ナポレオンと田虫
From Wikipedia, the free encyclopedia
| ナポレオンと田虫 | |
|---|---|
| 作者 | 横光利一 |
| 国 |
|
| 言語 | 日本語 |
| ジャンル | 短編小説 |
| 発表形態 | 雑誌掲載 |
| 初出情報 | |
| 初出 | 『文藝時代』1926年1月号(第3巻第1号) |
| 出版元 | 金星堂 |
| 刊本情報 | |
| 収録 | 『春は馬車に乗つて』 |
| 出版元 | 改造社 |
| 出版年月日 | 1927年1月12日 |
| 装幀 | 中川一政 |
『ナポレオンと田虫』(ナポレオンとたむし)は、横光利一の短編小説。ナポレオンの腹の上で激しい痒みを伴いながら地図のように広がっていく田虫が、彼をロシア遠征にまで掻き立てた原因であったという奇抜な発想の物語で、作品冒頭の新感覚派の文体が印象的な作品となっている[1][2][3]。
この作品にみられる「現実」に対する視点の変換は、3年前の作品『蠅』や『日輪』から引き継がれている構図であり[3]、主体・客体の逆転、因果の連鎖、カメラアイの映画的描写なども共通性があるが[4]、前年の『静かなる羅列』とともに、国家の衰退など世界認識を示す歴史的なものに接近する新たな試みもみられ、新感覚派としての横光の自負や実験精神が込められた作品でもある[5]。
作品背景
※横光利一の作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。
1923年(大正12年)発表の『蠅』や『日輪』によって文壇に認められた横光利一は、関東大震災を経た翌1924年(大正13年)の『頭ならびに腹』で新感覚派の代表格と見なされ、自らも積極的に新感覚派の理論や、それを実践する作品を発表していたが、『ナポレオンと田虫』は、そうした時期に書かれた作品の一つである[8][7]。
作家としての初期の習作『火』(1919年)や『御身』(1921年執筆)などの頃は、志賀直哉のリアリズム文学に影響を受けていた横光だったが[12][13]、新感覚派時代の作品は、志賀を中核とする「大正文学の支配勢力に対する懸命の反抗」的な意味合いもあった[13]。横光が、新感覚派を象徴する同人雑誌『文藝時代』を川端康成とともに刊行する直前には、「われわれは既成文壇を如何に見るか」という『新潮』の特集記事に「絶望を与へたる者」という一文を寄稿していた[14][2]。
その一文で横光は、文壇の大家の田山花袋や正宗白鳥の〈概念的な人生観〉を聞きたくないとし、田山が、新進作家の宇野千代の作品『青い空』(1924年)の登場人物を「作者の意志の
そして、作者が作中人物を「傀儡」(あやつり人形)として操って当然だという主旨で反論し、〈われわれは卿らの握つた真実を否定せんがために傀儡を造る〉と主張して、〈われわれはわれわれの虚偽を真実ならしめんがためかく傀儡師たらんことを欲す〉と宣言していた[14][2][15][16]。
曾て事物の本心を捜らんとしたのが卿らであり、まさに唾棄すべき真相をわれらに向つて投げつけたものは卿らであり、卿らの憂鬱な業跡に一輪の花を咲かしめんと努力するわれわれに対して、なほもその美しき可憐な花園に穢れた足を延ばしめんとするものが卿らであるとしたならば、まさにわれわれの吶喊するべき目標は卿等にある。
願はくば、われわれをして卿等の昨日の糞を食らはしめるな。絶望を与へたるものは卿等である。われわれは人生のごとく絶望を嫌ふ。われわれは卿らの握つた真実を否定せんがために傀儡を造る。われわれの傀儡こそは、どんづまつた卿らからの飛躍である。われわれは虚偽を造る。われわれはわれわれの虚偽を真実ならしめんがためかく傀儡師たらんことを欲す。卿らが故に、敢てわれわれは卿らの認識を否定する。
