地本問屋

地本を企画、制作して販売した問屋 From Wikipedia, the free encyclopedia

地本問屋(じほんどいや、じほんどんや)とは、江戸時代において、主に江戸の町で、浮世絵版画や絵入りの通俗的な文学作品(草双紙黄表紙洒落本読本など)の企画、出版、流通、販売を専門に扱った版元の一種である[1]。京都・大坂の書物問屋が学術的な漢籍や教養書、古典文学を主として扱ったのに対し、地本問屋は、江戸の庶民文化(地回りの文化)に根ざした、流行や風俗を題材にした出版物に特化していた点が最大の特徴である[2]

地本問屋(長谷川雪旦画)

概要

寛文期(1661年 - 1673年)から江戸で始まった地本を企画・制作して販売した。

地本問屋の多くは、日本橋や京橋などの江戸の中心部に店舗を構え、天和・貞享年間(1681年 - 1688年)ごろにその原型が形成され、宝暦・天明年間(1751年 - 1789年)に最盛期を迎えた[3]。彼らは、書物問屋(御書物師)が幕府公認の株仲間として特権的な地位と流通網を持っていたのとは異なり、公的な株仲間を形成することを許されなかったため、相対的に競争原理が強く働く環境下にあった[4]

出版業界での役割、社会的な役割

地本問屋の経営者は、単なる印刷・販売業者という枠を超え、現代のプロデューサーに近い役割を担っていた[5]

作者・絵師との協業体制
浮世絵や絵入りの小説は、必ず戯作者(文章担当)、絵師(挿絵担当)、彫師(版木彫刻担当)、摺師(色摺担当)の四者の分業によって制作された[6]地本問屋は、これらの才能ある人々を束ね、テーマ、構図、色使いに至るまで細かく指示を出し、一つの商品を完成させる中心的な役割を担った [7]
流行の創出と政治的リスク
地本問屋の生命線は、江戸の町で今まさに起きている事件や流行をいち早く出版物に反映させ、人々の購買意欲を刺激することであった[8]。しかし、その時事性、風俗性ゆえに、幕府の規制の対象となりやすく、特に寛政の改革天保の改革といった政治的な引き締めが起こるたびに、厳しい検閲や罰則(出版停止、財産没収、作者・版元の手鎖など)に晒されるという高い政治的リスクを常に抱えていた[9]
庶民への娯楽作品の提供
地本問屋の出版物は、庶民が購入できる比較的安価なものが多かった。例えば、一枚摺りの浮世絵(錦絵)の価格は、初期には蕎麦一杯の代金(おおよそ16文から20文)と同程度であったと推定され、多くの庶民が気軽に楽しめる娯楽商品であった[10]

彼らは、書物問屋のような特権的な流通体制を持たなかったため、江戸市中はもちろん、地方の小売店や行商人への卸しを積極的に行い、広範な販売網を自力で構築した[11]。これにより、江戸の文化は地本問屋を通じて日本全国に波及し、地方の文化にも大きな影響を与えたのである[12]

地本問屋は、幕府の統制と庶民の娯楽需要という、相反する圧力の中で、常に新しい才能を発掘し、革新的な表現を追求することで、江戸文化の華を咲かせた立役者であると言える[13]

地本問屋が扱った出版物

地本(じほん)とは、江戸で出版された大衆本の総称。 こまごました分類名を挙げると、洒落本草双紙読本滑稽本人情本咄本狂歌本などがあった。草双紙の内訳として、赤本黒本青本黄表紙合巻があった。

地本問屋が扱った出版物は、大きく下記の3種類に分類されることが多い[14]

(扱う商品により地本問屋は 地本錦絵問屋、地本草紙問屋、絵草紙屋などと分類された)

浮世絵版画(錦絵)

地本問屋が最も収益を上げた主要な商品の一つが、多色摺りの木版画である錦絵(にしきえ)である[15]。役者絵、美人画、風景画、武者絵、風俗画など、時事的な話題や流行の芸能を取り入れた作品が多く、大量生産による低価格化により庶民に広く普及した[16]

代表的な版元と作品

絵入り小説(草双紙・黄表紙・合巻)

