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阪堺電鉄

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阪堺電鉄株式会社(はんかいでんてつ)は、かつて大阪府大阪市浪速区の芦原橋停留場から大阪府堺市の浜寺停留場を結ぶ軌道線を経営していた鉄道会社。

略称 新阪堺電車(通称)
本社所在地 大阪府住吉区浜口町443番地1[1]
設立 1923年(大正12年)6月2日[1]
概要 種類, 略称 ...
阪堺電鉄
種類 株式会社
略称 新阪堺電車(通称)
本社所在地 大阪府住吉区浜口町443番地1[1]
設立 1923年(大正12年)6月2日[1]
業種 鉄軌道業[1]
事業内容 旅客鉄道事業、不動産[1]
代表者 社長 西田正俊[1]
資本金 6,000,000円[1]
発行済株式総数 120,000株[1]
主要株主
  • 大阪土地建物 18,200株[1]
  • 大土殖産 10,000株[1]
  • 白山殖産 7,013株[1]
  • 千島土地 5,350株[1]
  • 吉田定七 5,000株[1]
  • 吉田久博 5,000株[1]
特記事項:1942年(昭和17年)9月現在[1]。
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通称 新阪堺電車
現況 廃止
国 日本の旗 日本
所在地 大阪府
概要 阪堺電鉄線, 基本情報 ...
阪堺電鉄線
シンボルマーク
基本情報
通称 新阪堺電車
現況 廃止
国 日本の旗 日本
所在地 大阪府
種類 軌道(路面電車)
路線網 芦原橋 - 浜寺間
起点 芦原橋停留場
終点 浜寺停留場
停留場数 26停留場(1944年3月27日当時)
開業 1927年10月1日
車両基地 三宝車庫
路線諸元
営業キロ 13.77 km [2]
軌間 1,435 mm (標準軌)
複線区間 全線
電化区間 全線
電化方式 直流600 V 架空電車線方式
路線図
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概要

大阪市と堺市を結ぶ鉄道は南海電鉄南海本線・高野線、阪堺電軌阪堺線、JR阪和線、Osaka Metro御堂筋線[注釈 1]が存在するが、かつては大阪湾寄りにもう1本路面電車が走っていた。これが阪堺電鉄で、当時の南海鉄道阪堺線と区別するため、新阪堺電車とも呼ばれていた。

大阪湾臨海部の人口の少ない地域を走るため、開業当初は「芋ほり電車」「魚釣り電車」[3]と呼ばれ[注釈 2]、行楽シーズン以外は乗客の少なさに苦しんだ。1934年(昭和9年)には室戸台風で甚大な被害を受け、日中戦争の勃発以後は沿線の造船所などの軍需工場の増加・拡張に伴って通勤者が急増した[5]。

戦時体制下の1944年(昭和19年)3月に大阪市電気局(後の大阪市交通局)に買収され、会社を解散。路線は大阪市電阪堺線となり、1968年(昭和43年)9月30日の廃止まで電車が運行された。

阪堺電鉄優待乗車券
新阪堺電車「海水浴行割引乗車券」

歴史

前史

敷津浦と呼ばれた南大阪の沿岸は[6]、1704年(宝永元年)の大和川付け替え以降木津川河口部に土砂が溜まり始めた。幕府は治水事業として浚渫を行ったが、その際に町人の民間資金を活用し、残土利用を兼ねて新田開発の許可を行った[7]。

こうして沿岸の浅瀬は江戸中期から明治にかけて埋め立てられ、敷津村(現大阪市西成区北津守・津守・南津守)、津守村(現住之江区のうち、おおむね粉浜・安立・南港を除いた地域)の新田が開発された。主体となったのは主に大阪の豪商で、小作人を集めて地主として農地の経営を行った[7]。塩気の多い土地柄ゆえコメの品質は良くなく、収穫量も少なかったという[8]。

明治維新を迎え、1900年代初頭(明治30年頃)から大阪港の築港や産業革命による工場建設によって大阪沿岸地域の地価が上がりつつあった。新田は地主の会社設立や売却によって土地会社の所有となり、農地を転用するため永小作権が3年や5年の年期を限った契約に改められた[7]。