そうした既成文壇に対する挑戦的な経緯で、『ナポレオンと田虫』を執筆していた横光だったが、その執筆中には結核に罹った妻・小島キミの看病に明け暮れる日々であった[3][17]。キミは1925年(大正14年)6月に発病し1926年(大正15年)6月24日に20歳で亡くなったが[18][19][注釈 2]、この体験を題材にした『春は馬車に乗つて』は、『ナポレオンと田虫』発表後の同年8月に発表されることになる[18][3]。
意志を持たない病原菌の〈田虫〉によって、人の運命が左右されるという主題の『ナポレオンと田虫』の視点設定には、結核菌に冒されてしまった妻・キミの運命という現実も反映しているともみられている[3]。
あらすじ
全6章から成る[22]
※ルイザを新皇后に迎え入れた年と、フリートラントの戦いの年などの順列は、実際の歴史の時系列とは異なっています[23][24]。
1
リュクサンブール宮殿の方向の空に虹がかかっているのが見えるチュイレリー宮殿の観台の上[注釈 3]、ナポレオン・ボナパルトは不意に背後のネー将軍の肩に手をかけ、「お前はヨーロッパを征服する奴は何者だと思う」と訊ねた。
「それは陛下が一番よく御存知でございましょう」とネーが答えるが、「いや、余よりもよく知っている奴がいそうに思う」とナポレオンは謎めいて言った。「何者でございます」とネーが訝ると、ナポレオンはネーの肩を揺すって奇怪に哄笑する。そのグロテスクな哄笑の一端に微かな弱気を感じたネーがもう一度訊ねると、ナポレオンは冗談だったと言わんばかりに「余だ、余だ」と言って歩き出した。
2
その時のナポレオンの奇怪な哄笑を訝ったネー将軍の感覚は正しかった。ナポレオンの腹には直径5寸(約15センチ)ほどの田虫が地図のように繁茂していた。そのことを知っていた身内は、彼の前皇后ジョセフィヌだけであった。
ナポレオンが田虫に罹ったきっかけは、イタリア征伐のロディの戦いの時だった。彼の率いる一兵卒が弾丸に撃たれて倒れた際、すかさずその銃を拾い上げ、自ら先頭に立って敵陣に突入し大勝を収めたその栄光と同時に、その一兵卒の銃からナポレオンの体に田虫が移ったのだった。
以来、激しい痒さの田虫に悩ませられるナポレオンは密かに侍医を呼び、治療として東洋の墨を田虫の輪郭に沿って塗ってもらうが[注釈 4]、ナポレオンの爪がその雄図をひっかけばひっかくほどに田虫はますますその版図を拡張していき、それはあたかもナポレオンの軍馬が破竹の勢いでオーストリアの領土を侵蝕していく地図の姿に相似していた。この時からナポレオンの奇怪な哄笑は深夜の部屋の中で人知れず始められるようになった。
田虫の活動は、温まった深夜の毛布の中で最も強まり、その痒さにナポレオンの爪が強烈な意志をもって田虫に対抗した。田虫は意志を持たないが、ナポレオンの爪に猛烈な征服慾があればあるほど、田虫の戦闘力は紫色を呈して強まった。この誰も知らない田虫との激しい格闘の翌日には、昨晩の田虫に復讐するかのように、ナポレオンは政務の執行力を行使し、異常な果断を猛々しく下すのが常であった。
そうして、彼はイタリア、スペイン、エジプト、オーストリア、デンマークなどを次々と制圧して、フランスの皇帝の座につく。こうした異常な果断のため、フランス国内にも厖大な戦死者が溢れたが、ナポレオンはロシアにも遠征する機会も狙っていた。この蓋世不抜な英気は、ナポレオンの腹の田虫を癒す暇を与えなかった。ますます癌のように彼の腹に根を張っていく奇怪な田虫は、ヨーロッパの領土を攪乱しているかのようだった。
3
オーストリアを征服したナポレオンは、糟糠の妻ジョセフィヌと離婚した後、オーストリアからハプスブルグ家の18歳のマリア・ルイザを新しい皇妃として迎える[注釈 5]。しかし、41歳のナポレオンは、頑癬を持つ自身の平民の肉体と、ルイザの若々しい高貴なハプスブルグ家の肉体とを比べることは淋しかった。貴族出身だった前皇后ジョセフィヌ同様、コルシカの平民の出自のナポレオンはルイザからも圧迫を感じた。その圧迫を押し返すためにも、彼は自身の版図をますますヨーロッパに拡げねばならなかった。
