キングハイセイコー
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競走成績
明け4歳となった7戦目のニューイヤーカップで前年の全日本3歳優駿優勝馬ヨシマサボーイを圧倒し7連勝を飾った。
その後も無傷の9連勝を飾るも、10戦目の黒潮盃では京浜盃で快速を披露したステートジャガーに逃げ切られ3着に敗れた。キングハイセイコーは初の右回りコースでギコチない動きの上、再三の不利があっての3着であった。
二度目の対決となった南関東三冠初戦・羽田盃では、1番人気こそステートジャガーに譲った[1]が、三番手に付けたキングハイセイコーが逃げたステートジャガーを捕らえて、2馬身半突き放して優勝。続く東京ダービー前に父ハイセイコーにも乗った高橋三郎騎手は「びっくりするほど跳びが大きい。スローモーション。乗っていてスピード感はないんだけど時計は速い。似ているかって?それはやっぱり親子だから」[2]と語り、結果は2着のロツキータイガーに1馬身半の差をつけて快勝した。このダービーは浦和VS大井で大いに盛り上がったという。
この勝利でハイセイコーは産駒が日本ダービー(カツラノハイセイコ)と東京ダービーを制すという快挙を成し遂げた[注 1]。
夏は7月25日のしらさぎ賞[注 2]を圧勝。秋は南関東三冠を目指し9月19日の東京盃から始動したものの東京盃では落馬競走中止、三冠最終戦の東京王冠賞は、急遽主戦からテン乗りの騎手への乗り替わりやスタートでの出遅れなどもあり、ロツキータイガーから2馬身半差の2着に敗れ、三冠はならなかった[3]。次走の地元・浦和のゴールドカップ[注 3]は59.5kgを背負いながらコースレコードで圧勝した[4]が、年末の東京大賞典ではハナを切るも二周向正面で勝ったテツノカチドキにまくられて4着に終わった。東京王冠賞で敗れた際も距離が長かったとの指摘があった[3]が、さらに2ハロン距離が延びた東京大賞典は勝ち馬から約10馬身もの差を付けられる大敗だった。
翌1985年は中央競馬に移籍し、緒戦の安田記念は初めての芝コース[注 4]ということもあり13着と大敗したが、札幌日経賞5着、札幌記念はリキサンパワーの2着(いずれもダートコース)を最後に引退し、種牡馬となった。