出願

大正時代初頭、第一次大戦の影響によって日本では土地投機が過熱した[9]。南大阪の沿岸部では木津川土地運河株式会社[10]社長の高倉為三が大阪府西成郡津守村、東成郡敷津村沿線の大地主や土地会社と手を組み、投機を目的とした鉄道建設を計画。1919年(大正8年)8月、高倉為三を筆頭に千島土地の芝川又四郎、河原改栄門、白山殖産の白山善五郎ら29名を発起人として港南電車軌道として軌道敷設を出願した[11]。

第一次大戦終結後の反動不況により出願者と政府ともに建設を保留[12]していたが、1922年(大正11年)7月7日、大阪市南区(現・浪速区)芦原橋町 - 大阪府堺市恵比寿築洲(現・堺市堺区戎島3丁目)間の軌道敷設特許状[13]が下付された。資本金は500万円で、株式10万株のうち半分を木津川土地運河の株主及びその縁故者が引き受ける予定であった[14]。

ところが高倉為三は積善銀行事件により失脚してしまい[15]、他の発起人の協力のもとで設立事務を井上虎治が担当することになった。事務所を東区の芝川商店に置き[16]、会社幹部を大阪土地建物の関係者が占め[17]ている。出資は沿線の地主と土地会社が主要株主として行うことになった[14]。

1923年(大正12年)6月2日、阪堺電鉄と改称した上で会社を設立[18][19]。本社は大阪市西区京町堀に置かれ、井上虎治が初代社長[18]に就任。1925年(大正14年)11月に芦原橋 - 三宝車庫前間の軌道敷設工事に着手[注釈 3]し、1926年(大正15年)7月に大阪土地建物系列の墨江土地を合併[21]。1927年(昭和2年)に開業した。

路線の延長

1927年(昭和2年)10月1日、芦原橋 - 三宝車庫前間約6.4km(4マイル)で開業[22]したのち、1929年(昭和4年)3月に大浜公園に最寄りの北公園停留場まで延伸。さらに1929年(昭和4年)10月に堅川を渡って大浜公園(南公園)や龍神・栄橋遊郭に最寄りの龍神通停留場[23]へと延伸を行った。

堺市内、国道16号上の延伸

堺市内では1931年(昭和6年)、内務省が三宝から湊へ国道16号線(現・国道26号)の建設に着工している。翌1932年(昭和7年)4月にはアスファルト舗装と街路樹を備えた幅員27mの大街路3.187kmが竣工し、軌道敷の予定地となった[24]。

しかし龍神通 - 浜寺間の延伸は、龍神通停留場のすぐ南を南海大浜支線が通っていた関係で、なかなか進まなかった。南海本線を越えた線路は高さ1mの築堤で国道、つまり軌道敷の予定地を分断していたのだ。新阪堺と大浜支線の交差方法を平面とするか立体とするか2社で話がまとまらず、国道建設だけが先行して進んでいた[25]。

1933年(昭和8年)初頭、ようやく平面交差と決まり、5月に大浜線が築堤を削って地上で国道と交差するようになった。こうして阪堺電鉄の延伸工事が始まったが、再び平面交差の運用方法でもめ、線路が完成したにも関わらずしばらく営業できなかった。湊ノ浜への延伸開業は1934年(昭和9年)7月にずれ込んでいる[25]。

一方、国道16号線は1933年(昭和8年)4月15日に石津川橋が竣工するなど順調に進んだが、国道上を走る阪堺電鉄の浜寺延伸では再び問題が発生した。路線は南海阪堺線同様に浜寺公園の正門を終点として申請されたが、南海電鉄の反対に合い、大阪府を交えて激論が交わされた。その結果、妥協案として浜寺公園に北門を新設し、国道を避けた線路の敷設が決まる[26]。1935年(昭和10年)6月1日に浜寺まで延伸開業し、13.77km[2]の全区間が開通した。

経営

鉄道経営

沿線人口の少なさに加え、並行する南海鉄道本線・高野線・南海軌道線との競争があり、さらに大阪市営バスも1929年(昭和4年)から1935年にかけて西浜町と住吉公園や柴谷町を結ぶ並行路線[注釈 4]の運行を始めるなど、経営は苦難の連続だった[5]。終点の浜寺停留場が浜寺公園の一番北の隅に設置されたことも悪条件の一つであったが、浜寺に延伸することで南海電鉄の定期利用客を奪うという期待自体も甘い見通しにすぎなかった[27]。

