新町宿
From Wikipedia, the free encyclopedia
中山道経路の変更
新町宿は、現在の群馬県高崎市新町に位置する。新町宿は、中山道で最も遅く成立したものであった。新町宿の指定により中山道の宿場町は67宿となったが、東海道と重複する草津宿、大津宿を加えて中山道六十九次(または木曽街道六十九次)と呼ばれた。
江戸時代初期新町宿周辺の中山道の本庄宿と倉賀野宿との間の経路は、烏川北岸の玉村を通っていた。その後、慶安4年(1651年)に「落合新町」、承応2年(1653年)に「笛木新町」(いずれも烏川南岸)に伝馬役が命ぜられ、経路が変更された[1]。
新町宿の指定と展開
新町宿は落合村と笛木村が合体してできた宿場町である[1]。新町宿成立の経緯と地名の由来は、『多野藤岡地方誌』に示されている[2]。
古くは東から南の一帯が上野国緑野(原典ママ)郡笛木村、西から北にかけてが下落合村であった。下落合とは神流川が烏川に合流するところなので、これに由来する名称であろう。下落合に対しては旧美土里村(藤岡市)に大字上落合があるが 、中山道が開通してからは下落合といわず、単に落合といい、落合新宿または落合新町といった。 — 多野藤岡地方誌
地古文書・古記録には、新町宿は落合村と苗木村から構成されることから 「落合新町」「笛木新町」と区分された記述があり、行政的には両者独立していたという[1]。
新町宿の石高は、安政3年(1856年)の「新町熊谷間五ヶ宿盛衰其他内調書上」によると863石1斗8升6合とされている。近隣の本庄宿では2149石8斗7升1合、熊谷宿では2024石5斗4升2合であった[3]。新町宿の助郷村の状況は、江戸時代末期の助郷村調によると,13,232石で, 定助郷32ヶ村,であった[4]。新町宿の宿内の内訳は、天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、家数は407軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠43軒で宿内人口は1,473人であった。嘉永5年(1852年)の「嘉永5子年宿方銘細書上帳」によると、新町宿の本陣2軒、脇本陣1軒、問屋4軒、旅籠屋42軒とされている[5]。
新町宿の状況は調書の報告によると「乱宿事実善悪で先ず平凡」であったという[6]。
災害
水害
寛保二年江戸洪水
寛保2年(1742年)には、寛保二年江戸洪水があった。7月28日(新暦8月28日)頃より、暴風雨が畿内を襲い、関東でもこの日以後雨が降り始めた。翌々日の8月1日の夜に入ると江戸では最初は雨とともに北東の激しい風が吹き始めていたが、夜四ッ時ころから激しい南風に変わり激しい荒に見舞われ、江戸を中心に広範囲にわたる被害が記録されている。利根川上流域に位置する新町宿は利根川水系烏川支流の神流川の氾濫が及んでおり、その被害状況は「新町町史」[7]に、家屋の押し流し、死者および中山道の通行止め等の被害状況の記述がある[8]。
神流川の泥流が新町宿に流れ込み、97軒もの家を押し流し、54人に及ぶ死者を出している。この時に中山道が通行止めになった。 — 新町町史
火災
寛政年中(1789年 - 1800年)、天保4年(1833年)、天保10年(1839年)、寛永5年(1852年)、寛永6年(1853年)、安政3年(1856年)に火災があり新宿町に記録があった。被害はおおきくなかったため「先無難」との記述があった[5]。
史跡・みどころ
小判供養塔
- 加賀前田藩の勘定方、土師清太夫の一行が御用金を江戸に届ける途中、新町宿の久保本陣に宿泊した。しかし、茶屋で一服していたところ、御用金が盗難に遭い、清太夫は責任を取り切腹するという事件があった。この金の行方は長らく判明せずにいたが、昭和4年(1929年)に新町のある家の庭から小判の入ったかめが発見され、盗まれた加賀藩のものではないかという噂となり、分配された人々によって小判供養塔が建てられた。新町宿内の浄泉寺に土師清太夫の墓が、宝勝寺に小判供養塔がある。
見通し灯籠
- 本庄宿と新町宿の間に流れる神流川では、洪水の度に往還が流され昼間でも道筋が分からなくなるなど、中山道を通る多くの人が道に迷っていた。そこで助郷の人々や旅人などの夜中の目印とするため常夜灯が建てられた。この常夜灯は高さ6m近くある石造の高燈籠で、渓斎英泉の木曽海道六十九次にも描かれるなど、新町宿のシンボルのような存在だった。
- 見通し灯籠は、明治期の文明開化の流れの中で撤去され、高崎市の大八木村に移されてしまった。これを惜しんだ有志たちにより交渉が行われたが、買い戻すことができずレプリカが造られた。現在でも新町宿の入り口に常夜灯が立っているが、それは昭和53年(1978年)に復元されたものであり、江戸年間の見通し灯籠は高崎市大八木にある諏訪神社の参道入口に現存している。
- この見通し灯籠が文化12年(1815年)に建てられたとき、専福寺の住職賢顕と宿役人が発願し、道行く旅人からも寄付を募っていた。ちょうどこの頃に中山道を通った小林一茶が、寺の人間に寄付をせがまれたというエピソードが彼の著作「七番日記」に載っている。一茶は一度断ったが、渋々最終的に12文を寄進している。
於菊稲荷神社
- 新町宿に住んでいた於菊という巫女にまつわる話が残っている。
