佐藤由紀彦

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愛称 ユキ[1][2]
カタカナ サトウ ユキヒコ
ラテン文字 SATO Yukihiko
国籍 日本の旗 日本
佐藤 由紀彦
2015年
名前
愛称 ユキ[1][2]
カタカナ サトウ ユキヒコ
ラテン文字 SATO Yukihiko
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1976-05-11) 1976年5月11日(49歳)
出身地 静岡県富士市[3][4]
身長 177cm[4]
体重 70kg[4]
選手情報
ポジション MF[4]
利き足 右足[1]
ユース
1992-1994 日本の旗 清水商業高校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1995-1999 日本の旗 清水エスパルス 2 (0)
1998 日本の旗 モンテディオ山形(loan) 29 (14)
1999 日本の旗 FC東京(loan) 35 (6)
2000-2003 日本の旗 FC東京 69 (8)
2003-2004 日本の旗 横浜F・マリノス 43 (3)
2005-2006 日本の旗 清水エスパルス 12 (1)
2006 日本の旗 柏レイソル(loan) 19 (2)
2007 日本の旗 柏レイソル 22 (2)
2008 日本の旗 ベガルタ仙台 27 (2)
2009-2014 日本の旗 V・ファーレン長崎 103 (13)
通算 361 (51)
代表歴
1994  日本 U-19
監督歴
2024- 日本の旗 FC東京U-18
1. 国内リーグ戦に限る。2014年11月23日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

佐藤 由紀彦(さとう ゆきひこ、1976年5月11日 - )は、静岡県富士市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)。

選手時代

小学1年生の時にサッカーを始める[5][6]。1992年に清水市商高へ進学。柔らかいボールタッチと卓越したパスセンスを武器に[7]、1993年の高円宮杯及び選手権を制した。1994年には背番号10を付け、総体優勝と高円宮杯を連覇。高円宮杯では両大会とも自身の得点が決勝点となった[8]。さらに国体でも連覇を経験[3]

1995年に高校を卒業し、鳴り物入りで[9]清水エスパルスに入団。しかし、クラブにとって絶対的存在のMF澤登正朗とポジションが重なったことに加え[10]、「地元出身のスター候補」という周囲からの扱いも重荷になり[11]、ベンチ入りも中々出来ずにいた。実戦機会を増やす為にブラジルのグレミオFBPAに長期留学に行かされるなど下積み時代が続き、サッカーの楽しさを感じられなくなりつつあった[9]

1998年に自ら志願して[9]ジャパンフットボールリーグモンテディオ山形期限付き移籍石崎信弘監督の下で攻撃の中心としてトップ下に据えられ、能力を開花させた[10]。ゲームメーカー兼フィニッシャーとして山形を開幕からシーズン中盤まで首位快走させる原動力となり、同年のJFL新人王およびベストイレブンを受賞した。

石崎は翌1999年より大分トリニータへと転任することになり、大分移籍、清水復帰、さらに他数クラブからの獲得の打診と争奪になったが[10][9]J1昇格を目指す熱意とサポーターの熱さに惹かれ[12]、清水に籍を残したままJ2FC東京へと期限付き移籍。大熊清監督からは縦への突破力とクロス精度を買われ[10]、山形で務めた司令塔役から右サイドのアタッカーへと転向することになった[11]。当初はプレーエリアや視野の違いに苦しんだが[10]、大熊やサポーターに認められるべく懸命に新ポジションでのプレーを続けて[12]攻撃を引っ張り、J1昇格が懸かる同年のJ2最終節では自身の右足クロスから加賀見健介の決勝点を導いた[9]。また、この年行われたナビスコカップではニューヒーロー賞に輝いた[注 1]。翌2000年に向けてはレンタル元の清水に戻る選択肢もあったが、フロント及びサポーターの熱心な引き留めを受けFC東京へと完全移籍した。この頃はまだ一般的な知名度が高くなかったため、国立競技場での選手紹介の際にスタジアムDJが「斉藤ユキヒコー!」と名前を間違えた事もあった。

