名波浩

日本のサッカー選手、指導者 From Wikipedia, the free encyclopedia

名波 浩(ななみ ひろし、1972年11月28日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、解説者。元日本代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー

愛称 ナナ、名波くん、なっちゃん、773
カタカナ ナナミ ヒロシ
ラテン文字 NANAMI Hiroshi
国籍 日本の旗 日本
概要 名波 浩, 名前 ...
名波 浩
名前
愛称 ナナ、名波くん、なっちゃん、773
カタカナ ナナミ ヒロシ
ラテン文字 NANAMI Hiroshi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1972-11-28) 1972年11月28日(53歳)
出身地 静岡県藤枝市
身長 177cm
体重 70kg
選手情報
ポジション MF
利き足 左足
ユース
1988-1990 日本の旗 清水商業高校
1991-1994 日本の旗 順天堂大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1995-2008 日本の旗 ジュビロ磐田 301 (32)
1999-2000 イタリアの旗 ヴェネツィア (loan) 24 (1)
2006 日本の旗 セレッソ大阪 (loan) 13 (2)
2007 日本の旗 東京ヴェルディ (loan) 17 (0)
通算 355 (35)
代表歴2
1995-2001[1] 日本の旗 日本 67 (9)
監督歴
2014-2019 日本の旗 ジュビロ磐田
2021-2022 日本の旗 松本山雅FC
1. 国内リーグ戦に限る。2007年12月1日現在。
2. 2001年4月25日現在。
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Jリーグのジュビロ磐田セレッソ大阪東京ヴェルディ1969イタリアセリエAACヴェネツィアでプレーした。Jリーグベストイレブンを4度受賞。日本代表では背番号10番を着用し、1998年のフランスワールドカップに出場した経歴を持つ。マネジメントは株式会社ラボーナ。

選手経歴

静岡県藤枝市にて名波家4人兄弟の末子として出生。サッカーが盛んな藤枝市という環境と兄らの影響もあり、物心つくうちからサッカーに熱中する。この頃の浩は、時間があれば電話で友人を呼び出してサッカーに明け暮れていた。やや肥満気味でゲーム中あれこれ指図することから付けられたあだ名は「ジャイアン」。外でサッカーが出来ない時は兄らと自宅でボール蹴りに興じ、部屋の調度品を破壊していた。

藤枝市立西益津小学校に入学し、休み時間はサッカー、放課後は空き地や田圃、大手公園(通称チビッコ広場)で日が暮れるまでボールを蹴り、ディエゴ・マラドーナのプレーに衝撃を受け左足の技術を磨く。小学2年生時に実兄・豊の後に付き、西益津サッカー団のセレクションに参加した。当時のコーチを驚嘆させるほどのセンスに溢れた左足を持っていたが、入団の条件が小学3年生以上だったため落選。小学3年生時の再挑戦時には、更に技術に磨きがかかっていた。小学校4年生時、既に同世代との試合では圧倒的なプレーを見せていた浩は飛び級で年長チームに所属するようになった。この頃のポジションは左ウイング。

藤枝市立西益津中学校入学。中学2年生時でレギュラー獲得。「フィーバーした」と回想するほど対抗試合で勝ち続け、3年生で県予選優勝。

藤枝市立西益津中学校

サッカー熱で藤枝市と清水市の対立が激しかったこの当時、県選抜の仲間の大半が清水市立商業高校へ進学することを知った浩は「俺もキヨショーに行けば、さらに強いチームになる」と清水市立商業高校へ進学を希望した。その際に担任から藤枝市内にある全ての高校が入学を待ち望んでいると助言され1度は進路を保留するも、最終的に清商へ進学。

