トクトア・ボロト

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トクトア・ボロトモンゴル語: Toqto'a bolod、生没年不詳)は、15世紀後半に活躍した泰寧衛の首領の一人。『明実録』では脱脱孛羅脱脱孛来などと漢字表記される[1]

1440年代、泰寧衛はオイラトエセンの侵攻を受けて打撃を被り、泰寧衛を統べるジョチが死去する事態に陥った。そこでジョチの地位を継承したのが別家系のゲゲン・テムルで、ゲゲン・テムルの息子がトクトア・ボロトである[2][3]1460年(天順4年)5月には初めて「既に亡くなった泰寧衛都督ゲゲン・テムルの息子のトクトア・ボロト(泰寧衛已故都督革干帖木児男脱脱孛羅)」が明朝に使者を派遣し[4]、これを受けてトクトア・ボロトを泰寧衛都督僉事に任じて三衛を管束することを認めた[5][3]。トクトア・ボロトの使者が語る所によると、ゲゲン・テムルが死去した際に弟のウネ・テムルがその地位を継承しようと図ったが三衛の頭目はこれに服従せず、朶顔衛都督のトゥルゲンが後ろ盾となってトクトア・ボロトは地位継承を果たすことができたという[3]

しかし、結局若年のトクトア・ボロトは叔父のウネ・ボロトに対抗できなかったようで、これ以後約20年近くに渡ってウネ・ボロトがウリヤンハイ三衛を束ねる立場の人物として活動し、トクトア・ボロトは朝貢を行った記録ばかりが残されている[6][7][8][9]。この時期、モンゴル高原東部ではチンギス・カンの弟の末裔(東道諸王)が興隆しており、カサル家の斉王ボルナイ、カチウン家の鄭王ドーラン、オッチギン家の遼王ウネ・テムル、ベルグテイ家のモーリハイ王が並び立つ情勢にあった。特に有力であったのがモーリハイ王で、1465年(成化元年)にはモーラン・ハーンを擁立した。しかしボルナイらがこれに反発し、詳細は不明であるが1468年(成化4年)に内戦が行われ、モーリハイは打倒されるも、ボルナイも安定した支配を築くことができなかった。このような経緯を経て、明朝側には1469年(成化5年)11月に「ボルナイの部落が内部分裂を起こして3つに分かれ、ボルナイ自身はケルレン川流域に向い、ハダ・ブハは西北に往き、モーリハイの子のオチライは西に向かった。またオロチュはオルドス方面に駐留して大同を狙い、トクトア・ボロトは遼東に出兵しようとしている」と報告されている[10][11]

上述の内戦の後、モンゴル高原ではハーンが不在となる空位時代になり、トクトア・ボロトについても1471年(成化7年)[12]1472年(成化8年)[13]1473年(成化9年)[14]1474年(成化10年)に朝貢を行った記録があるに過ぎない。なお、1474年(成化10年)時の朝貢ではトクトア・ボロトが過去の例に基づいて下賜品の量を増やしてもらいたいと申し出、認められたとも記録されている[15]

10年近い空位時代を経て、1475年(成化11年)にはマンドゥールン・ハーンが即位し、モンゴル高原の混乱は終息に向かいつつあった。ウネ・テムルは何らかの事情でマンドゥールン・ハーンと対立していたようで、1476年(成化12年)8月から1477年(成化13年)12月にかけての僅か1年半で七回にもわたって朝貢した記録が残っており、 切迫した情勢にあったことが窺える[16]。ウネ・テムルは成化13年を最後に史料上に現れなくなり、一方でトクトア・ボロトは1478年(成化14年)[17]1479年(成化15年)[18]も例年通りの朝貢を行っている。また、1481年(成化17年)に朝貢を行った時には、「番文(モンゴル文字文)」で以て青紅布・紅纓・魚網等のものを下賜するよう要求し、認められている[19][20]

この頃、マンドゥールン・ハーンが死去してダヤン・ハーンが新たに即位しているが、トクトア・ボロトはこれと関わりなく1482年(成化18年)・1483年(成化19年)・1484年(成化20年)に朝貢をおこなっている[21][22][23][24]。ただし、1484年(成化20年)4月にはトクトア・ボロトの弟のシューシテイ(小失台)がダヤン・ハーンとオイラトのケシク・オロクが組んで高原東部への出兵を企図している、と明朝に報告したことが記録されている[25][26]。また、同年11月の朝貢ではウネ・テムルの息子で、トクトア・ボロトから見て従兄弟にあたるサイン・ボロトが同時に使者を派遣している[27][16]

1485年(成化21年)[28][29]1486年(成化22年)[30]にも朝貢を行った後、トクトア・ボロトは史料上で見られなくなり、代わってサイン・ボロトが泰寧衛を代表して朝貢を行うようになる[16]。恐らくは泰寧衛内部で権力交替があり、サイン・ボロトが主導権を握るようになったものとみられる[16]

トクトア・ボロトの後継者については記録が少ないが、後述の通り長男の歹答児(dǎidāér)が地位を継承したようで、その他にも都指揮僉事の納忽剌児(nàhūlàér)・舎人の納木宅(nàmùzhái)・鎮撫の満蛮(mǎnmán)という三人の義子がいたという[31]

子孫

脚注

参考文献

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