2001年、新加入のMFケリーに一時ポジションを奪われたが[13]、全体練習後に長澤徹コーチの下でクロスを「常人ではありえないほど[12]」繰り返し蹴り込んで[14][15][5]向上を追及し[16][17]、5月になって布陣を変更してからはケリーがトップ下、佐藤が右サイドに入る形で先発に復帰[注 2]。長澤の助言を受けてオフ・ザ・ボールの動きも大きく向上し[14]、ケリーとのコンビネーションは、自ら「運命的な出会い」とコメントする程[18] 絶妙なものとなった[13]。同年9月にはフィリップ・トルシエ監督率いる日本代表候補に初選出[19]。リーグ戦終了後には優秀選手賞として表彰された[20]

2002年は負傷で出遅れていたところ[21]、新監督の原博実横浜F・マリノスからレンタル移籍で石川直宏を獲得。佐藤はシーズン後半に復帰したが石川の重用は続き、右サイドのポジションを奪い返せずにいた。同年末に入籍[22]

2003年は複数クラブからオファーを受ける中[5]、横浜FMの「優勝以外は失敗」という目標提示を意気に感じて[12][5]同クラブへ期限付き移籍[23]岡田武史監督の下でレギュラーに定着し、右サイドからFW久保竜彦らへ高精度のクロスを放って[24] アシストを量産[25][12][26]。クラブのJ1ファーストステージ・セカンドステージの完全制覇に貢献した。シーズン途中には石川と入れ替わる形で[27] 完全移籍へと移行[28]。しかし、2004年シーズン後半になると、田中隼磨の台頭によって控えに回ることも増えていた。

2005年には古巣の清水に移籍したが[29][3]、直後の負傷によって出遅れ、その後も若手の台頭もありなかなか出番がない状況が続いた。

2006年6月、恩師石崎[1] が監督を務めるJ2柏レイソルへ期限付き移籍[30]。先発出場は限られたが、同年のリーグ戦全試合にベンチ入りし[31][32]、FC東京在籍時以来2度目となるJ1昇格に貢献[26]。12月には柏へ完全移籍することが発表された[33]。石崎は佐藤を右サイドではなく、セントラルミッドフィールダーとしての適性を買っており、柏では山形でも務めていたトップ下や、ボランチでも起用された。2007年シーズンをもって契約満了となり退団。

2008年、J2ベガルタ仙台へ移籍[34][35]山形とのダービーマッチで移籍後初得点を挙げ[36]、持ち前の高精度のキックで[37] 短時間でも流れを引き寄せて得点につなげるジョーカーとして[38] 出場を続けた。同年クラブはJ1との入れ替え戦にまで進出したもののここで敗退しJ1昇格を逃した。12月にクラブから契約非更新が通知され、1年での退団を余儀なくされた[39]。仙台を去る際に残した言葉は次のようなものだった。「1年という短い間でしたが、喜びも哀しみも常にサポーターと共に味わえた自分にとって忘れられない2008年でした。今年からJFLのV・ファーレン長崎で再びサッカーが出来るチャンスをいただけました。この喜びをプレーで表現して、念願のJ2昇格に少しでも貢献出来たらと思います。最後にベガルタ仙台をこれからも愛し続けて下さい!ありがとうございました。」

Jリーグ合同トライアウト参加を経て[6]、2009年3月にJリーグ準加盟クラブであるJFLV・ファーレン長崎へ加入[40][41]。当初はDF(センターバック)に配されていたが前向きに取り組み[6][42]、本来の右サイドに戻ってからは得意のクロスで健在ぶりを見せた[2]。シーズン中盤にはゲームキャプテンを任され、2010年より正式に主将に就任[43]。スタジアムの不備によるJリーグ昇格断念など困難が続いたが[2]、チームメートからは厚い信頼を寄せられ[2]奮戦を続けた。2011年B級コーチライセンスを取得[44]。2013年よりクラブはJ2昇格を果たし、自身5年ぶりのJリーグでのプレーとなった。同年の出場機会は僅かとなったが、クラブにとってその存在は大きく[45] 精神面でも牽引を続けた。2014年限りで20年間に渡った現役を引退[4]