清水商業高等学校時代は大岩剛山田隆裕薩川了洋望月重良らと共に高校総体ユース選手権を制覇した。

順天堂大学入学、同大学サッカー部入団。在学中に五輪代表(U-23)に選ばれ、バルセロナ五輪アジア最終予選では3試合で途中出場した。サッカーの技術が上達しようとも、それだけでは生計が立てられない状況を諦観する中、JSLが1993年にJリーグと名を変え発足。次々と同世代がプロになっている事に焦り、親から200万円を借りてサッカーの海外留学を頼むも「大学を卒業する事が絶対条件」と却下された。同部では1部残留を辛うじて決め卒業した。

ジュビロ磐田

1995年にジュビロ磐田に加入。加入直後からレギュラー入りし、4月12日の柏レイソル戦でJリーグ初ゴールを決めた[2]

同年から加茂周監督率いる日本代表に招集。当初はクラブと同じ攻撃的MFで起用されていたが、アトランタ五輪後に前園真聖が日本代表に合流するタイミングで、ボランチにコンバートされた。その後中田英寿の台頭もあり、日本代表では主にボランチで起用された。

1998年のフランスW杯では、アジア地区予選から日本代表の一員として出場。背番号10番を付け、中盤の中心選手として本大会にも全試合に先発出場した。その後、右膝の怪我をするまでの約6年間、日本代表の10番として君臨した。名波本人は7番の着用を希望していたが、代表のスターティングメンバー選出時に10番を任され、困惑したというエピソードが存在する。ラモス瑠偉の後継となる10番だったが勝ち点が伸びずにメディアに叩かれ、更に国立競技場での対韓国戦では柳想鐵の執拗なマークに遭い、マークを外すだけで手一杯となり、体力を消耗、疲労したところで韓国に逆転負けを喫し、「名波はスタミナ不足、10番の器ではない」と評価される。しかし、走力、体力共に優っていた上、背番号で叩かれる理不尽さに業を煮やしていた名波は「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれるW杯出場を決めた試合直後に背番号10番のユニフォームをラルキン・スタジアムの観客の少年に投げ渡した。

フランスW杯後、フィリップ・トルシエ就任後も招集される。1999年のコパ・アメリカでは中田英寿が不在であったためトップ下を任されるも惨敗し、トルシエから「名波は一生リーダーにはなれない選手」と酷評された。

ACヴェネツィア

同年夏にイタリア・セリエAACヴェネツィアに移籍。ヴェネツィアは前年まで中心選手であったアルバロ・レコバが移籍し、その穴を埋めるべく左利きの攻撃的選手を求めていた。セリエA開幕戦のウディネーゼ戦では途中出場し、マニエーロの得点をアシストして移籍後初アシストを決めた[3]。10月28日のコッパ・イタリアペスカーラ戦での決勝ゴールが移籍後初ゴールとなった[4]。1月23日、第18節のウディネーゼ戦でリーグ戦初ゴールにして唯一のゴールを決めた[4]。24試合に出場したが、監督交代などの影響もあり、フル出場は少なく、ベンチ入りしても出場機会の無い試合や、僅かな出場時間しか得られない試合もあった[4]。コッパ・イタリアでは準決勝まで勝ち進むも、ラツィオに敗れ[4]、リーグ戦は16位に終わりクラブはセリエBに降格。契約上、クラブが降格すれば退団することが決まっていたため、翌年帰国し、磐田に復帰した。

ジュビロ磐田復帰

帰国後アジアカップのメンバーに招集され、「イタリア挑戦に失敗した自分を呼んで貰えて感謝している」とコメント。大会では名波を中心にした攻撃が機能し圧倒的な強さで優勝、名波自身もMVPを獲得する。コパアメリカで名波を酷評したトルシエ監督も称賛を惜しまなかった。 またクラブでは2001年に通称『N-BOX』と呼ばれる新フォーメーションが機能し黄金期を迎える。しかし2001年に右膝半月板を痛め代表から長期離脱。トルシエ監督や国民からW杯までの復帰が待ち望まれる中、10月の欧州遠征(セネガル及びナイジェリアと対戦)のメンバーに招集され同行するも、怪我の再発が確認され試合に出場しないまま再び離脱。2002年日韓W杯の日本代表からも外れる。本人は「怪我をして外れたのではなく、実力がなかったから外された」と自分を戒めたが、実際は怪我からの復調が芳しくなかったためである。

