マーク・ラングストン
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![]() シアトル・マリナーズ時代 (1987年) | |
| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 | カリフォルニア州サンディエゴ |
| 生年月日 | 1960年8月20日(64歳) |
| 身長 体重 |
6' 2" =約188 cm 190 lb =約86.2 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1981年 ドラフト2巡目 |
| 初出場 | 1984年4月7日 |
| 最終出場 | 1999年9月24日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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マーク・エドワード・ラングストン(Mark Edward Langston, 1960年8月20日 - )は、アメリカ合衆国・カリフォルニア州サンディエゴ出身の元プロ野球選手(投手)。
シアトル・マリナーズ
サンノゼ州立大学から1981年のMLBドラフトでシアトル・マリナーズから2巡目に指名を受けて入団した[1]。
1984年4月7日のミルウォーキー・ブルワーズ戦でメジャーデビューし、7回被安打4、2失点、奪三振5で初勝利を挙げる[1]。6月26日のシカゴ・ホワイトソックス戦でメジャー初完封、7月1日のボストン・レッドソックス戦でも2試合連続となる完封勝利を挙げた。後半戦で11勝を挙げ、リーグワーストの118四球ながら17勝10敗、防御率3.40、204奪三振を記録し、最多奪三振のタイトルを獲得。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では27本塁打、116打点を記録したチームメイトのアルビン・デービスに次ぐ2位だったが[1]、遜色ない働きをみせた。1985年は故障もあり7勝に終わるが、1986年は12勝14敗、球団記録となる245奪三振で2年ぶりの最多奪三振。1987年はオールスターゲームに初選出される。19勝13敗、防御率3.84、262奪三振を記録し、2年連続の最多奪三振を獲得、初のゴールドグラブ賞を受賞した。1988年は15勝11敗、防御率3.34、235奪三振の成績。本拠地が狭いキングドームだったことも災いして、同年まで3年連続で被本塁打が30を越えた。1989年5月25日に、ランディ・ジョンソン他2選手との交換トレードでモントリオール・エクスポズへ移籍した[1]。
負け越し続きのマリナーズで74勝67敗の成績を残した[1]彼は、マリナーズの歴代の優れた投手を選ぶ場合、トップファイブに選ばれる事が多く、しばしばランディ・ジョンソンに次いで2番目に高く評価される[2]。
モントリオール・エクスポズ
移籍後は12勝9敗、防御率2.39、175奪三振、4完封を記録し、シーズン通算で16勝14敗、キャリアハイの防御率2.74、235奪三振の好成績だった。オフにフリーエージェントとなり、12月1日にカリフォルニア・エンゼルスと契約。
カリフォルニア・エンゼルス
1990年は10勝17敗、防御率4.40と期待を裏切ったが、1991年は4年ぶりにオールスターゲーム出場を果たす。19勝8敗、防御率3.00の好成績で3年ぶりのゴールドグラブ賞を受賞し、以後5年連続で受賞する。1992年は13勝、1993年も16勝を挙げる。移籍後は奪三振が200を越えることはなかったが、四球も減少して安定感が増し、チャック・フィンリー、ジム・アボットと共に左腕王国を築いた。1994年はストライキでシーズンが打ち切られた影響で7勝に終わり、連続2桁勝利が9年で途切れた。
1995年は15勝と復活した。この年、10月2日にキングドームで行われたマリナーズとのアメリカンリーグ西地区優勝をかけたワンゲームプレーオフに登板、負け投手となった[3]。以後は6勝、2勝に終わり、オフにフリーエージェントとなった。
以後
1998年1月7日に故郷のサンディエゴ・パドレスと契約。4勝6敗、防御率5.86と不本意な成績だったが、チームは地区優勝。アトランタ・ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズからロースター入りし、3試合に登板して無失点に抑えリーグ優勝に貢献。自身初の出場となったニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでは第1戦でティノ・マルティネスに勝ち越しの満塁本塁打を浴びる。その後は登板がなく、チームも4連敗で敗退した。オフにフリーエージェントとなるが再契約。しかし1999年開幕直前に解雇され、4月4日にクリーブランド・インディアンスと契約。主に中継ぎとして25試合に登板した。2000年開幕前の春のキャンプで現役を引退した[2]。
牽制球が巧みで、当時MLB史上最多の91人を牽制で刺した(この記録は2008年にデトロイト・タイガースのケニー・ロジャースが新記録を樹立して歴代2位となった[4]。
