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倉本聰

日本の脚本家、演出家 (1935 - 2026) From Wikipedia, the free encyclopedia

倉本 聰(くらもと そう、1935年〈昭和10年〉1月1日[1][注 1] - 2026年〈令和8年〉9月18日[3][4][5])は、日本の脚本家、劇作家、演出家。本名は山谷 馨(やまや かおる)[1]。

本名 山谷 馨(やまや かおる)[1]
誕生日 (1935-01-01) 1935年1月1日[1]
死没日 (2026-09-18) 2026年9月18日(91歳没)
概要 くらもと そう倉本 聰, プロフィール ...
くらもと そう
倉本 聰
プロフィール
本名 山谷 馨(やまや かおる)[1]
誕生日 (1935-01-01) 1935年1月1日[1]
出身地 大日本帝国の旗 大日本帝国 東京府東京市渋谷区
死没日 (2026-09-18) 2026年9月18日(91歳没)
死没地 日本の旗 日本 北海道富良野市
主な作品
テレビドラマ 『前略おふくろ様』シリーズ
『大都会 闘いの日々』
『さよならお竜さん』
『北の国から』
『昨日、悲別で』
『ライスカレー』
『火の用心』
『優しい時間』
『風のガーデン』
『やすらぎの郷』
映画 『駅 STATION』
受賞
受賞歴参照
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ニッポン放送勤務を経てフリーとなった。おもにテレビドラマの脚本家として活躍し、東京から北海道へと居を移して、『前略おふくろ様』『北の国から』など多くの作品を手がけた。1977年(昭和52年)より富良野市に在住し、主宰した「富良野塾」にて26年間にわたり後進を指導した。

経歴

1935年(昭和10年)1月1日[注 1]、俳人で日新書院取締役の山谷太郎を父として、東京府東京市渋谷区代々木で誕生した。母は太郎の後妻で[6]、両親はともにクリスチャンだった[7]。祖父は医学博士、日新医学社社長の山谷徳治郎、大伯父は衆議院議員の山谷虎三という家柄である。

父祖地は岡山県[6]。分家した祖父の代で東京に進出し、家は医学雑誌の出版や新薬の販売を代々手がけてきた。父の山谷太郎は自ら興した自然科学系の出版社を営むかたわら、水原秋桜子門下の俳人でもあった[6][8]。

太平洋戦争中は山形県上山市や岡山県浅口郡金光町(現:浅口市)に疎開した[9][10]。このうち、上山への疎開は政府が実施した学童集団疎開によるもので、都会育ちの倉本はカルチャーショックを受けた。東京に帰りたいと考えた倉本は仮病を使い、数か月後には東京に戻ることに成功した[11]。この体験を、『北の国から』の最初の連続シリーズにおいて純が東京に帰りたがって起こす行動のヒントにしたと記している[12]。また、金光へは1945年(昭和20年)4月から1年間、一家6人で疎開していた[13]。

東京学芸大学附属小金井小学校から麻布中学校・高等学校へ進学した。中学時代より加藤道夫に私淑して演劇に夢中になり、2年続けて浪人した[6]。東京大学に合格後もほとんど学校に行かず、俳優座のスタジオ劇団「劇団仲間」の文芸部に所属して戯曲を書き始めた[6]。大学2年の時にデビュー作「鹿火」が青森放送ラジオで放送され、大学4年の時には新日本放送(現:MBSラジオ)から依頼されたラジオドラマの脚本(牧逸馬原作「この太陽」)を執筆した[14]。1959年(昭和34年)、東京大学文学部美学科を卒業した。同年、ニッポン放送に入社した。フジテレビが第一志望だったが、この年はフジテレビ・ニッポン放送・文化放送の3社が合同で新卒採用を行っており、フジテレビの親会社であるニッポン放送に配属されたという。

ニッポン放送では本名でディレクターやプロデューサーとして勤務するかたわら、「倉本聰」のペンネームで脚本家として活動した[15]。ペンネームの由来は、父祖地の岡山での本家の屋号「蔵本」(「蔵元」とする資料もある)に、妹の名前「聰子」から一字もらってつけたものである[6]。

