ミナミホマレ
From Wikipedia, the free encyclopedia
| ミナミホマレ | |
|---|---|
|
| |
| 欧字表記 | Minami Homare[1] |
| 品種 | サラブレッド[1] |
| 性別 | 牡[1] |
| 毛色 | 鹿毛[1] |
| 生誕 | 1939年3月31日[1] |
| 死没 | 1962年9月[2] |
| 父 | プリメロ[1] |
| 母 | フロリスト[1] |
| 母の父 | ガロン[1] |
| 生国 |
|
| 生産者 | 小岩井農場[3] |
| 馬主 | 池得次[2] |
| 調教師 | 東原玉造(中山)[注 1][5] |
| 競走成績 | |
| 生涯成績 | 4戦3勝[4] |
| 獲得賞金 | 3万2400円[4] |
| 勝ち鞍 | 東京優駿競走(1942年)[4] |
ミナミホマレ(欧字名:Minami Homare、1939年3月31日[1] - 1962年9月[2])は、日本の競走馬、種牡馬。第二次世界大戦中の1942年に、第11回東京優駿競走(日本ダービー)を優勝した[6]。
日本ダービー勝利後、4戦3勝で現役を引退し、翌年から種牡馬として供用された。産駒成績は優秀で、ゴールデンウエーブ、ダイゴホマレの2頭のダービー馬をはじめ多くの活躍馬を送り出した。
競走馬時代
1939年3月31日、岩手県雫石村の小岩井農場で誕生する[3]。父プリメロは競走馬時代にアイリッシュダービー[注 2]、アイリッシュセントレジャーを制すなど15戦3勝[7]。1936年に小岩井農場が6万円で輸入し、同地に種牡馬として繋養されていた[7]。母フロリストは、競走馬名をフロラーカツプといい、現役時代は目黒の連合二哩含む10勝を挙げ[8]、繁殖牝馬となってからもハクリユウ、ハクセツ、アカイシダケらを出し、小岩井農場の名牝の一頭に数えられる活躍を見せていた[5]。
ミナミホマレはプリメロの3世代目の産駒に当たり[2]、幼名は第拾壱プリメロといった[3][9]。そして、出産当時21歳[10]のフロリストにとっては、同馬が最後の産駒となった[8]。後のミナミホマレこと第拾壱プリメロは、1941年8月に小岩井農場で行われたセリ市に出品されると、ミナミ電機商会社長[2]の池得次に4万円で競り落とされ[9]、中山競馬場の東原玉造調教師の元に預託された[5]。
1942年3月、横浜競馬場の新馬戦でデビュー[6][11]。本命に支持され初勝利を飾ったが、その2週間後に行われた横浜農林省賞典四歳呼馬(皐月賞)ではアルバイト[注 3]に2馬身半離されての2着に終わった[11]。次開催の中山を休養した後、東京2日目のオープン戦に出走すると、これを楽に勝って、東京優駿競走(日本ダービー)に駒を進めた[12]。
日本ダービーは晴天、良馬場で行われ、戦時下ではあったが多くの見物客で賑わった[11]。ミナミホマレは当時5連勝中のアルバイトに次ぐ2番人気ではあったが[2]、アルバイトが半数近い支持を得る一方で、ミナミホマレには14.8%の支持しか集まらなかった[11]。17頭立て[11]で行われたレースは、1頭が立ち遅れた以外は綺麗にスタートし[2]、関西馬のハヤタケがハナを切る展開となった[12]。ミナミホマレは後方での待機策をとり、第3、4コーナー間でも中団やや後方を維持[2]。そして最後の直線、インコースからスパートをかけハヤタケを抜き去ると、ゴール100メートル手前で先に抜け出していたアルバイトに並び、最後はクビ差交わして勝利した[12]。
優勝タイム2分33秒0は第7回のスゲヌマを越えるレコード[注 4]であった[2]。馬主の池は、ミナミ(第9回)、ミナミモア(第10回)に次ぐ3回目の挑戦で、調教師の東原は第1回(ワカタカ)以来のダービー制覇となった[2]。
種牡馬時代
日本ダービーを最後に競走馬を引退し、1943年3月には種牡馬として青森県の太平牧場に繋養された[2]。その後は、大塚牧場、タイヘイ牧場へと移り、1962年9月に老衰で死去した[2]。戦後の競馬再開の年に当たる1946年は、初年度産駒のデビューと重なっており、その世代からブルーホマレ(中山大障害(秋))、シンニホン(13勝[注 5][2])と活躍馬を出した[5]。そして、1954年にはゴールデンウエーブが東京優駿を制して、カブトヤマ、マツミドリ以来の親子制覇を達成し[15]、更に1958年には同じくダイゴホマレが勝って、2頭のダービー馬の父ともなっている[16]。このように一流馬を次々と輩出したことから、青森の馬産家からは「救世主」と呼ばれたという[2]。また、シンニホン(前述)やジツホマレ(優駿牝馬)の繁殖成績も良く、岡田光一郎は繁殖牝馬の父としても優秀であったと述べている[14]。
評価・特徴

1951年産駒[17]。公営出身として初のダービー馬でもあった[15]。
岡田は、日本ダービーを勝ったこと以外、競走成績に特筆すべき点はないものの、「日本の競馬史上からは忘れられない1頭といわなくてはならない」と評している[14]。また、山野浩一は『栄光の名馬』(1976)の中で、同馬を「史上ベスト22サラブレッド」の1頭に選んでいる[18]。その他、雑誌『優駿』が2000年に企画した「プロの目で厳選した 20世紀のベストホース100」にも名を連ねた[4]。
前述のとおり、種牡馬成績は良く、『日本ダービー50年史』では前述の産駒のほか、ツルギサン、ギンザクラ、ラツキーミナミ、グレートオー、アサハギ、タカツキ、ホマレオーを活躍馬として挙げている[19]。杉浦謙三は、ゴールデンウエーブが不良馬場のダービーを勝ち、ホマレオーが「重馬場の鬼」とまで評された例を出し、産駒には不思議と[注 6]重馬場得意の特徴があると述べている[5]。
競走成績
競走成績は『日本の名馬・名勝負物語』[20]、『ダービー馬の履歴書』[21]に基づく。
| 競走日 | 競馬場 | 競走名 | 距離(馬場) | 頭数 | 人気 | 着順 | タイム | 着差 | 騎手 | 斤量 [kg] |
勝ち馬/(2着馬) | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1942. | 3. | 22 | 横浜 | 新呼 | 1700m(良) | 8 | 1人 | 1着 | 1:49.3⁄5 | 3⁄4馬身 | 佐藤邦雄 | 55 | (メリイライト) |
| 4. | 5 | 横浜 | 横浜農賞四歳呼馬 | 1850m(良) | 6 | 3人 | 2着 | (2+1⁄2馬身) | 佐藤邦雄 | 57 | アルバイト | ||
| 5. | 10 | 東京 | 古呼 | 2000m(良) | 12 | 1人 | 1着 | 2:08.4⁄5 | 2馬身 | 佐藤邦雄 | 57 | (ロツクフオード) | |
| 5. | 24 | 東京 | 東京優駿競走 | 2400m(良) | 17 | 2人 | 1着 | R2:33.0⁄5 | クビ | 佐藤邦雄 | 57 | (アルバイト) | |
- タイム欄のRはレコード勝ちを示す。