国立文書館 (GARF) が公開したNKVDの統計資料
西暦逮捕者総数政治犯数(全逮捕者中の割合)有罪者数死刑者数(有罪者中の割合)
1921年200,271 人76,820 人 (38%)35,829 人9,701 人 (27 %)
1922年119,329 人45,405 人 (38%)6,003 人1,962 人 (32 %)
1923年104,520 人57,289 人 (54%)4,794 人414 人 (08 %)
1924年92,849 人74,055 人 (79%)12,425 人2,550 人 (20 %)
1925年72.658 人52,033 人 (71%)15,995 人2,433 人 (15 %)
1926年62,817 人30,676 人 (48%)17,804 人990 人 (05 %)
1927年76,983 人48,883 人 (63%)26,036 人2,363 人 (09 %)
1928年112,803 人72,186 人 (64%)33,757 人869 人 (02 %)
1929年162,726 人132,799 人 (81%)56,220 人2,109 人 (03 %)
1930年331,544 人[245][246]266,679 人 (80%)208,069 人[245][246]20,201 人 (09 %)
1931年479,065人[245][246]343,734 人 (71%)180,696人[245][246]10,651 人 (05 %)
1932年410,433人[245][246]195,540 人 (47%)141,919人[245][246]2,728 人 (01 %)
1933年505,256[245][246](505,173)人283,029 人 (56%)239,664人[245][246]2,154 人 (00.9%)
1934年205,173人[245][246]90,417 人 (44%)78,999人[245][246]2,056 人 (02 %)
1935年193,083人[245][246]108,935 人 (56%)267,076人[245][246]1,229 人 (00.4%)
1936年131,168人[245][246]91,127 人 (69%)274,670人[245][246]1,118 人 (00.4%)
1937年936,750人[245][246]779,056 人 (83%)790,665人[245][246]353,074 人 (44 %)
1938年638,509人[245][246]583,326 人 (91%)554,258人[245][246]328,618 人 (59 %)
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このNKVDの1953年統計報告によれば、1921年から1938年までの間に処刑されたのは、74万5220人にのぼる。ソ連ではウラジーミル・レーニンによる建国以来、政治犯の逮捕(すなわち粛清)は常時行われていたが、逮捕者数や死刑数がとりわけ目立つのはやはりスターリン時代の大粛清最盛期である1937年と1938年であることが分かる。1937年と1938年の二年間のうちに処刑されたのは、68万1692人である。1921年から1936年までの処刑された人数6万3528人の10倍以上が1937年と1938年に犠牲となった。

ウクライナ、ベラルーシ

このほか、処刑数を減らすために「10年間の通信権停止」という偽装罰があり、9000人から11000人が殺害されたヴィーンヌィツャ大虐殺(ウクライナ)や、7000人から25万人が殺害されたクロパティ虐殺(ベラルーシ)で身元が確認された遺体はすべて、この刑罰を受けた人々のものだった[247]

ウクライナのビキヴニア

ウクライナキーウにあるビキヴニア歴史記念墓墓地での追悼行事。

ビキヴニア歴史記念墓墓地には、ウクライナにおける大粛清時代に「ソビエト国家の敵」として処刑された犠牲者が埋葬されている。その数は3万人[248]から、数万体[249]、あるいは10万体ともされ[250]、現代史学者レイモンド・ピアソン、政治学者タラス・クシオアンドリュー・ウィルソンらは20万人と推定している[251][252]

モンゴルの大粛清

モンゴル人民共和国ではソビエト・ロシアの指示でホルローギーン・チョイバルサンチベット仏教僧汎モンゴル主義者親日派、貴族、知識人、ブリヤート人など2万人から3万5000人の「革命の敵」を処刑した[253][254]

1930年代後半、スターリンはNKVDの工作員をモンゴル人民共和国に派遣し、トロイカ(3人委員会)を設置し、「親日スパイ網」の容疑でを数万人を処刑した[255]。犠牲者の大半は仏教のラマ(僧侶)であり、その数は1万8000人に上りました。その他、貴族、政治家、学者、労働者、牧畜民も犠牲になった[256]

処刑された数百人の仏教僧や民間人が埋められた集団墓地が2003年に発見された[257]

新疆の大粛清

中国新疆省の親ソ派指導者盛世才は、スターリンの大粛清と同時期に独自の粛清を開始した。この粛清の最中に、新疆イスラム教徒の乱が勃発した[258]

盛世才はNKVDの支援を受け、ソ連の破壊を狙うファシスト・トロツキストの陰謀が存在すると主張し、435名を逮捕した。この中には、ガレギン・アプレソフ総領事、馬虎山将軍、馬紹武、マフムード・シジャン、新疆省の指導者であるHuang Han-chang、ホージャ・ニヤーズらが含まれる。新疆は事実上ソ連の支配下に置かれることとなった[259]。盛世才は1939年にソ連共産党に入党した。

在ソ朝鮮人

1937年からの在ソ朝鮮人の強制移住では172,000人が犠牲になり、そのうち28,200人[260]から50,000人が死亡した[261]

埋葬場所

犠牲者はNKVD管理下の森で銃殺された[240]。処刑者はNKVD将校だったが、この件について一切口外を禁止され、粛清された犠牲者の遺族には、なにも知らされないか、不明の場所へ流刑にされたとか、死亡したとか、でたらめの話を聞かされた[240]

犠牲者の遺体は多くの場合集団墓地へ投げ込まれた上に木を植えて証拠隠滅されており、ソ連崩壊前後の機密解除によりコムナルカ射撃場ブートヴォ射撃場英語版などが特定された(en:Mass graves from Soviet mass executionsを参照)。また、新ドンスコイ墓地ロシア語版においては隣接した火葬場で犠牲者の遺体が焼かれたのちに遺灰が遺棄された。

現在ではこれらの集団墓地はロシア正教会の管理下に置かれ、慰霊碑が建立されている。ホロコーストとは異なり、犠牲者の処刑記録の多くにはこれら「埋葬場所」も記録されていた。[要出典]

犠牲者

Category:大粛清犠牲者

スターリンとエジョフの粛清は広範に拡大され、人類の歴史の中でも名だたる政治抑圧の事例となった。その対象は政府や党の高級幹部に留まらず、経済学者生物学者神経生理学者工学者エンジニア物理学者哲学者歴史家詩人作家演出家俳優といった文化人なども犠牲になっている。一般の文化人や学者や市民にも粛清の恐怖が広まり、社会は相互監視と密告に支配された。国民は恐怖や猜疑心に脅える悪夢のような日々を送るはめになり、「ロシア人の亭主が家族と安心して話せるのは、夜布団の中で丸くなって妻子と一緒の時だけ」とさえ言われた。

