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島津久本

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時代 江戸時代後期 - 末期(幕末)
改名 久広(幼名)→久本
 
島津久本
時代 江戸時代後期 - 末期(幕末)
生誕 享和3年2月9日(1803年3月31日)[1]
死没 明治元年9月13日(1868年10月28日)
改名 久広(幼名)→久本
別名 播磨、豊前(通称)
墓所 宮崎県都城市都島町の都城島津家墓地
官位 贈従四位
主君 島津斉興→斉彬
藩 薩摩藩都城私領主
氏族 都城島津家
父母 父:島津久統、母:広(島津久尹の娘)
兄弟 岩、久本、鶴(島津久寛正室)、資将
妻 正室:喜代(島津久長の娘)
子 岩次郎、甲(島津久福正室)、久静、
謹之進、尋(北郷久徳正室)、新納資致、
北郷資恭、北郷久政、川上資充
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島津 久本(しまづ ひさもと)は、江戸時代後期から末期の薩摩藩士。都城私領主である都城島津家24代当主。

天保5年(1835年)、農業推進のため百姓寄合田の制度をはじめる。共同農地を設け複数の農家に耕させ、その収益を労役負担に役立たせようとする制度で、周王朝の井田制を手本にしたと思われる。

西洋砲術を導入し、牛痘を行ったり、積極的に産業の育成に努めたりした。

藩主島津斉彬より東目海岸防御総頭取(大隅半島の沿岸防御指揮官)に任じられた。

安政3年(1856年)、息子の久静に家督を譲ったが、久静は島津久光の命で上京した際に病死した。新たに当主となった孫の久寛はまだ幼かったため、再び久本が政務を見た。そのため、幕末の都城を取り仕切ったのは事実上久本といえる。

1915年(大正4年)、贈従四位を追陞された[2]。

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