ジャン=ピエール=フランソワ・ジリベールの肖像

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製作年1804年
寸法99 cm × 81 cm (39 in × 32 in)
『ジャン=ピエール=フランソワ・ジリベールの肖像』
フランス語: Portrait de Jean-Pierre-François Gilibert
英語: Portrait of Jean-Pierre-François Gilibert
作者ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル
製作年1804年
種類油彩キャンバス
寸法99 cm × 81 cm (39 in × 32 in)
所蔵アングル・ブールデル美術館モントーバン

ジャン=ピエール=フランソワ・ジリベールの肖像』(ジャン=ピエール=フランソワ・ジリベールのしょうぞう、: Portrait de Jean-Pierre-François Gilibert, : Portrait of Jean-Pierre-François Gilibert)は、フランス新古典主義の巨匠ドミニク・アングルが1804年に制作した肖像画である。油彩。アングル最初期の作品で、画家の古くからの友人である弁護士ジャン=ピエール=フランソワ・ジリベール(Jean-Pierre-François Gilibert)を描いている。現在はモントーバンアングル・ブールデル美術館に所蔵されている[1][2][3][4][5][6]。同美術館にはまた素描によるジリベールおよびその娘ポーリーン(Pauline Gilibert)の肖像画が所蔵されている[7][8][9][10]

ジャン=ピエール=フランソワ・ジリベールは1783年にかつら職人のジャン・ジリベール(Jean Gilibert)とその妻マルグリット・ルヴェル(Marguerite Revel)の息子としてモントーバンに生まれた。アングルと知り合った正確な時期は不明である。少なくとも2人はともにパリで学んでいたときには友人の関係になっていた。アングルとの書簡のやりとりは画家の母が死去した1817年以降に始まった。アングルはジリベールを「真の友人」と呼んだが[3][9]、アングルのイタリア留学後は2人が直接会ったことは数えるほどしかない。ジリベールが頑なにモントーバンを離れなかったのに対し、アングルもまた頑なに帰郷しなかったためである。2人の最初の再会はモントーバン大聖堂英語版祭壇画ルイ13世の誓願』(Le Vœu de Louis XIII)が設置され、アングルが唯一帰郷した1826年であった。この大作はジリベールの働きかけによって1820年にアングルに発注された[1][3]。1828年に父が死去するとジリベールは翌1829年にパリのアングルを訪問している。モントーバンに戻るとアントワネット=ローリー(Antoinette-Rauly)と結婚。翌1830年には娘ポーリーンが生まれた。しかし夫人はわずか数年の結婚生活ののち1832年に死去。1842年、アングル夫妻の勧めもあり、ジリベールはポーリーンとともにパリへ旅立った。子供のいないアングル夫妻はポーリーンに心を奪われ、アングルはジリベールの短い滞在中にポーリーンの肖像画を描いた。この再会が2人が会った最後の機会となった[3]。ジリベールはアングルが定期的に送ってきた膨大な手紙を大切に保管していた。現在それらはアングルの生涯と経歴に関する重要な情報源となっている[3][9]。1847年から3年にわたる闘病生活ののち1850年4月13日に死去[3]

作品

準備素描。アングル・ブールデル美術館所蔵[11]

この肖像画はジリベールとの友人関係が確固たるものとなった、アングルが最初にパリで生活し、ローマに留学する数年前に描かれた[3]。ジリベールは四分の三正面の角度からほとんど等身大の半身像として描かれた。ジリベールは暗い背景の前で背後の机にもたれるように立ち、右腕に帽子を挟んでおり、その姿はやや無骨である[3]。肖像画の特に下部はアングルらしからぬ粗雑さが見られ、未完成のような印象を与える[3][12]。しかし画家とモデルの親密な関係を物語る直接性と誠実さを感じさせる。アングルはこの状態で完成品と考えていたようである[3]。アングルの線描の巧みさは既に若いジリベールの頬、肩、左手の緻密な輪郭、シャツのフリルの微細なヘアライン加工のウェーブに表れている[3]。アングルがジャック=ルイ・ダヴィッドに学び発展させた太く短いタッチはほとんど抽象的な効果を生み出しており、結果としてこの作品を当時としては最も近代的な肖像画の1つとしている。人物や物、絵画空間を遠近法的に歪曲させる傾向など、アングルの芸術的特徴や才能もすでにこの作品に確認できる[13]

ジリベールの肖像画は未完成のように見える反面、ダヴィッド派の制作過程をうかがうことができる[3][13]。この肖像画は両者の友情を記念する作品であると同時に、おそらくジリベールがモントーバンにおけるアングルの潜在的なパトロンに対して友人の代理として交渉する際にアングルの絵画技術を示す広告として機能した[3]

アングルはこの肖像画の準備習作を1804年に制作した『24歳の自画像』(Autoportrait à l'âge de 24 ans)の中のキャンバスに描いた。もともとこの自画像は現在の画面よりも大きく、画面の中でアングルはジリベールの肖像画の下絵が描かれた大きな白いキャンバスの前に立っていた。現在このキャンバスは塗りつぶされ、その代わりに画面が見えない角度でイーゼルの上に再配置された別のキャンバスが描かれている[3][13]。このことは1805年頃にジャン=ルイ・ポトレル(Jean-Louis Potrelle)が制作したエッチングや、1841年頃に写真家シャルル・マルヴィル英語版が撮影した『自画像』、メトロポリタン美術館所蔵のローレンス=オーギュスティーヌ・ジュベフランス語版が1850年から1860年頃に制作した複製『若き日のアングルの肖像』から分かっている。これに対して若き日のアングルと婚約する女性画家マリー=アンヌ=ジュリー・フォレスティエ英語版は『自画像』の複製を制作し、1807年にアングルの父ジャン=マリー=ジョゼフ・アングルフランス語版に送っているが、そこでは自画像の中のキャンバスには何も描かれていない。何人かの研究者はアングルの自画像の複雑な制作過程について考察を加えている[3]

1862年にモントーバンで催された展覧会にジリベールの肖像画が出品された際、高齢のアングルは弟子のアルマン・カンボン英語版に宛てた手紙の中で、この肖像画を自身の肖像画の最高傑作と評した。その言葉が約12年前に死去した旧友との深い友情によるものであることは疑いない[1][3][12][13]

来歴

ジリベールは肖像画を生涯手放すことはなく、その後も彼の一族によって所有された。ジリベールの死後はエミリアン・モンテ(Émilien Montet)と結婚した娘ポーリーン・ジリベールに相続された。さらにポーリーンの娘のモンテ=ノガネ嬢(Mlle Montet-Noganets)、ジリベールの孫娘のジュリエット・フルニエ夫人(Mmn Juliette Fournier)へと相続され、1937年にジュリエットによってアングル美術館(現在のアングル・ブールデル美術館)に遺贈された[3]

別バージョン

アングル・ブールデル美術館に所蔵されている素描のバージョンは、ジリベールがアングルの強い勧めで1829年にパリを訪れた際に描かれた[1][3]。アングルはこのバージョンを記念品として大切に保管し、友人と会うことができない寂しさをこの肖像画によって慰められたことをしばしば言及している[3]

ギャラリー

関連作品

脚注

参考文献

外部リンク

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