絵が主体で文字が少ない、娯楽性の高い小説群である[19]

  • 黄表紙きびょうし - 天明年間(1781年 - 1789年)に全盛期を迎えた大人のための絵物語で、当時の社会風刺や滑稽話が中心であった[20]。蔦屋重三郎は、山東京伝の『江戸生艶気樺焼』(えどうまれうわきのかばやき:天明3年・1783年)などのヒット作を多数出版した[21]
  • 合巻 - 文化・文政年間(1804年 - 1830年)以降に流行した、黄表紙が大型化したもので、長編の読み物として読者を魅了した[22]鶴屋喜右衛門(仙鶴堂)が刊行した柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』(にせむらさきいなかげんじ)は、最長期間にわたって刊行され続けた大ベストセラーである[23]

洒落本・読本など

文芸的、知識的な要素の強い読み物である[24]

  • 洒落本しゃれぼん - 主に遊廓での粋な遊び方を描いたもので、蔦屋重三郎が多くの洒落本を出版したが、寛政の改革(1787年 - 1793年)によって厳しい弾圧を受け、作者の山東京伝とともに処罰された[25]
  • 読本 - 中国の小説形式を取り入れた、伝奇的・因果応報的な内容を持つ長編小説で、葛飾北斎と組んだ曲亭馬琴の『椿説弓張月』(ちんせつゆみはりづき)などが著名であり、文渓堂などの版元が手掛けた[26]

「地本」なる用語、商品としての特性

「地本」なる用語は、後述する歴史的背景のように、「読み本」が先立って京や大阪で流行し、後発で出版物の発行が盛んになった江戸界隈における地元志向の高まりに由るものとされる。

「地本」の商品としての特性
地本問屋で本を購入する際は、立ち読みができないので、注文があると手代や番頭が、奥から本を持ち出し、あらすじを聞かせて購入を判断させたが、お抱えの作家を雇う方式だったため、他所の地本屋が抱えた作家本は取り扱えなかった。そのため、様々な作家の本が読みたい庶民は、定価の6分の1ほどで借りられる貸本を利用することが多かった。地本屋は貸本屋とも緊密な関係を持ち、本を出す際は、契約する貸本屋に注文数を問い合わせた上で、売り残らないよう数を調整してから発行した[27]

経済規模(売上高と販売冊数)

地本問屋の正確な年間の売上高や販売冊数を現代の貨幣価値で示すことは、当時の会計記録の散逸や、貨幣価値の変動が激しいことにより極めて困難である[28]。しかし、残された版木の数量や、当時の人口、消費構造から、その経済規模を推定することが可能である[29]

