高大基
From Wikipedia, the free encyclopedia
人物情報・失踪事件
1927年(昭和2年)9月5日愛媛県西宇和郡生まれ[1]。九州大学、大阪外国語大学ロシア語学科を卒業[1]。
朝鮮総連傘下の朝鮮問題研究所では「資料室長」の肩書をもっていたが、同研究所が発行する機関誌『月刊朝鮮資料』に研究論文を書いたことはなかった[2]。高は軍事の専門家で、大韓民国の軍事情報を含む韓国情勢の書籍を管理しており、『月刊朝鮮資料』には巻末の「日記」の部分に軍事問題の短い記事を執筆するのみであった[2]。
高大基は同僚たちにとって謎の多い人物で、「予科練上がり」という噂があった[2]。太平洋戦争末期には大日本帝国海軍の航空兵養成課程にいて、特攻作戦での死も覚悟していたとささやかれていた[2]。周囲の高大基評は「愛想がなく、とっつきにくい男」というもので、「いつも遅れて出勤する。不機嫌そうに座っていて、突然出かけて帰ってこない。在日朝鮮人社会は本国と同じ規律社会だが、上司は高に何も言わない」ともいわれていた[2]。
高大基は、朝鮮総連の幹部で第一副議長を務めた金炳植の腹心の部下であった[1]。高が、工作員として金炳植から受けた最初の赴任地が北海道だったといわれている[1]。その時期は不明で、場所は十勝総合振興局管内という説とオホーツク海沿岸という説がある[1]。元同僚によれば、「北海道で自衛隊の人と接触していると聞いたことがありました。当時は在日朝鮮人で自衛隊と接触できる人などいなかった。若い頃にかかわりのあった、旧日本軍の関係者との人脈が続いていたのではないでしょうか」とのことである[2]。
高が北海道に出張を続けるなか、1961年(昭和36年)、網走支庁管内(当時)紋別市のスナックバーで、そこで働く釧路市生まれの渡辺秀子と出会う[2]。秀子は高大基よりも14歳年下で、当時20歳であった[2]。高が秀子に一目ぼれし、交際が始まった[2]。1967年(昭和42年)3月1日、2人は結婚し、当初は東京都中野区に住み、埼玉県入間郡を経て同県上福岡市(現、ふじみ野市)に転居した[1]。同年4月10日長女の敬美、1970年(昭和45年)6月29日には長男の剛が生まれた[1]。
当時の在日朝鮮人社会は民族主義が全体を支配し、高大基のような朝鮮総連の幹部、しかも金炳植の側近が、スナック勤務の日本人女性と結婚するということはきわめて異例のことであった[2]。朝鮮総連幹部でロシア人女性と結婚し、別れさせられた者もいたほどだという[2]。しかし、高の場合は特別に許された[2]。特殊任務をカモフラージュするために家族が必要だという名目で許されたのではないかと推測されている[2]。渡辺秀子は高大基が北朝鮮の工作員であることを知らずに結婚したともいわれているが[1][3]、高をよく知る人物の証言によれば、高は秀子に自分が工作員であることを打ち明けたという[2]。ただし、勤務先の朝鮮問題研究所では、高大基は自分に家族があることを秘密にしていたという[2]。
1971年(昭和46年)6月、金炳植は東京都品川区西五反田に貿易会社、ユニバース・トレイディングを設立した[5][2]。設立には、高大基もかかわり、彼は「専務」と呼ばれていた[1]。ユニバース・トレイディングの社員は約30名おり、主として貴金属の輸出の業務にあたっていた[2]。しかし、その実態は北朝鮮工作機関のフロント企業であり、社員のうち10名は北朝鮮の工作員であった[2]。日本の公安警察の捜査員によれば、「表向きは貿易業務だったが、目的は在日米軍の情報収集などの秘密工作や資金調達、海外の工作員との連絡だった。貿易会社は金も稼げるし、海外に出張しても自然だ。ちょうど良い偽装だった」[2]。社員には、よど号グループの妻の親族もいたという[5]。
1972年(昭和47年)、金炳植が本国に召還されて失脚すると、高大基がユニバース・トレイディング社を引き継いだ[2]。朝鮮問題研究所所長であった彼は、同時に、朝鮮大学校を卒業した朝鮮総連の専従活動家を構成員とする武闘工作部隊、「別働隊」(通称「ふくろう部隊」)の訓練隊長でもあった[2][注釈 1]。「別働隊」は朝鮮総連とは直接関係をもたず、本国の朝鮮労働党統一戦線部ラインの部隊であるところから付けられた名称で、作戦の指揮・命令は本国から直接発せられた[7]。「ふくろう部隊」の呼称は正式名称ではなく、夜陰にまぎれて尾行や襲撃を行ったことに由来するものである[2]。隊員たちは、フルコンタクト空手の師範代に格闘技術を教え込まれ、1日8時間の訓練を受けた[2]。訓練が始まって1年もたつと、体が二回りも大きくなったといわれている[2]。高大基はある時、隊員再教育のための合宿を山梨県の大菩薩峠で行い、そこでは隊員を逆さ吊りにして、いわば「度胸試し」のようなことも行ったという[2]。
高大基はしかし、1973年(昭和48年)6月、家族には何も告げず、突如、行方をくらました[1][2][3]。本国に召還されたため、密航して帰国したものとみられる[2]。また、その目的は平壌市で幽閉され、査問を受ける金炳植を弁明することだったのではないかといわれている[7]。
妻の渡辺秀子は急にいなくなった夫の行方を捜すため、10月には五反田のユニバーストレーディングを訪れた[1]。そして1973年12月、北海道の両親に「大阪の友人宅にいる」と電話をかけたのを最後に、行方がわからなくなってしまった[1]。ユニバース・トレイディング社が北朝鮮工作機関の偽装会社であることが発覚するのを恐れて親子3人を監禁したものと思われる[3]。それを指揮したのが、ユニバース・トレイディングの設立当初からの取締役で、高大基より「別働隊」を引き継いだとみられる洪寿恵(ホン・スヘ)こと木下陽子である[7]。渡辺秀子については、殺害されたという証言もあるが生存説もある[1]。高大基の幼い2人の子どもは、1974年(昭和49年)6月、洪寿恵(木下陽子)配下の土台人によって福井県小浜市の岡津(おこづ)海岸に連れていかれ、そこで工作船に乗せられて北朝鮮領内に連行された(2児拉致事件)[1][注釈 2]。
高大基の情報は1970年代後半以降音信不通の状態にある[1]。金炳植との関係から政治犯収容所に入れられたのではないかと推測されていた[1]。アムネスティ・インターナショナルが1994年(平成6年)6月に発表した北朝鮮の "political prisoner detention center(政治犯収容所)"に関するレポートでは、1990年(平成2年)に勝湖里強制収容所(黄海北道勝湖郡)に収容されていた政治犯49人の中に、「高大基」の名の人物が含まれていたことが明らかになった[10]。この人物は、備考欄に「元在日朝鮮人」と記されており、年齢から見ても、高敬美・高剛の父親で渡辺秀子の夫である高大基と同一人物である可能性が高い[10]。