曇林
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略歴
東魏元象元年(538年)から武定元年(543年)まで瞿曇般若流支(中国語版)[注 1]、毘目智仙(中国語版)[注 2]、菩提流支、仏陀扇多などの訳経に際し筆記を担当し、序文を書いている[1]。また、嘉祥大師吉蔵の勝鬘経宝窟に曇林の勝鬘経の注疏が引用されている、このため勝鬘経の研究者としても知られる。また菩提達磨大師の伝記『菩提達磨大師略弁大乗入道四行観』「(中国語版)」を著述し、自ら序文を撰している[2]。続高僧伝巻十六慧可伝に曇林の事跡が著述されている[3]。
時有林法師。在鄴盛講勝鬘并制文義。毎講人聚乃選通三部経者。得七百人預在其席。及周滅法。與可同学共護経像。[初達摩禅師以四巻楞伽授可曰。我観漢地惟有此経。仁者依行自得度世。]可専附玄理如前所陳。遭賊斫臂。以法御心不覚痛苦。火焼斫処。血断帛裹。乞食如故。曾不告人。 後林又被賊斫其臂。叫号通夕。可為治裹乞食供林。林怪可手不便怒之。可曰。餅食在前何不自裹。林曰。我無臂也。可不知耶。可曰。我亦無臂。復何可怒。因相委問方知有功。故世云無臂林矣。毎可説法竟日。此経四世之後便成名相。一何可悲。
(続高僧伝巻十六慧可伝 抜粋)