山田信夫 (脚本家)
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中国・上海出身[1]。父親は電気技師。母親を9歳時に胃癌で亡くしたため、中国人の手伝いが身の回りの世話をし、中国語と日本語のちゃんぽんの言葉の中で暮らした。[1]。1945年2月に上海から引き揚げ、父親の郷里である愛知県豊橋市で暮らす[1]。愛知県立工業高校電気科入学。1951年同校卒業[1]後、愛知大学に入学したが、学生運動で学校閉鎖、この学校では何もできないと思い、翌年、早稲田大学文学部を受け直し、進学した[1]。大学では、やがて訪れるであろうカラー映像時代を見据えて美術を専攻[1]。大学在学中に東宝の脚本研究生となる[1]。
1956年に大学卒業後、大学の先輩のつてで作家の佐藤愛子宅に居候[1]。居候生活の傍ら、女子高校の教師に就いた(数日で退職)[1]後、名古屋のミュージックホールで文芸部員を務め[1]、ミュージックホール閉鎖後はタブロイド新聞の記者を務めていた[1]。「生きることに背き続けて来た」自分自身をモデルにそれを3人の登場人物に反映させた自身の作品『陽に背く者』が1958年にシナリオ作家協会コンクールに入選した[1]。同年に日活と契約し、1970年にフリーとなる。1963年に『若もの-努の場合-』(TBS)で初のテレビドラマ脚本、同作で同年、第17回芸術祭奨励賞受賞[2][1]。
小さな心象風景を細かく描くのが主な脚本の作風[1]。最初は日本の映画やドラマには馴染めなかったと自ら話しており[1]、『憎いあンちくしょう』(1962年・日活)の脚本では、封切当時酷評されたことがあったという[1]。
『不毛地帯』(1976年・東宝)で第31回毎日映画コンクール脚本賞、『去っていく男』(1991年・フジテレビ)で第9回向田邦子賞を受賞[3][4]。
プライベートでは、東京で暮らした後、妻の故郷の岡山県へ転居[1]。妻が亡くなった後は高校生時代まで過ごした豊橋市へ転居[1]。1987年頃、20歳年下の女性と再婚[1]。息子は映画プロデューサー[1]。