科学者

経済学者・人文学者

作家・芸術家

  • 詩人オシップ・マンデリシュタームは、1934年に友人たちの前で反スターリン的な詩を朗読したことで逮捕された。ブハーリンやボリス・パステルナークの介入を受け、スターリンはNKVDに彼を「隔離しつつも生かしておく」よう指示した。ペルミ地方のチェルディンへ3年間の流刑に処された後、1938年5月、「反革命活動」の容疑で再逮捕された[314]。1938年8月2日に強制労働収容所送りを言い渡されたあと、ウラジオストク近郊の通過収容所で死去した[315]。 パステルナークは粛清の対象になったが、スターリンが「この『雲の住人』には手を出すな」と言って、リストから削除したと伝えられている[316]
  • 作家のイサーク・バーベリは1939年5月に逮捕された。血痕の残る自白調書の中で、自分がトロツキスト組織の一員であることや、アンドレ・マルローに勧誘されてフランスのスパイ活動に従事したと認めた。しかし、最後の尋問において自白を撤回し、無実の人々を巻き込んでしまった旨を検察当局に書き送った。バーベリはNKVDトロイカによる審理にかけられ、フランス、オーストリア、トロツキーのためのスパイ行為および「テロ組織への関与」の罪で有罪判決を受け、1940年1月ブティルカ刑務所で銃殺された[317]
  • 作家ボリス・ピリニャークロシア・アヴァンギャルドの代表的な作家。ソ連を批判したアンドレ・ジッドと秘密裏に会合を持ち、情報を提供したとして、反革命活動、スパイ行為、テロリズムの容疑で1937年10月28日に逮捕され、1938年4月21日に15分間の審理で死刑判決を受け、直後に処刑された[317]
  • 演出家フセヴォロド・メイエルホリドは、日本やイギリスのためにスパイ活動を行ったとして1939年に逮捕され、1940年2月に銃殺された。妻で女優のジナイーダ・ライヒは自宅で殺害された[318]。1940年1月13日付のモロトフ宛ての書簡で、メイエルホリドは次のように記した。

    取り調べ官たちは、病気を抱えた65歳の私に対して暴力を行使し始めた。私はうつ伏せにさせられ、ゴム製の警棒で足の裏や背骨を殴られた。……その後数日間、足が皮下出血で赤や青、黄色に変色したあざを殴り続けた。その痛みは凄まじく、熱湯をかけられたかのようだった。私は痛みのあまり叫び声を上げ、涙を流した。嘘をつくことでこの苦痛に満ちた試練を終わらせられるかもしれないと考え、私は自分に不利な供述をしてしまった。18時間に及ぶ取り調べを終え、1時間後には再び尋問を受けるために簡易ベッドに横たわって眠りについたものの、私は自分のうめき声や、腸チフスの末期患者のように体が激しく痙攣する動きで目が覚めた。[317]

  • グルジアの詩人ティツィアン・タビゼは1937年10月10日に反逆罪で逮捕され、獄中で拷問を受けた。彼は18世紀のグルジアの詩人ベシキを反ソ活動の共犯者として名指しし[319]、1937年12月に処刑された。
  • タビゼの友人であり、詩人であったパオロ・イアシュヴィリは、数人の仲間を「人民の敵」として告発するようNKVD長官ラヴレンチー・ベリヤから強要された末、猟銃で自殺した[320][319]
  • 詩人パーヴェル・ニコラエヴィチ・ヴァシーリエフは、第二次モスクワ裁判においてブハーリンが糾弾された際、彼を「極めて高潔な人物であり、農民ロシアの良心」であると擁護した。また、形式的な糾弾声明に署名した他の作家たちを「書き殴られたポルノまがいの落書き」と激しく断罪した。彼は1937年7月16日に銃殺された[321]
  • 詩人のニコライ・クリューエフは、宗教的内容や政権の否定する芸術の擁護したことで、ソビエトのイデオロギーに反したとして1933年に逮捕され、1937年10月に銃殺された。
  • マリ人の詩人・劇作家セルゲイ・チャヴァインは、1937年11月に処刑された。マリ・エル共和国の国家賞はチャヴァインの名を冠している。
  • ウクライナの演劇演出家・映画監督レシ・クルバスは、1937年11月3日に銃殺された。
  • 作家、探検家マクシミリアン・クラフコフは、「日本・社会革命党テロ・破壊・スパイ組織」への関与の疑いで逮捕され、1937年10月に処刑された。
  • エスペラント作家ニコライ・ネクラソフは、「エスペランティストによるファシスト・スパイ・テロ組織の組織者兼指導者」であるとして1938年に逮捕され、同年処刑された。同じくエスペラント作家ウラジーミル・ヴァランキンも同年処刑された。エスペランティストもその国際的な活動が災いしてスパイとの嫌疑をかけられ、その多くが銃殺されたり投獄された(上記二人は蔵書や原稿などの所有物全てが破棄された)。結果、ソ連でのエスペランティストの活動はスターリンの死後まで一時途絶えた。
  • 劇作家、詩人のニコライ・オレイニコフは、1937年、「体制転覆を企てる著作」を理由に逮捕され、処刑された。
  • ヤクート人の作家プラトン・オユンスキーは、1939年に獄死した。
  • セルゲイ・プロコフィエフのバレエ『ロミオとジュリエット』のあらすじ作成を担当したロシアの劇作家アドリアン・ピオトロフスキーは、1937年に処刑された。
  • 1930年から1937年までソビエト映画事業の責任者を務めたボリス・シュミャツキーは、映画界の粛清で1938年に「裏切り者」として処刑された。
  • 処刑されたルネサンス」の主要人物の一人であるウクライナの劇作家ミコラ・クリシュは、1937年11月に処刑された。

カザフスタン

外国人の被害者

当時のソ連に在留している外国人といえば、コミンテルンに参加するためにソ連に滞在している共産主義者か、または共産主義が禁止されている国からソ連に亡命してくる非合法組織の者か、そのどちらかが大多数であったが、彼らもスターリンの大粛清の前で例外とはされなかった。

外国人の大粛清犠牲者で有名な人物としてはハンガリーの共産主義運動の始祖でレーニンの信頼も厚かったクン・ベーラ(1937年5月逮捕、1939年11月銃殺)、ラトヴィア人共産主義者ロベルト・エイデマン英語版(1937年6月銃殺)、スイス共産党創設者で、二月革命後のレーニンのロシアへの帰国を取り仕切ったフリッツ・プラッテン英語版(逮捕後、1942年4月ラーゲリで銃殺)等が挙げられる。

粛清の犠牲者の中には、大恐慌の最中に米国からソ連へ移住したアメリカ人も含まれていた。粛清が激化する中、彼らはソ連を脱出するためのパスポートを求めて米国大使館に懇願したが、大使館員に拒絶され、大使館の外でNKVDに逮捕された。そのうち数名は、ブトヴォで射殺された[322]

サンダルモフでは、フィンランド系アメリカ人の共産主義者141人[323]、127人のフィンランド系カナダ人が銃殺され埋葬された[324]

大粛清の矛先は、コミンテルンに加盟している各国の共産党に対しても向けられ、ポーランドユーゴスラヴィアモンゴル等の共産党幹部がソ連に召喚され、多くが粛清された。アドルフ・ヒトラーによる弾圧を逃れてソ連に亡命していたドイツ共産党指導部も、大粛清によって壊滅した。