版木による経済規模の推定
版木は地本問屋の主要な資産であり、保有する版木の数量が、その問屋の経営規模を測る一つの具体的な指標となる[30]
西村屋与八(永寿堂)や鶴屋喜右衛門の例
地本問屋の最大手の一角である西村屋与八(永寿堂)や鶴屋喜右衛門(仙鶴堂)といった問屋は、最盛期にはそれぞれ数百点から1,000点以上の版木を所有していたと推定されるが、書物問屋ほどの学術書のストックは持たなかったため、全体的な資産規模では書物問屋の須原屋に劣る[31]しかし、浮世絵版画のように、一点の版木から数千部から一万部単位の大量印刷を行うことで、個々の作品の収益率は書物問屋のそれよりも高かった可能性がある [32]
販売冊数の推定
地本問屋の出版物には、書物問屋の書籍とは異なり、初版と再版の明確な区別が記録されにくいため、正確な販売冊数は不明である[33]
  • 合巻(ごうかん)・草双紙の部数 - 流行期の合巻や草双紙の初版は、平均で3,000部から5,000部程度であったと推定され、人気作品は数年間にわたり繰り返し重版され、累計で数万部に達した例も存在した[34]
  • 浮世絵(錦絵)の部数 - 錦絵の部数は、作品の大きさや色数、人気度によって大きく変動するが、人気絵師の代表作(例:広重の風景画シリーズ)は、初版で3,000部から5,000部程度が摺られ、生涯で1万部以上の販売を達成したものも存在したと推定される[35]。特に、需要の高い風景画や役者絵などは、版木の耐久度(通常、木版は1万部から2万部程度で摩耗するとされる)が限界に達するまで摺り続けられた事例も確認される[36]
蔦屋重三郎の年間売上推定
地本問屋で最も著名な蔦屋重三郎耕書堂)は、天明期(1781年 - 1789年)に黄表紙や洒落本で大きな成功を収めた[37]。当時の記録によると、蔦屋の年間総売上は、米1,000俵分の価値に匹敵する額であったと伝えられる[38]。これは、現代の貨幣価値に換算すると、数億円から十億円を超える規模に相当する可能性がある。蔦屋重三郎が地本問屋の中でも突出した経済力を持っていた具体的な証左である[39]
ベストセラー
地本問屋の成功は、特定のベストセラー作品の爆発的な売れ行きによって支えられていた[40]
  • 柳亭種彦『偐紫田舎源氏』(鶴屋喜右衛門によるプロデュース) - 柳亭種彦(りゅうていたねひこ)作、歌川国貞(うたがわくにさだ)画の合巻で、源氏物語を武士社会に置き換えたパロディ作品[41]。文政12年(1829年)に刊行が開始され、天保13年(1842年)に絶版になるまで、足かけ14年間にわたって刊行が続けられた[42]。全38編114冊という異例の長編であり、版元の鶴屋喜右衛門(仙鶴堂)に莫大な利益をもたらしたとされる[43]。各編の部数は明らかでないが、累計販売部数は単純計算でも数十万部に及んだと推定されており、地本問屋史上最大のヒット作の一つである[44]
  • 葛飾北斎『富嶽三十六景』(西村屋与八によるプロデュース) - 葛飾北斎画による、富士山を様々な場所、季節、状況から描いた横大判錦絵の連作であり、天保2年(1831年)ごろから刊行が開始された[45]。当初の企画では36図であったが、人気が高すぎたため、後に10図が追加されて全46図となった[46]。風景画というジャンルが、役者絵・美人画に飽きた庶民に新鮮に受け入れられた結果であり、版元の西村屋与八(永寿堂)の企画力と、北斎の画力が融合した成果である[47]。当時の浮世絵版画の摺り数は、一枚あたり3,000枚から5,000枚が限界であったことを考えると、全46図の累計部数は単純計算で13万8千枚から23万枚に及んだ可能性があり、西村屋に多大な利益をもたらした[48]

規制との闘い

地本問屋の出版活動は、常に幕府による厳しい検閲(改め)と出版統制(お仕置)の対象であり、特に大規模な綱紀粛正策が発動された際には、甚大な被害を被った[49]