土地経営

土地会社の出資という会社設立の経緯もあって、電車の運行だけでなく沿線に“経営地”を設けて宅地開発を行った。この経営地は松屋経営地33,000坪と合併した墨江土地が所有していた墨江経営地42,000坪で、軌道線の営業を補った[17]。鉄道会社単体での収支こそ低迷したが、出資した地主や土地会社は鉄道によって所有する地所の利便性が向上し、発展したことで大きな利益を得ることになった[14]。

本社の移転

本社は1929年(昭和4年)に大阪市西区京町堀から西成区津守十三間堀(現在の西成区北津守付近)に移転していたが、1937年(昭和12年)3月に「墨江経営地」住吉区浜口町443番地の1[28](現在の住之江区西加賀屋4丁目)に再び移転した。

社長の不在による混乱

1929年(昭和4年)に初代社長の井上虎治が没した後、社長に就任した宮崎高四も1932年(昭和7年)に逝去[29]し、会社は役員間の合議によって運営されていた。しかし、1933年(昭和8年)に龍神通 - 浜寺間の延伸工事に必要な60万円の資金調達で役員と株主の間で意見が分かれ、経営を二分する騒動が発生した。会社はこの時点で60数万円の負債を抱えており、10月末までに着工しなければ軌道の敷設権が消滅するという期限が迫る中での出来事だった[30]。

工事費の調達を議題とした6月20日の重役会議では、払込が未完了の株主から出資金を徴収しようと考える役員と、株主をバックに更に借金政策を進めようととする役員の間で意見が分かれた。借金を訴える役員から臨時株主総会の開催が通知され、株金払込を主張する役員が裁判所に3万円の保証金を積んで中止するという泥仕合が発生した[30]。

この事件に対し、大阪毎日新聞は電鉄会社間のライバル関係と、その裏側に潜む政界の大物の存在を匂わせる報道を行った[30]。同時期、工事自体も南海大浜線との交差方法を巡って紛糾し、10月28日には社外から三代目社長として白川朋吉を招聘[31]して延伸工事を進めることになった。

世間の評価

1934年(昭和9年)、室戸台風の直前に発行された投資家向けの書物では「貨客の輸送よりむしろ沿道の住宅工場等の土地経営に重きを置いているかに見える」「一般株主は不要のものであるとさえ言われている」と紹介された[9]。また、買収を進めた大阪府知事や大阪市は「当局者中電鉄経営上其人を得なかった」「業績甚だ振わず、したがって経営に熱意なく、内容極めて不健全」と厳しく評価[注釈 5]している[27]。

室戸台風による被害

最大の打撃になったのが1934年(昭和9年)9月21日の室戸台風による被災で、強風および大和川の堤防決壊と高潮によって大きな被害を受けた。三宝付近では軌道が枕木ごと約200mほど東の内陸側に押し流され、三宝車庫は車庫、工場、社宅、運輸出張所などの建物を流失、電車5両が転覆[32]するなど著しく破損した。営業車22両のうち、被害を受けなかったのは起点の芦原橋に近い区間にあった2両だけで、大半が浸水によって走行不能になった[33]。(詳しくは阪堺電鉄 § 車両を参照)

変電所も高潮に浸かって使用できなくなり、復旧時には南海電鉄から高野線との交差部分で臨時に受電を行っている[34]。

大浜付近では国道16号線(現・国道26号)上に漁船が何隻も打ち上げられた。その際、電車線の鉄柱に衝突して3本が曲がり、ほかにも木製の電車線柱85本と配電柱15本が倒壊や流出によって失われた[35]。

阪堺電鉄は台風被害によって9月21日午前8時から23日午後6時まで全面的に運休し、午後6時から2両の電車で芦原橋 - 鶴見橋間の運転を再開した。以後、復旧により徐々に運転区間を延伸し、10月16日に全区間の運転を再開した[36]。

損害額は三宝地域だけで11万8000円(軌道4万円、車両3万円、電線路1万円、建造物2.8万円、運輸営業損1万円)にのぼり[37]、復旧工事には前年度旅客収入の54%に相当する8万4860円[要出典](2000年代の価値に換算して約1億1230万円)もの多額の費用を要した。

戦時体制下の発展

1935年(昭和10年)頃から墨江経営地が工場用地として開発され始め、徐々に工場通勤者の輸送が増えつつあった[38]。1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発すると、沿線にある造船所や軍需工場が活気付き、そこで働く労働者の増加によって、旅客輸送量も1年に約10万人というハイペースで急増した。それまでは、夏の潮干狩りや海水浴シーズンのみ賑わう路線であったが、通勤路線へと変化したことで1941年(昭和16年)上期にようやく無配当の状況を脱する事ができた。とはいえ、この年3分の配当額は付属車両7両を売却して捻出したものだった[38]。

