日和山
From Wikipedia, the free encyclopedia
日和山の名が文献に現れるのは江戸時代の前期、17世紀のことである。全国の日和山を踏査・研究した南波松太郎は、江戸時代に航路が開かれたときに設定されたと推定する。平井平次郎が天保14年(1843年)に著した『下田年中行事』が、寛文3年(1663年)の伊豆国の下田にあった大浦の日和山について記しており、これが知られる限り最古の史料である。天和2年(1682年)には陸奥国石巻の日和山が俳句の題に取り上げられた。以後、各地の日和山について、古文献や方角石の銘文に現れる[1]
日和山の主な利用者は、国内輸送にあたる廻船の船乗りたちであった。彼らは次の港までの数日をみこんで天候を見なければならない。荒天と逆風を避け、順風をとらえるため、日和見をおろそかにはできなかった。日帰りで操業する漁民にとっての必要度はやや下がるが、やはり有用ではある[2]。
動力船にとって風向きはあまり重要でないので、日和山に頼る必要度も低い。帆船は明治・大正期まで現役で活躍したので、各地の日和山も20世紀の前半まで利用され、整備されていた。その後は利用する人がなく、地名だけが残った。かつて日和山に置かれた方角石もうち捨てられて失われたところが多い。周囲が市街地になった山では、公園として残されたところとともに、削られて消え去ったものもある。
立地条件と分布
日和見のためには、周囲に樹木や建物、高い山などがない場所が適している。視界を確保するためであり、また風向きを正しく観測するためでもある。また、港から歩いて往復するので、離れすぎたり高すぎたりするのは好ましくない。港のそばにある見晴らしのよい低い山または丘が望ましい[3]。
海岸に山が迫っているところでは、標高300メートルのような登るに不便な山を日和山にした。また、低地で山がないところでは、土を盛り上げて丘を作り、そこを日和山とした[4]。新潟の日和山や平潟の日和山では、望楼を建ててさらに高くした[5]。
船乗りにとって日和山は寄港する港ごとにあるもので、地名というより港湾施設の一種である。地元民にとっては一つしかないので、全国の港に地名として定着した。分布は西回り、東回りの航路に密だが、輸送が多くとも瀬戸内海や東京湾のような内海には少ない[6]。外海に面し、特に長い距離を乗り切る必要がある難所に集中的に分布する。遠州灘をはさんだ紀伊半島の東側と伊豆半島の西側、それから能登半島である[7]。