『パパ起きて頂だい』(日本テレビ)が脚本家デビュー作となった。脚本家活動は会社に内緒で、当時は夜10時に会社を出て帰宅してから脚本を書き、午前4時ごろに就寝、2時間ほどの睡眠で出社する毎日だった[16]。

1963年(昭和38年)にニッポン放送を退社した。その経緯について倉本は、後にインタビューで「ニッポン放送には内緒でペンネームを使って脚本家をやっていた負い目から、ニッポン放送で担当していた番組には(脚本家同士として顔見知りである)若手の脚本家ではなくベテランの脚本家ばかり起用していたが、それを上司に咎められたうえ『最近倉本って若手が出てきたから一度会って来い』と命じられ、そろそろ潮時だと思った」と語っている[17]。また他のインタビューでは「(2時間睡眠の生活を)2年も続けると『もたない』と思いました」と語っており、掛け持ちを続けるのは体力的にも限界だったことがうかがえる[16]。岡田茂の自伝では、倉本がニッポン放送のラジオのライターで一生終わりたくないと、東映に籍を置かせてほしいと中島貞夫を介して岡田に頼んできたと記されている[18]。

東京でフリーの脚本家となり、水の江瀧子を介して日活と契約し、また東映で中島貞夫の監督映画の脚本を担当した。1974年(昭和49年)のNHK大河ドラマ『勝海舟』制作に際し、脚本家の演出関与の是非をめぐる問題がこじれたことから脚本を途中で降板した。同年6月、取材を受けた週刊誌『ヤングレディ』の記事がNHKを批判する内容に変わっていたため、最終稿まで確認して記事を修正したが、広告の見出しが「倉本聰氏、『勝海舟』を内部から爆弾発言」と修正されないまま掲載されたことがきっかけだった。当時の制作局長には軽率を謝罪したが、20 - 30人から吊るし上げられ[19]、その日のうちに東京を離れて千歳空港へ飛び、そのまま北海道札幌市に転居した。NHKとはこの後いったん和解し、1979年(昭和54年)に単発正月ドラマ『年の始めの』を書きおろしたが、演出姿勢に不満を漏らして再び絶縁となり、1999年(平成11年)の『玩具の神様』で復帰した。

北海道行きについては、NHKでの吊し上げを受けて「気がついたら千歳空港にいた」と、『読売新聞』記者による2023年(令和5年)の取材で回想している。北海道への思い入れは「自分でもよくわからない」としつつ、「負けた時は、人は北に行くんですよね。敗北って言うでしょ。人に言われてそんなものかなと思った」と語っている[20]。

1977年(昭和52年)、道内の富良野市に移住した[21][注 2]。1981年(昭和56年)、富良野を舞台にした家族ドラマ『北の国から』で話題を呼んだ。ほかに近隣にある歌志内市、上砂川町を舞台とした『昨日、悲別で』の脚本、富良野を舞台に父子の絆の断絶と再生を描く『優しい時間』の原作など、北海道を舞台とした数々のドラマでも知られるようになった。

1986年(昭和61年)、監督・脚本を担当した映画『時計 Adieu l'Hiver』が公開された[注 3]。

若手の俳優と脚本家を養成するため、1984年(昭和59年)に富良野市布礼別にて「富良野塾」を私財を投じて開設し[24]、26年にわたって主宰した。

また、富良野塾の活動を受けて市民によって設立されたNPO法人「ふらの演劇工房」にも深く関わり、同市に建てられた劇場「ふらの演劇工場」にも大きく貢献した。2005年(平成17年)には、閉鎖された富良野プリンスホテルゴルフコースに植樹して、同地を自然の森に戻そうとするNPO法人「C・C・C富良野自然塾」を開設し、その塾長に就任した[21][25]。富良野塾は、倉本の体力の限界を理由として2010年(平成22年)3月末をもって閉塾することが2007年(平成19年)3月末の卒塾式で発表され[24]、発表どおり2010年(平成22年)に26年の歴史に幕を閉じた。閉塾後は卒塾生を中心に再編された「富良野GROUP」にて全国公演の脚本・演出を手がけ、2016年(平成28年)の『屋根』全国公演を最後に演出から退き、脚本に専念する意向を示した[26]。