ジーコ監督就任後、初の試合となったジャマイカ戦に招集された(背番号は8番。10番は中村俊輔が着用。)が出場は無く、その後は招集されることはなかった。一方、クラブではその後もジュビロの中心選手となり、2002年のJリーグ完全優勝(1st、2nd両ステージ制覇)にも大きく貢献した。

セレッソ大阪

2006年はチームの若返りを進める山本昌邦監督の下で次第に出場機会を減らし、山本昌邦の監督辞任によって就任したアジウソン監督でも状況は変わらなかった。出場機会を求め、8月15日付で、当時最下位で降格の危機に瀕していたセレッソ大阪へチーム立て直しのために、2007年1月31日までの期限付き移籍を決断。名波加入前はシーズンでわずか1勝だったが、加入後は入れ替え戦出場を争うまでに調子を上げていったが、最終的に降格してしまう。11月26日の大宮戦で、史上23人目のJリーグ通算300試合出場を達成した。

東京ヴェルディ

2007年1月16日、磐田から東京ヴェルディ1969へ、2007年2月1日から2008年1月31日までの期限付き移籍をすることが発表された。サッカーダイジェストのインタビューなどでは、2007年シーズンをもって引退する事を匂わすコメントをしていたが、出場機会にあまり恵まれず不完全燃焼であったことや、磐田側からも復帰の要請があったことから2007年12月8日に「2008年シーズンは磐田に現役選手として復帰する」ことが発表された。

ジュビロ磐田再復帰

2008年11月12日、2008年シーズン限りでの引退を表明。2009年シーズンのコーチ就任は断ったが、「40歳過ぎぐらいに監督になりたい」と、語っている。

引退後

現役引退後はジュビロ磐田のアドバイザーを務め、2009年4月5日より、テレビ朝日のサッカー情報番組『やべっちF.C.』のレギュラーになった。また、BS朝日スカパー!などのサッカー中継での解説も務めている。テレビ朝日での中継時にはピッチ上から解説を行う。2011年のAFCアジアカップの決勝に代表されるように、放送席で解説を務める松木安太郎セルジオ越後は興奮すると我を忘れてしまうことが非常に多くなるため(居酒屋中継と言われる)、ピッチから冷静かつ的確に解説を行う名波の存在が欠かせないものとなっていた。2012年3月11日、東京ヴェルディ1969時代のチームメイトで栃木SCドリームアンバサダーを務める佐藤悠介が主催した「3.11悠介ドリームズメモリアルゲーム」に選手兼監督として出場した[5]

指導者経歴

ジュビロ磐田

2014年9月25日、ペリクレス・シャムスカの後任としてジュビロ磐田の監督に就任した[6][7]9月28日に行われ初陣となった愛媛FC戦では、前田遼一と8試合ぶりの先発に起用した松浦拓弥の得点で2-0で勝利を収め[8]、同日に2009年よりレギュラー出演していた『やべっちF.C.』に出演し、同番組を卒業した[9]。初戦には勝利したが就任後の9試合を2勝5分2敗の4位で終えたためJ1自動昇格圏には届かず、J1昇格プレーオフ準決勝ではモンテディオ山形に対して後半アディショナルタイムで失点を喫し敗れ、磐田の1年でのJ1復帰を逃した。名波自身の目から見た監督就任時のチーム状況については「個々のレベル・サッカーの質は想定の範囲内だったが、選手たちの勝ちに対する飢えと負けたくないという気持ちがこんなに希薄だとは思わなかった」[10] と就任初年度の感想を述べた。

