オチライ
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モンゴル高原ではオイラトのエセン・ハーンが景泰4年(1453年)に弑逆された後、長らく内紛状態にあった。この頃、有力であったのがハラチンのボライ太師やオンリュートのモーリハイ王らで、モーリハイ王は成化元年(1465年)にはボライ太師を打倒し、モーラン・ハーンを擁立してモンゴル高原最大の実力者となった。しかし斉王ボルナイら、もとはモーリハイ王と同格であった有力諸侯が反発するようになり、成化4年(1468年)末よりモンゴル高原では内戦が勃発した[1]。
これより約1年に渡って明朝にはモンゴル高原情勢の情報が全く届かなくなり、成化5年(1469年)になってようやく報告がなされた。この時の報告によると、「時にボルナイの部落は互いに殺し合い、三つに分かれた。ボルナイの人馬はケルレン河に行き、ハダ・ブハは西北に行き、故モーリハイの子のオチライは西に行き、また小石(オロチュ少師を指す)ならびにトゴチは圪児海の西に駐留し黄河の凍結を待って大同を、トクトア・ボロトは遼東を、それぞれ襲おうとしている」という[2]。ここでは「故モーリハイ」とあることからモーリハイが既に死去し、その勢力が息子のオチライ(火赤児)に受け継がれていることが分かる[3]。
モーリハイの死後、オチライも含めてモンゴル高原の諸勢力を糾合できる有力者が現れず、約10年近くに渡ってハーンの空位時代が続いた。成化11年(1475年)にはようやくベグ・アルスランがマンドゥールン・ハーンを擁立したが、両者はすぐに対立状態に陥った。「北虜考」によると、成化13年(1477年)にベグ・アルスランはマンドゥールンに代わって自らがハーンになろうとしたが、人々が従わないことを恐れて代わりに「オチライ(斡赤来)」を擁立してマンドゥールンを殺そうとした[4]。しかし、これを察知したマンドゥールンがオチライを引き渡すようベグ・アルスランに求めたことが切っ掛けとなって両者の間に抗争が起こったという[5]。さらに明の兵部尚書の余子俊はこのころのモンゴル高原情勢を伝えて、「ボルフ(孛忽)がモーリハイの息子のオチライ(毛里孩男阿扯来)の一党を引き連れて掠奪を行っている」と述べている[6][4]。また、マンドゥールンの没後にはダヤン・ハーン(小王子)が即位したが、成化20年(1484年)に「小王子とオチライ(阿出来)らが近辺で掠奪を行おうとしている」との報告が明朝でなされている[7][4]。
モンゴル年代記の一つ、『シラ・トージ』には様々な王家の系譜が記載されており、その中にはチンギス・カンの異母弟であるベルグテイの系譜も含まれる。その中で、ベルグテイから数えて14世孫にモーリハイ(Mooriqai)の名が挙げられ、さらにその息子はオチライ(Očirai)とされる。これによって、『明実録』などで言及される「火赤児/斡赤来/阿扯来/阿出来」は、オチライ(Očirai)という名前の漢字転写であったことが確認される。また、『シラ・トージ』はオチライの孫をバヤスク・ブイルグト・ノヤン(Bayasqu büirgüt noyan)とするが、この人物は『欽定外藩回部王公表伝』などでアバガ部・アバガナル部の始祖として挙げられる「巴雅思瑚布爾古特」に他ならない。よって、モンゴル年代記上では「オンリュート」の人間とされるモーリハイ王、オチライらは清代以後にアバガ・アバガナル部と呼ばれる集団の始祖でもあったことが分かる。
脚注
- ↑ 和田 1959, pp. 378–379.
- ↑ 『明憲宗実録』成化五年十一月乙未(十五日),「命大同参将都指揮范瑾充游撃将軍、以備延綏等処策応。時孛羅部落自相讐殺、分而為三、孛羅人馬往驢駒、河哈答卜花往西北、故毛里孩子火赤児往西、又小石并脱火赤駐圪児海西、俟河凍、欲寇大同、脱脱孛来寇遼東。……」
- ↑ 和田 1959, p. 384.
- 1 2 3 和田 1959, p. 394.
- ↑ 『吾学編』巻69皇明北虜考,「[成化]十三年、満都魯・癿加思蘭、遣桶哈・阿剌忽千七百五十人、貢馬駝五千。当是時、虜中相猜、癿加思蘭女妻満都魯、欲代満都魯為可汗、恐衆不服己、又欲殺満都魯、而立斡赤来為可汗。満都魯知之、索斡赤来、癿加思蘭匿不与、遂相讐殺」
- ↑ 『皇明経世文編』巻61余粛敏公文集,「処置辺務等事処置辺務。臣会同右都御史王越、並鎮守総兵等官、議得虜酋孛忽始則与阿羅出等、同入河套、侵擾辺方、次則阿羅出勾引癿加思蘭聚衆為患、後阿羅出被癿加思蘭殺散遁去、今孛忽又引毛里孩男阿扯来党衆搶掠。前後四年、雖累被官軍追殺、終不退去、推原其故。……」
- ↑ 『明憲宗実録』成化二十年九月壬子(二十八日),「有自虜中逸帰者云、小王子并阿出来等議欲近辺鈔略。復議鈔寧夏高橋児并涼州等処、遂勅陝西及延綏寧夏甘涼守臣整飭辺防。総督大同宣府軍務戸部尚書余子俊等計、殲残虜時、延綏副総兵陳輝・寧夏参将韓英、領兵至大同、未返命各還本鎮」
参考文献
- 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
- 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
- 谷口昭夫「斉王ボルナイとボルフ・ジノン」『立命館文學(三田村博士古稀記念東洋史論叢)』、1980年
- 森川哲雄『モンゴル年代記』白帝社、2007年
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
- 宝音徳力根Buyandelger「15世紀中葉前的北元可汗世系及政局」『蒙古史研究』第6輯、2000年
- 宝音徳力根Buyandelger「達延汗生卒年・即位年及本名考辨」『内蒙古大学学報(人文社会科学版)』6期、2001年
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