2010年(平成22年)4月、北海道教育大学旭川校で演劇講座を監修した。

2017年(平成29年)の富良野GROUP特別公演『走る』を最後に演劇活動から引退を表明し、脚本制作に専念した[27]。3月7日の富良野演劇工場での大千秋楽公演後のカーテンコールに登壇し、「今回で私は長い休息に入ろうと思います」と語った。また、「この演劇工場がある限り、富良野GROUPももう少し何らかの形で皆さんに感動を届けていく仕事をしたいと思っている」として、稽古で指導に用いていた鞭を久保隆徳に託した[28][29]。

同年4月には、「テレビ局は若者向けのドラマばかり作っているから年寄りは見ても面白くない。だから、ゴールデンタイムに対抗する『シルバータイム』を作ろう」とテレビ局へ働きかけ、テレビ朝日が新設した帯ドラマ枠「帯ドラマ劇場」にて、テレビ全盛期を担った俳優・作家・ミュージシャンなどが入居する老人ホームを舞台に、現在のテレビの在り方に対する批判も盛り込んだ『やすらぎの郷』を執筆した[30][31]。

2024年(令和6年)11月22日、36年ぶりの映画脚本となる『海の沈黙』が公開され、映画での遺作となった。テレビ朝日はドラマの遺作となる『神様からの遺言』を2027年に放送する予定である[32]。

富良野演劇工場に隣接する民有地に、「北の国から」「倉本聰の人生」「富良野塾」「点描画」など6テーマを掲げた倉本聰の関連資料の展示施設「倉本聰ミュージアム-北の国から-」の開設が構想されている[33]。

かつては山田太一や向田邦子と合わせて「シナリオライター御三家」と呼ばれた[34]。

2026年(令和8年)9月18日夕方、多臓器不全のため北海道富良野市の自宅で死去した[35][36]。91歳没。訃報は同月28日、自身が理事長を務めた「倉本財団」が公表した[36][37]。最後に公的な場に姿を見せたのは、同年8月29日に富良野演劇工場で行われた「第90夜・富良野やすらぎの刻~倉本聰プライベートライブラリー」だった[38][39]。『北の国から』の舞台となった麓郷の森には死去を悼むファンらが訪れ、旧布部駅には祭壇が設けられた[40]。

人物

  • 煙草(ラーク・マイルドやパイプ)とコーヒーを好むことで知られる。18歳のころから喫煙を始めており、喫煙量は1日に60本から80本と語っている[41][42][43][44]。受動喫煙防止を目的とした禁煙化が進む風潮を「禁煙差別」と称して批判しており、受動喫煙防止条例を制定した神奈川県や、生活環境条例により路上喫煙を禁止している東京都千代田区へは足を踏み入れないようにしているという[45]。ただし、死の直前の2年間は禁煙していたという[46]。
  • 演劇では脚本・演出をひとりでこなしている。
  • お香を好み、仕事中はお香をたいている。愛飲している酒の一つに「ジャックダニエル」がある[47]。
  • 西田ひかるのファンで、愛犬に「ニシダ」という名前をつけている[48]。「メイサ」と名付けた愛犬もいる。
  • ライフワークとして、森の樹木を題材とした点描画を描いている。ドラマ脚本に携わる中でスタッフとイメージを共有するため劇中のシーンのイメージを絵コンテで描いたことを契機に絵にのめり込み、デッサンを学んだ後、「影の濃淡を点の密度や強さで出せないか」として点描画へと進んだ。徹底的な人物描写を得意とする脚本と同様に、樹木1本1本の個性や歴史に着目し、その心の声を独自の表現法により点描画で表している。「森のささやきが聞こえますか 倉本聰の仕事と点描画展」と題した個展を各地で開催している[49][50]。
  • 今の日本のドラマについては、「幼稚化の極みにある」「大人の鑑賞に堪えうるドラマがなくなった。その原因の一つは、役者がいなくなったこと。もう一つはシナリオが良くないこと」「原作を探す場合も、今の制作者は小説よりもマンガから話を探してくることが多くなった。プロデューサーたちに小説を読み込む能力がなくなり、マンガならばという発想になっている。幼稚な制作者が幼稚なドラマを作っている」と批判している[51]。
  • 『北の国から』終了については、「スタッフが高齢化した」とするフジテレビの説明を「おかしな理由だ。スタッフを替えればいい」と批判している[51]。

