ポール・ルモワーヌの肖像
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| フランス語: Portrait du sculpteur Paul Lemoyne 英語: Portrait of Paul Lemoyne | |
| 作者 | ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル |
|---|---|
| 製作年 | 1810年-1811年頃 |
| 種類 | 油彩、キャンバス |
| 寸法 | 47.2 cm × 36.5 cm (18.6 in × 14.4 in) |
| 所蔵 | ネルソン・アトキンス美術館、ミズーリ州カンザスシティ |
『ポール・ルモワーヌの肖像』(ポール・ルモワーヌのしょうぞう、仏: Portrait du sculpteur Paul Lemoyne, 英: Portrait of Paul Lemoyne)は、フランス新古典主義の巨匠ドミニク・アングルが1810年から1811年頃に制作した肖像画である。油彩。アングル初期のイタリア時代の作品で、若き日の彫刻家ポール・ルモワーヌを描いている。現在はミズーリ州カンザスシティのネルソン・アトキンス美術館に所蔵されている[1][2][3]。また素描による異なるバージョンがマルセイユのグロベ=ラバディエ美術館に所蔵されている[3]。
ルモワーヌは1783年にパリで生まれた。1800年代初頭にパリで彫刻家として修業し、1807年、1808年、1809年の3回にわたってローマ賞に挑戦したがいずれも受賞するには至らず、最終的に自費でローマに旅立った。考古学者・美術評論家のカトルメール・ド・カンシーはルモワーヌに当時ローマで最も著名な彫刻家であったアントニオ・カノーヴァを紹介している。ルモワーヌは奨学金受給者ではなかったが、ローマのフランス・アカデミーに頻繁に通う一方、フランスの官僚と密接な関係を築いた。ルモワーヌはアングルとともにフランス大使ピエール・ルイ・ジャン・カジミール・ド・ブラカス伯爵が後援したサンティッシマ・トリニタ・デイ・モンティ教会の装飾事業に招かれた若手芸術家の1人であった。その後、ルモワーヌはローマで彫刻家として成功し、様々な依頼を請け負った。特にサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会にニコラ・プッサンの記念碑を建立するというフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンの計画を1837年に完成させている。またルモワーヌはローマを訪れたフランス人芸術家たちの作品を譲り受けることで、かなりの規模の美術コレクションを形成した。ルモワーヌはそれらをフランスに持ち帰ると、1865年にパリのオテル・ドゥルオーの競売で売却した。1873年にボルドーで死去[1]。
作品

アングルは暗い背景を背にしたルモワーヌの胸像を描いた。ルモワーヌはくだけた服装をしている。クラヴァットを首に巻いておらず、白いシャツの襟もやや乱れた様子で開いており、その上に茶色のオーバーコートを無造作に羽織っている[1]。アングルはルモワーヌの視線を真っ直ぐに捉えることにより、ルモワーヌの内面を鮮やかに描き出している[3]。明暗の劇的なコントラストと影を帯びたルモワーヌの瞳は神秘的であり[1]、まるでロマン主義の肖像画であるかのような陰鬱な力強い雰囲気を醸し出している[3]。肖像画はスケッチ風の粗い筆致で描かれており[1]、像主のくだけた服装とアングルの自由なタッチは肖像画が描かれた瞬間の臨場感を捉えている。オーバーコートの襟の一見行き当たりばったりで混ざり合っていない筆致は、おそらくルモワーヌがアングルのモデルを務めたのがただの一度きりであり、アングルはその機会にルモワーヌの肖像画を素早く即興的に描き上げたことを示唆している。ペンティメント(修正の痕跡)が複数確認できる一方、下絵の痕跡が不在である点はそのことをさらに裏付けている[3]。
ルモワーヌの肖像画の非公式な作風は両者の友情から生まれたものであることを示唆する[1]。ローマのフランス・アカデミーの学生たちはおたがいに肖像画を制作することを奨励されていた。またアングルの師であるジャック=ルイ・ダヴィッドも生身のモデルを描く機会を増やすため学生たちにこの習慣を奨励していた。こうした作品はアカデミックな訓練の一環であると同時に、若い画家たちにとってはおたがいに交換し合う友情の証でもあった[3]。同様の粗い筆致で描かれたアングルの非公式な肖像画としては、1810年に描かれた『ジャン=バティスト・デスデバンの肖像』(Portrait de Jean-Baptiste Desdéban)が知られている[1]。アングルはどちらの肖像画でも像主の顔をより丁寧に描いており、立体表現と表面の仕上げに細心の注意を払っている[3]。
制作年代はかつては1817年から1820年頃と考えられてきたが、現在はルモワーヌがローマに到着した1810年あるいは1811年頃と考えられている。実際に肖像画の作風はより初期の作品と一致している[1]。さらにアングルが晩年に作成した作品リストではデスデバンとルモワーヌの肖像画は連続して記載されている[3]。デスデバンの肖像画はアングルからルモワーヌに贈呈されており、どちらもおそらく同時期にルモワーヌに贈られたと思われる[1]。
来歴
肖像画はルモワーヌによって長年にわたって所有されていた。しかし1865年4月3日、ルモワーヌは自身の美術コレクションをパリのオテル・ドゥルオーの競売で売却した。その中には本作品とデスデバンの肖像画も含まれていた。この競売で両作品を購入したのはブザンソン出身の画家ジャン・ジグーであったが、アングルはルモワーヌが自身の描いた肖像画を売却したとジグーから知らされると、激怒して叫んだ。「あの哀れな男は自らを売り渡したのだ!」[1][3]。フランスに帰国した当時80代のルモワーヌはボルドーに移住する準備をしていたため、美術コレクションを売りに出したのだろうと思われる[1]。その後、正確な時期は不明であるが、弁護士・美術収集家のポール=アーサー・シェラミー(Paul-Arthur Chéramy)の手に渡り、1908年5月5日から7日の競売で売却された。さらに何人かの所有者を経て、アングルに関する著書でも知られるモントーバン出身の美術評論家アンリ・ラポーズのコレクションに加わった。ラポーズが1925年に死去すると、4年後の1929年6月21日にオテル・ドゥルオーで競売にかけられ(ロット番号54)[1][3]、ニューヨークの美術商ノードラー商会がフェルナン・レール=デュブルイユ(Fernand Lair-Dubreuil)を仲介して購入した[3]。1932年、ネルソン・アトキンス美術館はノードラー商会から肖像画を購入した[1][3]。