寛政の改革と蔦屋重三郎
老中松平定信によって主導された寛政の改革(1787年 - 1793年)は、綱紀粛正を目的とし、奢侈や風俗の乱れを助長すると見なされた地本問屋の出版物を特に厳しく取り締まった[50]
寛政2年(1790年)、幕府は「風俗を乱す淫乱の書」として、洒落本や、政治・時事を風刺する黄表紙を対象とした大規模な取り締まりを行った[51]。地本問屋の第一人者であった蔦屋重三郎は、当時、洒落本の傑作とされる山東京伝作の『錦の裏』(にしきのうら)や『仕懸文庫』(しかけぶんこ)などを刊行していたため、改革の標的となった[52]。蔦屋重三郎は、手鎖50日の刑に処せられただけでなく、出版した洒落本や黄表紙の版木が没収され、過料(罰金)として財産の半分にあたる50貫文(現在の価値で数千万円に相当する)を課された[53]。この弾圧により、洒落本の出版はほぼ壊滅し、黄表紙も風刺性を失い、単なる子供向けの絵物語(合巻の初期形)へと変質していった[54]。蔦屋重三郎もこの打撃から完全に立ち直ることはできず、寛政9年(1797年)に死去した[55]
天保の改革と地本問屋の衰退
老中水野忠邦によって主導された天保の改革(1841年 - 1843年)は、寛政の改革以上に厳格で具体的な規制を地本問屋に課した[56]
  • 人情本への規制 - 改革の一環として、風俗紊乱の廉で人情本(にんじょうぼん:恋愛小説)が取り締まられた[57]。人情本の第一人者であった為永春水(ためながしゅんすい)は手鎖50日の刑に処せられ、彼の作品を刊行していた地本問屋の上総屋佐吉(かずさやさきち)らも処罰され、多くの人情本の版木が焼却された[58]。先述の鶴屋喜右衛門が刊行していた大ベストセラー『偐紫田舎源氏』も、風俗を乱すとして、未完のまま絶版処分となり、版木は没収された[59]。版元の鶴屋喜右衛門自身も罰金と家財没収に近い処分を受け、地本問屋経営に大きな痛手となった[60]
  • 浮世絵への規制 - 浮世絵にも厳しい規制が敷かれた[61]。倹約令が出され、高価な多色摺り版画が禁止され、使用できる色数が制限されたため、浮世絵の芸術性が一時的に低下した[62]。人気歌舞伎役者や、遊女・芸者の名前を具体的に記した役者絵や美人画の出版が禁止され、地本問屋の売れ筋商品の大半が市場から姿を消すことになった[63]。これにより、風景画や歴史画など、規制の緩いジャンルへと浮世絵制作がシフトせざるを得なくなった[64]
権力との対峙の継続
寛政・天保の改革における一連の厳しい規制は、地本問屋の経済基盤と創造性の両方に決定的な打撃を与えた[65]。しかし、彼らは弾圧後も、規制の網の目を潜り抜けるような機知に富んだ作品(例:歌川国芳の「寄せ絵」など)を刊行し続けて幕末まで江戸の庶民娯楽を支え続けた[66]。地本問屋は、商業的成功と芸術的革新を両立させつつ、権力と対峙する役割を荷なった、近世日本における大衆文化の最も重要なプロデューサー集団であったと言える[67]