また、ソ連国外でも共産主義者や共産党の政敵への殺害は行われた。当時内戦の最中にあったスペインでは、共産党の政敵だったマルクス主義統一労働者党 (POUM) の幹部アンドレウ・ニンがNKVDの要員によって誘拐・殺害(1937年6月20日)されている。

当時ソ連の衛星国だったモンゴル人民共和国トゥヴァ人民共和国では、貴族やチベット仏教僧を始めとする反体制派への大規模な迫害や、「日本帝国主義のスパイ」に対する摘発が行われた。

日本人の被害者・「日本のスパイ」

日本人からは、ソ連亡命中の共産主義者を中心に10-20名前後が粛清されたと見られる。日本共産党員の伊藤政之助(1936年11月逮捕、1937年銃殺)や 山本懸蔵(1937年11月逮捕、1939年3月銃殺)、杉本良吉(演出家、女優岡田嘉子の愛人。1938年1月逮捕、1939年銃殺)などがいる。

ドイツ共産党員でソ連に移住した元東京帝大医学部助教授の国崎定洞も1937年8月逮捕、同年12月銃殺された。

「日本のスパイ」の容疑で逮捕・処刑された者もいる。東アジア言語を専門とする言語学者ニコライ・ネフスキーは、「日本のスパイ」の容疑でNKVDに逮捕され、日本人の妻である萬谷磯子と1937年に処刑された。中国学者ユリアン・シチュツキーも同容疑で1938年2月に処刑された。

外国から帰国した元亡命者たちもスパイの烙印を押され、逮捕・処刑された。1937年9月20日、エジョフはNKVD指令書の付属文書の中で、北満鉄道讓渡協定によるハルビンからの帰国者を「日本のスパイ」と決めつけて大量に逮捕するよう指令 (NKVD命令 第593号)を出した[325]。その結果、4万8千人以上が逮捕されてそのうち3万992人が銃殺された[325]。この時の犠牲者にはアナトリー・ヴェデルニコフの父イワン・ヴェデルニコフなどがいる。

逃れた者たち

粛清の手法

「自白」の強要

大粛清での尋問で得られた被告の「自白」は、拷問と多大な精神的圧力によって得られた[330]。 自白を引き出すために用いられた手法は、元スペインOGPU長官のアレクサンドル・オルロフらの証言によって明らかになっている。執拗な殴打、水責め(溺死の擬似体験)、長期間にわたる直立や不眠の強要、そして家族の逮捕や処刑による脅迫などが含まれた。カーメネフの十代の息子も逮捕され、テロリズムの容疑で訴追された。尋問が数ヶ月にわたって続き、被告たちは絶望と疲弊の限界まで追い込まれた[92]

ガスバン (移動式ガス室)の発明

犠牲者は夜間に刑務所、NKVD本部の地下室、あるいは人里離れた場所、森の中などで処刑された。NKVDの将校たちは囚人の頭を拳銃で撃ち抜いた[100][331]

他の実験的な殺害方法も用いられた。モスクワでは、ブトヴォ射撃場への移送中に犠牲者を殺害するために移動式ガス室ガスワゴン (ガスバン)が使用された[332]

1937年の夏にモスクワのNKVDの行政経済部長に就任した[333]ロシア系ユダヤ人のイサイ・ダヴィドヴィチ・ベルクは、同年10月、ブトヴォ射撃場の責任者に任命された[334]。そこでは囚人を円滑に大量処刑する方法を考案しなければならなかった[335]。こうしてベルクは刑務所のバンの後部貨物室に囚人を押し込め、排気ガス導管で送り、囚人を一酸化炭素中毒で殺害するという方法を考案し、1936年以降、NKVDが実際に用いた[336][337]。ベルクは、実験的に囚人をガスで殺害するために、特別に改造した気密性の高いバンを使用した[338]

NKVD幹部ニコライ・ハリトノフの1956年の証言によると、ベルグはガスバン開発を主導していた[334]。ベルクの処刑担当員であったフョードル・チェスノコフの1956年の証言によると、ガスを車内に送り込むためのバルブを備えたトラックが使用され、囚人たちは裸にされ、縛られ、猿ぐつわをはめられた上で車内に押し込められた[334]。ガスバンによる処刑はベルクが処刑を監督していた1937年10月から1938年8月4日まで使用されていたと推定されているが、実態は不明な点が多い[334]

その後、ベルクは1938年8月3日に逮捕され[339]、「NKVD内部における反革命陰謀」を理由に1939年3月3日に処刑された[334]

FSB職員のアレクサンドル・ミハイロフとミハイル・キリリン、歴史家のリディア・ゴロフコワの調査によれば、モスクワ郊外の集団処刑現場での目撃者はこう語った。人を乗せた車が森の中を走り、トラックには最大50人が詰め込まれた。モスクワ市民は長い間、これらの車をドゥシェグブカ(dushegubka 魂殺し)と呼んだ。ベルクはこのガス車の発明者であり、トラックの運転手によると、ガスはトラック内での暴動を防ぐために使用された[340]。囚人たちは現場に到着した時には半死状態で、その後処刑された[340]

ナチスは1940年1月15日にヘルベルト・ランゲの指揮下でヴァルテガウ (ポーランド)でガスバンの運用を開始した[341]。1943年、ハルキウ裁判で、ソ連はこのガスバンの手法をナチスドイツ開発して無実の犠牲者を殺害したと非難した[336]

政治学者エフゲニア・アルバツは、ガスバンはソ連が発明したとしている[342]。キズニーはベルクが発明者としている[334]。スターリン批判以後の調査でソ連がナチスよりも早くガスバンを使用していたことは当事者の官吏や目撃者の証言からも確認できるが、実態はいまだ不明である。歴史家のロバート・ジェラテリーは、ソ連は1930年代のモスクワでガスバン(dushegubka)を使用したが、その規模はさらに調査が必要であると指摘している[343]

西側の反応

古参ボリシェヴィキ指導者たちの裁判は広く公表されたものの、それ以外の何十万人にも及ぶ逮捕や処刑については当時、公表されなかった。その事実は、グラーグ(強制労働収容所)の元収容者数名が国外へ脱出し、自らの体験を語り始めて初めて、西側諸国に知られるようになった[344]

ソ連に派遣された西側の特派員たちは粛清について報じることができず、多くの西側諸国、特にフランスでは、目撃者を沈黙させたり、その信憑性を失墜させたりしようとする動きが見られた[345]。哲学者ジャン=ポール・サルトルは、フランスのプロレタリアートが意気消沈しないよう、強制収容所に関する証拠は無視されるべきだと述べた[345]。しかし、その後、一連の法的手続きの中で元強制労働収容所への収容者たちの証言の正当性を裏付ける決定的な証拠が提示されている[346]

