ミッキー・ロリッチ
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タイガース時代(1975年) | |
| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 | オレゴン州ポートランド |
| 生年月日 | 1940年9月12日 |
| 没年月日 | 2026年2月4日(85歳没) |
| 身長 体重 |
6' 1" =約185.4 cm 210 lb =約95.3 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投両打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1958年 |
| 初出場 | 1963年5月12日 |
| 最終出場 | 1979年9月23日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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マイケル・スティーブン・ロリッチ(Michael Stephen Lolich, 1940年9月12日 - 2026年2月4日)は、アメリカ合衆国オレゴン州ポートランド出身のプロ野球選手(投手)。クロアチア系[1]。
デトロイト・タイガース
1958年6月30日にデトロイト・タイガースと契約。1963年5月12日のクリーブランド・インディアンス戦でメジャーデビュー[2]。同年は5勝9敗、防御率3.55を記録。1964年は4月24日のミネソタ・ツインズ戦でメジャー初完封[3]。月18日のロサンゼルス・エンゼルス戦では2回以降無安打に抑えて3安打完封[4]、9月1日のシカゴ・ホワイトソックス戦では7回一死まで無安打に抑えて完封し[5]、そこから3試合連続完封を記録[3]するなど18勝9敗、防御率3.26、192奪三振、6完封の好成績を記録する。
1965年は初の開幕投手を務め、15勝9敗、226奪三振を記録。
1966年は14勝を記録するが14敗を喫し、防御率4.77と不本意な成績に終わる。1967年は5月23日から10連敗を喫するが、9月22日からの3試合連続完封記録するなど8月・9月で9勝1敗、防御率1.31、5完封[6]と調子を上げ、チームの優勝争いの原動力となるが、ボストン・レッドソックスに1ゲーム差で敗れた。
1967年には野球のほかにミシガン州の空軍州兵としても召集され、デトロイト暴動の際に活動した[7]。
1968年は8月・9月で10勝を記録して17勝9敗、防御率3.19を記録し、チームのリーグ優勝に貢献。セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズでは第2戦に先発登板して1失点完投勝利を挙げ、3回にレギュラーシーズンでも打ったことのない本塁打を放った[8]。第5戦では初回に3点を先行されるがその後立ち直って完投勝利。3勝3敗のタイで迎えた最終第7戦ではボブ・ギブソンと投げ合い、2度の牽制アウトでピンチを凌ぐなど[9]5安打、1失点で完投し、チームは23年ぶりのワールドチャンピオンに輝いた。3勝、防御率1.67の活躍でシリーズMVPを受賞。「まさかギブソンに勝てるとは思わなかった」と語った[8]。
1969年は5月7日から9連勝。5月23日のエンゼルス戦、6月9日のシアトル・パイロッツ戦でキャリアハイの16奪三振を記録する[10]など前半戦で13勝2敗、防御率2.70、151奪三振[11]の好成績で、自身初のオールスターゲームに選出される。後半戦は6勝に留まるが、キャリアワーストの122四球ながら19勝11敗、防御率3.14、サム・マクダウェルに次ぐリーグ2位の271奪三振を記録した。1970年は14勝、230奪三振の一方でリーグ最多の19敗を喫した。
1971年は前半戦で14勝を記録し、2年ぶりにオールスターゲームに選出され、8回から登板してロベルト・クレメンテに本塁打を浴びるもののセーブを記録した[12]。いずれもリーグ最多の25勝、308奪三振、29完投、376.0イニング、336被安打、先発45試合の成績で、最多勝利・最多奪三振の二冠を獲得。しかしサイ・ヤング賞の投票ではヴァイダ・ブルーに次ぐ2位に終わった[13]。1972年は前半戦17勝6敗、防御率2.39を記録し[14]、2年連続でオールスターゲームに選出される。後半戦は5勝に留まるが、22勝14敗、防御率2.50、250奪三振の成績でチームの地区優勝に貢献。オークランド・アスレチックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発登板するが敗戦投手。第4戦では9回を1失点に抑えるも勝敗は付かず[15]、チームは2勝3敗で敗退した。サイ・ヤング賞の投票ではゲイロード・ペリー、ウィルバー・ウッドに次ぐ3位[16]。
1973年は16勝15敗を記録。1974年は開幕から4連敗。その後は連勝と連敗を繰り返し[17]、リーグワーストの21敗、142自責点、38被本塁打と不本意だった。
1975年は後半戦で2勝12敗[18]と不振で12勝18敗に終わり、連続200奪三振も6年で途切れた。12月12日にラスティ・スタウブ他1選手との交換トレードで、ニューヨーク・メッツに移籍。
以後
1976年は好投しながら援護がなく、防御率3.22ながら8勝13敗に留まる。1977年は登板がなくオフにフリーエージェントとなり、1978年2月2日にサンディエゴ・パドレスと契約。
同年はリリーフとして登板し、防御率1.56を記録。1979年は0勝2敗に終わって10月3日に解雇され、現役引退。