歴史

地本問屋以前
日本の商業出版は、元和期(1615年 - 1624年)に京都で始まった。初期は仏書・儒書・史書・軍記・伝記・医書など硬い本に偏り、それらを『物之本』と言った。
明暦万治(1655年 - 1661年)ごろからは、俳諧書、浄瑠璃本、仮名草子御伽草子などの娯楽本も出始めた。
地本問屋の歴史
江戸では、松会市郎兵衛ら地元の店はまだ少なく、京都からの出店が本店の本を売り、それらを『下り本』と呼んだが、寛文期(1661年- 1673年)から草双紙が出版され始め、それを含め、江戸で作って売る娯楽本を、『地本』『江戸地本』、を扱う本屋を『地本問屋』と呼んだ。『地本問屋』に対し、物之本を作って売る店は『書物問屋』と言われた。京や大坂では地本問屋は書物問屋の管理下におかれていたが、江戸においては地本問屋に対しての書物問屋という捉え方であった。江戸時代の本屋は、編集と製本と小売と取り次ぎを行い、古書も扱った。また、浮世絵木版画の創始期における墨摺絵丹絵の時代では地本問屋と書物問屋の区別は明確ではなかった。地本問屋は、錦絵などの浮世絵木版画双六なども摺って売ったため、地本草紙問屋とも言われたほか、絵草紙屋などとも言われた。
京都では特に区別がなかったが、江戸においては草双紙などを扱う地本問屋と、物之本を扱う書物問屋が明確に区別されるようになったのは出版関係の株仲間組織が結成される享保期以降であった。初期地本問屋の様相を示すものとして、天明4年(1784年西村屋与八板『富士野往来』の奥付に「御江戸地本九軒問屋 元祖 西村屋傳兵衛」とあることが指摘されている[68][69]。このため設立時は九軒の問屋で構成されていたものと目されているが、九軒の具体的な地本問屋は明確ではない[70]
規制
江戸幕府は体制批判や風紀紊乱を警戒して、天和期(1681年 - 1684年)期から出版統制に乗り出し、それの実効的な法令は、1722年(享保7年)の大岡忠相の『寅年の禁令』で、その一環として、まず従来陰で動いていた物之本屋の『仲間』(同業者組合)を公認した。この「書物問屋仲間」では、互選した行司(世話役)が仲間の出版の可否を自主的に審査し、海賊版の流通を防いで会員の利にも繋がった。『書物問屋仲間』は晴れて動き出したが、『地本問屋仲間』の方は、寛政の改革下の寛政2年(1790年)にようやく20名の問屋によりできた。この時から町奉行の管轄下におかれ、改印(あらためいん)という問屋同士による検閲印が天保13年まで錦絵の画面上に押印されるようになった。このころ、戯作者の朋誠堂喜三二恋川春町が執筆をやめ、蔦屋重三郎山東京伝が罰せられた。
改革後の文化文政(1801年 - 1820年)期は、地本も盛り、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』、式亭三馬の『浮世風呂』、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』、柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』などが地本問屋を潤わせ、また、葛飾北斎歌川国貞渓斎英泉歌川広重歌川国芳東洲斎写楽らの浮世絵が、店先を賑わわせた。
天保の改革が始まり、株仲間解散令が発布された天保12年(1841年)12月13日には排他的との理由で、各業界の『仲間』が解散、この時の加盟問屋数は29名であった。そして改革の副作用として地本問屋の開業が自由になり、解散令が撤回されたのちの嘉永4年(1851年)に地本問屋は164軒と、解散前の5倍以上になった。この天保12年12月以前から営業していた版元を古組といい、新しい版元を新組といった。しかし、天保の改革の余波で天保13年(1842年)6月に出された出版条例により為永春水(1841年)と柳亭種彦(1842年)は処罰されたうえ没し、曲亭馬琴(1848年)も去り、地本の作者陣は淋しくなった。同天保13年(1842年)からは改印も名主による直接検閲となり、安政5年(1858年)1月まで行われた。同年2月から再び自主検閲となった。
幕末、明治期の地本問屋
やがて幕末になると諸外国が開港を迫り、勤王佐幕の騒ぎを経て明治となり、太政官日誌・政府の職員録・教科書作りなどに転身する問屋もあったが、台頭した活版印刷の陰に埋もれて行った。やがて、寛政以来の地本問屋株仲間も解散となり、明治7年(1874年)には新たに東京地本彫画営業組合が形成された。また明治8年(1875年)9月に新聞紙条例が発布されると、従来の改印制度が廃止され、錦絵においても出版届出年月日、画作者、版元の住所氏名を明記することが必修となった。明治期に開業した地本問屋も秋山武右衛門児玉又七武川清吉など多く存在しており、東京の地本問屋は何れも土蔵造りの店舗を持った相当の店舗であり、代々の商売を継ぐおっとりとした主人も居れば、商才に長けて新時代の嗜好に合う作品を発行する店もあった。しかし、江戸名物といわれた地本問屋も日清戦争日露戦争のころには最後の時を迎えている。大倉孫兵衛荒川藤兵衛は紙問屋へ移行し、辻岡文助綱島亀吉は田舎向きの出版屋になった。また、山中市兵衛5代目松木平吉を始め大部分の店は懐かしい浮世絵を残したが、明治40年代以降には新版の錦絵を出版する店も5代目松木平吉と2代目秋山武右衛門のみで、日本橋区京橋区神田区浅草区下谷区芝区本所区などにあった大店と呼ばれた問屋も書籍団扇扇子チラシポスター絵葉書などといった新しい商品を扱うようになっていった。
大正期
その後、大正期には旧版による複製版画が多数出版されるようになっていった。検閲を経て彫りだされた錦絵は店先で縄を張り、竹ピンで吊り下げられ、町行く人に新版が目立つように売り出されていったが、このような古風な絵草紙屋も大正12年(1923年)の関東大震災によって潰れ、昭和と改元されたころにはもう姿を消していた。

地本問屋と刊行本(抄)