業績こそ好転したものの、保有車両の少なさから輸送力が追い付かず、車両の酷使による車両故障が相次いだ。乗務員の戦地への招集も重なり、車両の運転本数は日を追う毎に減少した。1940年(昭和15年)1月に17.5両あった運転車両は2年後の1942年(昭和17年)末には13.3両まで落ち込み、この頃から大阪市電同様[39]に女子車掌を起用している。台風の後に南海から買い入れた中古の木造車が著しく老朽化したまま使われていたことも不興を買い[38]、朝夕のラッシュ時の混雑は軍需工場の稼働率にも影響を与えていくほどであった。

大阪市による買収

大和川以北の沿線地域は、港南電車軌道として計画された時点では郡部(東成郡・西成郡)の埋立地だった。しかし、1925年(大正14年)の第二次市域拡張で大阪市に組み込まれ、住吉区の一部と新設の西成区になっている[40]。1933年(昭和8年)、大阪市議会議長であった白川朋吉が社長に就任[41]し、買収との関係が取り沙汰された[9]。

大阪市内を走る私鉄の路面電車は、後年市営モンロー主義と呼ばれる当局の交通統制方針と相いれず、1935年(昭和10年)頃から他の私鉄路面電車とともに大阪市電への統合が課題に挙がっていた[42][43]。1938年(昭和13年)に陸上交通事業調整法が制定されると交通統制を旗印として大阪市による合併交渉が具体化している[17]。

戦時体制下での混雑と稼働率の低下は社会問題に発展し、1943年(昭和18年)1月19日に大阪府警察部長名義で「輸送力増強対策要綱」が通牒として下された。この通牒では(1)車両の修理促進 (2)大阪市電の電車7両の借り入れ (3)芦原橋に臨時引込線を設け[27]、 住吉川までの区間を増発 (4)乗務員の確保 (5)粗暴な運転や車両損傷の防止 (6)工員輸送のため天津橋 - 北加賀屋間への臨時停車 (7)以上実施のための計画立案 が命じられた[44]。それに対して電鉄側は故障車5両の修理を済ませ、大阪市電気局(現在の大阪市交通局)から二軸単車5両を借り入れたものの、根本的な解決には至らなかった[27]。

警察の通牒から間もない1月29日に府知事から鉄道大臣に対して大阪市による買収を妥当とする上申が行われ[45]、また、3月から5月にかけて大阪市電気局長から鉄道省に対して「阪堺買収並びに之に伴う新線計画」が提出されるなど監督官庁が動き始めることになった[46]。

こうして警察と軌道事業を管轄する内務省、及び運輸通信省、並びに阪堺電鉄阪堺線が走っていた府道を管理する大阪府は、混雑解消のために大阪市が阪堺電鉄を買収し、大阪市電に編入する事が望ましいという形で足並みが揃った。府は大阪市に対して合併を半ば強制的に勧奨した。

1944年(昭和19年)、大阪市は議会にて“阪堺電鉄株式会社の買収”に関する議案の可決を経て、軌道法第17条「公共團體ニ於テ公益上ノ必要ニ因り軌道ノ全部又ハ一部及其ノ附属物件ヲ買収セシムルトキハ軌道経営者ハ之ヲ拒ムコトヲ得ス」[注釈 6]の規定を発動するに至り、3月27日に、大阪市に633万円[46][注釈 7]で買収された。軌道事業は、1944年(昭和19年)4月1日に大阪市営化され、同時に利用者の少ない[47]湊ノ浜 - 浜寺間2,521mを不要不急線として廃止。レール等の資材は大阪市電の新線建設(大阪住道線、森小路大和川線)に転用された[48]。他の区間は1968年(昭和43年)9月30日の廃止まで大阪市電阪堺線、通称三宝線として存続した。また、兼業であった宅地開発業についても、同様に大阪市へ引き継がれた[49]。

廃止後

大阪市電阪堺線の廃止を念頭に1966年(昭和41年)大阪環状線に芦原橋駅が新設された。また、代替路線として1972年(昭和47年)11月に地下鉄四つ橋線が玉出駅から住之江公園駅まで延伸している。

