難波恭司
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1984年の全日本ロードレース選手権・ノービス125ccクラスにプライベーターとして参戦、9月の鈴鹿大会で5位に入賞する。1985年は西日本選手権ノービス125ccクラスで好結果を挙げる[1]。同年7月にはノービスレーサーの祭典であり総勢500台以上の参加者がいた[2]鈴鹿4時間耐久レースにヤマハ・FZ400で参戦し、決勝レースで3位表彰台を獲得する[3]。
1986年より国際A級ライセンスへと昇格し、ヤマハの市販レーサーTZ250で国際A級250ccクラスに参戦。この年は参戦台数が多く毎戦70-80台前後が予選に参加していたが、その中で純プライベーターながら決勝レース3度のポイント獲得(決勝15位以内)を果たす。1987年に名古屋を拠点とするヤマハ系有力チームYDS岡部に入ると、特に予選ではトップ10入りの常連となり速さが認知された。同じチームより参戦することになった本間利彦と共にTZ250でホンダ・ヤマハのワークスマシンに食い込む存在として最激戦区・250ccクラスの上位を走り始める。5月の第4戦筑波ではファイナルラップまで本間と激しい3-4位争いを繰り広げるなどA級トップライダーの仲間入りをした[4]。同年は4位を2回獲得しランキング8位となった。YDS岡部監督の岡部敏彦は「難波は走り込むことが大好きなライダーであり、メカニック面にも強い。気迫もある。人の2倍も3倍も走って腕を上げていった。」と述べている[5]。

1987年シーズン後半、ヤマハはこれまでTZ開発に携わってきた奥村裕、田村圭二に加えて難波にも市販レーサーTZ250の開発要員として次期モデルにつながる試作パーツを先行供給し、毎年春に鈴鹿で開催されるようになったWGP開幕戦にノーマルのTZとは各部違う仕様の車体でワイルドカード参戦するなど、実戦に参戦しながらのマシン開発を担当するようになった。以後、全日本選手権にヤマハの250ccクラス主力として参戦を続け、エンジン形式に大きく変更を受けたTZMを開発。その中で1992年第8戦富士ではトラブルでリタイヤした原田哲也、転倒を喫した岡田忠之のチャンピオン争い中の2人が消えた好機を逃さず、青木宣篤、青木拓磨を破りA級初優勝を勝ち取った。
1995年の全日本ロードレース選手権250ccでは、開幕から全戦で上位に入賞し最終戦までシリーズチャンピオン獲得の可能性を残していた。迎えた最終戦・鈴鹿ではスズキ250のエース沼田憲保、ホンダの加藤大治郎、宇川徹とのタイトルを賭けた争いとなった。しかし決勝レースではスタートを決められず中団に飲み込まれてしまい、追い上げ最中でスリップダウンを喫する痛恨の展開となりタイトルには届かなかったが、ランキング3位を獲得した(最終ランクは1位沼田/138p、2位宇川/132p、3位難波/129p、4位宮崎敦/120p、5位加藤/109p)。
1996年から250だけでなくYZR500のマシン開発も担い[6]、同年のTBCビッグロードレースで500ccクラスの実戦に初参戦。同時期には、日本におけるTV放映権を取得したNHK BSのWGP中継解説者として出演する。
1998年、ロードレース世界選手権500cc(現MotoGP)でヤマハワークスのレギュラー契約だったジャン・ミッシェル・バイルの負傷欠場が長引いたため、その代役として計5戦に参戦。鈴鹿での日本GPではマックス・ビアッジに次ぐ予選2位(ヤマハ勢最上位)のタイムを出し、決勝でも5位入賞を記録。WGP500のMotoGP移行(4ストローク化)のためYZR500の最終年となった2002年まで開発を担当した。
その後実戦の機会はしばらく無かったが、プライベーターとして2007年の十勝4時間耐久レース祭にヤマハ・YZF-R1で久々となるレース復帰、同年10月26-27日の富士サタデーロードレース・JSB1000クラスでは予選ポールポジション獲得、決勝2位と変わらぬ腕を披露した[7]。2010年・2011年にもプライベーターとして鈴鹿8時間耐久レースに参戦。
アドバイザーとして2010年代以後もヤマハワークスのレース活動を支え続け、MotoGPが開催される会場のもてぎで設置されるヤマハ・イベントブースでのトークイベント出演をはじめ、実戦でも鈴鹿8時間耐久レースに参戦するヤマハ系チームへのサポートや[8]、全日本選手権に野左根航汰を起用し参戦するYAMALUBE RACING TEAMを監督としてマネージメント。また、ヤマハ主催の「ヤマハ・レーシングアカデミー(YRA)」では、サーキット初心者からレース経験者まで参加するスクールで校長の平忠彦の元、阿部典史、中須賀克行とともに講師・インストラクターとしてオートバイの普及・振興活動に注力した[9]。