ルイザを皇后に決定する以前、ナポレオンの選定した女はロシア皇帝アレクサンドル1世の妹アンナであったが、ロシアは彼の懇望を拒絶した。ルイザにとっては、ロシアは夫の心を惹きつけた美女アンナのいる国であったが、ナポレオンにとっては、ロシアを征服することでルイザの歓ぶ顔を見たかった。そしてルイザを深く愛すれば愛するほど、自分の腹の醜い頑癬を彼女に知られることを恐れた。
4
1804年、パリの春は深まり、ロシアの大平原の氷も溶けていた。
ある日、ナポレオンは、将軍デクレスら諸将の反対も聞かず[注釈 6]、ロシア遠征を決議させようとした。デクレスは席を蹴り、ネー将軍に向かって、「陛下は気が狂った。陛下は全フランスを殺すであろう。万事終った。ネー将軍よ、さらばである」と言って去った。ナポレオンは忿懣を表わし寝室へ戻るが、このロシア大遠征の計画の裏に、絶えず自分のルイザに対する弱い歓心が潜んでいることを考えた。
夜が更けると、腹の田虫の痒みが襲った。彼の太い10本の指は寝巻を掻むしり、その爪は迅速な速さで腹の頑癬を掻き始める。突然彼は苦痛に耐えかねて、「余はナポレオン・ボナパルトだ。余はナポレオン・ボナパルトだ」と叫んで笑い出し、ベッドから跳ね起き腹を掻きむしりながら、苦悶で大理石の冷たい床を這い回る。
その時ルイザがやって来て、具合が悪そうな夫を心配する。ナポレオンは恐ろしい夢を見たと言ってごまかしベッドに戻るが、ルイザに自分の腹の田虫を隠し通していたことが突然と腹立たしくなり、寝衣の両襟をかき拡げ、汁で爛れた醜い田虫の腹をルイザに見せた。「ルイザ、余と眠れ」とナポレオンが近づくと、ルイザは身をそらせ「陛下、侍医をお呼びいたしましょう」と逃げようとする。
そんなルイザをベッドに引き戻し、「逃げよ。余はコルシカの平民の息子である。余はフランスの貴族を滅ぼした。余は全世界の貴族を滅ぼすであろう。逃げよ。ハプスブルグの女。余は高貴と若さを誇る汝の肉体に、平民の病いを植えつけてやるであろう」とナポレオンは、醜い田虫に怯えて激しく抵抗するルイザを緞帳の中に引きずり込んで犯す。
5
翌日、ナポレオンは多くの反対を押し切ってロシア遠征の決行を発表する。彼は昨晩、ルイザに田虫を見せた失敗を取り戻すかのように敏活だった。ルイザを娶ってから、彼の最も得意とする外征の手腕をまだ一度も彼女に見せたことがなかった。
ロシアへの遠征はこれまでにないほどの大規模な作戦で、フランス領各地から軍隊を集めた。ナポレオンはルイザと共にドレスデンにまで出かけ、ルイザの父のオーストリア皇帝や、その他同盟国の最高君主が一団となって2人を出迎えた。そしてナポレオンは彼の大軍をフリードランドの大原野に進軍させる[注釈 7]
6
ナポレオンの腹の田虫も今や版図は径六寸(18センチ)以上に拡っていた。田虫の軍団は、彼の軍団さながらに、脂の漲った細毛の森林の中を食い破って行った。朝日が昇ったフリードランドの平原では、ナポレオンの主力軍がニエメン河を横断してロシアの陣営へ向っていった。
しかし、今や彼の軍隊は連戦連勝の栄光の頂点で、彼らが過去に殺戮した血色のために気が狂っていた。ナポレオンは河岸の丘の上から、それら軍兵を眺めていた。数十万の栗毛の馬で埋め尽くされた平原は狂人たちを載せてうねりながら、黒い地平線を造って、潮のように敗北・没落へと溢れて行った。
作品評価・研究
※横光利一の作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。
