東山地域 (一関市)
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| 東山地域 ひがしやまちいき | |
|---|---|
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| 国 |
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| 地方 | 東北地方 |
| 都道府県 | 岩手県 |
| 自治体 | 一関市 |
| 旧自治体 |
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| 面積 |
87.72km² |
| 世帯数 |
2,242世帯 |
| 総人口 |
5,416人 (住民基本台帳、2026年3月31日) |
| 人口密度 |
61.74人/km² |
| 隣接地区 | 一関地域・大東地域・千厩地域・川崎地域 |
| 一関市役所東山支所 | |
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| 所在地 |
〒029-0302 岩手県一関市東山町長坂字西本町105番地1 |
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東山地域(ひがしやまちいき)とは、岩手県一関市の地域区分の一つである[1]。東山町(ひがしやまちょう)とも表記される[2]。区域は旧東磐井郡東山町に相当し、東山地域の行政に関わる事務を分掌する形で一関市役所東山支所が設置されている。近代から現代にかけて、日本百景「猊鼻渓」のある観光の街および石灰石関連産業を中心とした工業の街として繁栄した[3][4]。
地名の由来
東山地域は、一関市の地域区分のひとつであり、地域内に分布する古生代地層からもたらされる石灰石および日本百景「猊鼻渓」があることから、石灰石工業の街および観光の街として発展を遂げた地域である[3][4]。2025年(令和7年)12月末現在で人口・世帯数は一関市8地域のなかで川崎、室根地域に続いて3番目に少なく、2025年(令和7年)現在で面積は一関市8地域のなかで川崎地域に続いて2番目に小さい87.72 km2となっており一関市の7.0%を占める[5]。
前身自治体の東磐井郡東山町は1955年(昭和30年)2月1日に長坂村と田河津村が合併して東山村として誕生し、同年11月1日に松川村を吸収合併、同時に町制施行したことで発足した[6]。
往古、平泉中尊寺の近くの束稲山から東方を眺めた風景が、京都の東山にそっくりであったことから、磐井郡のうち北上川以東の地域(すなわち東磐井)を「東山」と称した[7]。いつごろから、東山という名称が用いられたのかは定かではないが、続日本紀の延暦8年(789年)の条に当地を指す呼称として東山が用いられていたことから、かなり古くから東山と呼ばれていたことがわかる[7]。
地理
一関市の北東部に位置する。東部で大東地域および千厩地域と、南部で川崎地域と、西部で一関地域と、北西部で西磐井郡平泉町と、北部で奥州市と接する。地域の大半は林地であり、地形的には丘陵起伏が多い[8]。砂鉄川流域に存在する数少ない平坦地が分布する[8]。
下位区分として、長坂地区・田河津地区・松川地区の三地区を擁するが、これらはそれぞれ東山町長坂・東山町田河津・東山町松川の各大字に相当するため、本記事では解説しない。
地形
- 山
- 大鉢森山 - 標高634 m[9]。
- 束稲山 - 標高595.7 m[10][11]。
- 音羽山 - 標高539 m[11]。
- 小目倉山 - 標高343.5 m[12]。
- 鳶ヶ森山 - 標高322.8 m[12]。
- 阿武峠 - 標高322.1 m[12]。
- 八郎峯 - 標高190.8 m[12]。
- 川
町・字
東山地域は3大字をもって編成される。以下に東山地域所属の大字を挙げる。
歴史
平成の大合併までの略史
地域内には羽根堀洞窟や川底洞窟、姫穴洞窟などといった多くの縄文期洞窟住居のほか、西本町遺跡のような平地遺跡が発見されている[14][15][16]。弥生時代の遺物はほとんど発見されていないが、市内千厩地域の畑之沢遺跡から弥生土器である鉢形台付土器が出土していることから、少なくとも近隣地域では人が住んでいたことが明らかになっている[17]。
