キム・ミョンスク
From Wikipedia, the free encyclopedia
キム・ミョンスク | |
|---|---|
![]() | |
| 国籍 |
|
| 職業 | 朝鮮労働党対外情報調査部工作員 |
キム・ミョンスクは、朝鮮労働党対外情報調査部所属の女性工作員(スパイ)。1978年(昭和53年)8月12日に起こった北朝鮮による「母娘拉致容疑事案」の実行犯のひとり。また、曽我ひとみ、および1977年11月に拉致された横田めぐみの監視役兼教育係を一時務めていた可能性がある[1]。
被害者による証言
被害者のひとりである曽我ひとみは2002年(平成14年)10月15日、24年ぶりに祖国日本への帰国を果たした[3][4]。帰国後、彼女は拉致事件とその実行犯たちについて振り返り、以下のような証言を行った。
1978年(昭和53年)8月12日土曜日、准看護師だった曽我ひとみは午前の診察を終えて夕方に帰宅し、仕事を終えて家に帰った母と少し話した後、午後7時頃に自宅から400メートルくらい離れた雑貨屋まで一緒に買い物に行った[3][4][5][6][7]。母のミヨシは盆前の準備で忙しく、自身は前掛け姿のまま、台所には水に浸したままの赤飯用のもち米を置いたまま買い物に出た[4][6]。店で盆に仏前の供えるものやアイスクリームなどの買い物をすませて、自宅に帰ろうと歩いていると、後方で何人かの足音が聞こえた[3][4]。振り向くと男が横に3人並んで後をついて来るのがわかった[3][4]。2, 3分してもまだついてくるので、気味が悪くなって「急ごう」と2人で話して少し足早に歩こうとした[4][8]。道路沿いの大きな木のある家のところまで来たとき、突然、背後から男たちが襲いかかってきて母と娘を植え込みのなかに引きずり込んだ[3][4][8]。自宅まで数十メートルないし100メートルというところだった[7][9]。ひとみは声を出せないよう口をふさがれ、手足を縛られ、南京袋のような袋に詰められ、1人の男に担ぎ上げられた[3][4][8][10][注釈 1]。それ以来、ひとみは母のすがたを一度も見ておらず、母の声も二度と聴いていない[8][9]。袋に入れられて担がれた曽我ひとみは、川まで連れていかれ、木製と思われる小さな舟に乗せられて川から海へ出て、沖に出てから少し大きな船に乗り換えさせられた[3][7][8][10]。ひとみは船内でたどたどしい日本語を話す女(キム・ミョンスク)の声を聞いている[7][10]。それは、佐渡弁ではなく、日本語母語話者の話す日本語とは思われず、曽我ひとみ本人に向けられたものでもなかった[8]。翌13日の午後5時頃、船から降りた[3]。後から考えると、そこは北朝鮮の咸鏡北道清津市であった[3]。翌14日の朝キム・ミョンスクらは、朝食の後、ひとみを海岸まで連れていき、「アサリを探してもよい」と言った[9][注釈 2]。
拉致実行犯は4人組で、そのうち1人はたどたどしい日本語を話す女工作員、通称「キム・ミョンスク」であり、彼女が作戦責任者とみられる[8][10][12][注釈 3]。拉致実行の少し前から佐渡に潜伏していたという報道もあったが、詳細は不詳である[8]。3人の戦闘員と日本語のできる1人の工作員4人のチームという編成は、蓮池薫、地村保志ら「アベック失踪事件」と称された拉致事件のケースと共通している[8]。キム・ミョンスクが船内で日本語を話した相手として北朝鮮戦闘工作員は考えられないので、曽我ミヨシだったのではないかと推測される[8]。一緒に拉致された母ミヨシの行方はひとみにもわからず、彼女が日本に帰国するまで母はてっきり日本にいるものと思っていた[14]。北朝鮮では「母は日本で元気にしている」「朝鮮語を覚えたら日本に帰してやる」と言われていたという[8][10]。このように、連れ合いと切り離して管理する方法は、他の拉致被害者とも共通している[8]。なお、4人の拉致実行犯は曽我ひとみを連れてそのまま4人で北朝鮮まで行っているところから、北朝鮮当局が主張する「現地請負業者」なるものは実在しないものと考えられる[8][注釈 4]。
曽我ひとみは、清津からは途中知らない場所で一泊したのち列車で移動し、平壌市についたのは8月15日の早朝であった[10]。そこから平壌近郊の招待所に連れていかれた[10]。拉致されて10日ほど経った日、別の招待所に引っ越しさせられたが、そこには横田めぐみがいた[10]。曽我ひとみが北朝鮮に入国して以後の約4か月間、キム・ミョンスクは彼女の監視役であり、身の回りの世話もしていた[8][10][15]。生活費は支給されていたが、買い物は不自由で、どうしても必要なものがある場合はキム・ミョンスクに申し出て、送迎の手配が付けばようやく買い物ができる状態であった[15]。買い物も監視付きであった[15]。横田めぐみと同居するようになってからも、日常生活に特段変化はなかったが、買い物に出かけるのが、1人のときよりもずっと楽しみになったという[15]。なお、拉致されてきて最初のころ、曽我ひとみと横田めぐみの北朝鮮での教育係は、原敕晁拉致実行犯の辛光洙であった[16]。