1937年9月フランスに亡命し、その後アメリカに移ったソ連の諜報官ウォルター・クリヴィツキーによれば、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、ポーランド、ブルガリア、中国の共産主義者たちがスターリンによる「トロツキスト、ファシストの狂犬、破壊工作員」の粛清を支持したことは、スターリンにとって非常に重要であったと1939年に証言した[347][92]。クリヴィツキーは1941年に遺体で発見された。→#逃亡者・亡命者の粛清

コンクエストは1968年の著書『大テロル――スターリンの1930年代の粛清』の中で、ソ連共産党による告発や証拠が虚偽であるという実態について、意図せず、あるいは意図的に知ろうとしなかった西側の知識人たちがいたと記している。その中には、『ニューヨーク・タイムズ』紙の ウォルター・デュランティや、駐ソ米国大使ジョセフ・E・デイヴィス、『ソビエト・コミュニズム――新しい文明』の著者シドニー・ウェッブとベアトリス夫妻らが含まれていた[348]

世界各地の共産党はソ連の方針を伝達するだけだったが、最も批判的な報道の一部は左派からなされた。特にイギリスの新聞『マンチェスター・ガーディアン』紙に寄稿した数多くの社会主義者や共産主義者による批判が顕著であった[349]

アメリカ人ジャーナリスト H. R・ニッカーボッカーは1941年に処刑を「大粛清」と呼び、4年間にわたって党全体、軍指導者、インテリ、技術者、管理者、監督者、科学者の上位層にどのような影響を与えたかを報道した。ニッカーボッカーはクラーク撲滅運動で控えめに見積もっても約500万人が…一度に、あるいは数年以内に死亡したと書いている[350]

1956年のフルシチョフ秘密演説による暴露は、西側の共産党に甚大な影響を及ぼした。アメリカ共産党機関紙『デイリー・ワーカー』は、ニューヨーク・タイムズに倣い、演説の全文を掲載した[351]

ルーズベルトとジョセフ・E・デイヴィス

フランクリン・ルーズベルト政権にはソ連の工作員が浸透していた。イグナセ・レイスをスイスで殺害したロッシことプラヴディンはアメリカでソ連工作員を監督していたことが明らかになっており、工作員にはルーズベルト政権の財務次官補ハリー・ホワイト、同政権経済顧問ロークリン・カリーアメリカ合衆国司法省職員ジュディス・コプロンなどが含まれる[352]

フランクリン・ルーズベルト米大統領から駐ロシア大使に任命されたジョセフ・E・デイヴィスは、1938年の第3回モスクワ裁判に出席し、ブハーリンら被告人の有罪を確信し[353]、有罪判決を正当化する「疑いの余地のない証拠」があり[348]、クレムリンによる粛清は十分に正当であったと報告している[354]。デイビスは、共産主義が「自由な人々のキリスト教世界を守っている」とさえ主張し、すべてのキリスト教徒は「その信仰の名において」ソビエト連邦を受け入れ抱擁するべきだと主張した[355]

デイビスは、1941年12月に体験記『モスクワへの密使』を発表し[356]、1943年にはワーナー・ブラザース・ピクチャーズによって映画化された(監督マイケル・カーティス)。これはハリウッド初の親ソ映画としてルーズベルト大統領許可のもと製作され、ルーズベルトとデイビスは映画製作中会談を繰り返している[357]。この映画では、ウォルター・ヒューストンがデイビス役を演じ、「ソ連の指導者ほど歪曲され、誤解されている指導者はない」という台詞にはじまり、ソ連を好意的に描いた。この映画では、モスクワ裁判の被告たちは有罪者とされ、粛清は、「第五列(国内の破壊工作員)」を国内から排除しようとする正当な対応として描かれた[358]。モスクワ裁判だけでなく、ヒトラー・スターリン条約、ソ連によるフィンランド侵攻(冬戦争)さえも正当化し、ソ連を民主主義的なモデルと国際主義を志向する国家として描いた[353]。デイビスはポツダム会談にも参加している。

この映画の親ソ連的なトーンは公開当時から批判された。ジョン・デューイは「大衆消費社会のための全体主義的プロパガンダ」「歪曲、欠落、あるいは事実の純粋な捏造によって歴史を捏造するプロパガンダ」と評した[359]共和党全国委員会は「ニューディール・プロパガンダ」と呼んだ。プロデューサーの ロバート・バックナーはこの映画は「政治的目的の都合の良い嘘」であり、デイビスはルーズベルトに洗脳されていたと証言している[360]。他方、プロデューサーハーマン・シュムリンは「連合国間の理解と友情のための手段」と擁護した。

戦後、アメリカで赤狩りマッカーシズムが興隆すると、この映画は連邦議会議員らから親ソ的なプロパガンダとみなされ審査対象となった。デイヴィスは1947年に下院非米活動委員会へ書簡を提出したものの、同作における自身の役割については沈黙を貫いた[361]。連邦議会で、ワーナー・ブラザース社長ジャック・L・ワーナーは、この映画は、ルーズベルト大統領とデイヴィスの依頼で製作されたと主張した[361]。この事実は、デイヴィスの書簡によっても裏付けられている[361]。ワーナーは次のように証言した[362]

この映画は、ロシアを連合国として迎え、我が国が存亡をかけて戦っていた時期に製作されたものです。『エア・フォース』(反日プロパガンダ映画)や『これが軍隊だ』、その他数多くの作品と同様、戦時下における特定の目的を果たすために作られたのです。もし1942年に『モスクワへの密使』を製作することが「破壊活動」にあたるならば、同盟国ロシアへ食料や武器を運んだリバティ船や、それらを護衛した米海軍の艦船も同様に破壊活動を行ったことになります。この映画は、あくまで切迫した戦局を支援するために作られたもので、後世に残すことを意図したものではありませんでした。

なお、ワーナーは後に、ハリー・ワーナーが最初に『モスクワへの使節』を読み、その後著者のデイヴィスに連絡を取って映画化権について話し合ったと修正している[361]

米国下院非米活動委員会は、ハリウッドが制作した親ソ連映画として『北極星』(1943年)、『ロシアの歌』(1944年)に並ぶ映画とした[363]。後にこの映画はハリウッドにおける共産主義プロパガンダ映画[364]、「アメリカのマスメディアがこれまでに提供した中で最も露骨な親スターリンのプロパガンダ映画」として位置づけられている[365]

イギリス共産党・労働党

イギリスにおけるスターリン主義者、ソ連の代弁者たちはこの裁判を擁護し、正当化した[92]

1936年8月の第1次モスクワ裁判に関しては、起訴状が公表されるとイギリス共産党の機関紙デイリーワーカー(以下DW紙)8月17日号では、「被告らがナチスと結びついていたことを示す証拠は極悪非道である」と被告らの有罪を認めた。スターリン政権の主張を即座に、かつ全面的に支持するこうしたイギリス共産党の態度は、その後も続いた。[92]。8月22日号では「国際労働者階級の指導者たちを冷酷に殺害するという、この陰謀の規模と組織性は、世界の労働運動および社会主義運動に衝撃を与えた」と主張した[92]。しかし西側ではスターリンを全面的に支持する各国の共産党をのぞけば、この裁判はソ連の評判を落とし、右翼勢力を利する結果を招いた[92]。国際労働組合連盟がソ連当局に対し、被告人の弁護を外国人弁護士に任せるよう求めると、8月24日付DW紙は「シトリン、裏切り者に加担」で非難した。中道左派オブザーバー紙も「この裁判が演出されたものであり、告発内容がでっち上げであったと考えるのは無意味である。」とした[92]