8世紀になると、大和朝廷は徐々に陸奥国・出羽国の支配と植民に乗り出した[18]。陸奥国経営の拠点は多賀城や伊治城、桃生城といった城柵で、蝦夷はたびたびこれを襲撃した[18]。そんな中、朝廷に恭順していた俘囚伊治呰麻呂が突如反旗を翻し、陸奥按察使兼鎮守将軍紀広純や牡鹿郡大領道嶋大盾を殺害、陸奥国府であった多賀城と伊治城を焼く宝亀の乱が発生した[18][19]。延暦7年(788年)、桓武天皇は紀古佐美を征東大将軍に任命して対処にあたらせたが、「東山」から打って出た蝦夷に大敗を喫した[20][21][22]。しかし、その後、大伴弟麻呂を征夷大使とした軍勢10万を再度送り大勝、続く蝦夷征討で征夷大将軍坂上田村麻呂率いる軍勢4万は蝦夷の拠点のほとんどを壊滅させ、北上川流域の地を平定した[23]。蝦夷が征服されるとしばらく平和な時代が続き、人口が増加した[24]。かくして集落が形成され、郡の下に郷や里が設置された[24]。現在の東山地域に相当する地域では、丈几や山田といった里が設置されたと考えられている[25]。
前九年の役・後三年の役を経て、白河以北の支配権は奥州藤原氏の手に渡った[26]。奥州藤原氏に関する伝説として、東山地域には「磐井清水」に関する伝承が伝わっている[27]。これは藤原秀衡が里人に毎年正月元旦の若水をはるばる松川から汲ませ、手送りで平泉まで運ばれたという故事であり、これにちなんで磐井清水若水送りと呼ばれる行事が毎年一月に行われている[27]。
奥州藤原氏が源頼朝によって滅ぼされると、頼朝は配下の将らに藤原氏の所領を配分した。磐井郡は牡鹿郡・伊沢郡などとともに葛西氏の支配下に置かれた[28]。葛西家当主葛西清重は配下の千葉介頼胤に伊沢郡百岡城と磐井郡東山長坂郷の唐梅館を与え[29][30]、頼胤は建久2年(1191年)に唐梅館へと移り初代城主となった[31][32]。頼胤からは長坂氏や本吉氏、江刺氏、浜田氏といった葛西家重臣を輩出する名家が分派していった[33]。葛西氏は戦国大名として、戦国末期まで、牡鹿郡石巻や登米郡寺池を拠点として存続していたが、葛西晴信は豊臣秀吉の小田原征伐参陣要求に応えなかったことから怒りを買い奥州仕置によって改易させられた。葛西家重臣らは新しく領主として入った木村吉清らを歓迎せず、葛西大崎一揆を起こしたが敗れた。その後、葛西家の重臣らは、領土を安堵するという伊達政宗の呼びかけに応じて、桃生郡深谷須江糠塚に集まり、伊達勢によって皆殺しに遭った[34]。この時、唐梅城城主千葉刑部や松川内城の千葉主水胤好などといった東山の将も討ち死にしている[34]。以降、東山の地は伊達政宗の支配下に置かれ、江戸時代を迎えることとなった[34]。
江戸時代、現在の東山地域は仙台藩の領土となり、奥奉行区管轄下の磐井郡東山に属した[35]。田河津村と長坂村は北方大肝入の支配下に、松川村は南方大肝入の支配下に置かれた[35]。
戦後、地方自治の強化に伴い、町村の業務が急速に拡大した[36]。小規模な町村ではこれに対処しきれない恐れがあったことから、町村合併による地方公共団体の強化が期待され、1953年(昭和28年)に町村合併促進法が制定された[37]。長坂村と田河津村は町村制施行以前、共に連合村を形成していた松川村・猿沢村との合併を目指すことで一致した[37]。しかし、県は合併試案として長坂村・田河津村・松川村・門崎村・薄衣村の枠組みを提示した[37]。松川村・門崎村は県試案に同調したが、長坂村・田河津村・薄衣村は独自の枠組みを主張し反対した[37]。結局、猿沢村は大東町他と合併することが決まり、長坂村・田河津村は松川村を含めた3村合併を目指して松川村に働きかけたが、松川村は県試案(5村合併)と長坂村・田河津村との合併(3村合併)で揺れていた[38]。こうした情勢のなか、早急な合併を希望した長坂村・田河津村はとりあえず2村で合併することで一致し、東山村が成立、東磐井郡の合併第一号となった[38]。松川村は東山村成立以後も去就を決めかねていたが、薄衣村村長・議会議長により、松川村との合併(県試案の5村合併)をする意志がないという旨が松川村長に伝えられ、結局、1958年(昭和33年)11月1日に松川村は東山村に編入されることとなった[39][40]。編入に際して、東山村は町制施行し、東山町となった[40]。
平成の大合併以降