家族

妻は女優の平木久子[52](演劇集団 円所属)。

人間関係

西武鉄道グループオーナーの堤義明とは、麻布中学・高校時代の同級生である[25]。2005年、堤が証券取引法違反に問われた東京地方裁判所公判においては、倉本自ら弁護側証人を申請して出廷した。富良野市には堤が率いた富良野プリンスホテルなどの施設がある。こうした交友関係が、富良野自然塾などの事業の実現にもつながった。

麻布中学・高校時代の同級生に銀座山野楽器の息子がいた縁で、山野楽器店にあった当時まだ高価だったテープレコーダーを自由に使うことができた。倉本は友人らとともにそのテープレコーダーを使って音声ドラマ(いわゆるラジオドラマと同じもの)を1本仕上げた。本人は「これが人生で最初に作ったドラマである」と述べている。

映画監督の中島貞夫とは大学時代、共に東京大学ギリシア悲劇研究会に所属しており、中島の『くノ一忍法』(1964年)、『旗本やくざ』(1966年)など、初期監督作品の脚本を手がけている。

自身の母の晩年と死をモデルにしたドラマ『りんりんと』への出演がきっかけで、晩年の田中絹代と深い交流を持ち、この交流が『前略おふくろ様』のヒットにつながった。田中の死の直後に、彼女が演じる「おふくろ様」の死を描いた『前略おふくろ様』の最終回を放送し、話題となった。

『前略おふくろ様』で主演を務めた萩原健一との出会いについて、「目のさめる想いがした。そしてその想いは次第に僕の中で『勝海舟』の岡田以蔵に転化していく。彼と初めて出逢ったことが、僕の中の狂気を安心させ、そうして遂に平和温厚なNHKと衝突してしまう」と語っている[53]。

札幌在住当時に手がけたドラマ『幻の町』に特別出演した北島三郎に頼み込み、一時期付き人となって巡業に同行した[54]。これはロケ地の小樽市で地元民が北島に熱狂する姿を見て、「この人気は何なんだ」と関心を持ったことがきっかけだった。巡業中、北島が観衆のどんなリクエストも歌うというコーナーで両者がお互いに遠慮も何もなくやり取りする様子に、自分がそれまで庶民ではなく「上から目線」で批評家や業界などに気に入られるような作品を書こうとしていたのではないかという思いに駆られ、「俺は変わろう」と思った、と記している[54]。

野沢尚、三谷幸喜と3人で仕事をした際(『川、いつか海へ 6つの愛の物語』)、企画会議中に真剣に討論している倉本と野沢を三谷が発言せず感心しながら聞いていたところ(三谷はこのような討論をしたことがなかったため)、倉本は三谷に向かって「もっと主張しなさい、君は卑怯だ」と言ったという[55]。

作品の特徴

語尾を濁すような独自の口調で語られるモノローグ(ナレーション)を多用した脚本で知られる。日活の契約ライターだった時代にプロデューサーから「ナレーションと回想は卑怯な手法」と教え込まれ、それを忠実に守っていた。山田太一が『それぞれの秋』(1973年)でナレーションを使っているのを見て「こんな手もありだな」と考え、導入することにした。その際、山下清の口調を模倣したことで「-なわけで」といった文体が出ることになった[56]。『前略おふくろ様』(1975年)で初めて取り入れられ、以降は象徴的に使用された。

また、映像や音楽(BGM)まで想定した脚本を書くため、しばしば演出家や映画監督に脚本の改変を禁止することもあり、自分が書いたドラマのホン読み(台本の読み合わせ)に自ら参加して、台詞の言い回しやトーン、緩急や間の取り方などを確認していた[57]。もっとも、倉本自身は台本よりもよい表現方法をしてくれたときには「そっちの方がいい!そのように変えてください」と諸手を挙げて賛成するとしており、「語尾の一字一句も直すと怒ると変なうわさを立てられたのはまったくもって心外」と述べている[58][注 4]。