スペイン情勢に及ぼす影響についても即座に解釈が打ち出され始めた。1936年8月25日付DW紙は「扇動的な『左翼』スローガンを掲げてスペイン共和派を裏切ろうとしている工作員を抱えるトロツキーこそ、反革命の急先鋒である」と断言し、翌日にはJ.R.キャンベルがジノヴィエフをフランコになぞらえた[92]。 それと並行して、ボリシェヴィキ党と十月革命の歴史を書き換える試みも開始された。8月28日付DW紙でラルフ・フォックスは、ロシア革命におけるトロツキーは偉大な将軍ではなかったし、常に卑劣な裏切り者であったと論じた[366][92]

イギリス共産党の冊子『モスクワ裁判』は、こうした中傷キャンペーンをさらに推し進め、「トロツキーは組織者として無能だった、そしてトロツキー主義者は警察のスパイであると論じ、ソ連当局を擁護した[367][92]

労働党デニス・プリットは、1936年8月の裁判をめぐるプロパガンダにおいて、W.P.コーツ英露議会委員会書記が発行した報告書『モスクワ裁判、1936年』の序文を執筆した。この報告書では、被告の一人であるホルツマンの証言のうち、実在しないホテルでの会合に言及した部分が削除されていた。この部分は、「台本」上の失言として取り沙汰された[92]。プリットは次のように記している。「いずれ、告発は真実であり、自白は正確であり、訴追は公正に行われたと理解されるだろう」[92]。プリットはまた、自著『ジノヴィエフ裁判』でもスターリンを擁護した[92]。1940年、プリットはソビエトのフィンランド侵攻を擁護したとして労働党から除名された。1954年に国際スターリン平和賞を受賞した。

1936年9月、共産党で学生の政治教育を担当したジャック・コーエンは、1933年にトロツキーが『ヴェルトビューネ』誌の記事で「党指導者を排除する』ためのテロ行為」を呼びかけたと主張した[368]。しかし、この文章でトロツキーは労働者による官僚制改革について語っていた[92]。トロツキーは『キーロフ暗殺事件』(1935年)でテロリズムを「裏返った官僚主義」として無益で有害だと非難していた[92]

1936年9月4日付のDW紙でウォルター・ホームズは、「我がイギリス共産党員の誰もが、被告たちが銃殺されるべきだとわかるだけの分別を持っている。」と語り、1936年9月5日付のニュー・ステイツマン誌でソビエト連邦友の会のパット・スローンは「モスクワ裁判のどこが説得力に欠けるのか私には分からない」と書いた[92]。9月12日付同誌でダグラス・ガーマンは「もし彼らが無実なら、なぜ自白したのか?」と問いかけた[92]。映画監督アイヴァー・モンタギューは、「肉体的拷問であろうと精神的拷問であろうと、偽証と引き換えに恩赦を約束することであろうと、自白とは無関係である」と、自白が拷問などで強制されているという主張を一笑に付した[92]

コミンテルン英国代表のR・ペイジ・アーノットは1936年10月号のレイバー・マンスリー誌で、トロツキー主義がファシズムの補助機関であることが明らかになったとし、独立労働党はトロツキー主義者=ファシストの手に落ちる危険があると書いた[92]。アーノットは、党中央に潜入していたファシスト工作員からなる第五列を掃討しているとするソビエト政府の主張を支持し[369][370]、モスクワ裁判を批判したウェールズ労働党のエムリス・ヒューズや『マンチェスター・ガーディアン』紙を非難した[371][372]

パット・スローンは1936年10月のロシア・トゥデイ誌で、自白について新たな説明をした。「被告たちは名声欲から、大勢の聴衆の前で話す機会を拒まなかった。」と述べ、12月の「コントロヴァーシー」誌では、「ソ連政府は、ヒトラーの工作員の活動に関するあらゆる証拠を全世界に公表するつもりはない。」「ところで、コペンハーゲンにブリストルホテルがないというのは本当だろうか?否定しているのはノルウェーの新聞だけだ。」と語った[92]


1937年1月に第二回モスクワ裁判が始まると、イギリス共産党によるスターリンの大粛清を正当化する姿勢はさらに鮮明になった。1月25日付のDW紙は、『ヘラルド』紙はスパイや暗殺者やトロツキストを擁護しており、「労働者階級の敵」であり、ファシズムを助長していると批判し、「全世界の社会主義に打撃を与える連中と戦うことは労働者階級の義務である」と主張[92]

アーノットはDW紙の特派員として2度目のモスクワ裁判を傍聴し、被告に加えられた唯一の圧力は「事実による圧力」であったと読者に請け合った(1937年1月27日付DW紙)[92]

1937年1月29日同紙は、裁判に関する独立調査を求めた『ニュー・リーダー』紙を「敵の思う壺にはまっている」と攻撃した[92]

1937年1月30日・31日に開催された共産主義青年同盟の演説で、ジョン・ゴランは『メンシェヴィキからファシズム反革命との同盟に至るトロツキズムの展開』というソ連作成の資料を根拠に、赤軍建設を主導したのはトロツキーではなくスターリンであったこと、トロツキーが(スターリンによって救済されたはずの)「農民大衆を犠牲にして」工業化を推進することを主張していたと説いた。ゴランは「真のボリシェヴィキの古参党員」として、スターリン支持者のヤン・ルズターク(1938年6月29日 処刑)、アンドレイ・ブブノフ(1938年8月1日処刑)、ヴラス・チュバーリ(1939年2月26日処刑)、コシオール、ポスティシェフを挙げたが、彼らは皆その直後に粛清された[92]

イギリス共産党書記長ハリー・ポリットR.P.ダットは、1937年に冊子『トロツキズムの真実』[373]を刊行し、労働運動でファシストの侵入入口となっているトロツキー派は粉砕しなければならず、「モスクワ裁判で提示された証拠は、通常の意味での自白ではなく、英国の法廷で供述調書に署名されるのと同様の形式で署名された陳述である」と主張した[92]。また、「真の古参党員」にエジョフの名を加えた。エジョフは1936年9月にヤゴーダが失脚後にNKVD長官に突然抜擢されるまで無名だった[92]。1938年にスターリンが編纂し出版された「ボリシェヴィキ全連邦共産党史略」でもエジョフの経歴は誇張された。エジョフ処刑後、この文言は同書から削除された。