2015年シーズンは前田、山崎亮平といった攻撃的なポジションを務める選手が移籍し、苦しい流出が続いた[11] が、新加入のジェイアダイウトン、GKのカミンスキーといった外国人選手の活躍や若手の小林祐希川辺駿の飛躍もあり、11月24日に行われたJ2最終節大分トリニータ戦に勝利し、アビスパ福岡と勝ち点82と並んだが得失点差で2位となり3年ぶりのJ1復帰が決定した[12]。前述の通り加入した外国人3人全員がチームにフィットしたが、名波は3選手の人柄を3人を知る関係者に聞き、プレーに関しても良いプレーを編集した動画だけでは無く、その選手が出場している試合をフルで観て獲得に動いているとインターネット番組『footi』で話している[13]

2016年シーズンは、最終節まで残留争いをして13位でシーズンを終えたが、チームの最低目標でもあったJ1残留を達成[14]

2017年シーズンは、昨季のチーム得点王だったジェイが退団に対して、中村俊輔川又堅碁が加入するも、中村が39歳という大ベテランという点や川又が前年名古屋グランパスで5得点しか挙げてない事など、シーズン前は批判的な声もあったが、1年目にしてチームの中心となった中村や川又のシーズン14得点[15]など新加入選手が活躍。11年ぶりの5連勝[16]や16年ぶりのリーグ最少失点を更新[17]などオフェンスとディフェンスが躍動し、最終的にはACL出場圏内を争った。結局ACL出場圏内には入れなかったものの、リーグ6位でシーズンを終了[18]。開幕前に「得失点プラマイ0」を目標と公言していた中で、それを大きく上回るシーズンとなった。

2018年シーズンは、前年の結果以上の「トップ5」を目標にスタートしたが、アダイウトンやムサエフの長期離脱や前年セットプレーからの得点に多く貢献した中村俊輔の怪我などが影響し、昨シーズン総得点50点だったものが、35点とリーグワースト2位の得点力となった[19]。シーズン途中には得点力を上げるため得点王の経験もある大久保嘉人が加入したが、調子は上がらず最終節を前にしてJ1残留圏内の13位に付けていた。しかし、最終節で川崎に引き分ければ残留が決まったが、ロスタイムにオウンゴールで逆転負けとなり、どちらかが勝てば磐田の残留が決まる14位湘南と16位名古屋の試合が引き分け、この結果により13位から16位に転落し、5チームが勝ち点「41」を取りながらも得失点差でJ1参入プレーオフにまわる結果となった[20]。プレーオフでは東京ヴェルディと戦い、2-0で勝利を収めJ1残留を決めた。12月8日、J1参入プレーオフ終了後の記者会見で「このゲームに至った責任は全て僕にある」と語り、来季の続投に関して明言しなかったが[21][22]、磐田社長の木村と強化本部長の服部の慰留を受け、続投することが複数のメディアから報じられた[23][24]。2019年1月12日、磐田の公式ホームページ上にて、2019年シーズンも監督を務めることが発表された[25]

2019年シーズンも第16節終了時点でチームはリーグ17位と低迷。6月30日に行われた第17節の川崎フロンターレ戦で敗れた後、自らけじめをつけるためサポーターのもとへ行き、磐田のコールリーダーに辞任する旨を伝え[26]、試合後の会見で監督を辞任することを発表した[26][27]。同日付で磐田と監督契約の解除で合意し、退任することが発表された[28]。この会見の前日、あるJリーグクラブの監督に辞任することを伝えた際に「まだやるよな」と言われ、「やります、前向きですよ」と伝え、退任後もサッカー人生を続けていくことを明かしている[26]

2020年12月10日、浜松市やらまいか大使に委嘱された[29]

松本山雅FC

2021年6月21日、J2松本山雅FC柴田峡監督解任を受け同チームの監督に就任が発表された。伊藤翔など実績あるストライカーの補強などで辣腕を振るうなどしたが、チームを立て直せず松本はJ3降格の憂き目を見た。奇しくも降格決定した11月28日は名波の誕生日である。2022年シーズンも松本がJ3降格後も続投が発表されたが、名波がコロナ感染となってしまい、チームは最終節(J3・第34節)で1年でのJ2復帰を逃した。シーズン終了後、契約期間満了に伴い退任[30]することが決まった。