新感覚派時代の『ナポレオンと田虫』を巡っては、〈田虫〉が何を象徴しているのか、何を意味するものなのか、という言及がなされてきた研究歴があり、その象徴に、作家・表現者・芸術家としての横光自身の内在性を看取するものや、当時の時代的な視点からの外在的なものを考察しているものなどがある[3]。
なお、本作を単体として独立的に論じたものは比較的少なく、その理由としては、奇抜な発想や登場人物の傀儡化が悪目立ちし、作品自体としての深みに欠ける点が挙げられているが、1980年代以降は、ある程度の分量で独立的に言及する論も見られるようになった[8]。
同時代評価
同時代評としては、4年後の『機械』(1930年)にいたる過程の側面から内在的に考察した井上良雄や、外在的に人間喪失時代の作品として位置づけた片岡良一などの先行評がある[3][8]。
井上良雄は、かつて横光が書いた〈後には鬼がゐるに定つてゐるのだ〉という言葉から[注釈 8]、横光の歩みは、この「宿命の鬼」との「惨しい悪戦苦闘」に他ならなかったとして、〈鬼〉(宿命)に「凄愴な戦」を挑んで来た横光が、その戦いから学んだのは「身構へること」「気取ること」であり、それを止めることは死ぬのと等しく、その意味で横光は「ダンディーの道徳の必死の信者」だったとしている[31][32][3]。
そして井上は、〈田虫〉という「宿命」に抗いながら闘うナポレオンの姿に、表現者としての横光自身の「宿命」を重ね、「宿命の鬼」に挑むための芸術家としての泰然たる〈気取り[33]〉から[注釈 9]、のちに発表される『機械』(1930年)で描かれた「宿命」に敗北した姿こそが横光の諦観への「転向」であるとし、『機械』の作品意義を「負けて了つたものほど、この世で強いものはないのだ」と説明しつつ、横光の作家としての転機であった成功作『機械』に至るまでの「没落の一歩手前」だった『ナポレオンと田虫』や『静かなる羅列』(1925年)などの新感覚派時代の作品動向を考察した[31][32][3]。
われわれは眼の前の敵になら、どんな戦いでも挑むことが出来る。露西亜も英吉利も、ナポレオンにとつては物の数でもないのだ。然し腹の上の田虫に対しては――われわれの後ろに立つてゐる眼に見えぬ宿命の鬼に対しては最早われわれは何をすることが出来るのだらう。(中略)
然しここに一つの転向が来た。横光は「鳥」を書き、「機械」を書いた。(中略)
暗夜の襲撃に、きりきりと身を巻ながら敵を狙ふ一本の魚雷――それは「静かなる羅列」を書き、「ナポレオンと田虫」を書いた過去の横光の姿だらう。然し現在の横光は――(中略)
負けて了つたものほど、この世で強いものはなのだ。われわれの後に立つてゐる鬼に勝つには、この鬼に負けて了ふことを措いて他にはないのだ。(中略)諦めて了つた人間の表情ほど、この世で男々らしいものはありはしない。死と諦観と――これこそ今や横光が、没落の一歩手前で学んだ最高の智慧である。 — 井上良雄「横光利一の転向」[31][32]
なお、この井上良雄の見解は、横光を「悲劇的といふ言葉を冠し得る唯一の作者」、「深い愁ひ顔」と評した小林秀雄の『機械』論[35]と同根のものが看取される[32][3]。黒田大河は、井上の論を敷衍し、〈田虫〉は「やがて自壊する『
片岡良一は、『ナポレオンと田虫』の執筆に影響を与えたものとして、疥癬によって密航を阻まれて最終的に刑死した吉田松陰を描いた菊池寛の『船医の立場』(1921年)を挙げ、菊池が松陰への共感をもって描いているのに対して、横光は「人間の姿の傀儡化図式化に、何か見当違いの歓びに似た昂奮さへ感じてゐた」、「人間の脆さはかなさを悲しむかはりに、寧ろ娯しみ歓んでゐたかたちの横光氏が、人間を――少くとも人間の問題を見忘れてゐたと云つても、決して失当ではなからう」と批判した[39][8][16]。