『デイリー・ワーカー』(DW)紙は2月1日号で「この裁判の極めて公正な手続き、被告人の圧倒的な有罪性、判決の正当性は疑う余地がない」と述べ、裁判に対して懐疑的な態度をとる『デイリー・ヘラルド』紙に対し抗議。また、同号でイギリス共産党中央委員会は、ソ連の指針を英国においても精力的に実践しなければならないと声明をだした[92]

アンドリュー・ロススタインはDW2月5日で「犯罪者たちは当然の判決を受けた」と述べ、2月9日にはトロツキーは「悪質で、公然の、そして依然として危険な犯罪者」と罵倒した[92]

弁護士ダドリー・コラードは『ソビエト司法とラデク裁判』(1937年)で「ソ連の裁判所は寛大だった」と論じ、「1935年12月にドイツからノルウェーへ飛行機が飛来しなかったというオスロ空港の声明は、事実だとは信じがたい」と主張した[92]。これは、オスロ空港が1935年12月に外国の飛行機は着陸しなかったと発表した声明であるが、これはトロツキーを訪ねる途中でオスロに着陸したというピャタコフの告白と矛盾するもので、モスクワ裁判を批判するトロツキー派からの反論で用いられていた[92]。 イギリス共産党の創設者の一人であるウィリアム・ギャラハーは3月19日付の『デイリー・ワーカー』(DW)紙でコラードの著書について「ここには、世界で最も進歩的かつ人道的な、ソビエトの法制度の真の姿が描かれている……本書を読めば、まともな人間ならトロツキーやその追随者、その著作とは二度と関わりを持たないと決意するはずだ」と推薦した[92]

第一次モスクワ裁判の不審点について、DW紙は2月26日号で コペンハーゲンのグランド・ホテルの見取り図を掲載し、「カフェ・ブリストル」へこのホテル経由で入ることが可能だったと主張したが、ホルツマンがどうやってそのカフェに「宿泊」したのかという点は説明されなかった[92]

アーノットは、『レイバー・マンスリー』誌3月号の「トロツキスト裁判」と題した記事の中で、裁判を批判した『フォワード』紙のエムリス・ヒューズを「中産階級の俗物」とこき下ろし、『マンチェスター・ガーディアン』紙に対しては猛烈な攻撃を浴びせた[92][374]

『ガーディアン』紙は、第二次裁判に続いて、「ポーランドの共産主義者たちが、スターリン主義的な迫害によって甚大な犠牲を強いられた」と報道した[92]。実際にはこの時期、ポーランド共産党の指導部のほぼ全員がNKVDによって粛清され、党自体も解散させられていた[92]。。当時、アーノットは「『スターリン主義的な迫害』など存在しない……かつてトロツキストたちは、自分たちのへの非難は反ユダヤ主義の表れだと不満を漏らしていたが、今や、彼らの犯罪に対する非難は『ポーランドの処女への暴行』として描かれそうだ」と語った[92]

「アドバンス」誌3月号には、スターリン主義青年運動の指導者テッド・ウィリスによる「我々にも破壊者がいる!」という記事が掲載され、「青年連盟の中に潜入しているトロツキストをを労働運動から叩き出せ!」と主張した[92]

当時、イギリスで影響力のあるスターリン主義者だったジョン・ストラッチーは、「モスクワ裁判に不信を抱く合理的な根拠など存在しなかったことは明らかである。「もし彼らが無実だったのなら、なぜ自白したのか?」という単純な問いに対する答えは存在しないのだ。」と語った[92]

ソ連共産党中央委員会の2月~3月総会での演説でスターリンは、ソ連が発展すればするほど階級闘争が激化し、治安維持活動の必要性が高まると主張したが、これはDWで全文が公表された。第2回ソ連との平和と友好のための全国大会では、プリットが「ソ連には、事件が迅速に処理されるための非常に詳細な刑事手続き規則がある」と説明した[92]。4月、アイヴァー・モンタギューは、トロツキーがナチスとの戦争でソ連の敗北を予言したと主張したことを示すためにトロツキーの著作『裏切られた革命』から引用したが、トロツキーは「will」ではなく「would」と書いており、次の段落でドイツが敗北する可能性が高いと述べていた[92]。モンタギューはトロツキーを「ハースト社のスター記者」と評したが、実際には、トロツキーはハースト社の編集者との面会さえ拒否しており、彼らがトロツキーの名前で掲載した記事はすべて、他の新聞から転載されたものだった[92]

5月27日付の「挑戦」の中で、Gollanゴランは「青年運動からトロツキスト分子を一掃することが絶対的に必要である」と主張した[92]

ジッドとフランス共産党

西側の知識人の多くがソ連の不都合な面を無視したり、デマでありだとして否定するなか、作家アンドレ・ジッドは1936年11月に紀行『ソヴィエト旅行記』および1937年6月の続編で、モスクワ裁判にも触れつつ、スターリン政権による弾圧を批判した。

ジッドは共産党員ではなかったが、ソ連を公に支持すると度々発言していた。一方で、トロツキーの左翼反対派であるために共産党を除名されていたピエール・ナヴィルを通じてジッドは、スターリン政権の弾圧の情報を受け取っていった[375]。1935年6月パリで共産主義者の主導によって開催された文化防衛国際作家会議において、ジッドはマルローとともに共同議長を務めた[375]。トロツキーを支持したためにフランス共産党から除名されたマドレーヌ・パズ、および、同じくベルギー共産党から除名されたシャルル・プリニエが発言しようとすると、ソ連側が妨害した[375]。ジッドは二人の発言を許可した[375]。ジッドは会議の翌日、ソ連大使との面談を要求し、 6月29日にはトロツキー派への処罰の緩和を求めた書簡をソ連大使に送った[375]

ジッドは、ソビエト連邦作家同盟の招待を受け、1936年6月17日から8月22日まで、2ヶ月にわたってソ連に滞在した[375]。ジッドは実際のソ連社会の実態を見て、所得格差、上位集団による貴族制、粗悪な商品の流通、スターリンへの個人崇拝の強制など、理想と現実の落差を思い知った。帰国直前の8月19日には第一回モスクワ裁判がはじまった。ジッドは、9月3日の日記に「途方もない、恐ろしいほどの当惑を感じる」と記した[375]。9月5日、彼は「言葉にできないほどの不安」を抱いてモスクワ裁判の記録を読み、「16人の被告人が、かつて命を懸けて打倒しようとした体制や人物を称賛し、ほぼ同じ言葉で自らの罪を認めている――これはいったいどう解釈すべきなのか?」と書き記している[375]。ジッドは同年11月に出版した紀行『ソヴィエト旅行記』で、ソ連では、すべてについて一つ以上の意見があってはならず、意見はあらかじめ決定されていた[376]。人々に何を知るべきか、考えるべきか、信じるべきかを教えてくれるソビエト連邦共産党の新聞「プラウダ」が毎朝、各家庭に届けられており、体制順応主義(コンフォルミズム)は自然で無意識のものになっている[376]。人々は全てに違いが生じないように按配されていて、ジッドは一人のロシア人と話すと、ロシア人全体と話しているような気がすると述べている[376]

ジッドは次のように語っている[377]