日本代表

2023年、日本代表のコーチに就任することが発表された[31]

プレースタイル

ボランチのポジションから長短の繊細なパスを繰り出すゲームメーカー。高校、大学、ジュビロ入団当初まではトップ下でプレーしていたが、日本代表で加茂周監督に展開力と守備への適性を買われ、ボランチへコンバートされる。以後、代表やドゥンガ退団後の磐田では中盤の底に位置して、ゲームの流れをコントロールする役割を果たした。

ボールタッチやキックのほとんどを左足で行うレフティ[32]。右足でボールを扱うことはほとんどせず、右サイドに流れた時にでも無理やり左足でセンタリングを上げたこともあった。自ら「右足はつっかえ棒」「右足でパスを出すときはむしろゲーム運びがうまくいっていないと見たほうがいい」とも発言している。ジュビロへの入団会見では「自分の左足の下にボールがあるときは注目してほしい」と宣言し、引退会見では「『左の名波』『名波の左足』という自分の最も好きなフレーズが14年間で浸透できたのが自信になる」と振り返った[33]。ちなみにJリーグ公式戦において「右足で決めたゴール」はわずかに「1」であった。

2001年に負った膝の怪我の影響で連戦に耐えられないという噂については「自分のコンディションよりも、むしろピッチコンディションが問題。それさえ整えばできなくはない[34]」とコメントしている。しかし、引退発表後には膝の状態が悪いところをチームメイトに見せないよう、ホテルの宿泊部屋でも配慮していたことを明かしている[35]

エピソード

  • 同じ高校の一学年先輩である藤田俊哉を尊敬し、自他共に彼のプレーを一番理解していた人物であると評する。「入団時は3クラブからオファーがあった。金銭面では磐田は一番下だったけれど、俊哉がいるから磐田に入った[34]」とのコメントを残している。しかし、藤田との個人的な付き合いは高校時代から今に至るまでほとんど無く、「俺が個人的に一番仲がいいのは同級の大岩剛[34]」とのコメントもある。
  • 「試合を見る眼」については自信があると述べ、「現役を辞めたらサッカー誌で採点の仕事でもさせてもらおうかと思うことがある」「サッカーマガジンの採点よりは公平に見られる」という発言をしたことがある[34]
  • イタリア挑戦の際の記者会見で、「自分に足りないものがイタリアにあると思っているので、それを見つけに行きたい。」とコメント。しかしこれは、コメントを求められた時に咄嗟に出た心にもない言葉であり、挑戦を終えて帰国時に記者に「足りないものは見つかりましたか?」と質問され困った。この話をバラエティ番組で「見つかるわけねぇって」と笑い話として語った。
  • 監督就任後は試合中に大声を出し過ぎて喉を潰さないよう、頻繁に給水しをなめている[36]。この行動がサポーターを中心に話題となり、TV番組の企画で専用の「名波飴」まで作られた[37]

所属クラブ

ユース経歴

プロ経歴

個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1995磐田-J513-20533
199630314110454
199772152021256
19983372030387
1999J115420-174
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
1999-00ヴェネツィア7セリエA24171-312
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2000磐田16J151002071
200171714000211
20022415000291
20032735051374
20042935030373
20052612020301
200610040-140
C大阪16132-00132
2007東京V7J2170-10180
2008磐田16J11303020180
通算日本J1 3143448122238437
日本J2 170-10180
イタリアセリエA 24171-312
総通算 3553555223243339
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その他の公式戦

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国際大会個人成績
年度クラブ背番号出場得点
AFCACL
2004磐田731
200530
通算AFC 61
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その他の国際公式戦

代表歴

出場大会など

  • 1996年 AFCアジアカップ UAE大会
  • 1998年 FIFAワールドカップ フランス大会
  • 1999年 コパ・アメリカ パラグアイ大会
  • 2000年 ハッサン2世国王杯
  • 2000年 AFCアジアカップ レバノン大会