さらに片岡は、ナポレオンほどの人物でも「田虫に操られてひたすら破滅への道を急いで行く、惨めな傀儡にすぎなかった」ということは、「人間は――少なくとも人間における自主的な生の強さや力は、そこではもう完全に見失はれてゐたのである」と、人間喪失時代の一例として位置づけ[39][8][3]、当時の昭和前期の時代の中で「分裂と解体とを余儀なくされつつあつた人間」の姿と、それを見つめる横光の「人間的な力への絶望」を看取していた[39][3]。
しかし片岡は、戦後になってから再び本作に触れた際には、「田虫に動かされるナポレオンは、彼の本体を生きてゐるのではない。自己を見失つた末期的人間の代弁者なのだといふことを、はつきりと観念化して見せたのである」として、新感覚派時代の横光の限界に言及しつつも、その表現の在り方を歴史的な一段階として評価した[40][3]。
中村光夫は、『ナポレオンと田虫』でのナポレオンの「心理の頂点をなすもの」は、ストリンドベリなどが繰り返し題材とした「貴族の女に対する賎民の男の反感を交へた問題」であるとしながらも、そうした「心理」や「思想」も、横光の創作活動においては「たゞ意匠としてあるにすぎぬ」とし、横光の「独創の本質」、「作家的生命を与へた力の根源」は、「氏の素朴な心」にあると考察している[41]。
心理も思想も氏の制作においてはたゞ意匠としてあるにすぎぬ。氏の独創の本質は、少くも、氏に十年の作家的生命を与へた力の根源は、かうした表面の装飾には存しない。それは云ひ得べくんば、これらの意匠を強靱に縫ふ氏の肉体の粘着力に存する。更に一歩を進めて云へば、その肉体を常に過不足なく支へる氏の素朴な心に存する。氏はおそらく我国の作家に類例のない素朴な人である。他人を観察するまへにまづ己れの心を噛む抒情家である。(中略)氏が今日までさまざまな動揺に堪へて生き得たのは、かうした心を持ちながら、作家としての出発と同時に、たえず雑然たる文壇の意匠を強ひられて生きざるを得なかつただけに、氏の素朴の蒙つた不幸も大きかつたはずである。 — 中村光夫「横光利一」[41]
川端康成は、『ナポレオンと田虫』を初めて読んだ時に、急に元気づいて「精神にも肉体にも活気が出て来た」とし、それは横光の「表現」が持つ「力強いリズムに鼓舞された」からだとして、「彼の文章には衰へた精神を叩起すやうな力がある。音楽の効果のやうに直接的に人の胸を動かす響きがある」と、その文章の表現力を高評価した[42]。
後年の評価・研究
丸谷才一は、『ナポレオンと田虫』は菊池寛や芥川龍之介の「穿ちのある歴史小説に近いところを狙つてゐるもの」であり、その主題を派手な新感覚派の文体で隠そうとするくらい横光には「素朴なところがあつた」とし[43]、さらには主題・文体の両面で、大正文学の完成形である「志賀直哉的方法」から脱出したいという欲求も強かったとみるべきであり、『日輪』(1923年)にもその傾向が見られるものの、『ナポレオンと田虫』は特に「大正文学の完成への別れの合図として、いはば文学史的な値打ちがある」と高評価している[43]。
平野謙は、横光を中心とする「芸術革命」の新感覚派が、私小説を是とする既成文学への抵抗を試みた点において、彼らと「革命芸術」のプロレタリア文学派とは、同床異夢的な共存・共通性があったという見解を示しつつ[44][45]、微生物の田虫にあやつられモスクワ遠征に向かって失敗するナポレオンを描いた横光の『ナポレオンと田虫』における「ほとんど神のような絶対者の立場にちかい、なにものか」にあやつられて「自立性を喪失する人間のすがた」と、疥癬によって密航を阻まれ、最終的に刑死した吉田松陰を描いた菊池寛の『船医の立場』(1921年)における人間ドラマの中の疥癬の役割との決定的な相違に触れて、そこには「一見同一のテーマを追求しながら、菊池寛が芸術の内容(素材)的価値を主張したのに対して、横光利一が形式主義的な芸術論を提唱しなければならなかったゆえん」があるとして、横光の描いたその「人間性喪失」のテーマは、マルクス主義の「自己疎外」と共通する面があったとしている[44]。