『うちのホンカン』、『北の国から』の初期や、映画『ブルークリスマス』では、(未知の知的生命体のものとしての)UFOが登場する描写がある。また、『火の用心』の登場人物の一人が超能力を持つなどの描写がある。『北の国から』にUFOを登場させたことについて、倉本は移住当時北海道でUFOを目撃したという騒ぎがよくあったことと、科学で割り切れないものやメルヘンやファンタジーを大切にしたいという思いが背景にあったと述べている[59]。

脚本家の山田太一は、刺激を受けた同業者として向田邦子と田向正健、倉本の名を挙げた[60]。また、倉本作品の魅力の一つは「間がいい」点だと評している[61]。

受賞歴

主な作品

テレビドラマ

映画

舞台

  • 『谷は眠っていた』(初演:1988年)
  • 『今日、悲別で』(初演:1990年)
  • 『ニングル』(初演:1993年)
  • 『走る』(初演:1997年)
  • 『屋根』(初演:2001年)
  • 『オンディーヌを求めて』(初演:2001年)
  • 『地球、光りなさい!』(初演:2002年)
  • 『歸國』(初演:2009年)[21]

著書

  • 『あなただけ今晩は 星の世界の夕子』(立風書房、1975年)
  • 『倉本聡テレビドラマ集』1・2(ぶっくまん、1976年 - 1977年)
  • 『あにき』(冬樹社、1977年)
  • 『ブルークリスマス:倉本聡オリジナルシナリオ』青也書房、1978年11月10日。
  • 『北の国から』前・後編(理論社、1981年)
  • 『君は海を見たか』(理論社、1982年)
  • 『わが青春のとき』(理論社、1982年)
  • 『倉本聡コレクション』理論社
1-4 前略おふくろ様(1983年)
5、6羽のかもめ (1983年)
6、ガラス細工の家(1983年)
7、さよならお竜さん(1983年)
8、幻の町(1983年)
9-10、文五捕物絵図(1983年)
11、2丁目3番地(1983年)
12-13、浮浪雲 1-2(1983年)
14-15、赤ひげ 1-2(1984年)
16、坂部ぎんさんを探して下さい(1984年)
17、たとえば、愛(1984年)
18、あなただけ今晩は scénario 1975 1984
19、大都会(1984年)
20、あにき : Scénario1977 1984
21、駅station(1984年)
22、冬の華(1984年)
23、うちのホンカン(1984年)
24、わが青春のとき :scénario1970 1985.
25、波の盆・ガラスの知恵の輪(1985年)
26、ひかりの中の海(1985年)
27-28、祭が終ったとき 1-2(1985年)
29、君は海を見たか : scénario1982 1985
30、昨日、悲別で : scénario1984 1985
  • 『北の国から 1983冬』(理論社、1983年)
  • 『昨日、悲別で』(理論社、1984年)
  • 『北の国から 1984夏』(理論社、1984年)
  • 『ニングル』(理論社、1985年、新版2023年)
  • 『ライスカレー』(理論社、1986年)
  • 『時計 アデュー・リベール』(理論社、1986年)
  • 『北の国から 1987初恋』(理論社、1987年)
  • 『谷は眠っていた 富良野塾の記録』(理論社、1988年)
  • 『海へ See you』(理論社、1988年)
  • 『北の国から 1989帰郷』(理論社、1989年)
  • 『失われた時の流れを scenario1990』(理論社、1990年)
  • 『北の国から 1981-'89』(理論社、1990年)
  • 『火の用心 scenario1990』(理論社、1990年)
  • 『北の国から 1992巣立ち』(理論社、1992年)
  • 『北の国から 1995秘密』(理論社、1995年)
  • 『北の国から 1998時代』(理論社、1998年)
  • 『玩具の神様 scenario1999』(理論社、2000年)
  • 『ニングルの森 - 悠久なるものへ』(集英社、2002年)童話、黒田征太郎画
  • 『北の国から 2002遺言』(理論社、2002年)
  • 『優しい時間 scenario2005』(理論社、2005年)
  • 『拝啓、父上様 scenario2006』(理論社、2006年)
  • 『風のガーデン scenario2008』(理論社、2008年)
  • 『風のガーデン貞三先生の花言葉365篇』(エフジー武蔵、2008年)
  • 『歸國』(日本経済新聞出版社、2010年)
  • 『獨白 2011年3月-『北の国から』ノーツ』(フラノ・クリエイティブ・シンジケート、2011年)
  • 『倉本聰戯曲全集』全6巻(新日本出版社、2017-2018年)
  • 『やすらぎの郷』全3巻(双葉社、2017年)
  • 『「北の国から」異聞 黑板五郎独占インタビュー!』(講談社、2018年)
  • 『やすらぎの刻(とき)~道~』全5巻(双葉社、2019-2020年)
  • 『北の国から』3巻組(理論社、2021年) - 集大成