試合数

  • 国際Aマッチ 67試合 9得点(1995年 - 2001年)[1]
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日本代表国際Aマッチ
出場得点
199522
1996131
1997213
1998110
199960
2000123
200120
200200
通算 679
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出場

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No.開催日開催都市スタジアム対戦相手結果監督大会
1.1995年08月06日日本の旗京都府京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場 コスタリカ○3-0加茂周国際親善試合
2.1995年10月24日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 サウジアラビア○2-1デサント・アディダスマッチ
3.1996年02月10日オーストラリアの旗ウォロンゴン オーストラリア○4-1国際親善試合
4.1996年02月14日オーストラリアの旗メルボルン オーストラリア●0-3国際親善試合
5.1996年02月19日香港の旗香港 ポーランド○5-0カールスバーグカップ
6.1996年02月22日香港の旗香港 スウェーデン△1-1(PK4-5)カールスバーグカップ
7.1996年05月26日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ユーゴスラビア○1-0キリンカップ
8.1996年05月29日日本の旗福岡県東平尾公園博多の森球技場 メキシコ○3-2キリンカップ
9.1996年08月25日日本の旗大阪府長居陸上競技場 ウルグアイ○5-3国際親善試合
10.1996年09月11日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ウズベキスタン○1-0JFA75周年記念試合
11.1996年10月13日日本の旗愛知県神戸総合運動公園ユニバー記念競技場 チュニジア○1-0プーマカップ
12.1996年12月06日アラブ首長国連邦の旗アル・アイン シリア○2-1アジアカップ
13.1996年12月09日アラブ首長国連邦の旗アル・アイン ウズベキスタン○4-0アジアカップ
14.1996年12月12日アラブ首長国連邦の旗アル・アイン 中華人民共和国○1-0アジアカップ
15.1996年12月15日アラブ首長国連邦の旗アル・アイン クウェート●0-2アジアカップ
16.1997年02月09日タイ王国の旗バンコク タイ△1-1キングスカップ
17.1997年02月13日タイ王国の旗バンコク スウェーデン●0-1キングスカップ
18.1997年03月15日タイ王国の旗バンコク タイ●1-3国際親善試合
19.1997年03月23日オマーンの旗マスカット オマーン○1-0ワールドカップ予選
20.1997年03月25日オマーンの旗マスカット マカオ○10-0ワールドカップ予選
21.1997年03月27日オマーンの旗マスカット ネパール○6-0ワールドカップ予選
22.1997年05月21日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 韓国△1-1ワールドカップ記念試合
23.1997年06月08日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 クロアチア○4-3キリンカップ
24.1997年06月15日日本の旗大阪府長居陸上競技場 トルコ○1-0キリンカップ
25.1997年06月22日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 マカオ○10-0ワールドカップ予選
26.1997年06月25日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ネパール○3-0ワールドカップ予選
27.1997年06月28日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 オマーン△1-1ワールドカップ予選
28.1997年09月07日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ウズベキスタン○6-3ワールドカップ予選
29.1997年09月19日アラブ首長国連邦の旗アブダビ アラブ首長国連邦△0-0ワールドカップ予選