マルクス主義のいわゆる「自己疎外」と横光の人間性喪失とは、ある点で共通の面を所有していたのである。「静かなる羅列」(大正14年9月)のような非情な作風にいたれば、いわゆる唯物史観の公式とのちがいはほとんど一歩の差ということもできる。芸術左翼と左翼芸術とはこの程度には共存することができたのである。しかし、プロレタリア文学がマルクス主義文学にみずからのすがたを変貌させてゆく過程は、やはりそのような共存を打破せずにおかぬ過程でもあった。横光の文学的僚友・片岡鉄兵、鈴木彦次郎、今東光らのやや唐突な左翼化のうごきは、かえって横光利一の立場を反コムミュニズム文学の立場に固定化させる傾きとなった。 — 平野謙「昭和文学史 第一章 昭和初年代――第二節 マルクス主義文学の成立」[44]
ドナルド・キーンは、『ナポレオンと田虫』の技巧について、些細な偶然と運命を主題にした『蠅』(1923年)と同様、「人間は自己の意志よりも些細な外的要因によって左右される」という横光の信念から出たものと思われるとし[46]、腹に巣食う田虫がナポレオンにロシア遠征を決意させたという「外的要因を持ちだす方法」は、「あまりにも見えすいた技法で、発想としても面白いものではない」と辛口の評価をしている[46]。
梶木剛は、夜な夜な〈田虫〉と格闘して苦悶するナポレオンに、新感覚派の驍将として突進した横光自身を重ねて、『蠅』(1923年)において、青空に飛んで蹴り捨て、馬車もろとも崖下に墜落した愚衆の「人生」の運命を青空から見ている〈眼の大きな蠅[47]〉(横光)の無意識の「告白的自画像」ではないかとし、〈眼の大きな蠅〉が感じたであろう、人々の「人生」への憐憫が、『ナポレオンと田虫』ではナポレオンに付着した〈田虫〉に暗喩され、〈眼の大きな蠅〉が「人生」の声々に戦慄させられなければならないように、ナポレオンも〈田虫〉に戦慄させられているとして、〈田虫〉(「人生」)に復讐され、敗北していくナポレオンの姿に、作家としての横光の行路を看取している[48][3]。
そして梶木は、横光と同じく〈気取り〉を〈スタイル〉とした芸術派の先輩作家であった芥川龍之介との運命の共通性を看取しつつ、「藝術」のために犠牲に供した「人生」に復讐された芥川の自死を予言していたともいえる『地獄変』(1918年)に対応する横光の作品が『ナポレオンと田虫』だと考察し[48]、そこから約1年後の1927年(昭和2年)の芥川の自死以後の作品では、横光自身が芥川と同種の運命をいかに回避していくために新たな〈気取り〉を構想していく軌跡を「後退戦」だとして辿り[34]、「後退戦」以前の『ナポレオンと田虫』の「格闘」の意味を論じている[48]。
ここにあるのはほとんど全く、〈眼の大きな蠅〉の位相に拠って新感覚派の驍将 となった横光利一じしんの秘された内心の自己剔抉 だ、といっていいことになる。ヨーロッパの諸国をつぎつぎに征服してわが版図を拡大する不敗の英雄ナポレオンは、じつは現実をつぎつぎに薙ぎ倒して突進する新感覚派の輝ける驍将・横光利一じしんの象徴に外ならない。しかしその燦然たる栄光のうちには、ナポレオンがひそかに田蟲との格闘を演じなければならなかったように、蹴捨てた「人生」の声々との格闘が秘されていなければならなかった。それゆえ彼は表ではいよいよ傲然と気取り、いよいよ暴力的に文体を叩きつけなければならなかったのに外ならない。 — 梶木剛「横光利一の軌跡――新感覚派の驍将として」[48]
