島津忠寛
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文政11年(1828年)2月9日、第10代藩主・島津忠徹の三男として江戸三田邸にて生まれる。天保10年(1839年)、父の死去により12歳という若さで跡を継いだ。儒学者・山口菅山(貞一郎)に学び、「内面は聡明、外見は端然」と高く評価され、弓術、馬術、剣術(柳生但馬守に師事)、槍術など多岐にわたる武芸を修め、特に馬術と槍術に秀でた。藩政においては上杉鷹山を模範とし、民の利害を直言させるなど、文武の発展、さらには藩財政再建のために藩内における産物の統制や専売制の導入、新田開発や造林、税制改革などを行なって一時は財政を好転させた[1]が、藩札発行に失敗し、財政は悪化した。嘉永2年(1849年)、大炊田浜にて、15歳から60歳までの士卒6,000人以上を動員した未曾有の大閲兵を行う。窪田清音から山鹿流兵学を習い、佐久間象山から砲術の重要性を説かれた[2]。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では本家の薩摩藩に従って新政府側として参戦した。明治元年(1868年)6月、明治天皇より錦の御旗を賜る。その後の佐土原藩兵の上野戦争、さらに会津藩や米沢藩などとの戦いでの功績により、明治2年(1869年)に賞典禄として3万石を与えられた。同年の版籍奉還で知藩事となり、また、広瀬城の築城を開始し、佐土原城を破却した。明治4年(1871年)の廃藩置県で免官される。嫡男の忠亮は、子爵、次いで伯爵に叙され、麝香間祗候に列した。
明治29年(1896年)6月20日に死去した。享年69。