八田皇女
From Wikipedia, the free encyclopedia
記録
『日本書紀』によれば、応神天皇の崩御後、大鷦鷯尊(仁徳天皇)と菟道稚郎子は皇位を譲り合っていたが、空位のまま3年が経ち、菟道稚郎子は自らの命を断った。その際、大鷦鷯尊に妹の八田皇女を後宮に納れるよう遺言した[原 3]。
大鷦鷯尊は即位して仁徳2年に磐之媛命を皇后に立てるが、磐之媛命は嫉妬深い女性であり、仁徳天皇(大鷦鷯尊)が八田皇女を妃とすることを許さなかった。しかし天皇は仁徳30年に皇后の留守中に宮中へ納れ、怒った皇后は帰ることなく仁徳35年に筒城宮で亡くなった。そして天皇は仁徳38年に八田皇女を皇后に立てたという[原 4]。
その後、仁徳40年に皇后の同母妹の雌鳥皇女を妃としようとしたが、隼別皇子が皇女と通じてしまう。天皇は皇后の言を尊重して罰しなかったが、謀反の心があるとして殺された。この時皇后の願いにより皇女の足玉手玉は奪わぬよう追手に命じるが、その禁は破られる。皇后の告発により、その犯人は私地を献じて死を免れたという[原 4][1]。
『古事記』でも概ね同様の所伝を記すが、菟道稚郎子の自殺や遺言の話はなく、大后(皇后)になったことも明記されてはいない。