玉村周は、この作品の〈没落〉へと向かって行く末尾によって、「横光は、明らかに、人間の力や意志では如何ともしがたいおおきな力のあることを暗示しようとしている」とし[49][8]、横光は積極的に自身をも含めた「みじめな人間たち」「人間たちの営み」を見下ろし相対化することのできうる「視点」を獲得しようとしていたと考察しながら、そうした「人間の力よりもおおきな力が存在する」という認識の表れこそが新感覚派時代の特徴的な表現を生み出したと論じている[16][8][3]。しかし、苦労の末にやっと一緒になれた愛する妻・小島キミが、『ナポレオンと田虫』発表後、病死してしまうという残酷な「現実」に直面した時、飛躍して見下ろした、相対化しうる「視点」の「風景」の中に「以前にもましてみじめな自分の姿」を発見することになった横光には、その後、新たな「現実に対する認識」が必要になり、新感覚派時代の終焉になっていくことも玉村は考察している[16]。
伴悦は、横光の文学観について、「不断に進化を促す新鮮な時代感覚を必要不可欠な条件」としたと考察し、横光が『ナポレオンと田虫』でナポレオンの出自を平民階級に設定したフィクション性に注目しつつ、歴史上の人物を題材にした菊池寛の『忠直卿行状記』(1918年)や[注釈 11]、『船医の立場』を参考として、執筆当時台頭しつつあった「階級性」を横光なりに『ナポレオンと田虫』に滑り込ませたと論じて[51][8][3]、〈田虫〉をナポレオンを突き動かす下層階級の象徴として見ている[51][3]。
アレクサンドロス大王やカエサルとならぶ世界的英雄の剛壮な腹は、〈頑癬を持つた古々しい平民の肉体〉として描かれ、それは〈割られた果実のやうな新鮮〉な若々しいルイザとむきあっている。なお一方で名もなき一兵卒の怨恨の産物でもあるかのような執拗あくなき田虫の浸蝕にされなければならない構図となっている。かくして一兵卒と皇紀の狭間から、逃れられない運命にたちいたったナポレオンの放蕩な生きざまこそ作者の意図したモチーフではなかったか。階級文学を横目でみながら十九世紀における「貴族礼賛の慣習」の「崩壊」に焦点をあわせ、その恰好の材料として〈平民ナポレオン〉が浮かびあがったゆえんであろう。 — 伴悦「横光利一文学の生成――『ナポレオンと田虫』について」[51][3]
伴はまた、ナポレオンに対する横光の関心の深さに言及し、壊滅や崩壊へと向かう歴史や世界といったものに感応した横光の「内心の劇」を本作から看取しようとしている[51][8]。
黒田大河は、最終章の〈没落〉へと至る文脈に見られる〈河原のやうに〉、〈潮のやうに〉などの比喩からは、押しとどめることのできない「歴史」の流れが看取され、そこに、SQ市の〈没落〉の過程を描いた『静かなる羅列』(1925年)の末尾が想起されるとし、『ナポレオンと田虫』は『静かなる羅列』より、さらに「歴史」に接近しようとした作品だと考察している[5]。
また黒田は、横光が満洲事変や上海事変が起る前の1930年(昭和5年)9月に満洲のハルピンに赴いた時のことを1932年(昭和7年)に振り返り、〈私の見て来たところはそのときすでにどこよりも複雑な凹凸を秘めてゐた平原だつたにちがひない[52]〉と述べていたことに触れながら、横光の「歴史」を描く意思が、のちの初の長編小説『上海』(1928年–1931年)に結実していったとしている[5]。
「静かなる羅列」の末尾に羅列された〈傷つける肉体と、歪める金具と、掻き乱された血痕と、石と水と油と川と[53]〉を思い起こすと、「ナポレオンと田虫」の末尾における〈河〉と〈潮〉が織りなす直喩が、「歴史」の隠喩としてふさわしいことが分かる。やがてナポレオンの軍勢の〈騎兵と歩兵と砲兵〉〈砲車〉〈銃剣〉〈栗毛の馬の平原〉はフリードランドの平原に羅列されるだろう。
「歴史」を描く意思はやがて長編「上海」に結実する。(中略)
「静かなる羅列」の〈水平線〉から「ナポレオンと田虫」の〈平原〉を経て、横光は〈どこよりも複雑な凹凸[52]〉が潜んでいる〈平原〉を見たのである。 — 黒田大河「『ナポレオンと田虫』――歴史である『かのように』」[5]
