木村孝洋

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愛称 キム
カタカナ キムラ タカヒロ
ラテン文字 KIMURA Takahiro
国籍 日本の旗 日本
木村 孝洋
名前
愛称 キム
カタカナ キムラ タカヒロ
ラテン文字 KIMURA Takahiro
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1957-04-04) 1957年4月4日(69歳)
出身地 広島県安芸郡府中町
選手情報
ポジション MF
ユース
日本の旗 広島皆実高校
1977-1980 日本の旗 早稲田大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1983-1988 日本の旗 マツダSC
監督歴
1995-1996 日本の旗 広島トップチームコーチ兼通訳
1997-2000 日本の旗 広島ユース監督
2001 日本の旗 広島トップチームコーチ
2001 日本の旗 広島監督代行
2002 日本の旗 広島トップチームコーチ
2002 日本の旗 広島監督
2003 日本の旗 広島育成・普及チーフコーチ
2003-2004 日本の旗 JOCスポーツ指導者海外研修員
2004 日本の旗 広島ユースディレクター
2005-2006 日本の旗 TEPCOマリーゼ監督
2007 日本の旗 京都アカデミーセンター長
2008 日本の旗 京都U-18監督
2009 日本の旗 京都U-15監督
2010 日本の旗 吉備国際大学監督
2011 日本の旗 FC岐阜監督
2012-2015 日本の旗 FC今治監督
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

木村 孝洋(きむら たかひろ、1957年4月4日 - )は、広島県安芸郡府中町[1]出身の元サッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。

現役時代はセントラル・ミッドフィールダーとしてプレーした[2]

男子(Jリーグ)・女子(なでしこリーグ)双方のトップリーグでクラブを降格させた日本初の監督という不名誉な記録を持っている。一方で、日本代表や年代別日本代表の選手を育てるなど、育成年代の指導実績を持っている。

来歴

現役

マツダ本社がある安芸郡府中町出身であり、同町出身の同世代に金田喜稔[注 1]猿沢茂がいる。

広島県立広島皆実高等学校[注 2]早稲田大学出身。1977年度大学入学、1980年度卒業[2]。卒業同期は原博実。当時の早大学ア式蹴球部同世代の選手として、下條佳明西野朗加藤久岡田武史城福浩吉田靖神戸清雄関塚隆らがいる。

大学卒業後は、1981年から1982年まで地元の府中町立府中中学校に教員として勤務した[1][2]

1983年、地元マツダへ入社、JSL1部マツダSC(現サンフレッチェ広島)に所属する[1][2]。同期入団は、信藤克義(信藤健仁)、小林伸二今川正浩上原洋史、山田隆(山田直輝の実父)ら。1987年の天皇杯には同じ地元広島出身の猿沢茂、高橋真一郎らやディド・ハーフナーと共に決勝進出に貢献した。また、「マツダサッカースクール」の指導者として地元学生のサッカー指導を行っていた[注 3]

1988年、JSL2部降格を機に現役引退する[2]。引退後はマツダ社員として社業に専念していた。

サンフレッチェ広島

1995年、サンフレッチェ広島でビム・ヤンセン監督の通訳兼コーチに就任する[2]

1997年、サンフレッチェ広島ユース監督に就任する[2]。同年のJユースカップ準優勝、2000年全広島サッカー選手権大会初優勝に導き、同年の天皇杯に初出場した。ユース監督時代、駒野友一森崎和幸森崎浩司兄弟、宮本卓也田森大己らを育て、1999年JFA 公認S級コーチライセンスを取得する[2]

2001年、ヴァレリー・ニポムニシ率いるサンフレッチェ広島トップチームのヘッドコーチに昇格する[2]。同年12月にはヴァレリーの帰国に伴い監督代行に就任し[4]天皇杯2試合を指揮した。2002年、ガジ・ガジエフ監督就任に伴いヘッドコーチに復帰する[2] も、同年7月に成績不振のためガジエフが解任、それを受けて監督に就任した[1][2]。ただ、先発メンバーを固定しなかったためチームは混乱し、その上チームからまともな補強をしてもらえなかったのも災いし、7連敗(2011年現在クラブワースト記録)を喫するなど更にチームは低迷した[5][6]。同年11月には監督としての全権限を小野剛ヘッドコーチに移管され、木村は名目上の監督となってしまう[7]。同年末、チームはJ2降格しシーズン終了後責任を取り辞任した[1][8]。その後、木村を監督に起用した今西和男総監督も辞任している[9]

その後は、広島強化部育成部門のコーチとなり、2003年から日本オリンピック委員会スポーツ指導者海外研修員としてアーセナルFCで研修している[1][10]

その後

2005年、なでしこリーグに新規参入する東京電力女子サッカー部マリーゼと監督として2年契約を結ぶ[1]同年度のリーグではカウンターサッカーと丸山桂里奈らの活躍などにより8チーム中4位で終えるも、翌年2006年度のリーグではポゼッションサッカーへの戦術変更の失敗に加え丸山や大部由美ら主力に怪我人が続出しベストメンバーが組めなかったため低迷を続け年間最下位となり、2部へ降格してしまった[11]。同年11月責任を取り辞任した[12]

2007年、京都サンガF.C.に入団、育成と普及の両部門を統括するアカデミーセンター長に就任[10]。2008年からはセンター副長兼U-18監督に就任し当時1年生だった下畠翔吾伊藤優汰駒井善成山田俊毅らを指導した。2009年からU-15監督に就任し[10]、チームをクラブユース選手権準優勝に導く。 

2010年、今西が総監督を務める吉備国際大学サッカー部監督を1年間務めた[10]

2011年、今西が社長を務めるFC岐阜の強化部長に就任する予定だったが、倉田安治監督とのチーム作りにおける意見相違により契約延長に失敗した岐阜フロント陣により急遽監督として抜擢された[13]。選手に自由に与え攻撃的なサッカーを目指したが、逆に約束事がないため守備が破綻し、それにより攻撃も機能しなくなり、岐阜の経営状況の問題からまともに補強してもらえなかったこともあり、結果同年度のJ2リーグ最下位に長く定着し、2度の6連敗および6試合連続無得点の記録を作ってしまう[13][14]。リーグ終盤には辞意を固めていたがフロント陣に留意され、結局リーグ戦最後まで指揮しその後引責辞任した[13]

2012年、四国サッカーリーグFC今治監督に就任[15]同年の天皇杯の2回戦で古巣のJ1サンフレッチェ広島と対決。これを2-1で破っている。

FC今治レディース監督を経て、現在はFC今治トップチームGグループ長[16]

個人成績

選手

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本リーグ戦JSL杯/ナビスコ杯天皇杯期間通算
1983マツダJSL1部
1984JSL2部
1985
1986-87JSL1部
1987-88
通算日本JSL1部 551
日本JSL2部
総通算

監督

年度所属クラブリーグ戦カップ戦
順位試合勝点ナビスコ杯天皇杯/皇后杯
2001J1広島-------4回戦
2002J115位22206214--
2005L1マリーゼ4位21341119-ベスト8
2006なでしこ1部8位1791610--
2011J2岐阜20位38246626-2回戦
2012四国今治優勝14341121-3回戦
2013優勝14401310-2回戦
20143位14341112-1回戦
2015優勝14371211-1回戦
  • 2001年の天皇杯は監督代行として。
  • 2002年は途中就任、途中退任のためナビスコ杯および天皇杯は指揮していない。
  • 2006年の成績はレギュラーリーグ、下位プレーオフの合算。
その他

脚注

参考資料

関連項目

外部リンク

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