年表

  • 1925年(大正14年)
    • 4月1日 : 大阪市第二次市域拡張。西成郡津守村は新設された西成区の一部となり、東成郡敷津村が住吉区に編入される[40]。
    • 11月 : 芦原橋 - 三宝車庫前間の軌道敷設工事を着工。
  • 1926年(大正15年)7月15日 : 阪堺電鉄、墨江土地を合併[52]。
  • 1927年(昭和2年)10月1日 : 芦原橋 - 三宝車庫前間が開業し、旅客営業を開始[50]。
  • 1928年(昭和3年)
    • 7月16日 : 軌道特許状下付(堺市吾妻橋通三丁目一番地-泉北郡浜寺町内堺都市計画三宝寺線ト浜寺公園船尾線トノ交差点付近)[53]。
    • (不明) - 三宝車庫前 - 浜寺間の軌道敷設工事を着工。
  • 1929年(昭和4年)
    • 本社を大阪府大阪市西成区津守十三間堀に移転。
    • 4月3日 : 三宝車庫前 - 北公園間の延伸開業[50]。
    • 10月17日 : 北公園前 - 龍神通間の延伸開業[50]。
  • 1932年(昭和7年)5月18日 : 社長の宮崎高四が41歳で早逝[29]。
  • 1934年(昭和9年)
  • 1935年(昭和10年)6月1日 : 湊ノ浜 - 浜寺間の延伸開業により、全線開業[50]。
  • 1938年(昭和13年) : 本社を大阪府大阪市住吉区浜口町(今の住之江区西加賀屋四丁目)に再び移転。
  • 1940年(昭和15年)頃 : 初の株主配当を実施。
  • 1943年(昭和18年) : 大阪府警本部から「輸送業務改善命令」を受ける。
  • 1944年(昭和19年)3月27日 : 大阪市に買収され、軌道線を含む全事業を大阪市に譲渡し[54]、会社を解散。引継ぎと同時に秦ノ浜 - 浜寺間を廃止。12月より線路撤去工事が始まり、1945年3月末に完了[55]。

建設

この鉄道は沿線の地主や土地会社の出資によって設立されており、芦原橋 - 三宝車庫間の工事にあたっては線路・道路敷地および土木工事費のほぼ全てが寄付によって賄われた[14]。設立当初は大阪市電との相互乗り入れが期待され、大半の区間が大阪市の都市計画区域内であったため、軌道の全線が幅約22m(12間)の道路併用軌道で建設が行われた。道幅こそ広いが、軌道敷は未舗装で、砂埃を立てて電車が走った[56][57]。

事業計画では軌道の最急勾配を40‰(1/25)、曲線最小半径を25.75m(85尺)に設定し、街路の中央に軌道を敷設するとした。軌道敷の敷石は大阪市内区間だけに花崗岩のものを施し、市外域では砂利交じりの土を突き固めただけの地道とした。架線柱は大阪市内を側柱吊線式、堺市内を中央電柱式(センターポール)の鉄柱とし、その他の区間では木製の中央電柱式が予定された[57]。

開業時には住吉区北加賀屋町[注釈 8]に敷津変電所が設けられ[58]、宇治川電気より受電を行った[59]。保線区は現在の「きのみむすび保育園」の付近に設けられていた[要出典]。

大阪市による買収では13.914kmの軌道と高野線跨線橋ほか4橋梁、敷津・石津川の2変電所が移管された[60]。

出願時の第二線計画

1919年(大正8)年の港南電車軌道としての出願では、芦原橋から堺市への路線に追加して海側にも線路を敷設し循環線とする計画であった。この路線は、津守村西島から分岐して北加賀屋、柴谷を経由、敷津村南加賀屋で接続するもので、総工費350万円で延長6,810m(3,750間)幅員18m(10間)の道路を建設して軌道敷設を行うものだった[11]。

沿線概況

住之江橋の架け替えまで残っていた阪堺電鉄の架線柱

軌道は大阪市と堺市を結ぶ鉄道線、及び軌道線の中で最も大阪湾側に敷設された。大阪寄りの木津川沿いは工業地帯で、開業時点で津森に大日本紡績、浅野セメント、北加賀屋には藤永田造船所敷津工場が操業していた[61]。

1920年代から30年代にかけて大阪の工業地帯を活写した詩人の小野十三郎は阪堺電鉄の沿線を次のように描写した[62]。

市電の芦原橋から新阪堺に乗つてゆくと、北加賀屋、住吉川あたりでは、電車は殆ど両側に一軒の人家もない広漠とした葦原のまん中を走り、はるか海の方に浅野セメント、宇治電、藤永田造船等の煙突やクレーンの林が見ふるが、大阪の周辺の工業地帯の風景として、私はこのあたりの風景が一番好きである。