次のような店が興亡した。太字は、書物問屋・地本問屋の両方の『仲間』に入っていた本屋。本屋は日本橋通り沿いに多かった。

富川房信鳥居清信:『風流鱗魚退治』(1745年)(黒本)
  • 星運堂 花屋久次郎(旧次郎とも)、下谷五条天神裏
柄井川柳・呉陵軒可有:『俳風柳多留』24篇(1765年 - 1791年)(川柳本)
柄井川柳:『俳風末摘花』4冊(1776年 - 1801年)(川柳本)
菱川師宣画:枕絵本類(1676年 - )(浮世絵)
恋川春町作・画:『金金先生栄花夢』(1775年)(黄表紙)
北尾政演:『御存知商売物』(1782年)(黄表紙)
柳亭種彦作・歌川国貞画:『偐紫田舎源氏』(1829年 - 1842年)(合巻)
歌川広重画:『東海道五十三次』(1833年 - 1834年)(浮世絵)(保永堂との合板)
歌川豊国:『役者舞台之姿絵』(1794年 - 1796年ごろ)(浮世絵)
南仙笑楚満人作・歌川豊国画:『敵討義女英』(1795年)(青本)
曲亭馬琴作・渓斎英泉画:『金毘羅船利生纜』(1825年 - 1831年)(合巻)
曲亭馬琴作、歌川国安画:『新編金瓶梅』(1831年 - 1847年)(合巻)
美図垣笑顔作・歌川豊国画:『児雷也豪傑譚』(1847年)(合巻)
朋誠堂喜三二作・恋川春町画:『親敵討腹鼓』(1777年)(黄表紙)
山東京伝:『江戸生艶気樺焼』(1785年)(黄表紙)
太田蜀山人編・喜多川歌麿画:『画本虫撰』(1787年)(狂歌本)
朋誠堂喜三二作・喜多川行麿画:『文武二道万石通』(1788年)(黄表紙)
恋川春町作・画:『鸚鵡返文武二道』(1789年)(黄表紙)
山東京伝:『娼妓絹籭』(1791年)(洒落本)
山東京伝:『錦之裏』(1791年)(洒落本)
山東京伝:『仕懸文庫』(1791年)(洒落本)
東洲斎写楽:一連の『役者絵』(1794年 -1795年)(浮世絵)
山東京伝:『御誂染長寿小紋』(1802年)(黄表紙)
  • 大和田安兵衛、大伝馬町二丁目
山東京伝作・画:『心学早染艸』(1790年)(黄表紙)
式亭三馬:『侠太平記向鉢巻』(1799年)(黄表紙)
式亭三馬作・画:『稗史億説年代記』(1802年)(黄表紙)
式亭三馬作・歌川豊広画:『親讐胯膏薬』(1805年)(黄表紙)
式亭三馬作・歌川豊国画:『雷太郎強悪物語』(1806年)(合巻)
喜多川歌麿:『娘日時計』(1800年ごろ)(浮世絵)
十返舎一九作・画:『的中地本問屋』(1802年)(黄表紙)
十返舎一九作・画:『東海道中膝栗毛』(1802年 - 1822年)(滑稽本)
柳亭種彦作、葛飾北嵩画:『鱸庖丁青砥切味』(1811年)(合巻)
柳亭種彦作・歌川国貞画:『正本製』(1815年 - 1831年)(合巻)
為永春水作・春川英笑画:『腹内窺機関』(1826年)(合巻)
為永春水作・柳川重山画:『梅花春水』(1826年)(読本)
葛飾北斎:『冨嶽三十六景』(1830年ごろ - )(浮世絵)
為永春水作・柳川重信画:『春色梅児誉美』(1832年 - 1833年)(人情本)
為永春水作・歌川国直画:『春色辰巳園』(1833年)(人情本)
  • 双鶴堂 鶴屋金助、田所町→人形町通新乗物丁
喜多川歌麿:『教訓親の目鑑』(10枚)(1802年ごろ)(浮世絵)
式亭三馬作・歌川国直画:『浮世床』(1813年 - 1814年)(滑稽本)
式亭三馬作・北川美丸画:『浮世風呂』(1809年 - 1810年)(滑稽本)
曲亭馬琴:『南総里見八犬伝』(1814年 - 1842年)(読本)
為永春水作・歌川国直画:『玉川日記 前後編』(1828年)(人情本)
為永春水作・歌川国直画:『春告鳥』(1837年)(人情本)

脚注

出典

関連文献

外部リンク

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