鄭慶姫
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1928年(昭和3年)、日本統治下の朝鮮慶尚北道に生まれた[1]。朝鮮共産党の党員として活動中に官憲により逮捕され、ソウルの西大門刑務所で服役した[1]。1950年に勃発した朝鮮戦争のさなかに朝鮮人民軍によって解放され、北朝鮮に渡った[1]。その後、工作員を養成する金剛政治学院(のちの金正日政治軍事大学)で教育を受けた[1][注釈 2]。
諸外国はもとより、韓国(大韓民国)の情報筋でさえその素性をほとんど把握できていない彼女であったが、北朝鮮の工作員のあいだでは「英雄」「伝説的な女性スパイ」として知られており、金正日政治軍事大学の出身者で彼女のことを知らない者はいないほどであった[1]。同大学の副学長だった申ドヒョンは、学生に対し、彼女が韓国に潜入工作を行った際、老人女性に見せかけるため自分の歯を全て抜いたというエピソードをしばしば語った[1]。申ドヒョンは、1960年代末頃、韓国潜入中に大けがを負った彼女を救出する経験を有していた[1]。
たたき上げの工作員であった彼女は出世し、連絡部(現在の朝鮮労働党対外連絡部)の課長となった[1]。1975年、対南事業を統括する党の担当書記であった金仲麟が工作資金を浪費し、虚偽報告をおこなったとして担当書記を解任され、金正日自身が対南担当書記を兼務した[5]。金仲麟は傘下団体の「南朝鮮研究所」に左遷された[5]。工作部門の人事権を一挙に把握した金正日は、金仲麟の後任に「伝説の女スパイ」鄭慶姫を抜擢した[1]。同時に、調査部(現在の朝鮮労働党対外情報調査部)の部長には李完基(本名は李昌善)が起用された[1]。
1977年から1978年にかけて、日本では当時13歳だった横田めぐみをはじめ田口八重子、曽我ひとみが失踪し、新潟・福井・鹿児島の各県でアベック失踪事件が起こっており、これらはのちに北朝鮮による拉致事件であることが判明するが、同じ頃、平壌では金正日が側近たちと思い切り飲みふざけるプライベートなパーティーを毎週金曜日にひらいていた[6]。この輪のなかに連絡部長の鄭慶姫の姿もあった[6][注釈 3]。

1978年1月にイギリス領香港で拉致され、北朝鮮に連行されていた韓国の女優崔銀姫は、連れて来られた酒宴の席で、金正日に鄭慶姫を紹介されて彼女と対面する[6]。銀姫はソウルで「鄭慶姫」という女性スパイが登場する実話にもとづく演劇を観たことがあったため、心が揺れ動いたという[6]。彼女の印象を崔銀姫は「チマ・チョゴリをまとい眼鏡をかけていたが、スレンダーできれいな顔だった。年は40代後半だっただろうか」と振り返っている[6]。そして、「お会いできてうれしい」と挨拶した銀姫に対し、鄭慶姫は銀姫の手を軽く握り、「よくいらしてくれました。革命のために努力しましょう」と返した[6]。銀姫が振り返るには、彼女は口調はきわめて柔和であるものの、女性ならではの鋭い触覚でもって全神経で自身を観察していると感じたという[6]。彼女は工作員出身らしく、立て続けに酒を一気飲みしたりはしたものの、決して最後まで乱れることがなかったという[6]。
崔銀姫拉致の半年前の1977年7月には白建宇・尹静姫夫妻の拉致未遂事件があった[7]。白建宇は著名なピアニスト、尹静姫は美人女優として知られていた[7]。新婚生活をパリで送っていた夫妻は、仲人役の夫人から「チューリッヒの大富豪が老父母のための音楽会に招きたがっている」と誘われて生後5か月の娘を連れてチューリッヒに赴いたところ、招待者の老父母はユーゴスラビア社会主義連邦共和国のザグレブにいると言われてザグレブに移るよう促された[7]。白が不審に思ってアメリカ合衆国の公館に逃げ込んだことで、この拉致計画は未遂に終わるが、ウィーンの北朝鮮大使館には拉致計画を指揮するため、連絡部長だった鄭慶姫が詰めていた[7][注釈 4]。
1970年代終わりになると秘密パーティーの規模は拡大し、出席する側近幹部だけで20人を超えたが、鄭慶姫の姿がいつもあった[8]。金正日や呉振宇、金永南、延亨黙といった面々とともに中央のヘッドテーブルに陣取り、「老処女(オールドミス)」とからかわれながらも、冗談を言ったり、酒をがぶ飲みしたりして場を盛り上げた[8]。
連絡部が社会文化部に名称変更してからは、鄭慶姫に代わって調査部の李昌善が部長を務めた[9]。鄭慶姫は1980年代になると政治の表舞台からは姿を消している。