塩尻宿
From Wikipedia, the free encyclopedia

永禄6年(1563年)、武田氏によって塩尻峠の西側に伝馬宿として整備された[2]。ただし、中山道が江戸時代初期に大久保長安によって整備された当初の初期中山道では、当所を通らず下諏訪宿から小野峠、小野宿、牛首峠を通って桜沢(塩尻市贄沢)に抜け贄川宿を結ぶ最短経路であった[3]。しかし、この区間が難所続きであったため長安の死後に経路が変更され、旧宿場の南側に隣接する形で新たに整備された。
初期には松本藩の玄関口として栄えたとされるが、享保10年(1725年)以降は天領になり、幕府の塩尻陣屋(五万三千石、のちに尾張藩塩尻取締所を経て伊那県塩尻局)が置かれた。明治15年、翌16年の2度の大火で町の大部分を焼失したため往時の様子を留めるものは少ないが、堀内家住宅など貴重な文化財も残されている。
塩の道と呼ばれる千国街道、三州(伊那、飯田)街道の分岐点でもあり、三河国からは南塩が、また越後国糸魚川からは安曇野経由で北塩が運ばれた。
- 近代以降
明治35年12月15日、中央線の塩尻駅(初代)が開業したが当宿から3km離れていた。明治39年6月11日、付近を岡谷駅から辰野経由で中央線が延伸開業したが当時、この付近に駅はなく当宿は次第に寂れていった。1949年10月1日、東塩尻信号場が旅客扱いを開始したが当場はのちに開業しるみどり湖駅が標高760.7 mなのに対して東塩尻仮乗降場は標高811.7 mの位置であった。宿場付近に鉄道駅のみどり湖駅が開業したのは77年後の1983年の新線開業時のことである。同時期に信号場も廃止された。
特徴
文化
中山道の宿場には旅人によって様々な民謡が伝えられ、塩尻宿の「塩尻甚句」もその一つである[5]。主な歌詞は「諏訪のおじさん どじょう魚籠提げて 花の塩尻 とぼとぼと」、「行こか塩尻 帰ろか洗馬へ ここが思案の桔梗ヶ原」などである。