— 小野十三郎、都会の葦原

沿線には住之江公園が位置し、松屋の電鉄直営農園[49]では芋掘りが楽しめた。また、堺の海岸は臨海工業地帯として開発される前であり、行楽シーズンには魚釣り(大和川・出島)、潮干狩り(三宝浜・大浜)、海水浴(大浜、出島)を楽しむ乗客で賑わった[63]。また、1940年(昭和15年)には住之江公園の隣接地に護国神社が創建されて参詣にも利用された[63]。

路線は、現在のJR芦原橋駅の南方から西浜南通(現在の大阪府道29号大阪臨海線)を南下し、二度クランクして十三間堀川を渡り津守新道に入る[56]。津守で南海高野線(汐見橋線)を築堤と跨線橋で乗り越え、住吉川を渡って住之江公園と大阪護国神社の鳥居を左手に眺めつつ南下し、阪堺大橋で大和川を越えて堺市に入る[56][64] 。北公園前交差点で国道26号と合流し、フェニックス通り(国道26号)が分岐する大浜北町交差点からは、大阪府道204号堺阪南線(旧国道26号。道なり)に沿って浜寺公園の北側まで南下していた。

車両

二軸の路面電車(四輪単車)6両とボギー車2両で開業した[65][59]。1934年(昭和9年)の時点では22両まで増車が進んだ[66]が、 室戸台風の来襲によって三宝車庫内の複数の車両が脱線、転覆する被害を受け、稼動車を減らすことになった。この被害は朝日新聞の号外で写真入りで大きく取り上げられている[67][68][注釈 9]。

1936年に発行された『堺市風水害誌』によると、台風来襲時に保有していた電車は運転中だった10両のうち8両がモーターまで浸水して運転不能となり5両が既に復旧。車庫に留置していた12両のうち、車体折損を起したボギー車1両と破壊された四輪単車2両は修繕の見込みがなく、他の9両が修理中。貨車1両も復旧作業中と報告されている[66]。

1944年の買収時には31両の営業車が移籍した[69]。以下の車両データは移籍車の情報を元にしており[70]、在籍中に廃車になった車両が含まれていない可能性がある。

四輪単車
  • 1形
開業に際し1927年に大阪鉄工所(1~4)と梅鉢鉄工所(5・6)で製造した半鋼製車。開業時は沿線が人口の少ない田園地帯であったため、路面電車ながら前照灯を屋根の上に取り付けていた。大阪市電への移籍後は731形(731~736)に改番された[71]。
  • 51形
阪神電鉄が北大阪線で使用した四輪単車(501形)6両を1934年(昭和9年)[72]に譲り受け、大阪鉄工所で鋼体化改造したもの。当社では51~56を名乗り、大阪市電への移籍後は781形(781~786)に改番された[73]。
  • 借り入れ車
1943年(昭和18年)1月、戦時増産による通勤輸送の増加に対応するため大阪市電701形(701~705)5両を借り受け、翌年に買収されるまで運用した[70]。
ボギー車
  • 101形
半鋼製車。1927年8月、開業に際して101・102の2両が大阪鉄工所で製造された。車体中央に両開きの扉を備えた三扉車で、中央の戸袋窓はスリガラス入りの優美な楕円窓を備えていた。大阪市電への移籍後は1201形[71]を名乗った。1943年(昭和18年)7月には沿線の軍需工場に対する通勤輸送のため角張った車体の103~106が増備されたが、大阪市電への移籍後は別形式の1301形として扱われた[74]。
  • 111形
1929年6月に増備されたボギー車で、戸袋窓が角形になり屋根が120mm高くなるなど101形とは仕様が異なっている。大阪市電には113~116の3両が移籍し、101形と同じ1201形に組み込まれた[74]。
  • 81形→201形
室戸台風から復興するために南海軌道線1型を7両購入し81~87に改番したもの。老朽化のため、1940年(昭和15年)から1942年にかけて木南車両で車体更新を行い201形として名目を一新した。大阪市電への移籍後は1401形を名乗った[75]。
電動貨車
  • 二軸無蓋貨車