エッセイなど

  • 『さらば、テレビジョン』(冬樹社、1978年、理論社、1991年) - 第一エッセイ集
  • 『新テレビ事情』(文藝春秋、1980年)
  • 『北の人名録』(新潮社、1982年→新潮文庫、2009年)
  • 『新・新テレビ事情』(文藝春秋、1983年)
  • 『いつも音楽があった』(文藝春秋、1984年)
  • 『冬眠の森 北の人名録PART2』(新潮社、1987年)
  • 『左岸より 一九八〇年代のエッセイ集』(理論社、1991年)
  • 『ゴールの情景 富良野風話』(理論社、1998年)
  • 『富良野風話』(理論社、2000年)
  • 『富良野塾序章』(エフジー武蔵、2003年)
  • 『愚者の旅 わがドラマ放浪』(理論社、2002年)
  • 『この国のアルバム 富良野風話』(理論社、2003年)
  • 『北の動物園』(扶桑社、2004年→扶桑社文庫、2010年)
  • 『失われた森厳 富良野風話』(理論社、2006年)
  • 『疚しき沈黙 富良野風話』(理論社、2009年)
  • 『ヒトに問う』(双葉社、2013年)
  • 『日本人として 富良野風話』(財界研究所、2015年)
  • 『昭和からの遺言』(双葉社、2015年)
  • 『見る前に跳んだ 私の履歴書』(日本経済新聞出版社、2016年)
  • 『昭和からの遺言 2 足裏の記憶』(双葉社、2019年)
  • 『テレビの国から』(産経新聞出版、2019年)
  • 『破れ星、流れた』(幻冬舎、2022年)
  • 『破れ星、燃えた』(幻冬舎、2023年)

共著

  • 『倉本聰研究』北海学園「北海道から」編集室編(理論社、1992年)
  • 『倉本聰の世界 「北の国から」の作家 別冊 山と渓谷』(山と溪谷社、1993年)
  • 『上流の思想・下流の思想 対談紀行』(理論社、1994年)
  • 『森繁久彌 86才芸談義』聞き手(小学館文庫、1999年)
  • 『愚者の質問 対談集』林原博光(「富良野自然塾」副塾長)と聞き手(日本経済新聞出版社、2010年)
  • 『黒板五郎の流儀 「北の国から」エコロジカルライフ』(エフジー武蔵、2012年)
  • 『倉本聰の姿勢』(エフジー武蔵、2012年)
  • 『倉本聰ドラマ人生 聞き書き』(北海道新聞社、2013年)
  • 『愚者が訊く 対談集』林原博光と聞き手(双葉社、2014年→双葉文庫、2018年)
  • 『みんな子どもだった 倉本聰対談集』BS-TBS『みんな子どもだった』制作班著(エフジー武蔵、2014年)
  • 『愚者が訊く その2 対談集』林原博光と聞き手(双葉社、2018年)
  • 『ドラマへの遺言』碓井広義共著(新潮新書、2019年)
  • 『倉本聰の言葉 ドラマの中の名言』碓井広義編(新潮新書、2020年)
  • 『「北の国から」黒板五郎の言葉』碓井広義編(幻冬舎、2021年)
  • 『脚本力』聞き手:碓井広義(幻冬舎新書、2022年)

出演

テレビ

ラジオ

CM

演じた俳優

社会的活動

脚注

関連項目

外部リンク

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