指導者時代

2015年、13年ぶりに[46] 古巣FC東京へ復帰し、普及部コーチに就任[47][48]

2016年シーズン途中から、FC東京U-15むさしのコーチに就任[49]。2019年にはFC東京トップチームのコーチとなった[50]

2024年、FC東京U-18の監督に就任したと発表された[51]

2026年から同チームコーチ[52]

人物

  • 2012年現在4児の父。
  • 率先して練習に取り組む姿はチームメートを惹きつけ[26]、FC東京在籍時のコーチであり移籍後も親交のある長澤徹からは、「サッカーに熱く、ひたすら練習する。しかも若手を引き連れて練習するため、(彼が行くチームは)どのチームもチーム力が上がり、力を落とさずに1シーズンを戦い抜ける」と評されている[53]
  • 実家は洋食料理店を営んでおり、子供の頃の将来の夢はシェフだった。インタビュー等で「もしサッカー選手になっていなかったら?」という問いには「100%、コックさん」とも答える[16]
  • 端正な顔立ち、右サイドから正確なクロスを上げる事から、FC東京在籍時に「東京のベッカム」、2003年に移籍した横浜F・マリノス所属時は「ハマのプリンス」とよばれた[54]
  • 甘いマスクの持ち主で、サポーターからも人気があるが、出場機会を求めてJ2や新旧JFLを含めて7クラブを渡り歩いた苦労人であり、ヒーローインタビューにおいて「J2は魂が磨かれる場所」という言葉を残した[55][56]
  • 2012年1月に第4子となる男の子が誕生。前年に亡くなった親友(松田直樹)の名を付け[57]、2013年2月23日に放送された『FOOT×BRAIN』内で、漢字違いの「なおき」という名前が表示されている。
  • 横浜FM在籍時のチームメートで同い年の松田直樹安永聡太郎と親友である[58]。2002年に横浜FM移籍を決めかねている際には、松田から「来年優勝しよう」「お前が来たら絶対優勝できる」と説得された[12]。2011年10月3日に安永とともに「一般財団法人松田直樹メモリアル」を設立。現役を続ける理由の一つとして、松田よりも1試合でも多く出場し、1年でも長くサッカーをやってやると挙げていた[59]。出場数は松田には及ばなかったが、松田よりも長く現役プロサッカー選手として在り続け、サッカー人生20年にあたる2014年に引退した。

所属クラブ

ユース経歴
プロ経歴

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1995清水-J10-0010
199610000010
19971200201030
1998山形7旧JFL2914-433317
1999FC東京14J235672424610
2000J12852000305
20012832000303
20021303000160
2003横浜FM72717130372
20041627110243
2005清水201211000131
20060000-00
42J2192-21213
200714J12223010262
2008仙台24J2272-20292
2009長崎28JFL233-20253
2010265-22287
201110324-10334
2012181-10191
2013J230-0030
201410-0010
通算日本J1 148142726018116
日本J2 8510728310015
日本旧JFL 2914-433317
日本JFL 9913-6210515
総通算 3615134424842163

その他の公式戦

国際大会個人成績
年度クラブ背番号出場得点
AFCACL
2004横浜FM740
通算AFC 40

その他の国際公式戦

代表歴

指導歴

  • 2015年 - 日本の旗 FC東京
    • 2015年 - 2016年 普及部 コーチ[48]
    • 2016年 - 2018年 U-15むさし コーチ[49]
    • 2019年 - 2023年 トップチーム コーチ[50]
    • 2024年 - 2025年 U-18 監督[51]
    • 2026年 - U-18 コーチ[52]

監督成績

年度クラブ所属リーグ戦
順位勝点試合
2024FC東京U-18プレミアリーグEAST10位26227510
20253位39221165
通算日本プレミアリーグEAST --44181115
総通算 --44181115

タイトル

クラブ

清水市立商業高等学校
横浜F・マリノス
V・ファーレン長崎
FC東京U-18

代表

静岡県選抜

個人

脚注

関連項目

外部リンク

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