2005年(平成17年)9月20日、東山町が一関市、西磐井郡花泉町、東磐井郡大東町・千厩町・室根村・川崎村と合併し一関市が成立した[41]。旧東山町域は一関市の地域自治区「東山町」(東山地域)となり、東山町(東山地域)を管轄とする行政事務組織として一関市役所東山支所が発足、旧東山町助役が地域自治区長に就任した[42]。また、合併の際、域内の大字は地域自治区名「東山町」を新たに付すことが定められた[注 1][42]。
2008年(平成20年)3月31日、地域自治区「東山町」の設置期間が満了し同日に廃止された[43]。また、地域自治区廃止日をもって域内の大字は「東山町」を付すように改称した[43]。
沿革
- 1924年(大正13年) - 東北砕石工場が操業開始。
- 1955年(昭和30年)2月1日 - 長坂村と田河津村が合併して東山村が発足[6]。
- 1958年(昭和33年)11月1日 - 東山村が松川村を編入し、町制施行[6]。東山町が成立[6]。
- 1972年(昭和47年) - 長坂町裏地区26.1 haで土地区画整理事業施行開始[44]。
- 1982年(昭和57年) - 宮城石灰工業株式会社岩手工場が開設[45]。
- 1992年(平成4年)
- 2001年(平成13年) - 宮城鉱化株式会社工場が開設。
- 2005年(平成17年)9月 - 一関市・花泉町・大東町・千厩町・室根村・川崎村と合併[4]。東山町の区域は一関市東山地域(地域自治区東山町)となった[4]。
- 2008年(平成20年)3月31日 - 地域自治区東山町が廃止[43]。同日、域内の大字が「東山町」を付すように改称された[注 2][43]。
施設
ここでは主要な施設のみを述べる。域内の施設については各大字記事を参照。
公的施設

- 一関市役所東山支所(東山町長坂字西本町105番地1)[47]
- 東山地域交流センター(東山町長坂字町335番地1) - 東山市民センターと一関市立東山図書館の複合施設[48]。
- 田河津市民センター(東山町田河津字石ノ森16番地8)[47]
- 松川市民センター(東山町松川字町裏ノ上8番地2)[47]
- 一関北消防署東山分署(東山町長坂字西本町33番地8)[49]
- 東山保健センター(東山町長坂字西本町139番地1)[50]
- 東山清掃センター(東山町松川字吉兆所地内)[51]
民間事業所

- 一関商工会議所(東山町長坂字羽根堀1番地)[52]
- 産直センターひがしやま季節館(東山町長坂字柴宿80番地2)[53]
- 東山郵便局(東山町長坂字町186番地)[54]
- 松川町郵便局(東山町松川字町裏64番地)[54]
- 田河津簡易郵便局(東山町田河津字石ノ森2番地3)[54]
都市公園・スポーツ施設
- 都市公園
- スポーツ施設
行政
東山支所

一関市例規「一関市役所支所及び出張所設置条例」(2019年4月1日施行)により、市長の権限に属する事務を分掌させ、旧自治体行政の継続性を担保するため、旧東山町の区域を所管区域とする総合支所として一関市役所東山支所(英語: Ichinoseki City Hall Higashiyama Branch Office)が設置されている[2][57]。
消防
一関市例規「一関市消防本部及び消防署の設置等に関する条例」(2016年2月1日施行)によれば、消防は一関市消防本部一関北消防署の管轄となっている[49]。また、地区内には一関北消防署東山分署が設置されている[49]。
警察
昭和49年3月30日岩手県警察本部訓令第3号「岩手県警察組織規程」(2025年4月1日改正施行)によれば、東山地域には以下の通り駐在所が存在する[58]。
| 警察署 | 駐在所 | 受持区域(各全部) | 所在地 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 千厩警察署 | 東山駐在所 | 東山町長坂・東山町田河津 | 東山町長坂字西本町26番地17[59] | 2025年(令和7年)4月1日に田河津駐在所を統合[59]。 |
| 松川駐在所 | 東山町松川 | 東山町松川字台148番地42[59] |
地域振興計画
一関市は従来の行政主導の町づくりから地域住民と行政が連携する地域協働型の町づくりの転換を推進するために、2014年度(平成26年度)に一関市地域協働推進計画(第1次)を策定した[60][61][62]。この計画に則り、東山地域内では計3つの地域協働体が発足し、それぞれが地区ごとの地域づくり計画を策定・実行することとなった。なお、一関市地域協働推進計画は2023年(令和5年)現在に至るまでに第1次、第2次、第3次計画が策定、順次実行されている[60][61][62]。