(ソ連の)為政者たちが人々に求めているのは、おとなしく受け入れることであり、順応主義である。…ソ連で起きていることのすべてを称賛することである。…最も驚くべきは、それが見事に達成されているということなのだ。しかしその一方で、どんな小さな抗議、どんな小さな批判も重い処罰を受けるかもしれず、それに、たちまち封じ込められてしまう。今日、ほかのどんな国でもーヒトラーのドイツでさえーこのソ連以上に精神が自由でなく、ねじ曲げられ、恐怖に怯え、隷属させられている国はないのではないかと私は思う。[377]

文化も、公正や客観性とは無縁で、批判精神はほぼ完全に欠如しており、ソ連での「自己批判」とは、密告や叱責がとびかうなか、しかるべきラインに収まっているかどうかを問いただすことを意味し、ラインそのものが議論されることはないとジッドは指摘する[378]

ジッドは、約束された 「プロレタリア独裁」とは、プロレタリアたちの独裁でもなければ、ソヴィエト(評議会)の独裁でもなく、一人の男(スターリン)の独裁であり、「騙されてはならない。そしてはっきりと認めなければならない。これは自分たちが望んでいたものではまったくないと。」と述べた[379]。ジッドは、国家のなかで反対派を抹殺することは、テロリズムへの道を開くとし、反対派の意見に耳を傾けることは、大いなる叡智だという[380]。ここではモスクワ裁判やスターリンによるトロツキー派弾圧が念頭に置かれている。

ジッドはソ連およびフランスのスターリン主義者から猛烈な組織的な批判を受け続けた。1936年12月3日のソ連共産党機関誌プラヴダは、同書を反ソビエト勢力に操作されたフランスのプチブルジョアが執筆した『毒』と批判した(『リュマニテ』紙にも転載)[381]。これ以降、フランス共産党フランス・ソビエト友の会フェルナン・グルニエロマン・ロランジャン・ブリュア反ファシズム知識人監視委員会アンドレ・ヴルムセールポール・ニザン、『ユーロープ』編集長ジャン・カスールイ・アラゴンらが1937年春にかけて異口同音の批判を続けた。こうした共産主義者側からの激しい組織的な攻撃は、ソ連の変質を警戒するようになっていたジッドのソ連との決別を早めた[375]

1937年6月、ジッドは、第二次モスクワ裁判に心を砕きながら、『ソヴィエト紀行修正』を刊行し、前著に対する批判に反論した[375]

続編を出版すると、さらにジッドは「ファシスト」になったと非難された。それだけでなく、ジッドに同行していた共産党系日刊紙『ス・ソワール』編集部のルイ・ギユーがジッドを非難しなかったために、編集長アラゴンとジャン=リシャール・ブロックから解雇された[382]

ソビエト紀行の出版は、ジッドと人民戦線派の友人たちとの間に亀裂を生じさせた。そのことは、週刊紙『ヴァンドルディ』との関係によく表れている。ジッドは同紙の創刊当初から寄稿しており、編集員にも多くの友人がいたが、1937年11月、同紙はジッドの反論記事の掲載を拒否した[375]。同紙は前年にニザンによるジッド批判の記事を掲載していた。掲載が拒否されたジッドの記事は、イリヤ・エレンブルグへの反論だった[375]。ジッドはスペイン内戦において、反スターリン派のマルクス主義統一労働者党(POUM)活動家をソ連のNKVDが逮捕したことを抗議していたが、エレンブルグは1937年11月3日付『イズベスチヤ』紙でジッドを批判した[375]。ジッドの記事の掲載を拒否した『ヴァンドルディ』編集部には、人民戦線の神聖なイメージを損なうことへの恐れがあった[375]

1937年5月のバルセロナでの出来事を受けて逮捕されたPOUM(マルクス主義統一労働者党)の活動家たちに対し、ジッドはPOUM支持の運動に加わった[375]。10月下旬には、被告人に対する適正手続きの保障をスペイン共和国政府に求める電報に署名した[375]

ソ連滞在中、ジッドと対話したり、通訳を行った数名は「裏切り者」や「ファシスト」「トロツキスト」の共謀者という烙印を押されて訴追され、銃殺されたり、強制収容所(グラーグ)で死亡したり、自殺に追い込まれていたことが、ソ連崩壊後に公開された公文書によって確認された[383]

分析と評価

大粛清の要因

大粛清の要因として主に指摘されているのはスターリンの絶対的な権力掌握、そしてスターリン自身の猜疑心である。スターリンの側近ラーザリ・カガノーヴィチは、晩年のフェリックス・チュエフとのインタビューにおいて、モスクワ裁判で粛清された古参ボリシェヴィキらがかつてはレーニンと敵対関係にあったことについて言及しており、スターリンは、彼らを生かしておけば彼らに取り囲まれてロベスピエールのように殺されると考えたのだと発言している[384]ブハーリンは、逮捕前に妻に記憶させて焼き捨てた遺書の中で、NKVDはスターリンの病的な猜疑心のいいなりになって下劣極まりない仕事に精を出している、と批判している[要出典]

また、赤軍出身の歴史家ドミトリー・ヴォルコゴーノフ(彼自身も父を大粛清で失っている)は一連の著作の中で、大粛清はレーニン以降のボリシェヴィキ政権が行った赤色テロの最終的な到達点であると主張している(ロマン・ウンゲルンの処刑をレーニンが命じた記録などをヴォルコゴーノフは発見している)。1930年代のドイツにおけるヒトラー政権の誕生や極東における日本帝国主義の台頭などが、スターリンにはソ連に対する包囲網と取れたから[385]、という解釈を含めても行き過ぎた粛清であったのである。

一方で、スターリンは大粛清の嚆矢となったキーロフ暗殺の約半年前にナチス・ドイツで発生した粛清事件(長いナイフの夜)に対して、欧米各国とは対照的に肯定的な反応をしており、このことから長いナイフの夜事件がスターリンに反対勢力を徹底的に根絶する決意を固めさせたともいわれる[要出典]

なお、大粛清の目的は、「敵の脅威」を作り出すことで国民を恐れさせ、団結させることにあるという指摘もある[325]

スターリン主義者のヴャチェスラフ・モロトフは、革命後の残敵とファシストの危険を前に、第五列はあってはならなかったのであり、大粛清は必要だったし、正しい政策だったと晩年に語っている[386]

ホロコーストとしての大粛清

大粛清について、ヨルグ・バベロフスキーとアンセルム・デリング=マントイフェルは、(ナチスの)「最終解決」のソビエト版だという[387][103]

ロナルド・サニーは大粛清は「政治的ホロコースト」だという[388][103]