大阪市電の買収時に電動貨車1両が引き継がれた。1927年(昭和2年)に開業にあたって大阪市電から購入した中古車で、引き継ぎ時点で台車が取り外され、運転不能の状態だったという。買収後は58号を名乗った[76]。

データ

停留場一覧

停留場名・市区名は、1944年(昭和19年)3月27日当時のもの。全停留場が大阪府に所在。

さらに見る 停留場名, 駅間キロ ...
停留場名 駅間キロ 営業キロ 接続路線名 道路名 所在地
芦原橋停留場  大阪市電:西道頓堀天王寺線
南海鉄道:高野線(芦原町駅)
新なにわ筋
(大阪府道29号大阪臨海線)
大阪市 浪速区
西浜南通停留場   
十三間堀川停留場   
津守新道停留場    西成区
鶴見橋通停留場  南海鉄道:高野線(津守駅) 
津守神社前停留場   
宝橋通停留場    
天津橋通停留場    
北加賀屋町停留場    住吉区
住吉川停留場   
住ノ江公園停留場   
南加賀屋町停留場    
大和川尻停留場    
松屋停留場   大阪府道29号大阪臨海線 堺市
浅香山通停留場   
三宝車庫前停留場   
北公園前停留場   
竪川橋停留場   国道26号
龍神通停留場  南海鉄道:大浜支線(大浜北町停留場)・南海本線(龍神駅) 
大浜停留場   
出島停留場  南海鉄道:南海本線(湊駅) 
湊ノ浜停留場   
下石津停留場   
石津川橋停留場   
諏訪ノ浜停留場   
浜寺停留場  南海鉄道:阪堺線(海道畑停留場) 
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輸送・収支実績

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年度 輸送人員(人) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円)
1927870,40748,41035,47212,938償却金7,2773,019
19282,133,951113,984103,06910,9153,812
19292,550,984142,421139,6832,738土地家屋28,94131,053
19302,763,606158,329156,8921,437土地家屋52,07141,924
19312,805,996154,279138,64015,639土地家屋16,20326,708
19322,650,632147,472122,86124,611土地家屋5,97827,941
19332,916,978160,081125,05835,023土地家屋1,66327,447
19342,855,987159,723129,47630,247雑損97,726土地家屋4934,661
19353,070,350186,268193,854▲ 7,586土地家屋2,12940,241
19363,335,491192,432228,301▲ 35,869土地家屋42,253雑損143,36334,638
19374,010,688217,916207,83010,086土地家屋29,824売店191償却金11,911雑損3728,153
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  • 鉄道統計資料、鉄道統計各年度版

遺構

JR芦原橋駅西、阪堺電鉄陸橋

阪堺線と大阪市電を繋いでいだ芦原橋連絡線の痕跡がJR大阪環状線の架道橋名として残る。芦原橋停留所から北側に延伸して大阪市電に接続するという開業時からの延長案[16]は、皮肉にも買収後に大阪市によって完成した。工事は戦時中の買収後に始まったが、1946年(昭和21年)4月に芦原橋連絡線(芦原橋北口 - 阪堺線間)213mとして敷石砂張り一部モルタル張りの舗装で竣工し[77]、桜川二丁目 - 大浜北町間で直通運転を行った[63]。ちなみに、阪堺電鉄の営業中には大阪環状線は完成しておらず、JR芦原橋駅を含む区間は電鉄開業後の1928年(昭和3年)に貨物線の大阪臨港線として開通した。

鶴見橋跨線橋

津守付近で新なにわ筋(国道26号)と南海汐見橋線が交差する箇所に、阪堺電鉄が建設したオーバーパスが自動車専用道に転用されて残る。この区間は耐震性の問題などで大型車は通過できず、踏切のある側道に誘導される。なお、新なにわ筋には拡幅工事の計画があり、いずれ撤去される予定である[78]。

架線柱

JR大阪環状線芦原橋駅西側の跨道橋には「架線支持」用の金具が、宝橋通~北加賀屋間には当時の架線柱がまだ現存している[要出典]。また、架け替えられる以前の「住之江橋」(現「住之江大橋」)には、架線柱が1980年代まで現存していた。

建物

「墨江経営地」内にあった木造2階建ての本社は大阪市電の住之江運輸事務所として使われた[79]が、1948年(昭和23年)に三宝車庫に移転[80]。昭和30年代まで独身寮などとして存在しており、市バス「西加賀屋4丁目」バス停から北に行った所に位置していた[要出典]。

関連項目

脚注

参考文献

外部リンク

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