30.1997年09月28日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 韓国●1-2ワールドカップ予選
31.1997年10月04日カザフスタンの旗アルマトイ カザフスタン△1-1ワールドカップ予選
32.1997年10月11日ウズベキスタンの旗タシケント ウズベキスタン△1-1岡田武史ワールドカップ予選
33.1997年10月26日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 アラブ首長国連邦△1-1ワールドカップ予選
34.1997年11月01日大韓民国の旗ソウル 韓国○2-0ワールドカップ予選
35.1997年11月08日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 カザフスタン○5-1ワールドカップ予選
36.1997年11月16日マレーシアの旗ジョホールバル イラン○3-2(延長V)ワールドカップ予選
37.1998年02月15日オーストラリアの旗アデレード オーストラリア○3-0国際親善試合
38.1998年03月01日日本の旗神奈川県横浜国際総合競技場 韓国○2-1ダイナスティカップ
39.1998年03月07日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 中華人民共和国●0-2ダイナスティカップ
40.1998年04月01日大韓民国の旗ソウル 韓国●1-2ワールドカップ記念試合
41.1998年05月17日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 パラグアイ△1-1キリンカップ
42.1998年05月24日日本の旗神奈川県横浜国際総合競技場 チェコ△0-0キリンカップ
43.1998年06月03日スイスの旗ローザンヌ ユーゴスラビア●0-1国際親善試合
44.1998年06月14日フランスの旗トゥールーズ アルゼンチン●0-1ワールドカップ
45.1998年06月20日フランスの旗ナント クロアチア●0-1ワールドカップ
46.1998年06月26日フランスの旗リヨン ジャマイカ●1-2ワールドカップ
47.1998年10月28日日本の旗大阪府長居陸上競技場 エジプト○1-0フィリップ・トルシエキリンチャレンジ
48.1999年03月31日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ブラジル●0-2キリンビバレッジ
49.1999年06月03日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ベルギー△0-0キリンカップ
50.1999年06月06日日本の旗神奈川県横浜国際総合競技場 ペルー△0-0キリンカップ
51.1999年06月29日パラグアイの旗アスンシオン ペルー●2-3コパ・アメリカ
52.1999年07月02日パラグアイの旗アスンシオン パラグアイ●0-4コパ・アメリカ
53.1999年07月05日パラグアイの旗ペドロ・ファン・カバジェロ ボリビア△1-1コパ・アメリカ
54.2000年02月05日香港の旗香港 メキシコ●0-1カールスバーグカップ
55.2000年03月15日日本の旗愛知県神戸総合運動公園ユニバー記念競技場 中華人民共和国△0-0キリンビバレッジ
56.2000年04月26日大韓民国の旗ソウル 韓国●0-1国際親善試合
57.2000年06月04日モロッコの旗カサブランカ フランス△2-2(PK2-4)ハッサン2世杯
58.2000年06月06日モロッコの旗カサブランカ ジャマイカ○4-0ハッサン2世杯
59.2000年10月14日レバノンの旗サイダ サウジアラビア○4-1アジアカップ
60.2000年10月17日レバノンの旗サイダ ウズベキスタン○8-1アジアカップ
61.2000年10月20日レバノンの旗ベイルート カタール△1-1アジアカップ
62.2000年10月24日レバノンの旗ベイルート イラク○4-1アジアカップ
63.2000年10月26日レバノンの旗ベイルート 中華人民共和国○3-2アジアカップ
64.2000年10月29日レバノンの旗ベイルート サウジアラビア○1-0アジアカップ
65.2000年12月20日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 韓国△1-1キリンビバレッジ
66.2001年03月24日フランスの旗サンドニ フランス●0-5国際親善試合
67.2001年04月25日スペインの旗コルドバ スペイン●0-1国際親善試合
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ゴール