現代のロシア

ソビエト連邦の崩壊後、第二次ウラジーミル・プーチン政権下においては、2014年クリミア危機以降、欧米諸国による経済制裁が強化されたことに対抗する形でソ連時代の「再評価」が進められており、それに伴い大粛清の資料の公開も滞りつつある。例としては、上記のエジョフの機密文書を2014年7月ウクライナ保安庁が機密解除したのに対し、ロシア連邦保安庁は未だに機密扱いしている[325]。さらに、市民団体メモリアル(下記)もロシア外国代理人規制法英語版により「外国のエージェント」の烙印を押されて当局の監視下に置かれ、2021年にロシア連邦最高裁判所により解散を命じられた[389]。メモリアルは、他の組織と共に2022年ノーベル平和賞を受賞した。

ロシアの人権団体メモリアルは、連邦保安庁(旧:KGB)本部前のルビャンカ広場に建立した追悼慰霊碑の前で犠牲者の名前などを読み上げる追悼式典を開いている[390]2017年10月30日には、ロシア連邦政府による初の公式追悼碑「嘆きの壁」がモスクワに設置された。ロシア大統領ウラジーミル・プーチンは「数百万人が亡くなったり、苦しんだりした。この悲劇を忘れないことが、我々の義務だ」と式典で挨拶した[391]。しかし、2022年ロシアのウクライナ侵攻後、大粛清を含むスターリンへの批判は事実上タブーと化している。

一方で、「こうした弾圧措置は道義的また倫理的には問題があったとはいえ、そのおかげでロシア・ソ連の近代化が成功した」として、この時期のスターリンの行動を肯定・正当化しようとする論者も存在している[392]。その根拠は、スターリンの時代を矛盾の時代だと定義することから出発している。すなわち、ソビエト成立時の産業構造は農業主体であったが、本来であれば数十年をかけて工業化を進めるところを、農民を犠牲にした強制的な資本蓄積を図ることで産業構造の近代化を成功させた、というのである。また、大粛清によって排除された高級将校は現代戦の知識に疎く、大粛清の後にはゲオルギー・ジューコフイワン・コーネフのようにそれを補う有能な若手将校が現れたと主張されることもある。

しかし、一般には、赤軍が熟練将校や指揮官の大半を失ったことが冬戦争独ソ戦(特に初期)での甚大な損害を招いたとされている。トゥハチェフスキーのような先進的戦略家らも犠牲になる一方で、冬戦争や独ソ戦における失態から無能との悪評高いクリメント・ヴォロシーロフ騎兵を過大評価し戦車を軽視するセミョーン・ブジョーンヌイらが粛清を免れたことから、「現代戦の知識」よりも「党への忠誠」が重視された大粛清であった。

議論

トゥハチェフスキー粛清の謎

トゥハチェフスキー元帥

「赤軍の至宝」「赤いナポレオン」と謳われる内乱時代の英雄で、その後も赤軍の機械化・近代化とその運用のための縦深作戦理論の確立に指導的役割を果たしていたミハイル・トゥハチェフスキー元帥の処刑は世界に衝撃を与えた。

トゥハチェフスキーとスターリンのそもそもの確執は、対ポーランド戦争に遡るといわれる。この戦争でトゥハチェフスキー軍はワルシャワを包囲したが、スターリンが政治委員を務めるエゴロフ軍はワルシャワ包囲の増援を送らなかったため、陥落させられなかった。当時のスターリンは、トゥハチェフスキーの華々しい連勝に嫉妬し、自分も戦勝将軍としてどこかの都市に華々しく入城したいと考えていたとの説がある。だが、レーニンはこれに激怒し、直ちにスターリンの革命軍事会議議員の地位を剥奪した。これによって大恥をかかされたスターリンは、トゥハチェフスキーを逆恨みするようになったという。これが真実であれば、トゥハチェフスキーの存在感はスターリンの自尊心を傷つけるものであったろうことは想像に難くない。また一説によると実際に1937年の春から夏ころにかけてトゥハチェフスキーを国家元首にかついでスターリンを追放しようという陰謀が正統派コミュニスト・党官僚・軍人らの間であったという(クルボーク事件)[393]

ナチス・ドイツ情報部SD司令官ラインハルト・ハイドリヒも、独ソ戦があった場合に最大の強敵になるであろう名将トゥハチェフスキーを抹殺する絶好の好機を逃さなかった。「ドイツ軍とトゥハチェフスキーが接触した」という偽造文書を作成し、親ソのチェコスロヴァキア大統領ベネシュを通じてモスクワのスターリンへ届くよう工作したとされる。一方で、トゥハチェフスキー粛清の口実が欲しかったスターリン側が、ドイツに対しそういう行動に出るよう仕向けたともいわれ、真相は定かではない。

いずれにせよ、「ナチスのスパイ」として逮捕されたトゥハチェフスキーは、NKVDの取調官から調書に血の跡が残るほど激しい拷問を受けて、スパイであることを自白せざるをえなかった。裁判ではゲシュタポの偽造した文書が証拠として採用され、有罪の判決を受けたトゥハチェフスキーは1937年6月12日に銃殺された。トゥハチェフスキーの妻ニーナも「共犯」として逮捕され強制収容所へ送られた後に1941年10月になって銃殺された。トゥハチェフスキーの12歳の末娘は自殺している。

中国共産党、カンボジア共産党への影響

中国共産党による大粛清

康生

この時期にモスクワを訪問していた中国共産党のメンバーの一人に康生がいた。彼は中国共産党中央コミンテルン駐在代表団団長となった王明に従って4年ほど滞在したが、彼はこの間にNKVDによる容疑者への逮捕・拷問・処刑などを身近に体験したといわれる。また、自身も王明などの指示の下、中国共産党ソ連留学生をトロツキストとして攻撃し、彼等の迫害に関与した。1937年11月に帰国した後に延安に移り、翌1938年には共産党中央社会部長、情報部長となり、以後党内の「スパイ」摘発工作で辣腕を振るう。1942年から1943年頃には毛沢東劉少奇の下で「整風運動」と称された粛清の実行に当たった。毛沢東は康生に託してスターリンのテロルモデルを再現した[394]。康生は、緊急措置をとり、拷問による自白を証拠として、多くの党員をスパイ、裏切り者、内通者として赤色テロルを行った。これら一連の行為により、康生は「中国のジェルジンスキー、(あるいは)ベリヤ」と呼ばれるようになる。中国共産党内の粛清を指揮した康生は、カンボジアポル・ポトクメール・ルージュにも粛清の重要性について助言した[395]。康生は文化大革命中に死去するが、その悪行により、党から死後に除名された。

カンボジア共産党 (クメール・ルージュ)による大粛清

ポル・ポトクメール・ルージュによって、1975年から1979年までに飢餓、病気、過労、拷問、処刑でカンボジアの人口800万人のうち170万人から[396]300万人が虐殺された[397]

カンボジア共産党幹部の一人であるカン・ケク・イウ (ドッチ)民主カンプチアの政治犯収容所S21Aの所長を務め、大量粛清を行った。ドッチは2010年のカンボジア特別法廷で12,272人あるいは14,000人以上の男性、女性、子供の拷問と殺害を命じたとして、人道に対する罪、拷問、殺人罪で懲役35年の判決を受け、2012年に最高刑の終身刑が確定した[398][399]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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