なお、作品冒頭の以下の段落は、新感覚派特有の文体として、しばしば取り上げられる有名な描写の文章である[1][2][3]。
三島由紀夫は、『ナポレオンと田虫』が発表された当時よりも映画が日常的になった時代の読者にとっては、前半はよく理解できる文章で、〈幽かに妃の指紋のために〉という小説独特の説明の一句がなければ「進歩したレンズによる映画のクローズ・アップ」で、そのまま撮影できる描写だとしている[1]。しかし後半の文章については、文法的に分かりにくく、「歴史的価値のある文章であるけれど、今日から見ると、いい文章ではない」とし、作者の横光の目は「聯想につれてさまざまのものを見る」が、「別の論理的思考を持った読者」にとっては、その「一どきに呈示」されたものに引っ張り回されると評し、この頃の横光の文章にはそうした個所が多く散見され、それゆえに読者は「眩惑」されたと解説している[1]。
黒田大河はこの冒頭文について、ナポレオンの権力の頂点を象徴している彼の腹の頂点にある〈瑪瑙の釦〉が、〈妃の指紋のために曇つてゐた〉という構図には、ナポレオンの「権力への意志」と、「その権威に陰りをもたらすルイザの存在」が暗示されているとしている[3]。
おもな収録刊行本
単行本
- 『春は馬車に乗つて』(改造社、1927年1月12日)
- 『婦徳』〈有光名作選集7〉(有光社、1941年9月15日)
- 文庫版『月夜』(新潮文庫、1939年8月24日)
- 文庫版『春は馬車に乗つて・機械』(角川文庫、1962年10月30日)
- 文庫版『春は馬車に乗つて』(新潮文庫、1955年11月30日)
- 解説:丸岡明
- 収録作品:「蠅」「マルクスの審判」「落された恩人」「草の中」「無礼な街」「頭ならびに腹」「青い石を拾つてから」「ナポレオンと田虫」「春は馬車に乗つて」「蛾はどこにでもゐる」「花園の思想」
- 文庫版『機械・春は馬車に乗って』(新潮文庫、1969年8月20日。改版2003年3月20日)
- 文庫版『日輪・春は馬車に乗って 他八篇』(岩波文庫、1981年8月16日)
全集・選集
- 『横光利一全集 第6巻』(非凡閣、1936年3月8日)
- 『横光利一全集 第2巻』(改造社、1948年7月25日)
- 『横光利一集』〈現代日本文学全集36〉(筑摩書房、1954年3月5日)
- 『横光利一全集 第2巻』(河出書房、1955年10月25日)
- 『定本横光利一全集 第2巻』(河出書房新社、1981年8月31日)
- 装幀:榛地和
- 監修:河上徹太郎、永井龍男、大岡昇平。編集協力:小田切進、横光象三
- 編集・校訂:保昌正夫、井上謙、栗坪良樹
- 解題・編集ノート:栗坪良樹
- 月報2:石塚友二「思ひ出」。秋山駿「横光利一の再登場」。デニス・キーン「會いたい作家、會いたくない作家」。【同時代評】川端康成「『青い石を拾つてから』評」「『園』評」。藤沢恒夫「『花園の思想』評」
- 収録作品:「負けた良人」「冬の女」「馬鹿と馬鹿」「表現派の役者」「慄へる薔薇」「美しき裏切」「青い石を拾つてから」「園」「一条の詭弁」「静かなる羅列」「街の底」「壊れた女王」「妻」「ナポレオンと田虫」「梯子」「鼻を賭けた夫婦」「街へ出るトンネル」「春は馬車に乗つて」「蛾はどこにでもゐる」「計算した女」「青い大尉」「美しい家」「花園の思想」「火の点いた煙草」「盲腸」「負けた勝者」「朦朧とした風」「担ぎ屋の心理」「七階の運動」「滑稽な復讐」「皮膚」「眼に見えた虱」「名月」「古い女」「愛の栄光」「花婿の感想」「或る職工の手記」
- (参考作品)「悲しみの代価」「愛巻」
アンソロジー
- 『実験小説名作選――日本名作シリーズ12』(集英社文庫、1980年7月25日)
- 『ブラック・ユーモア傑作選――ニッポンの“黒い哄笑"』(光文社 カッパ・ノベルス、1981年8月30日)