草津宿
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歴史
草津は古くから東西移動の際の交通の要衝だった。室町時代には伊勢参宮で京都と伊勢の中継地点として発展し、応永29年(1422年)には将軍足利義持が伊勢に向かう際に、草津に大規模な宿泊施設「草津御所」の築造を開始している。永禄11年(1568年)頃には、織田信長が足利義昭に和泉堺、近江の大津・草津に代官を置くことを願い出ている。「瀬田橋を制する者は天下を制する」という言葉があり、織田信長も大津・草津に注目していたものと考えられている。実際に信長は当地の道路修築、瀬田橋の架橋など交通政策に力を注いだ。関ヶ原の戦い以後は徳川家康が街道上の各宿場から人と馬を提供し、荷物をリレー形式で運び続けていく「伝馬定書」が下される。これにより東海道の整備と宿場が設置された。この時期に草津宿は誕生し、数多くの旅人が往来する宿場町として草津宿とその地域が発展していくこととなる[1]。
史跡・みどころ

- 追分道標
- 高札場
- 本陣:2軒〔田中七左衛門(七左衞門本陣、別名:木屋本陣)・田中九蔵(九蔵本陣)〕
- 草津宿本陣(田中七左衛門本陣)
- 脇本陣:2軒~4軒〔大黒屋弥助・藤屋與左衞門・仙台屋茂八・柏屋十(重)右衞門・平井屋彦右衞門〕
- 脇本陣は時代によって変遷はあるものの、2軒~4軒を数えていた。
- 吉川芳樹園店舗兼主屋
- 旧藤屋與左衞門家の一部(北側のお宅とで1軒分)。江戸時代後期築、登録有形文化財。
- 旅籠
- 名所図会などにも描かれている「うばがもち」を商う茶屋(うばもちや)があった。現在は国道1号沿いに移転している。名物の「うばがもち」は、駅のコンコースや駅前などの店舗で購入できる。姥が餅屋の跡地には、現在「瓢泉堂」という瓢箪を商う店がある。また、この角が「矢橋道(やばせみち)」との分岐点である。矢橋から大津へ向かう琵琶湖の渡し船(矢橋渡し)は、瀬田の唐橋へ回るよりも速く、距離が短くすむことから人気があった。勢多の唐橋経由の陸路にくらべて、矢橋港から湖上(50町)で大津への航路は、「勢多へ廻れば三里の回りござれ矢橋の舟にのろ」と詠まれ、水運の安全が確保されたためか、多くの旅人に東海道の早道(脇道)として利用された。「武士のやはせのふねははやくともいそかはまはれせたのなかはし」と詠まれ、「急がば回れ」のことわざの語源になっている。
- 小汐井神社
- 道灌蔵
- 東海道(右折)と中山道(直進)の分岐点、草津追分。右側に道標
- 草津宿本陣(国の史跡)
アクセス
隣の宿
脚注
参考文献
- 児玉幸多 『中山道を歩く』中公文庫、1988年 ISBN 4122015561