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#日付開催地対戦国結果試合概要
1.1995年8月6日日本京都市コスタリカの旗 コスタリカ○ 3-0親善試合
2.1995年10月24日日本、東京サウジアラビアの旗 サウジアラビア○ 2-1
3.1996年12月9日UAEアル・アインウズベキスタンの旗 ウズベキスタン○ 4-0AFCアジアカップ1996
4.1997年3月25日オマーンマスカットマカオの旗 マカオ○ 10-01998 FIFAワールドカップ・アジア予選
5.
6.1997年11月1日韓国ソウル市大韓民国の旗 韓国○ 2-0
7.2000年10月14日レバノンサイダサウジアラビアの旗 サウジアラビア○ 4-1AFCアジアカップ2000
8.2000年10月24日レバノン、ベイルートイラクの旗 イラク○4-1
9.
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個人タイトル

引退試合(ミスターレフティ メモリアルマッチ )

2010年1月10日
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ステッレ・ジュビロ 5 - 4 アズーリ・ジャポーネ
川口信男 18分にゴール 18分
名波浩 58分にゴール 58分
中山雅史 68分にゴール 68分
 高原直泰 85分にゴール 85分
 名波浩 89分にゴール 89分
三浦知良 19分にゴール 19分
秋田豊 25分にゴール 25分
三浦知良 42分にゴール 42分
前園真聖 52分にゴール 52分
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エコパスタジアム
観客数: 43,077人
主審: 上川徹

ステッレ・ジュビロ(STELLE JUBILO)

  • ジュビロ磐田が完全優勝を果たした黄金時代(2002年)のメンバーを中心にメンバー編成されている、チーム名は「ジュビロの星達」という意味。

1.大神友明、2.鈴木秀人、3.大岩剛、4.河村崇大、5.田中誠、6.服部年宏、7.名波浩、8.成岡翔、9.中山雅史、10.藤田俊哉、11.松原良香、12.山本浩正、13.川口信男、14.山西尊裕、15.森下仁志、16.脇田寧人(ペナルティ)、17.桜井和寿(Mr.Children)、18.清水範久、19.三浦文丈、20.大井健太郎、23.福西崇史、29.奥大介、32.高原直泰

アズーリ・ジャポーネ(AZZURRI GIAPPONE)

  • 名波が背番号10を背負って出場したフランスワールドカップのメンバーを中心にメンバー編成されている、チーム名は「青の日本」という意味。

1.佐藤洋平、2.名良橋晃、3.相馬直樹、4.井原正巳、5.柱谷哲二、6.山口素弘、7.中田英寿、8.北澤豪、9.中山雅史、10.名波浩、11.三浦知良、12.澤登正朗、13.望月重良、14.岡野雅行、15.森島寛晃、16.本田泰人、17.秋田豊、18.城彰二、19.中西永輔、20.西澤明訓、21.小村徳男、22.平野孝、23.前園真聖、24.土田晃之、99.矢部浩之(ナインティナイン)

エピソード

  • この試合の開催スポンサー、メンバー交渉、スタメン、出場時間など名波のメイキングによって行われている。名波は前半はジャポーネ、後半はジュビロで出場。試合前の国歌斉唱はMr.Children桜井和寿が行った。4-4の終了間際、ジュビロは桜井が起点となりチャンスを作ると、服部年宏のクロスに名波が左足で合わせ華麗なボレーシュートを決めジュビロが逆転、その瞬間、両軍から胴上げされ試合終了となった。なおMIPに選ばれた三浦知良はMIP表彰時には既に完璧なスーツ姿に着替えていた。MVPには同時に引退を表明した鈴木秀人が選ばれた。会場にはセレッソ大阪のサポーターも駆けつけ「セレッソに居たこと、それも真実」と名波に声援を送っていた。

指導歴

監督成績

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年度クラブ所属リーグ戦カップ戦
順位勝点試合ルヴァン杯天皇杯
2014磐田J24位119252--
20152位824224108-2回戦
2016J113位363481214予選リーグ3回戦
20176位583416108予選リーグベスト8
201816位4134101113PO敗退ベスト8
201918位1417359PO敗退-
2021松本J222位15233614-3回戦
2022J34位66342068-2回戦
通算日本J1--119373844--
日本J2--74292124--
日本J3--342068--
総通算 --227866576--
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  • 2014年は9月からの就任
  • 2019年は6月まで
  • 2021年は6月からの就任


関連情報

単著

  • NANAMI 終わりなき旅幻冬舎、2001年。ISBN 978-4344001282http://www.gentosha.co.jp/book/b447.html
  • 『名波浩対談集 日本サッカーが勝つためにすべきこと』集英社、2010年。ISBN 978-4087805697

共著

関連書籍

脚注

関連項目

外部リンク

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