文明本節用集
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慶長年間以前に成立したとされる「古本節用集」のなかでは、収録語数が群を抜いて多いことで知られており、「広本節用集」とも称される。1970年に影印本と索引が刊行されて以降、室町時代の日本語資料として、広く活用されている。2020年現在、国立国会図書館デジタルコレクションで全文の画像を閲覧することができる。
なお、本書を収める木箱には「古写本雑字類書」と書かれているが、江戸時代の筆勢であり、成立当時のものでは無いとされている。
成立
「文明本」という通称は、文明年間に書写・成立したという誤解を招きかねないが、現在の状態で成立した年代は、更に下ると考えられている。そもそも本書には、成立や書写の時期を示す奥書が存在しないため、注文内に見出せる年記から成立年代が推測されてきた。
赤堀又次郎は、最終丁表の「国分寺」の項目に、「自天平廿年至文明六年六百六十六年也」[1]という注文が見えることから、文明6年に成立したものと考えた[2]。橋本進吉は、この記述を受けて、節用集原本の成立年代は文明6年以前であると推測した[3]。
しかし山田忠雄は、「達磨」の項目に「今至延徳二年庚戌、八百九十九年也、又至明応三年甲寅、九百六十九年也」[4]という注文があり、また「阿藩」「聖徳太子」の項目の注文にも「延徳二年」の年記が見えることを指摘して、通称名は文明ではなく最も新しい明応3年に拠るべきであるが、他の明応本節用集と混同しやすいため、「広本節用集」と呼称することを提唱した[5]。
一方で、中田祝夫は、影印本の解題において、「国分寺」の項目を含む「京城五山之次第」は、『下学集』数量門から取り出して附録としたものであると考え、この改編という営為が文明六年に行われたということを重んじて、「文明本節用集」という命名も「甚だしく当を失するものとは考えられない」としている[6]。延徳2年や明応3年の年記については、書き継ぎがこの頃まで引き続いて行われていたことを示すものと考えている。
書写年代については、中田祝夫は、「言語の国語史的考察よりしてもまた筆致、書風、紙竹よりしても室町時代中期のもの、おそらく一六世紀の初頭のころのものであろう」としている[7]。ただし、四つ仮名や開合の区別は概ね保たれている一方で、二段活用動詞の一段化例が極めて多い[8]ことも指摘されている。
節用集原本の成立については、文安元年(1444年)に成立した意義分類体の辞書である『下学集』の影響が大きいと考えられているが、『文明本節用集』は、『下学集』の注をそのまま残しているものが多い点で貴重である。なお、依拠した『下学集』の本文系統について、川瀬一馬は、自身の分類における第二類本であると推定した[9]が、林義雄はこれを否定し、第三類本であると推定している[10]。