天人五衰
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仏教ではヤハウェのような無始無終の絶対神(創造神)を想定せず、天界の神々もまた衆生であり生を得て死に至る(不死ではない)、神々でさえも死を迎えれば輪廻の摂理に基づきカルマ(業、生前の行い)によって転生先が定まる、と説く。
仏教の教義では、天人の出生は化生による(四生参照)。天人は肉体を持っており霊的存在ではない。仏教では無我を説くが、常一主宰な我を否定した上で(肉体があればこそ意識が生じるのであり、死後肉体が滅んでも霊魂は不滅であるという考えを否定した上で)、業(カルマ)に基づき衆生は輪廻転生すると説明される[1]。
大般涅槃経19においては、以下のものが「天人五衰」とされる、大の五衰と呼ばれるもの。これは仏典によって異なる。
- 衣裳垢膩(えしょうこうじ):衣服(羽衣)が埃と垢で汚れて油染みる
- 頭上華萎(ずじょうかい):頭上の華鬘が萎える
- 身体臭穢(しんたいしゅうわい):身体が汚れて臭い出す
- 腋下汗出(えきげかんしゅつ):腋の下から汗が流れ出る
- 不楽本座(ふらくほんざ):自分の席に戻るのを嫌がり楽しみが味わえなくなる
このうち、異説が多いのは3つ目で、「身体臭穢」の代わりに
- 『法句譬喩経』1や『仏本行集経』5では「身上の光滅す」
- 『摩訶摩耶経』下では「頂中の光滅す」
- 『六波羅蜜経』3では「両眼しばしば瞬眩(またたき、くるめく)見えなくなる」
となっている。
天人五衰を経て天人は臨終間際に地獄の16倍の苦痛(断末魔)を受けて死に至るという。天界での生活は苦が少なく享楽に満ちているため天人はみな輪廻から解脱しようとは考えず、また利他行も行わず善行をあまり積まないため、天人が死後再び天人として生まれ変わることは稀で六道の下位に転生することが多いという。
運用
釈迦は苦の輪廻からの解脱を目指したが、本来の釈迦の教説では浄土を想定せず「死後に天界を含めて、一切皆苦のこの世界で二度と生まれ変わらないこと」を目指していたと説明される(大乗非仏説参照)[2][3]。佐々木閑は「釈迦はこの世を一切皆苦ととらえ、輪廻を断ち切って涅槃に入ることで、二度とこの世に生まれ変わらないことこそが究極の安楽だと考えた」「大乗仏教が言うような在家者として普通に暮らす中にも悟りへの修行がある、という考えは(釈迦本来の教えからは)成り立たない。在家者として普通に暮らすということは、善行を積んで(来世で)楽な生まれを目指すという生き方に従うということで(中略)俗世で善行を積み重ねても、悟りを開いて涅槃に入るという道にはつながらない」と説明している[4]。釈迦の生涯を体系的に網羅した叙事詩『ブッダチャリタ』では涅槃に入った釈迦について「地上においては老・死の恐怖はなく、天上においては天界から落ちる恐怖(天人五衰)はない。(中略)生があれば不快が生じる。再び輪廻に生まれないことによる非常な快以上の快はない。」と述べている[5]。
大乗仏教の『正法念経』23には、地獄で受ける苦悩は、天人五衰の苦悩に比べると その16分の1に満たないと説いている(すなわち天人五衰の苦悩は、地獄の苦悩の16倍であると説く)。『往生要集』では、人間より遥かに楽欲を受ける天人でも最後はこの五衰の苦悩を免れないと説いて、天界往生(生天)を望むのではなく、速やかに六道輪廻から解脱して浄土の方に往生すべきだと力説している。中世の本地物である『熊野本地』に出る「五衰殿」などは、この天人五衰に由来する。