- 長坂地区地域づくり計画
長坂地区地域づくり計画は地域協働体 たいしたもんだ長坂みらい塾が2016年(平成28年)に策定した長坂地区(東山町長坂)の地域づくり計画である[60]。計画が策定された背景には、長坂地区を取り巻く少子高齢化や地縁的関係の希薄化がある[60]。本計画では、たいしたもんだ長坂みらい塾を中核として地域の共通課題を各種団体と地域住民らが連携して取り組み、住民に連帯感や自治の意識を創出することを目的としている[60]。計画のスローガンは「子どもも大人も笑顔と希望があふれるまち・長坂」[60]。
- 田河津地域づくり計画
第2期田河津地域づくり計画は地域協働体 田河津振興会が2024年(令和6年)5月に策定した田河津地区(東山町田河津)の地域づくり計画である[61]。計画が策定された背景には人口減少やそれに伴う集落規模の縮小、地域運営方法の変化などが挙げられ、持続的な地域運営の仕組みを構築して問題に取り組むことを目的としている[61]。また、地域づくり計画の実行を推進するために田河津地域づくり懇親会を行い、事業実施に際しては、自治会や各種団体と連携して一関市地域づくり交付金を活用した事業を展開するとしている[61]。
- 松川地域づくり計画
松川地域づくり計画は地域協働体 松川やくにたつ会が2016年(平成28年)3月に策定、2022年(令和4年)に改定した松川地区(東山町松川)の地域づくり計画である[62]。
教育
交通
世帯数と人口
一関市住民基本台帳によれば2026年(令和8年)3月末時点における域内の大字別世帯数および人口は以下の通りである[71]。
人口の括弧は外国人数(内数)。
| 大字 | 世帯数(戸) | 人口(人) |
|---|---|---|
| 東山町長坂 | 1,321 | 2,995(30) |
| 東山町田河津 | 360 | 958(7) |
| 東山町松川 | 561 | 1,463(3) |
| 合計 | 2,242 | 5,416(40) |
人口の推移
| 一関市東山地域(とそれに相当する地域)の人口推移[72][73][74] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 総務省統計局 国勢調査より | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
文化
イベント
名産・特産
紫雲石硯は夏山から産出される古生層輝緑凝灰岩(紫雲石)を加工して製造される伝統工芸品である。紫雲石はかつて宮城県石巻市雄勝地区の雄勝硯に用いられる玄昌石と並んで仙台藩から重宝され、仙台藩は紫雲石を端渓石、玄昌石を龍尾石と称して他藩に誇ったと伝えられている[77][78]。なお、端渓石・龍尾石は共に中国唐時代から文人に賞揚された銘石で、その道の人にとっては垂涎の的であった[79]。ただ、紫雲石の産地であった東山地域で硯生産が開始されたのは明治年間に雄勝硯の職人だった山本儀兵衛が田河津へと移ってからであり、それまでは仙台の職人によって硯が生産されていた[77]。2025年(令和7年)現在において唯一の紫雲石硯職人である佐藤鐵治によれば、紫雲石は高度に厳選され、採掘された紫雲石のうちたったの5~10パーセント程度が硯として加工されると述べている[77]。
東山和紙は地元で栽培したコウゾを原料として東山地域で800年受け継がれてきた伝統の手漉き和紙であり、一般に12月から2月の厳寒期に副業として行われる[80]。一説によれば、源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏の落人が東山地域一円に土着して文治5年(1189年)に生活用品として作り始めたのが始めたという。ただし文献によって知ることができるのは正保2年(1645年)に2名の漉き人がいたことであり、その後、仙台藩の奨励により盛んになり、正徳5年(1715年)には163名の漉き人がいたとされる[80]。1942年(昭和17年)、285軒で行われていた紙漉きは2022年(令和4年)現在ではわずか2軒にまで減った[81][80]。

